goo blog サービス終了のお知らせ 

彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

井伊直政命日法要

2018年01月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 慶長7年(1602)2月1日、井伊直政は居城佐和山城で生涯を閉じる、享年42歳。死因は1年半ほど前の関ケ原の戦いで島津義弘を追跡しながら受けた鉄砲傷による破傷風だと言われてきたが、近年では直政は関ケ原直前に高熱を発し、このために軍監の任に本多忠勝を加えるなどの対策が行われたことからも関ケ原の戦いのときには既に死病に冒されていた可能性も指摘されている。
 大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも描かれていた通り、井伊家は直政以外の男子が全て亡くなり、直虎が男名で井伊家を継いだもののやがて今川氏真によって地頭の地位を追われて一旦は滅びた家だった。それを自らの力で徳川家随一の家臣にまでのし上がったのは井伊直政個人の努力と才能である。徳川家臣団は家康の祖父である松平清康から家康の息子信康まで悲劇の死を迎えた人々が続き、その悲しみをバネに力を蓄えた経緯があるため、他家には見られないくらいの強い結束力があった。その中で外様である井伊家の若輩者が成しえた努力も然るものながら、その家を後の世まで同じ形で残すだけではなく江戸幕府では四家しか任されなかった最高権力職の大老の家にまでしたのだった。江戸時代の記録では直政を「開国(幕府を開く)の元勲」とも評価している。
 そんな直政が関ケ原で傷を負ったとき、家康は息子忠吉も傷を負っていたにも関わらず直政を優先して自から調合した傷薬を直政に塗りその薬を与えた。本来ならば療養期間も与えたかったであろうが、徳川家に大大名相手に交渉ができる外交官は井伊直政と榊原康政などの少数しかおらず、直政は療養する時間も惜しんで外交に尽くした。戦い前から病んでいた体に鉄砲傷を受け療養もままならなかった現実は、出世には必要だった才能が自らの命を縮める結果にも繋がったとも言える。家康は直政の死をひどく悲しんだが同時に織田信長や豊臣秀吉が信頼できる重臣に任せた佐和山を井伊家に任せてよいのかも冷静に考慮したがやがて直政の次男直孝によって彦根藩として大きく飛躍することになる。
 徳川四天王という言葉があるがこれは徳川幕府創成期の武断派武将であり大老四家は徳川安定期の文治派官僚であるが、この両方を兼ねたのは井伊家しかない。井伊直政は武将でありながら官僚であり、直政没後には直孝も同じ才能を継いだ結果だった。
 直政は善利川中州(今の長松院)で荼毘に付され後に清凉寺に墓が建立され清凉寺は彦根における井伊家菩提寺となる。『おんな城主 直虎』放送決定をきっかけに平成28年の1月後半に井伊直政公命日法要が行われた。これは翌29年にも行われ今年で3回目となる。今年は1月28日11時から清凉寺で法要を行なう。大河ドラマで描かれた井伊家と自分をどのように直政公が見つめていたのか? 法要に参加しながら返事のない質問を直政公に投げかけてみたいと思っている。

2017年の命日法要の様子


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(23)

2017年12月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 『おんな城主 直虎』の放送も無事に終了した。一旦区切りとなるので今稿では放送前に大きな問題も提示されていた件について私説を書いてみたい。
 井伊直虎は男性である。そんな説がまことしやかに発表されたが現在はほぼ否定されていると考えても差し支えない。一番の理由は男性説の証拠となる史料が1年を過ぎても公にされていないためである。関係者しか観ることができない史料が議論の対象になることはないので実質的には男性説を大きく支持できる証拠がないことになる。それだけではこの話が終わってしまうのでもう少し広げるならば、話が二転三転では済まないくらいに変わった結果この説では「次郎法師」という女性の存在は認め、「井伊次郎直虎」とは別人という話で落ち着いた、次郎法師が井伊家の女性とする根拠がないというものだった。しかし龍潭寺の世継観音の厨子から「井伊次郎法師」が天正3年に世継観音を大藤寺の本尊にしたとの記録があり次郎法師が井伊家の人間であることが判明する。
 これだけでも女性説の後押しにはなるが、基本的に男性説は「上杉謙信女性説」や「源義経が成吉思汗だった説」と同じようにまずは定説がありそれを面白おかしく否定したものを組立てたものだと考えられる。特に一家の当主が男性であることが当り前の時代にわざわざ男性であることを匂わすような記録が書かれた背景としては女性であったことが常識であったと証明するものなのだ。
 また私説として私は井伊直政が17代当主として伝えられていた歴史を重視している。井伊家が誕生して600年が過ぎようとする頃に直政は当主となるが、単純に計算すると1代25年と考えられているので直政は24代辺りが妥当であり江戸後期に彦根藩は直政を24代にしている。しかし江戸初期は17代として数えられていた、これはすべての当主が35歳を超えてから後継ぎが誕生という無理が生じる。そこまでして17代にしたかった理由として神道で17が奇跡の数字とされておりなおかつ聖徳太子の憲法17条以来日本人はあえて17の倍数を使った形跡もあるところに注目している。細かい話は私にチャンスがあれば伝えて行きたいが井伊家は直政を17代当主にするために年齢的にあり得ない直宗を14代当主に数えている。もし直虎が男性ならば16代当主を直虎にして直宗を入れなければいいだけの話となる。17代重要説は私説だが東北の伊達家も伊達政宗を17代当主にしている。
 さて、井伊直虎が主人公と決まって以来約2年に渡って紹介してきた井伊家の歴史も今稿で一旦終りとなる(次稿で直政公には触れますが…)お付き合いいただき感謝いたします。ただし『井伊家千年紀』に記した事も含め新たな発見による改稿や紹介したいことはまだまだ残っているので、今後の連載の中でも書いていきたいと考えています。

直虎終焉の地・松岳院跡
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(22)

2017年11月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 井伊直虎が生きた時代を見渡したとき、何十年も前から歴史家たちに注目されていた人物は瀬戸方久であった。

 方久の前半生はよくわかっていない。一説では三河国清水城主の息子が城の落城で領国を追われ新野左馬助に助けられたとも、貧しい暮らしをしていた男が行商を繰り返しながら財を得て新野家に出入りするようになったとも言われている。新野左馬助に関りがあった縁から左馬助の妹が井伊直盛に嫁ぎ新野家が井伊谷に居を構えたときに井伊家と方久との縁もできたのだった。井伊家を得意先とした商売をしながらも旧体制の強い駿府でも商いを行っていた方久は、やがて今川氏真との縁もできるようになっていた。この頃、井伊谷は直虎が治めるようになっていたが方久が資金を提供して次郎法師を大旦那とする鐘(江戸時代に焼失)が寄進されるなど良い関係が築かれていて「松井」との名で井伊谷七人衆の一人にも数えられていた。しかし氏真は気賀に堀川城を築き城主に任命することで方久を取り込む、新田義貞の子孫を称していた方久は新田喜斎と名乗り武士としての顔を見せ、商人としては井伊家を見捨てて徳政令を賛同する立場に立ち直虎は井伊谷を失ったのだった。
 井伊家滅亡直後に始まった徳川家康による遠江侵攻で堀川城は徳川勢と戦うことを決める。方久はこれに反対して城を追われ中村源左衛門の仲介で家康と面会した。城主と領民が敵対することになった堀川城は徳川家の戦いでは例が少ない虐殺へと発展し方久は後悔の念から出家、しばらくは隠棲していたがやがて商人のみの道を進むことになった。
  時は流れ関ケ原の戦いが終り、徳川幕府は政権安定のために厳しい法によって身分制度をはっきりさせた封建制を強固にしようとしていた。それは戦乱の世を終わらせるために必要な手段ではあったが、急激で厳しい世の中の変化に戸惑った領民たちは城主まで務めた方久に民の想いを述べる訴状執筆を依頼した。困った者の為と想いこれに応じたが、この訴訟が幕府に提出された後に捕らえられることになる。そして身分を弁えずに世を乱す文章を書いたという「非文の罪」により斬首されたのだ、慶長11年(1606)方久の享年は83歳だったと伝わっている。方久の首が落ちた地は約40年前に堀川城の人々が処刑された場所であった。
 歴史の中ではときとして突然変異としか思えないような人物が誕生する。そのなかには時代を変えてしまうような影響を残す者もいるが全国という大きな規模にはならなくとも地域にとって何らかの足跡を残しているのだ。瀬戸方久は歴史家から「中世の岩崎弥太郎(幕末から明治の商人で三菱の創始者)」と評されているまさしく突然変異のような人物だったのかもしれない。
 余談ではあるが、『おんな城主直虎』では商人としての顔を瀬戸方久とし、武士としての人生を龍雲丸として描いている。

方久が城主を務めた堀川城址


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(21)

2017年10月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 1つの家を1年のドラマにするとき、それまでは知られることもなかった人物が登場し活躍することがある。井伊直政の姉である高瀬姫もその1人ではないだろうか?
 「直政に姉がいたことなんて知らなかった」と、彦根の中でもよく耳にする。また「高瀬が架空の人物ではないか?」との質問もよく受けたが、高瀬は正真正銘直政の姉である。しかし、高瀬の生涯はその誕生から謎に包まれている。
 彦根に伝えられた話では高瀬は直政の二歳年上の姉とされているが、高瀬と直政の父直親は信州亡命から井伊谷に帰国した後に奥山朝利の娘を正室に迎え、5年間後継ぎに恵まれなかった為、龍潭寺で祈願した世継観音のご利益で子どもを授かったとの話がある。つまり最低でも直親夫妻に五年間は子どもがいなかったことになり、そこから高瀬は直親が信州で産ませた子どもとも考えられており、直政よりも6歳以上年上との説もある。または直親が井伊谷に帰ってきてから正室以外の女性に子どもを産ませたと考えても良いのだが、果たして真実はどこにあるのだろうか? 本稿では彦根藩の記録である二歳年上説でこの先の話を進める。余談ではあるが、今年になり世継観音の厨子から天正3年に井伊次郎法師が世継観音を大藤寺の本尊にした記録が出てきた。今まで「井伊次郎直虎」と「次郎法師」の名前は出ていたが、井伊家と次郎法師を直接繋ぐ物が『井伊家傳記』であったために「井伊次郎法師」という名が出てきたことの意味は大きい。
 さて高瀬の話に戻ると、直虎生存中の人生はよくわからない。直虎死後、直政が元服し井伊家当主となると家臣団の団結も重要になってきた。新野家の娘を木俣守勝に嫁がせるなど、井伊家と主要家臣を政略結婚で結ぶ一つとして高瀬も川手(河手)主水良則に嫁いだ。このとき高瀬は当時としては晩婚となる24歳であり良則も51歳、すでに前妻との間に息子も居た。実情もわからないが良則は直政の居城で留守居を任される存在となる。
 彦根城築城後、川手家は現在の玄宮園辺りに屋敷を構えていたが、良則の跡を継いだ良利は大坂夏の陣において討死。良則と高瀬の間に誕生した娘に婿を迎えて家の存続を図るも若くして亡くなってしまい川手家は三代で家が滅びたのだった。
 高瀬は川手家が断絶した後も長寿を保ち、寛永11年(1634)に亡くなった。享年76歳。江戸後期に記された『近江古説』では高瀬(ここでは馬瀬姫になっている)を京鳥辺野に葬ったと記されているがその埋葬地はわかっていない。供養墓は佐和町長純寺に五輪塔が残っている。
 川手主水は現在の南川瀬町にも屋敷があり、その地に墓所も残っている。またその家名は新野家や貫名家と同じく江戸後期に再興されている。

高瀬姫供養塔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(20)

2017年09月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 井伊家の話、再開。
 直虎を始めとする井伊家の人々に常に寄り添って助言する人物が龍潭寺の二世住職南渓瑞聞である。
 南渓和尚は直虎の大叔父(祖父の弟)で、以前は井伊直平実子の次男(もしくは三男)と言われていたが、過去帳を見ると両親の戒名が直平以外の人物が記されていた。現在では井伊家に養子として迎えられたのではないかと考えられている。別説は混乱期の井伊家を支え続けた人物だったために『井伊家傳記』作成時に祖山和尚が井伊家一門に入れたのではないかともされている。南渓和尚の両親と直平がどのような関係にあったのか資料はないが、もしかしたら僧籍に入れるために井伊家の養子に入った可能性も否めない。俗名や幼名も伝わっていないが出家したあとは、直平が井伊谷に招いた黙宗瑞淵(龍潭寺一世)に学び、龍潭寺二世となる。また桶狭間の戦いのあとには今川義元の葬儀総括(安骨大導師)を任されるほどの名僧になっているのだ。
 その言は井伊家のなかでも重要視されていたようで、亀之丞逃亡後に出家した直虎に女性でありながら「次郎法師」という男性のような名で納得させるという離れ業を実現させることになる。この後の受難の時期を経て井伊家には幼い虎松以外の男子が居なくなり、龍潭寺で出家していた直盛の娘次郎法師を直虎と名乗らせ女地頭として井伊家当主とし自らが後見となる道を南渓は選んだのだった。
 今川氏真の介入を直虎が支えきれず、井伊家はいったん地頭としての地位を失い直虎も龍潭寺門前松岳院の尼に戻る。そして武田信玄の侵攻によって井伊谷や龍潭寺は火の海となったのだが、そんな苦労を乗り終えて虎松が十五歳のとき、南渓は直虎や虎松の母と計って虎松と徳川家康の面会を浜松城下で演出し井伊家の発展の基礎を虎松(家康に仕えて万千代と改名)に託す。
 徳川家への仕官という大仕事を成功させた南渓と直虎は万千代の活躍に一喜一憂していたと想像するが、年が若い直虎を先に送ることになった。
 そののち、万千代は元服し直政と名乗り、赤備えを託されると南渓は井伊谷の井伊家旧臣との仲介役を務め、自らの弟子で武芸に秀でた傑山と昊天を補佐として与える。直政は小牧長久手の戦いなどで活躍、豊臣秀吉にも愛されて昔の井伊家を取り戻すような活躍を見せ南渓はそのすべての報せを聞く立場にあった。そして直虎が亡くなった七年後の天正17年(1589)9月28日にその生涯を閉じた。その意志は昊天によって彦根も引き継がれる。
 江戸期を通じて彦根藩では井伊谷における井伊家の実績を調査させていた。井伊直弼の兄直亮は天保13年(1842)の井伊共保750回遠忌で南渓和尚の功績を称える和歌を作っている。

2016年発見された南渓和尚の位牌
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三献茶の謎

2017年08月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 司馬遼太郎原作の『関ケ原』が映画化されたことは大きな話題になっている。戦国時代の終わりを決定付けた合戦を石田三成から描いた作品でもあり近年高まりつつある三成人気もますます拍車がかかり検証もされてゆくことを期待する。
 今稿では『関ケ原』に便乗して石田三成伝承の一つを考えてみたい。
 三成の人生を見るとき、その始まりの一つとして語られる逸話が「三献茶」である。簡単に内容を書くならば「羽柴秀吉が長浜城主になった頃、狩りに出掛け喉の渇きを覚え近くの寺に立ち寄った、そこで小坊主だった三成は秀吉に大きな茶碗でぬるめの茶を出し、二杯目は少し熱い茶を適量出した、試しに秀吉がもう一杯求めると熱い茶を小さな茶碗で出した。機転の良さを秀吉に認められた」というものである。この話は三成の死後百五十年ほど経った頃に『武将感状記』などによって世に知られるようになり江戸後期に儒学者大槻磐渓が記した『近古史談』でも取り上げられていて江戸後期には広く知られる逸話になっていたのだった。
 しかしこの話にはいくつかの疑問が残る。まずは秀吉が長浜城主になる前には三成が誕生した屋敷近くの横山城で城代を務めていた秀吉が長浜城主になるまで三成のことを知らなかったことがあるのか? ということ、また秀吉が長浜城主になった頃に三成は既に十五歳であり三献茶くらいで秀吉が感心するのか? そして最大の疑問は三杯目の茶は何か? ということである。
 当時は番茶などの熱くて味がある茶がない。抹茶や緑茶は熱すぎる湯では美味しくないのだ。一杯目は急にやってきた領主に作り置きの麦茶などを出したとして、二杯目に丁度いい温度の茶を出したとなると緑茶になる可能性が高い、こう考えると三杯目に出せる熱い茶がない、まして三杯も茶を飲んだらお腹が大変なことになる。
 そこで、本当に三献茶があったとしたらどんな茶が出されたのかを考えてみた。
 鷹狩を行い、喉を乾かした者にいきなりぬるい茶を大量に出せば一気に飲み干そうとして咽る可能性が高い、ならば一杯目はすぐに出せる作り置きの麦茶を一口か二口分準備してまずは喉を潤す、少し落ち着いているもののまだ足りないであろうからもう一度普通量の麦茶を出すことでやっと秀吉の喉も気持ちも落ち着くのではないだろうか。その間に湯を沸かして適度な温度になったところで緑茶を淹れた三成は、秀吉がゆっくりできるような状況を作ったのではないだろうか。先述したようにすでに三成を見知っていたであろう秀吉はここでじっくりと三成との時間を作り家臣に迎えることを決めたのではないだろうか。この話を実証するような史料はないもない、踏み込んで想像するなら、江戸初期に「三成は茶を三杯出して出世した」くらいの伝承があり現在の形を誰かが考えたのではないだろうか?

『近古史談』三献茶の部分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

治部蛍計画

2017年07月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 春から初夏へと移り、夜の外出が容易になった季節に注目を集める昆虫が蛍である。日本人には古くから親しまれていて最古の記録では『日本書紀』に記され、清少納言の『枕草子』には「夏は夜。つきのころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる」とも紹介されていて夏の名物が月夜と闇夜の蛍であることは平安時代には既に知られていたことだった。また、中国では象形文字にも「蛍」が登場していることも確認されている。そして卒業式の定番である『蛍の光』にも歌われるような生活に近い存在でもあるのだ。
 時代は下って江戸時代になると、蛍狩りや蛍合戦など庶民は初夏の夜を蛍と共に楽しんでいたが明治時代からの近代化によって日本は急激な環境変化が起こり、都市部から蛍が消えてしまった。このような苦しい時代を越えて現在は蛍が環境学習と繋がり保護の活動が始まっている。
 さて、滋賀県は琵琶湖を守るために日本国内でも早い時期に環境問題に取り組み始めた。それは今も続いているが、一つの成果として多くの場所で蛍が目撃されるようになっている。三島池や天野川そして守山市などでは一定の成果があり蛍の名所にもなっている。
 このように現代では保護活動を行ってやっと観ることができる蛍だが前述したように江戸期以前は日本の多くの場所で当り前の用に飛んでいた。つまり戦国武将にとって蛍は当たり前の光景だった可能性が高い、城主であれば居城に舞う蛍で宴を行っていたかもしれないのだ。こう考えたとき、佐和山城址に蛍が存在するのかが気になった。
 鳥居本では矢倉川に蛍の生息が確認されている。もう少し踏み込んで城のすぐ側での蛍を私が意識するようになって今年で三年目となった。そして佐和山城内堀跡とされる地では少ない数ながらも蛍が確認できた。その数は本当に少なく、儚い光は佐和山城落城により命を失わざるを得なかった石田家中の人々の魂の光にも見えてしまう。
 たぶん石田三成も観たであろう蛍がまるで石田一族の悲運を表しているような様子を醸し出していて城の歴史の語り部であると感じた。これに伴い私は「佐和山城下に舞う蛍を『治部蛍』と呼びませんか?」との活動を行っている。歴史好きの多くが「治部」という言葉を耳にすれば石田三成を想像する。その三成に「蛍」という言葉を付けるだけで感傷に浸る言葉になってしまう。今後、武将蛍が各地に登場するきっかけになるかもしれない。
 治部蛍の数は本当に少ない、見学に行くというよりは探しに行く蛍である。そしてその環境は決して蛍に優しい場所ではないそうなのだ。だからこそ皆で優しく見守って行けないだろうか?
 余談ではあるが、蛍が舞う一時間ほど前大手口に行くと城址の後ろにマジックアワーが広がる。この風景も一見の価値があった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『琵琶湖周航の歌』100年

2017年06月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 平成29年(2017)6月、『琵琶湖周航の歌』ができて100年を迎える。様々な歴史を扱っているこのコーナーでは100年という時間はほんの一瞬のように感じてしまうが、一つの曲が残り歌われ続けるには途方もない時間となる。ましてや『琵琶湖周航の歌』は後世に残すために作られた訳ではなく一瞬で歴史の陰に消えてしまう寮歌として作られた物だったのだ。
 2年前に、原曲となる『ひつじ草』を作曲した吉田千秋の紹介したときにも書いた通り、『琵琶湖周航の歌』は作詞と作曲は別の人物であり2年の時間差がある、今稿では作詞者小口太郎の人生を追ってゆく。
 小口太郎は、吉田千秋の二歳下、長野県の諏訪湖近くで誕生した。小学生のときに諏訪湖を一周した記録を残すなど幼い頃から湖に親しんでいたことがうかがえる。そしてスポーツや音楽など多彩な趣味を持つ秀才だった。理系を得意としていて第三高等学校(現・京都大学)に入学、そこで水上部と弁論部に入部し琵琶湖と出会うことになる。三高水上部では毎年六月に大津の艇庫を出発する3泊4日(諸説あり)の琵琶湖周航オリエンテーションが行われていた。
 大正6年(1917)6月27日、大津を出発した太郎らは雄松(近江舞子)で一泊。翌日は今津まで移動。ここで太郎が書き留めていたメモのような詞に『ひつじ草』メロディーを合わせるとぴったりと合い『琵琶湖周航の歌』が奇跡の誕生を遂げたのだった。ここからは他の水上部員も詞を意識するようになり、レクレーションの後に部員らが協力して歌詞を完成させたと考えられている。その為かもしれないが『琵琶湖周航の歌』は周囲の風景を描写したような三番までと宗教的な香りすらも感じる四番からで歌詞の雰囲気がおおきく変わる。そして琵琶湖の光景を思い浮かべながらも多くの謎解きをさせてもらえるのだ。例えば五番の歌詞になっている彦根城は実際のお城とのイメージも違うことから太郎は彦根には寄港しなかったとの説もある。また水上部で使われている古い漕艇の名前である「比良」と「伊吹」の様子を彦根城に重ねたとも考える説も提示されているのだ。このような謎は歌詞全体に散らばっている。
 さて小口太郎は三高卒業後に東京帝国大学(現・東京大学)に入学。大正10年には『有線および無線多重電信電話法』で日本を含む8か国の特許取得、これは現在の光ファイバーの基礎となる研究で太郎が長命であったならば必ずノーベル賞を受賞していたであろうと言われているが大正13年5月16日に26歳の若さで亡くなったのだった。
 吉田千秋が『ひつじ草』を発表したのも小口太郎が『琵琶湖周航の歌』を作詞したのも21歳のときであり、2人とも20代の若さでこの世を去っている。そして『琵琶湖周航の歌』は2人の人生よりも長く生き続けることになったのだった。

5番の歌碑・彦根港

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(19)

2017年05月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 戦国時代の井伊家を語るうえで必ず登場する一族が小野家である。しかも井伊家を窮地に落とす獅子身中の虫として扱われている。
 伝承では小野家は小野篁の息子俊生が遠江に住んだことが始まりとされているが、最近では「英比」という家であったとされていて井伊一族だったのではないかとの説や、水野家に繋がる三河の阿久比一族ではないかとの説もある。どんな出自にせよ小野兵庫助という人物が井伊直平に登用された。その理由は兵庫助の文化レベルの高さで、今川義元に仕えるようになった直平にとって必要な人材だったと言われている。これにより井伊家の代表として義元の許に赴くことが多くなった兵庫助はだんだんと今川氏の意向を井伊家に伝える仕事が増えたとも考えられるのだ。
 その兵庫助と同一人物か、一族なのか、は不明だがやがて兵庫助から和泉守へと小野家の主が替って行く。今川氏に近くなった小野家は井伊家家中で浮いた存在になり、井伊一門の直満と対立をするようになった。そしてそんな直満の息子が井伊家直系の直盛の一人娘と婚約し危機感を抱いた和泉守は、直満が武田信玄と内通していると訴えて直満が殺されたとされているが、この時代に信玄が他国へ侵略するだけの基盤はなく今川氏にとっての脅威は北条氏であったため、現在では内通相手は今川氏康でありこれを積極的に行ったのは直平であったと考えられている。私自身、和泉守は直平の井伊家を守るために直満を人柱にしたと考えている。
 直満殺害から10年が過ぎようとする頃に和泉守病没。跡を継いだ但馬守も義元に近い存在であったが但馬守の弟である玄蕃は直満の息子で井伊家の世継ぎとなった直親に仕えていて井伊家と小野家は友好を保っていた。
 しかし桶狭間の戦いで義元や直盛が戦死し、猜疑心に襲われた今川氏真は但馬守を利用して井伊家を滅ぼす方向へと進んでいった。直親が暗殺されただけではなく直平や今川一門の新野左馬助までも非業の最後を迎える。こうして直虎が女領主となり、小野但馬守は家老として井伊家を支える筈だったが氏真の指示によって直虎に徳政令を発するようにとの無理難題を押し付け、これを抗しきれなくなった直虎が徳指令を発したのと同時に井伊家の所領はそのまま但馬守に横領される形となってしまったのだった。しかし一か月強の後に徳川家康の遠州侵攻が始まり但馬守は井伊谷城を追われ四か月後の永禄12年(1566)4月7日に井伊谷領の刑場である蟹淵で処刑される、1か月後には幼い2人の男児も処刑された。
 伝聞だけを紐解くと小野一族は井伊家を滅ぼした原因のように言われているが、小野玄蕃の息子は井伊直政に仕えるなど小野家はその後の井伊家にも良い影響をもたらしている。一面から見たら佞臣かもしれないがその裏には深い忠義があったのかもしれないのだ。
 さて、次稿からは井伊家から離れる、秋にまた井伊家を書きたいと思っている。

小野但馬終焉の地・手前の巨石が但馬の供養石と言われている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家千年の歴史(18)

2017年04月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 静岡県御前崎市の新野地区。JR菊川駅からバスに揺られること30分で茶畑が広がる静かな町に到着する。ここが井伊直虎の母祐椿尼とその兄である新野左馬助の育った場所である。
 新野家は『吾妻鏡』には既に記録された遠江武士ではあるが、左馬助は今川氏の血縁であることからどこかの段階で新野家が地元の武士から今川氏一族に替ったと考えられる。
 直虎の伯父となる新野左馬助は親矩という名を持っている。今川一門として新野を治めていたが、井伊直平が今川氏に降った後に目付として井伊谷に住むようになったと言われている。このときに妹を井伊直盛に嫁がせ、自らは奥山朝利の妹を妻とした。今川義元に派遣されながらも婚姻関係を深く結び井伊家の後ろ盾となった左馬助は井伊家が今川氏と揉めるたびに井伊家を救うために奔走した。しかし、井伊直満と直義は謀反の疑いで殺され、直光の子直親も暗殺されてしまうなど左馬助の力が及ばずに井伊家の人々は次々と命を落とすのだった。左馬助は井伊家にとって最後の希望である虎松(直親の嫡男・のちの直政)の助命を命がけで懇願し許され、後見人となって虎松を自らの屋敷で育てるのだったが、井伊家を継いでいた老将直平が不可解な死を遂げ、中野直由と共に井伊家を支える柱石となった。この頃の歴史は井伊家に厳しい試練を与えることを課題としていたとしか思えないくらいに残酷な運命を課す。今川氏真から離反した飯尾連龍の籠る引馬城攻めが井伊家に命じられ、出陣した左馬助と直由は戰の最中に安間橋で討死したのだった。虎松は2歳で父を、3歳で曽祖父、4歳で後見人と3年間で大切な人々を失い続けるのだった。
 なお、左馬助の家は男子一人が後の戦で討死し滅びるが娘が7人育ち、木俣守勝や庵原朝昌といった彦根藩の重臣になる人物に嫁いだ者、守勝の養子となり木俣家を継ぐ守安を産んだ者など井伊家にとって強い繋がりの要となったのだった。彦根藩では江戸期を通して井伊谷を治めていた頃の井伊家の検証を行っていた。その所縁で11代藩主井伊直中は自らの息子に新野家再興させた。新野家伝来の品を受け継いだ新野親良は彦根龍潭寺に左馬助の墓を建立する。また親良の弟で彦根藩を継いだ直弼は長野主膳に御前崎の新野を調査させて左馬助の墓を発見させた。直弼自身が墓参りを希望するが果たされることなく桜田門外に散ったのだった。
 最後に、毎年4月第2日曜日には左馬助を祀った左馬武神社で『新野左馬助公献茶式』が開催される。地元で収穫された茶葉を奉納し、茶業の専門家によって淹れていただいたお茶を左馬助の墓前でいただく。2017年は『おんな城主 直虎』で左馬助を演じられた苅谷俊介さんも参列されて左馬助への想いを話された。井伊直弼が果たせなかった墓は、地元の熱意で素晴らしい伝統を繋いでいるのだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする