彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:井口刃傷事件(3月4日)

2011年03月04日 | 何の日?
文久元年(1861)3月4日、土佐藩で井口刃傷事件が起こりました。

土佐藩の剣術師範の山田広衛と茶道方の益永繁斎(ともに上士)が、高知城下の永福寺門前で郷士の中平忠次郎とぶつかり、忠次郎が謝罪したにも関わらず山田が無礼討ちにしたのです。
忠次郎と同行していた宇賀喜久馬が忠次郎の兄である池田寅之助に助けを求めて帰ってきたときには、すでに忠次郎の遺体が転がるのみで、山田は近くの河原で汚れを落として水を口に漱ごうとしていました。
これを見た寅之助は、山田を背中から袈裟斬りにし、その場にやってきた益永も斬り殺したのです。

こうして、土佐藩では上士と下士や郷士の対立に発展しました。

土佐藩の内紛を極力小さくするために、寅之助の切腹で事件を収拾させようと武市半平太が動きました。上士が立会いの下で永福寺で寅之助の切腹が行われます。
しかし、上士は宇賀にも罪があるとして、宇賀の切腹も強要したのです。
こうして宇賀は兄の利正の介錯で切腹しました。有名な余談ですが、この利正の息子が物理学者の寺田寅彦です。

ちなみに、寅之助切腹の時に、郷士たちは武市に対して「寅之助は、忠次郎の仇を討った武士の鑑だ」と主張して切腹を不服とし、これに対して武市は「ここは土佐藩だ、常識は通用しない」と言ったといわれていますが、以前にも書きましたが仇討ちは親や兄などの身内の上の立場の人物が殺されたり辱められた時のみに通用するもので、弟の恨みを兄が晴らしても仇討ちにはならず、武士の鑑にもなりません。ですから武市らのやり取りは最初から通用しない常識となるのです。

また、坂本龍馬を題材にした作品では、この場に龍馬も立ち会っていて寅之助助命に動いたように書かれていて、場合によっては寅之助の介錯を行ってその血を刀の緒に染み込ませたという話もありますが、史実性は疑わしいといわれています。


何にしても、この事件によって下士・郷士は上士に対抗することで結束し、8月に土佐勤皇党が結成し、その影響が明治維新後の自由民権運動にまで発展するのです(つまりは、明治維新後の彦根藩に関わる人民平等の理のきっかけの一つでもあるわけですね)
コメント
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