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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

小瀬川の戦い

2018年11月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 桜田門外の変以来、幕府に冷遇されながらも幕府方として戦い続けてきた彦根藩だったが、幕府方としての最後の戦いとなるのが第二次長州征伐において芸州口の先鋒を務めたことだった。
 彦根藩は天狗党の上洛を阻止するために出陣していた頃、多くの藩は第一次長州征伐に加わっていた。これは禁門の変の責任を長州藩に問うものでもあり、長州藩は佐幕派(俗論派)が藩政を握り3人の家老が責任を取って切腹することで幕府に恭順した。しかし高杉晋作が功山寺で挙兵し長州藩の実権を倒幕派(正義派)が抑えることになり、怒った幕府が第二次長州征伐を各藩に命じたのだった。
 長州藩は薩長同盟によって武器を多く装備し、大村益次郎に指揮権を与えて幕府に対抗する意思を示したが、幕府に命じられた多くの藩が長州征伐に疑問を抱き消極的であったため、長州藩を囲み四方面から同時に攻め入り一気に決着をつけようとした幕府は開幕時に徳川四天王として活躍した家の内の2家(井伊家と榊原家)を4つの攻め口の内でメインとなる山陽道芸州口の先鋒を命じたのだった。
 このとき、彦根藩は戦国時代同様の武装で山陽道を井伊の赤備えが堂々と進んで行った。
 慶応2年(1866)6月13日、長州藩の支藩岩国藩攻略のため国境である小瀬川に到着した彦根藩は翌日未明の渡河を予定していた。14日未明、木俣隊竹原七郎平盛員が2人の従者を連れて川を渡る。封書を高く掲げて軍扇を開きながらで武器をすぐに使用することができない姿であり軍使であると示すものだったが、川を渡った途端に一斉射撃を受けて竹原と従者1名が戦死した。こうして戦争の礼儀も無視した形で小瀬川の戦いが始まる。井伊隊は渡河中に銃撃される者が多く出て碌な戦果も出ないままに退却する。榊原隊も同様の敗北を喫し、両軍ともおびただしい甲冑や武器を残して去ったために長州藩から失笑され譜代大名筆頭の名誉も失ったとされている。
 しかし、彦根藩は1年半後には最新鋭の装備で新政府軍として戦う軍隊なのである。第二次長州征伐の段階で本当に藩の軍備が赤備えのままであったのであろうか?
 堺南台場の稿でも書いた通り彦根藩は諸外国からの情報を知ることができる立場に居た。だからこそ台場を建造もできた。そして長州征伐の2か月前には彦根城内広場(今の梅林)に大砲鋳造所を作り鋳造や研究をさせている。これらの姿と赤備えでの出陣は相反しており、もしかすると彦根藩は惨敗し一時の恥を受けることで幕府から何度も出兵を命じられる煩わしさを回避しようとしたのかもしれない。彦根藩が小瀬川の戦場に置いて行った甲冑や武器は『防長回天史』にも「無用の品」と書かれる物だった。赤備えでの出陣は幕府に対する最後のご奉公だったのかもしれないがそのためにまだ一か月近い戦いが続き25名近い彦根藩士が命を落とすことになる。

小瀬川古戦場(大竹市)
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天狗党の乱

2018年10月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 禁門の変が起こっている頃、江戸の近く水戸藩では長州藩の挙兵に匹敵するくらいの混乱が起こっていた。天狗党の乱である。
 水戸藩は光圀が勤皇の意志を示して以来、家臣たちは佐幕派と勤皇派に分かれ、血で血を洗う政権争いが行われていた。幕末になり諸生党(佐幕・門閥派)と天狗党(勤皇)に分裂し、天狗党も過激派と静寂派があり、三者はそれぞれを否定していた。この中で天狗党過激派が起こした事件が桜田門外の変や坂下門外の変であり、関東で起こった早い段階での過激事件のほとんどは天狗党によって引き起こされる。水戸藩出身の一橋慶喜に従って上洛した藤田小四郎は、尊王攘夷の先駆けである藤田東湖の息子であり、京で長州藩士らと意気投合し協力を約束した。水戸に戻った小四郎は、水戸町奉行田丸稲之衛門を大将に筑波山で挙兵した。当初は簡単に鎮圧されると考えられていた兵乱は予想以上の勢力となり水戸藩で武力衝突に発展したが、この戦いも天狗党の連戦連勝となる。ただし軍勢が大きくなると志を持たない者も増え、別動隊が横暴を重ねたため諸生党に大義名分を与え幕府に救援を求めた。若年寄田沼意尊(意次の子孫)が水戸に入り、激しい内戦のなかで尊王派家老武田耕雲斎は失脚し天狗党首領に担ぎ上げられた。耕雲斎は諸生党の横暴を一橋慶喜に直訴して日本を尊王攘夷に導くとの目標を定めて中山道を西に向かうように決めたのだった。禁門の変から3か月半後、季節は11月になり秋から冬へと変わろうとする時期だった。中山道を約千人で西進した天狗党は余計な戦闘を回避するため間道を通るが、それでも和田山では高崎藩などと戦争になり勝利している。しかし京では慶喜が天狗党討伐の大将になり、大垣・彦根・桑名三藩が美濃で厚い陣を敷いた。彦根藩は木俣・新野隊を中心に関ケ原辺りに布陣する。260年以上の時を経て、再び関ケ原に井伊の赤備えが立ったのである。しかし天狗党は冬に蝿帽子峠を越えて越前に入り加賀藩に降伏した。近江塩津に本陣を置いていた一橋慶喜は処分を田沼に任せる。田沼は福井・小浜・彦根藩に監視させたうえで16棟の鰊蔵に監禁したが座る隙間もないほどに詰め込まれ蔵の窓は塞がれ食事は少なく暖もとれない環境であったとされている。そして簡単な取調べののちに武田・藤田・田丸ら352人が4日に分けて斬首されるという日本刑罰史上においても類をみない(安政の大獄よりも激しい)地獄絵図が展開されたのだった。
 この処刑に関して他の二藩が躊躇している中で彦根藩のみが直弼の仇討ちと張り切っていたとされていて現在では批判の対象にもなっているが、『第貮號』(水戸天狗党一件日記)には処刑が決まり三藩に斬人を出すように命じても「諸士之内斬人望無之哉」と斬る役を希望した者がいなかったと記していて、彦根藩は私怨ではなく公務として処刑を執行しただけであったのだ。

天狗党の墓所(敦賀市)
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禁門の変

2018年09月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 幕末から明治維新の政治舞台は京都であるとのイメージがある。しかし京都が政治の中心になるのは禁門の変以降であることはあまり重視されない。大河ドラマ『西郷どん』を観ていると、島津久光に冷遇され遠島になっていた西郷吉之助がいきなり薩摩藩の主要人物になっているように感じるが、実はここには大きな事件による飛躍があった。それが禁門の変である。
 8月18日の政変で一橋慶喜や会津藩が朝廷を差配するようになり、失脚した長州藩士たちは京都に火を放って天皇を奪う計画を立て、新選組によって阻止された。これを池田屋事件と呼ぶ。京都の不穏な空気から朝廷は井伊直憲らに勅を出して京都警護を命じ直憲はこれに応じて自ら彦根藩兵を率いて京都に入った。藩兵は伏見や坂本にも兵を派遣しながら直憲自身は洛中に入り孝明天皇に拝謁、彦根藩は御所の北面朔平門外の警備を命じられる。8月18日の政変から11か月が過ぎた時だった。
 彦根藩は中立売御門と蛤御門に木俣土佐隊、堺町御門に宇津木兵庫・貫名筑後・新野左馬助隊などが警備にあたったが、この警備が完了した二日後に長州藩が洛中に攻め入る。長州藩は大軍を伏見から進め幕府軍の主力を洛中から引き離した上で天龍寺方面から来島又兵衛や久坂玄瑞が率いる精鋭部隊が御所近くまで簡単に入り込み、蛤御門を中心とした各門で戦いが起こったのだった。この戦いの全てを「禁門の変」、とくに激戦区であった場所を指して「蛤御門の変」と呼ぶ。木俣隊から離れ会津藩が警護の中心となっていた蛤御門が固く守られているなか中立売門と下立売門が長州藩に突破される。その中でも会津藩は蛤御門をよく守り、そして西郷吉之助率いる薩摩藩が援軍に駆け付けたことで形成が逆転し長州軍は敗走し久坂玄瑞らは自害した。先述の通り中立売門警護には木俣土佐隊も加わっており禁門の変で六名の戦死者を出している。新選組永倉新八の回顧録では伏見で戦った彦根藩士たちも少数であったため長州軍の攻撃に驚いて桃山に退いたと記録されており、彦根藩の悪い部分がよく指摘されている。しかしこの時期の京都は政治の中心ではなく京都守護を命じられていた会津藩や桑名藩以外は要人も藩兵も京都に置いていなかった。だからこそ浪人の集まりである新選組が池田屋事件を起こせた。幕府の要人が居るならば新選組の出番はないからである。彦根藩も上洛してひと月もしない間に戦うことになり本来の力は出せなかったであろう。しかし戦の八日前に佐久間象山が暗殺されるまで彦根遷座の話もあったことから彦根藩に対する朝廷の期待は高かったと思われる。
 冒頭の話に戻るが、西郷吉之助は閑職であった京都藩邸待機であったが、そのために要人が出払っていた薩摩藩の大将になり勝戦を指揮した実戦経験者となる。その後の政治工作においても第一級の要人として扱われる存在となったのは禁門の変が起こったからであった。

井伊直憲が護衛した朔平門
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天誅組の変

2018年08月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 桜田門外の変の2年後に幕府内の政変から彦根でも政変が起こり尊王攘夷派の岡本半介が実権を握った。これにより直弼に近かった家老は失脚し、長野主膳と宇津木六之丞は斬首される。しかし幕府は桜田門外の後に直弼生存という虚偽の届けを提出した彦根藩に10万石減封と京都守護罷免を命じる。そして堺港警護を始めとする多くの手伝いを藩に命じたのである。彦根藩士の中には脱藩して幕府に訴え出た人物もいたがそれでも幕府の頑なな方針が緩むことは無かった。全国で彦根藩が挙兵するとの噂も流れ長州藩の伊藤博文らが彦根に潜入しようとしたが入る事ができず多賀に逗留した。この時に伊藤が潜んだ蔵が今も多賀大社に移築され残っている。
 やがて彦根藩の使者と伊藤らが会い、彦根藩と長州藩の中の混乱はなくなる。そして、土佐藩も谷干城らが彦根に来て彦根藩と土佐藩とも藩士レベルでの交流が始まる。彦根藩士はここから上京し尊王攘夷の志士と交流するようになったのだ。土佐藩は武市半平太の結成した土佐勤皇党が大きな政治権力を握っていたが、実は桜田門外の変の前は水戸藩浪士が勤皇党を味方に入れようとして坂本龍馬に面会していたため、この時期の彦根と土佐の交流を知ったとき私は多少の衝撃を受けた。
 さて、幕末の混乱の中で、天皇に対する政治的価値が上がると京都にいる志士たちは天皇を利用する計画を立てるようになる。孝明天皇の典侍中山慶子(明治天皇の生母)の兄中山忠光は土佐勤皇党の吉村虎太郎らと図って孝明天皇の大和行幸を画策。これを天誅組の変と呼ぶが、彦根藩は吉村に鉄砲二十挺を密かに送っているのだ。
 吉村ら天誅組が天皇を迎えるために大和で挙兵し五条代官所を襲って代官を殺害し隣接する高取藩に恭順を勧告し高取藩もこれを受け入れたが8月18日の政変が起こり、会津藩や薩摩藩が京都の中心になると大和行幸は幻となったのだった。そして幕府は彦根藩に対して天誅組追討令を出した。彦根藩は家老の長野伊豆や貫名筑後が兵を率いるが、彦根藩の外交を担当していた谷鉄臣は長野らに「今回の戦いは負けてはいけないが、勝負をしない方がいいし、功名を挙げてもならない」と伝えている。勤皇藩になりつつある彦根藩が勤皇の志士と戦うことを避けようとしたのかもしれない。
 しかし、実際に戦いが起こるとそれを避けることは難しく激しい砲撃戦を始めとして天誅組が彦根陣営に斬り込んだことによる白兵戦も行われ、天誅組の幹部である那須信吾を討ち取りある程度の手柄をたててしまったのである。
 天誅組の変は、規模は小さいが勤皇の志士が代官所を襲い高取藩を恭順させたという歴史的意味は大きい。また、彦根藩の藩論が勤皇へと変わろうとする時期の貴重な見解を知ることができるのだ。

櫻井寺(奈良県五條市須恵1-3-26) 天誅組本陣跡の碑
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堺南台場

2018年07月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 桜田門外の変から明治維新まで7年の期間がある。私たちは彦根藩が井伊直弼暗殺後に何の動きもないまま明治維新を迎えた様に感じている。しかし、この間にも彦根藩はたくさんの苦悩があり歴史の舞台のちょっと脇を歩んでいた。今回からそんな幕末維新の彦根藩の姿を現場ごとに追ってみたいと思う。
 彦根藩主が直弼の兄直亮だった時代、直弼が憤慨する役割が彦根藩に命じられた。江戸湾近郊で異国船が多く出現するようになり、三浦半島の警護を命ぜられたのである。彦根は京都警備の任があり、問題が起こった時には天皇を彦根城に匿うという密命も帯びていたと言われていた。そんな大切な仕事を差し置いて江戸湾の警備に兵を割く、ましてや井伊家の家格から考えるとあまりにも低い仕事だと思われていた。実際に同じ仕事を任ぜられた藩を見ると親藩の忍藩や外様の長州藩など、当時の幕府運営から考えると譜代大名筆頭の家が受ける仕事ではなかったのかもしれない。その背景には井伊直亮は大老に就任した実績を持ちながらも水野忠邦らの台頭で失脚し、次代の阿部正弘とも距離を置いていたためだとも考えられる。そして彦根藩士はこの相州警護と言われる任においてあまりにも不甲斐ないと他藩から笑われる結果にもなっていた。
 直弼が藩主になると京都警護を理由に相州警護から外れるが、彦根藩にとって湾岸警備が不名誉であることが公になったのだった。
 幕府は直弼没から3年後に彦根藩に対して大坂湾に造られていた簡易的な台場の改築と警備を命じた。台場は現在でも「お台場」の地名が残る施設で海に埋立地を作って砲台とする要塞である。黒船来航時に翌年の再来航に備えて幕府が建造させ、全国の海を有する藩に台場建造を命じた。しかし5年もしないうちに村田蔵六(大村益次郎)などは無用の長物であると指摘していた物でもあった。貿易の拠点である大坂湾の警備だけならば家格の低下を認識しながら受けざるを得ない命令であっただろうが、ここに役にも立たない台場建造が加わったことは悔しい思いであっただろう。他藩ならば台場建造すら最新鋭の技術だったかもしれないが、彦根藩はオランダから幕府に提出されていた世界の動きを記した『阿蘭陀風説書』を読める(むしろ読まなければならない)立場にあり表面上は赤備えの軍勢を重視しながらも既に藩兵の洋式武装も進んでいたと考えられる時期であるだけに大金を投じて無駄な物を造ったことになる。しかし彦根藩はここに稜堡式築城法を用いた幕末最大規模の台場建築を完成させ面目を保ったのだ。
 歴史的には幸福なことだが、この時建造された堺南台場は戦いで使われることは無かった。現在ではスポーツもできる大浜公園として使用されていて、石垣などの遺構も綺麗に残り当時を忍ぶことができる。平和な活用をされていて、当時の台場を知る資料になっていることだけが堺南台場を建造した彦根藩に対する救いかもしれない。

彦根藩が築いた幕末最大規模の「堺南台場」
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川瀬太宰の妻

2018年06月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 山本周五郎の短編集『日本婦道記』の完全版が文庫化された。戦中戦後に武士の妻を主人公にした女性の生き方を描いた作品であり直木賞候補にもなったが、周五郎自身が受賞を辞退(山本周五郎は文学賞の受賞を生涯辞退し続けた)したため幻の直木賞作品とも言われている。完全版と言われるのは婦道記の意向でありながらシリーズに組み込まれなかった作品も収録したからだとされているが、元来の婦道記に幕末の近江に関わる一編が収録されている。それが川瀬太宰の妻「幸」である。
 幸は彦根藩医飯島三太夫の娘として誕生する。三太夫は井伊直弼が自ら開いた茶の湯の流派「宗観流」で直弼の弟子となり「宗」の字を与えられた17名の一人で「宗三」と号するほどに直弼にも近い人物だった。幸は皇室に近い園城寺役人池田都維那の養女となり膳所藩重臣戸田五左衛門の五男を婿に迎えその夫は「川瀬太宰」と名乗ったのである。膳所藩は京都に近いこともあり尊王の志を持った藩士も多く、幸の養家の縁からも川瀬邸には全国から志士が集まったとされている。『尾花川』はそんな時期の幸の変化とその事情を知って行動を決意する太宰を描いた一夜の物語となっている。
 歴史を見れば『尾花川』で描かれた物語の直後、太宰は雲母坂で新選組に捕縛される。そして川瀬邸に乗り込んだ新選組の佐野七五三之助らは幸も連行しようとするが、幸は着替えを要求して奥に入り、同志の不利となる証拠を処分した後に自らの喉を突く、しかしその場では絶命できず連行され食事を絶って亡くなった。新選組の中でも尊攘派として知られる七五三之助の心中はどんなものだっただろうか?
 そして太宰は獄に繋がれた後に処刑されている。太宰が捕縛された頃、膳所藩は将軍徳川家茂上洛に向けて宿泊地としての準備が始まっていたが、宿泊が中止になった(膳所城事件)。藩はこれを機に急進派尊王攘夷藩士の粛清を断行する。近江幕末史に残る悲劇膳所藩十一烈士事件である。捕縛された藩士たちは獄内で筆すら与えられず、紙を千切って紙縒り、米粒で張り付けて残した手紙などが現在でも十一烈士の遺品として残っている。そして身分の高い四名は切腹、他の七名は斬首という極刑によって事件は終息したのだ。
 『尾花川』を読み終えても、太宰の決意が夫婦の永遠の別れであり、川瀬夫婦のみならず11名の膳所藩士とその関係者に悲劇を及ぼす別れであるとは読み取れない。後日談の悲劇を知った後でもう一度読むと、余りにも普通の夫婦の会話に心塞がれる想いにもなる。
 彦根藩も膳所藩も皇室に近く京都警護の任を担っていた。その影響で藩内には勤皇の志が強く平時であれば大きな問題にもならなかったであろう。幸もあと半世紀早く生まれて居れば、小説の主人公になるような悲劇もなく穏やかに人生を全うできたと考えられるのだ。

川瀬太宰邸址(大津市)
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桜田門外の変(後編)

2018年05月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 当事者たちにとっては長い時間だったであろう桜田門外の変も時間にすれば十分にも満たなかったとされている。
 前稿で行列の日雇い仲間が一番に逃げたという説があることを書いたが、私は何年か前に『柘榴坂の仇討』という映画の中で桜田門に向かう彦根藩の行列にいた仲間役をいただいたことがある。エキストラではあったが井伊様の駕籠に連なっている自分が少し誇り高かった。映画のエキストラでもそう感じるのだから封建制度が強かった時代にはもっと誇りを持っていただろう、だがその誇りに命を賭けることはない。行列から逃げた者の姿を見た藩士の中にも動揺が走り、同じように去った者が居てもそれは責められるものではないかもしれない。まずは行列の先頭で騒ぎが起きて多くの者が前方に移動し、襲撃があったことで人が逃げて行くと駕籠の周りは手薄になり、ここに向けてピストルが放たれ銃弾で下半身不随になる重賞を負った直弼は駕籠から出ることもままならず、やがて乱暴に扉を開けた薩摩藩士有村次左衛門が直弼の体を強引に引きずり出して首を刎ねる、そこには高官に対する敬意は無かった。主君の首が取られるまでの大事件から逃げた藩士は文久二年に起こった彦根藩の政変で自害に追い込まれることになる。その反面、武士らしく戦った河西忠左衛門や永田太郎兵衛、主の首を持って行かれないように有村に斬りかかった小河原秀乃丞らが居たことは、江戸時代が二百年続いた平和な時代であっても彦根藩士は武士としての鍛錬も行っていた証でもあった。そんな全員とは言えないまでも勇敢に戦った藩士が存在しながらも、譜代大名筆頭で最高権力者である彦根藩ですら公然として暗殺される時代になったことに対する世間の衝撃は大きかった。こうして歴史は大きな転換期を迎えることになる。
 幕府も井伊政権に近い政策を踏襲しながら、元来が穏健派である安藤信正が舵取りを行ったため直弼ほど強硬手段を用いず、安政の大獄すら恩赦されたために暗殺によって政治が変えることができる時代の到来を公言する結果となる。人を殺すだけで時代が変えられるならば、多くの人間を殺した者が尊敬されるし、
一人で誰かを殺せないならば集団となって挙兵すれば良い時代となった。幕末維新の勝者と認識される薩長土は言い換えれば暗殺者の利用が上手だった藩でもある。この単純でも錯誤的な時代認識の上に暗殺と戦争で政権を奪った新政府は、今度は自分たちも暗殺と戦争の暴力というしっぺ返しを受け、横井小楠・大村益次郎・大久保利通らの政治家を政策未完成のまま失い、佐賀の乱や西南戦争をも引き起こした。その暴力は明治時代が何十年過ぎても沈静化されず、板垣退助や大隈重信が襲われ原敬暗殺などにも響くのだった。
 結果的に桜田門外の変から始まる暴力の日本史は日本人を世界大戦に巻き込み国土は焦土と化し多くの国民を失って正常化されたのだった。

桜田門外の変を描いた絵葉書 / 個人蔵

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桜田門外の変(中編)

2018年04月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 江戸城からの太鼓を合図に、大名たちの登城が始まった。
 ドラマや映画を見ると行列はゆっくり歩みながら進むイメージがあるが、実際の行列は駆け足だったと伝えられている。江戸時代は基本的に平和な長期安定政権だったが本来幕府という組織は武士が軍事行動中に戦地で作る暫定政権でしかない。このため、常に有事を意識した政治が行われているという建前がある。普段ゆっくり登城する行列がいきなり走り出したならば幕府にとっての一大事を民衆に報せる行動になる。これを避けるため幕閣の登城は日常的に駆け足であることが求められていたのだ。
 彦根藩邸の門が開き、定法通り駆け足で行列が出てくる。それを眺めるのは襲撃者だけではなく多くの民衆だった。大名行列は江戸の風物詩であり地方から来た人々の見物も多かった。そのためのガイドブックである『武鑑』という本も多種多様に販売されていたくらいだったが、襲撃者たちもこの武鑑を見てまるで行列を見学している者のようにカモフラージュしていた。もしかしたら武鑑で彦根藩の行列であることを最終確認していたのかもしれない。
 そこに彦根藩の行列がやってきた。走って進む行列を止めるには前に出るしかない。訴状を持った者が行列の前に進み出る。登城する閣僚に訴状を出す駕籠訴は原則として身分を越えた政治への口出しと考えられ、訴えた者はその場で捕縛され処刑されることが決まっていた。だからこそ命がけの訴えは武士の好むものであり礼儀として駕籠訴は一旦受理しなければならない不文律があった。行列の前に訴状を持って飛び出した者が居れば、一瞬でも行列は停止する。その瞬間に訴人に扮した森五六郎が刀を抜いて先頭の彦根藩士日下部三郎衛門に斬りかかった。油断しているとはいえ彦根藩の行列で先頭を任される武士である、雪の為の合羽と柄袋が無ければすぐに対応できたかもしれなかったのは事実であり季節外れの雪は襲撃側に大きな利益を与えた。急に行列が停まり先頭で騒ぎが起こったことで駕籠の周囲に居た藩士たちは現状確認のため前方に移動したために駕籠の警備が一瞬手薄になり、ここにピストルの音が響いたのだった。銃弾は駕籠の中に座る直弼の腰を撃ち抜きこの時点で直弼は動くことができなくなったのではないかとされている。そして襲撃者が周囲から襲ってきたことで彦根藩士たちは混乱した。井沢元彦さんは『逆説の日本史』(小学館文庫)で彦根藩の行列に日雇い仲間もたくさんいた事を指摘し、彼らが最初に逃げたのではないかと考えられている。俗に18人の襲撃者を60人近く居た藩士が防げなかったことが彦根藩士の堕落と言われるが、本来の藩士は20人居たか居ないかだったようだ。そして味方から逃亡者が出た戦闘集団の士気は異常なくらいガタ落ちになって冷静さも消えてしまう。こうして彦根藩士は不利な装備と低下した士気によって負け戦を決定付けられたのである。

萬延元年に発刊された『袖玉武鑑』(携帯できる武鑑)/ 個人蔵
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桜田門外の変(前編)

2018年03月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2018年は明治維新150年ということで、幕末が再び脚光を浴びている。幕末の明確な始まりは外圧である黒船来航からと考えることができるが、幕末史の裏の局面である血生臭い「天誅」と称する殺人事件の数々は桜田門外の変から始まる。逆説的に言えば桜田門外の変が無ければ気に入らない人物を殺してでも世の中を変えようとする急激な改革は行われず、もっとゆっくりとした変化だったかもしれないのである。そんな日本史の変換点となった大事件を再び見直してみたいと思う。
 萬延元年(安政7年・1860)3月3日は太陽暦に直せば3月24日となる。この時代は今よりも寒かったとされているがそれでも桃の季節に江戸で積もるほどの雪が降るのは珍しかった。3月3日は上巳の節句であり大老である井伊直弼は江戸城への登城が義務付けられる日であった。大名の登城には明確な決まりがあり、時間や入る門、行列の人数も決められている。この規定に従って直弼も出立の準備を行っていた。一説では早朝に襲撃を告げる手紙が彦根藩上屋敷に投げ込まれていたが、直弼はこのことを誰にも報せず、出立後に直弼の部屋の机の上に手紙が置かれていたのが発見されたという物語になりそうな場面が描かれることが多く、直弼が覚悟のうえで駕籠に乗ったとの解釈がされている。
 しかし、直弼はこの時点で目的の途中でありまだ死ぬことはできなかった。しかも後継ぎが決まっていなければ藩が断絶になることも知っていて、執拗なまでに幕府の法令を遵守することを周囲にも強いた人物である。そんな直弼が後継ぎを幕府に届け出ないまま死の回避を行わない筈がない。つまり直弼はこの時点で自らが死ぬどころか襲撃されることすら考えていなかったのだ。では彦根藩士たちはどうだったのか?
 漫画家みなもと太郎さんは『風雲児たち幕末編』で一つの説を述べている。これによると彦根藩上屋敷の門辺りは少し高台になっていてここから桜田門まで見渡すことができると指摘されていた。もし井伊直弼が幕府の法令に従って行列の人数を増やさなかったとしても藩士の数名が行列出発後に桜田門まで入るまで見送っていればいいのである。そうすればたとえ行列が襲撃されたとしてもすぐに救出に行けたのだ。しかし現実的には行列が襲撃されてから藩士が救援を求めて門を叩くまで藩邸では主君の遭難を知らなかった。これは彦根藩では誰も直弼が襲撃されるとは思っていなかったことを表していることになる。この日の雪の為彦根藩士は刀を安価な物に替えたり柄袋を被せていたりしたことを不覚と伝えられえてきたが、江戸時代の武士は武器の使用ができなかったと大石学先生が指摘している。危険を感じず使えない武器を携帯するだけなら彦根藩士の備えは当然のことであったのだ。そして江戸城より登城を促す太鼓が響き、定刻に彦根藩邸の門が開いたのだった。

江戸の名所だった彦根藩邸上屋敷門前の井戸跡(2007年撮影)
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犬上神社と犬上君

2018年02月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 人類が最初に仲良くなった生き物は犬ではないかとの説がある。古くは縄文時代辺りには人間の狩りを手伝い、そして家族と同じ待遇も受けていたことが埋葬方法などからわかるらしい。これ対して猫(イエネコ)は仏教と共に日本に伝来したと言われている。始まりは経典を齧る鼠退治を担った存在だったのだ。よく「十二支になぜ猫が居ないか?」との話になるが、その答えは十二支が考えられた時代(古代中国)に猫がポピュラーな生き物ではなかったためなのだ。
 さて、平成30年は戌年である。私はその年の干支に関わる神社にお参りする習慣を持っているため犬に縁がある場所を探してみた。元来湖東地域は犬上郡と呼ばれていた場所が広がっていて、現在も地名として残っているため労せずしてそんな場所を見つけることができた。候補は二か所、多賀町大瀧神社内の犬上神社と豊郷町の犬上神社である。この二か所は同じ伝承を分けた場所との昔話もある。
 犬上の君が犬上川で狩りを行い少し休んでいた時に大蛇に狙われた。君はそれに気が付かずにいたが連れていた犬が大蛇に向かって吠えると君は怒って犬の首を斬ってしまった。すると犬の首は大蛇に噛み付き主人を助け、君は自らの誤解を嘆き、その地に犬の胴を埋め、首を持ち帰り屋敷近くに埋めた。胴を埋めた場所が多賀町の犬上神社で首を埋めた場所が豊郷町の犬上神社とされている。
 『近江與地志略』には多賀町の犬上神社の由来としてこの物語が紹介され、その他の伝承も詳しく紹介されている。それを読むと犬上神社は景行天皇の時に日本武尊とその子稲依別王を祀るところと言われていたともされている。実際に豊郷町の犬上神社は稲依別王が祭神となっていて、近江を治めとくに農政を発揮し、周辺が豊かな実りに恵まれたことから「稲王」と呼ばれ、それが「いねかみ」から「いぬかみ」になったとも伝わり、その子孫が犬上の君であるとも言われているのだ。
 犬上の君一族は古代日本において重要な役割を担っている。最初に名が挙がるであろう犬上御田鍬は聖徳太子が「日出処の天子」で始まる有名な文書を隋に送ったときに小野妹子に次ぐ副使として現地に向かった遣隋使であり、その後には最初の遣唐使の大使も務めている、御田鍬の子と言われている白麻呂は高句麗に派遣されるなど犬上君一族は外交に精通した官僚であった。「みたすき」は「三田耜」という名でも伝わっているモノが、農業に縁深い「御田鍬」とも記される辺りは本当に稲王だったのかもしれないとも思えてくるこんな外交官と農政の顔を持った犬上君を手塚治虫は『火の鳥太陽編』で犬上宿禰として登場させているのではないだろうか?
 こののち犬上君の子孫は多賀大社の神主を務める河瀬氏などに引き継がれたとの説もあるが詳しいことは不明のまま歴史の中に溶け込んでしまい、その足跡は犬上郡の地名と豊郷町の石碑で辛うじて知ることができるのだ。

犬上の君屋敷推定地
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