慶応4年(1868)5月3日、東北地方の25藩が奥羽列藩同盟を結びました。
奥羽列藩同盟は、輪王宮(寛永寺に住まう親王のこと)北白川宮能久親王を盟主にして、明治新政府に反発した東北地方の藩が結んだ同盟でした。
戊辰戦争での東北での戦いは、会津藩と庄内藩が新政府軍の目の敵にされていて、最初は会津と庄内だけの軍事協定である会庄同盟が結ばれたのです。この頃すでに米沢藩と仙台藩にも加盟を促す計画があがっていました。
その計画と同じ時期に、仙台藩は奥羽の各藩に対して仙台藩領の白石での会合を呼びかけます、これは会津や省内に対して新政府のやり方があまりにもひどいことを指摘して、両藩に対して寛大な処置を願うことを一致した意見として奥羽鎮撫総督に提出しようとする動きだったのです。
奥羽鎮撫総督で参謀をしていた世良修蔵は、これを快く思わず各藩に会津への出兵を命じていたのです。それと同じ時期に京都に対して増兵の嘆願書を書いたのですが、その中に「奥羽皆敵」と書かれた一文があり、その文書を仙台藩士が手に入れたことで、藩士たちは激怒して世良を襲撃し斬首してしまったのです。
この事件により、仙台藩は奥羽鎮撫総督と対立する立場になってしまい、東北の諸藩の代表を再び白石に集めて、鎮撫総督を通さずに直接朝廷に訴えかける決定を行ったのです。そして白河盟約書に調印が行われました。
この日が慶応4年5月3日であり、その時を奥羽列藩同盟の成立日としています。
このような事情ですので、会津藩や庄内藩は白石盟約の段階では列藩同盟には参加していません。
そして奥羽列藩同盟が成立した翌日に長岡藩、そのよ翌日に新発田藩などが加わり、31藩による奥羽越列藩同盟成立となるのでした。
奥羽列藩同盟は、輪王宮(寛永寺に住まう親王のこと)北白川宮能久親王を盟主にして、明治新政府に反発した東北地方の藩が結んだ同盟でした。
戊辰戦争での東北での戦いは、会津藩と庄内藩が新政府軍の目の敵にされていて、最初は会津と庄内だけの軍事協定である会庄同盟が結ばれたのです。この頃すでに米沢藩と仙台藩にも加盟を促す計画があがっていました。
その計画と同じ時期に、仙台藩は奥羽の各藩に対して仙台藩領の白石での会合を呼びかけます、これは会津や省内に対して新政府のやり方があまりにもひどいことを指摘して、両藩に対して寛大な処置を願うことを一致した意見として奥羽鎮撫総督に提出しようとする動きだったのです。
奥羽鎮撫総督で参謀をしていた世良修蔵は、これを快く思わず各藩に会津への出兵を命じていたのです。それと同じ時期に京都に対して増兵の嘆願書を書いたのですが、その中に「奥羽皆敵」と書かれた一文があり、その文書を仙台藩士が手に入れたことで、藩士たちは激怒して世良を襲撃し斬首してしまったのです。
この事件により、仙台藩は奥羽鎮撫総督と対立する立場になってしまい、東北の諸藩の代表を再び白石に集めて、鎮撫総督を通さずに直接朝廷に訴えかける決定を行ったのです。そして白河盟約書に調印が行われました。
この日が慶応4年5月3日であり、その時を奥羽列藩同盟の成立日としています。
このような事情ですので、会津藩や庄内藩は白石盟約の段階では列藩同盟には参加していません。
そして奥羽列藩同盟が成立した翌日に長岡藩、そのよ翌日に新発田藩などが加わり、31藩による奥羽越列藩同盟成立となるのでした。