安政5(1858)年12月5日、長州藩の教育者・吉田松陰が藩命によって投獄されます。
吉田松陰は、13歳の時に藩主の前で軍学の講義を行ないそのまま軍師に任命された程の天才でしたが、その中には常に「私身を捨てて国に尽す」という考えを持っていました。
黒船来航の時は「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の考えの元で外国を知る為にペリーの船に乗り込んで密航を依頼します。
やっと繋がった日本との交渉を妨げたくないためにその願いを断ったペリーでしたが、それまで多くの国を見てきたペリーでさえ、密航を企ててまで先進国を知ろうとする若者に会うのは初めてだったらしく「もしこの様な若者がまだ居るのなら、いずれ日本はアメリカの脅威となるだろう」と言ったそうです。
ちなみに、そんな若者は実際に居て、同時期に来日していたロシア船は密航を受け入れてロシアに連れて行っていますし、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争時にはロシア軍の捕虜としてロンドンに幽閉された日本人も居ます。
密航に失敗した松陰はそのまま奉行所に自首しました、当時の密航は死刑だったのですが、自分のような人間がいる事を示す事の為には逃げ隠れできなかったのです。
幸いペリーの口利きで死刑は逃れた松陰でしたが獄に入れられます。
出所後は、故郷で小さな私塾・松下村塾を開きましたが、これがいつの間にか歴史的人物を育てる育成機関となったのでした。
そして、1858年に幕府を倒す計画を立案し、その実行として老中(間部詮勝)の命を狙ったために長州藩の野山獄に投獄されたのが12月5日だったのです。
松陰は元々反幕派では無かったのですが、長州藩領の松本村から出る事が出来ない立場だった為に情報が少なく、その分だけ自分の脳内で過激なストーリーが進んでしまったところがあったのです。
本当なら、冷静になる事で許される事になるであろう罪(流罪程度)でしたが、大老・井伊直弼がこれを認めず、安政の大獄の最中の翌年10月に江戸伝馬町で斬首となりました、享年30歳。
井伊直弼は開国を行なった偉人として歴史に名前を残していますが、本当は先進国のやり方に危機感を持っていました、しかし、実力の差が大きい以上は「先進国から技術を学んで力をつけて国を守るしかない」と考えていたのです。
そういった意味では吉田松陰と井伊直弼は全く同じ志を持った人物でした。
もし、松陰が幕府に近い人間だったら直弼の重要な右腕として活躍していたのでしょうが、幕府の権威を守りたい直弼にとって倒幕を計画した松陰は許せない存在だったのです。
立場の違いは場合によって不幸な結末を迎えるモノなんですね。
吉田松陰は、13歳の時に藩主の前で軍学の講義を行ないそのまま軍師に任命された程の天才でしたが、その中には常に「私身を捨てて国に尽す」という考えを持っていました。
黒船来航の時は「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の考えの元で外国を知る為にペリーの船に乗り込んで密航を依頼します。
やっと繋がった日本との交渉を妨げたくないためにその願いを断ったペリーでしたが、それまで多くの国を見てきたペリーでさえ、密航を企ててまで先進国を知ろうとする若者に会うのは初めてだったらしく「もしこの様な若者がまだ居るのなら、いずれ日本はアメリカの脅威となるだろう」と言ったそうです。
ちなみに、そんな若者は実際に居て、同時期に来日していたロシア船は密航を受け入れてロシアに連れて行っていますし、ナイチンゲールが活躍したクリミア戦争時にはロシア軍の捕虜としてロンドンに幽閉された日本人も居ます。
密航に失敗した松陰はそのまま奉行所に自首しました、当時の密航は死刑だったのですが、自分のような人間がいる事を示す事の為には逃げ隠れできなかったのです。
幸いペリーの口利きで死刑は逃れた松陰でしたが獄に入れられます。
出所後は、故郷で小さな私塾・松下村塾を開きましたが、これがいつの間にか歴史的人物を育てる育成機関となったのでした。
そして、1858年に幕府を倒す計画を立案し、その実行として老中(間部詮勝)の命を狙ったために長州藩の野山獄に投獄されたのが12月5日だったのです。
松陰は元々反幕派では無かったのですが、長州藩領の松本村から出る事が出来ない立場だった為に情報が少なく、その分だけ自分の脳内で過激なストーリーが進んでしまったところがあったのです。
本当なら、冷静になる事で許される事になるであろう罪(流罪程度)でしたが、大老・井伊直弼がこれを認めず、安政の大獄の最中の翌年10月に江戸伝馬町で斬首となりました、享年30歳。
井伊直弼は開国を行なった偉人として歴史に名前を残していますが、本当は先進国のやり方に危機感を持っていました、しかし、実力の差が大きい以上は「先進国から技術を学んで力をつけて国を守るしかない」と考えていたのです。
そういった意味では吉田松陰と井伊直弼は全く同じ志を持った人物でした。
もし、松陰が幕府に近い人間だったら直弼の重要な右腕として活躍していたのでしょうが、幕府の権威を守りたい直弼にとって倒幕を計画した松陰は許せない存在だったのです。
立場の違いは場合によって不幸な結末を迎えるモノなんですね。