彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

東京訪問記5:増上寺(江の墓所)

2011年12月13日 | 史跡
少し間が空いてしまいましたが、11月東京訪問報告の続きです。


江戸城訪問を終えて、外桜田門を出た辺りでタクシーを拾って増上寺へ向かいました。

増上寺は、寛永寺と共に徳川将軍家の菩提寺だったお寺です。そして『江~姫たちの戦国~』放送に伴って、徳川家墓所の一般公開が行われていました。
普段ならば年に一度しか公開されない場所ですから、とても貴重です。

これと同時に山門も公開されていましたが、まだまだ行く場所があったので今回はパスしました。

山門を抜け、本堂へ向かいます。向かって右手に東京タワーが見えます。

そして、本堂の裏に徳川家の墓所があります。

普段なら閉ざされたままの門の脇から入ります。

さすが、徳川家の墓所の門です、裏も細工が細かいです。

中は、大河ドラマ人気もあって、お客さんが多くで入りされていました。

行ってみると狭いように感じますが、もともとはもっと広い場所でした。東京大空襲までは、それぞれに立派な霊廟があったのですが、空襲で焼けてしまいます。
そして昭和33年に開業した東京タワーに敷地を譲ったために、墓所は大きく削られてしまったのです。
この時に、墓所の発掘調査が行われて、多くのことがわかりましたが、それは別の話。

今回は、江の墓所が目的なのでまずは覗いてみます。

江は、夫の秀忠と合祀されていました。この石塔の元々の主は江だったのですが、秀忠の墓所は墓地削減になってしまったので合祀されました。
発掘調査では、秀忠は位牌くらいの大きさの木片を持っていて、棺を開けた途端に木片は屑になってしまったといわれています。これは何だったのか?歴史の謎です。

ここには、戦火で焼ける前の江の霊廟の写真も飾られていましたので、行ける方は行って確認してみてください。本当に立派だったようです。


そして、この墓所には、何人かの徳川将軍の墓もあります。
・黒船来航時の将軍12代家慶

・能力の発達に難があったという9代家重

・若くして亡くなった徳川宗家最後の将軍7代家継

・その父親の6代家宣


また、幕末の公武合体で知られる14代家茂

その正室皇女和宮

の2基も並んで立っています。和宮も束帯姿の男性の写真を持ったまま葬られていましたが、その写真は1晩にして消え去ったという話がありますし、左手首より先が無かったのもこの時にわかった話です。

これ以外の関係者はひとつに合祀されていました。

ですから、江と和宮がどれだけ特別な女性だったのかがわかりますね。


さて、最初にも書いた通り、ここは東京タワーの麓です。

この姿を観たならば比較の為に次に向かう場所は一か所しかありませんね。