彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『平清盛』関連地巡り(一部『江~姫たちの戦国~』関連地)

2011年12月11日 | 史跡
西三条第現地説明会に行った帰りに、来年の大河ドラマ先取りで『平清盛』関連地を少し巡ってみました。

まずは、清盛が自家の財力で建立して後白河法皇に寄進した蓮華王院(三十三間堂)です。

ここの裏側は、通し矢で有名ですが、壁を観ると幾つもの矢の跡があり、失敗という上達には欠かせない試練の歴史が刻まれています。

南側には豊臣秀吉が方広寺を建立する時にここも境内とする証として作った塀と門が残されています。
“太閤塀”

“南大門”

今が盛りと紅葉が美しく、敷地の紅葉が映えていました。

手水鉢も、季節を賄ってくれています。


さて、豊臣政権下では方広寺の境内に組み込まれましたが、清盛の時代は後白河法皇が院政を行っていた法住寺殿の中に建立されたものでした。

しかし、源平騒乱で木曽義仲が火矢を射て炎上します。これは後白河院政の終焉をも意味しました。今は敷地の一角に源頼朝が再建した法住寺が建立されています。



ここで一旦『平清盛』を離れて2011年の大河ドラマ『江~姫たちの戦国~』の関連地。
法住寺のお隣に建つのは養源院。茶々が浅井長政の21回忌に建立し、火災で焼失した後に江が再建したお寺です。

この再建時に、伏見城の木材を天井に使いました。そこには関ヶ原の戦いの前哨戦として行われた伏見城の戦いで自害した鳥居元忠らの自害の痕跡が残っています。
そして境内には茶々の墓がありますが、近くまで行くことはできませんでした。

続いては、三十三間堂を境内に組み込んだ方広寺に行きました。
この寺は、秀吉が刀狩で集めた資材を利用して大仏を鋳造しようとした場所です。その大仏殿の為に巨石が運ばれました。

結局、金属の大仏は難しく木像になったのですが、大地震で倒壊します。倒壊した報せを聞いた秀吉は急いで駆け付けて、大仏を役立たずと罵った後に額に矢を打ち込みました。
大地震の被害を秀吉自身の政治力不足に責任を負うのではなく、大仏に瞬時に転嫁した政治力とパフォーマンスの賜物のエピソードだと思います。
そんな方広寺は、秀吉の死後に豊臣家を滅亡させる原因を作ることでも有名です。それがここの鐘です。

“国家安康”“君臣豊楽”
この鐘が現存していることこそが、このエピソードが家康の言いがかりだった証ですよね。
またお寺の近くには豊国神社があり、朝鮮の役で秀吉が運ばせた耳や鼻を埋めた耳塚も近くにあります。



ここからはまた『平清盛』のお話。
清盛邸があったのは六波羅といわれていて、今は六波羅密寺が建っている辺りです。
鎌倉時代には六波羅探題も置かれていました。

この近くにある六道珍皇寺は、清盛を荼毘に付した地とされています。

それと同時に有名なのは小野篁の伝承かもしれません。篁は昼は朝廷に仕え、夜は地獄で閻魔大王に仕えた人物で、その時に地獄との行き来をした井戸が残っています。

ちなみに小野小町は篁の子孫といわれていますし、伝承では篁の死より100年ほど後に『源氏物語』を書いて人々に嘘を伝えた紫式部が地獄に落ちたのを閻魔大王にとりなして救ったのが篁だと言われています。

ここで陽が落ち始めて、そろそろ訪問も終わりの時間です。
あとは、建仁寺の勅使門に行ってみました。

六波羅邸から移築した、平家遺構の一つとの伝承があります。

そんな建仁寺の末寺の一つが摩支利天を祀っています。
戦国武将には勝負の神として信仰を集めていた神様です。

猪が多くあり、猪のおみくじがありました。

引いてみると、小吉。
あせらず静かに身を守って進みましょう。とのことでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする