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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

工藤茂光の子孫

2022年02月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 鎌倉幕府二代執権北条義時ほど家族によって人生が変わった権力者も珍しい。一番大きな変化は姉・政子が源頼朝に嫁いだことであるが、その他にも父・時政の政治判断による他氏との戦い、継母・牧の方の野心を逆手に取って北条氏の家督を奪うことにもなる。何よりも注意しなければならない出来事の一つが兄・宗時が石橋山の戦いののちに討死したことである。

 宗時が鎌倉幕府開幕まで生存していたならば義時の名前が歴史に刻まれる可能性は少なく、場合によっては平家との戦いで前線に立つ武将の一人として歴史の役目を終えていたかもしれない。

 そんな宗時の死は突然訪れる。平家打倒を掲げた源頼朝が治承四年(一一八〇)八月十七日に挙兵、その夜の内に山木兼隆を討ち勝利を飾るが同月二十四日には石橋山で大敗し頼朝軍は散り散りになってしまう。宗時は北条領に戻る途中、早川という地で外祖父伊東祐親の軍勢に囲まれ討たれたのだ。

 長々と北条宗時の死について記したが、この話は近江の歴史とは何の関係も無い。注目すべきは宗時と共に早川で亡くなった人物がいることである。『吾妻鏡』には宗時の死に続いて「茂光者。依歩行不進退自殺云々」と記され、茂光という人物が、歩行が難しくなったために自殺したと伝えている。また早川の近くに北条時政が建立する宗時の墓隣には茂光の墓も並んでいる。

そんな茂光とは何者なのか? 歴史的には「工藤茂光」と記されることが多い人物で、伊東祐親の叔父になる。北条近くの狩野を領していたことから「狩野茂光」とも記され子孫は狩野姓を名乗っている。頼朝は茂光の協力が確定したことから挙兵を断行したとの説もあり、工藤氏は伊東氏に並ぶ伊豆の有力者と考えられる、実際に北条と江間(北条義時の若い頃の知行地)の間には狩野川が流れていて、狩野を領する工藤氏が河川運搬を支配していたとするならば相当な利益を生んでいたはずである。

 その茂光の子・狩野宗茂より「狩野介」を称して子孫は伊豆で在庁官人(現地官僚)だったが、戦国時代に北条早雲と戦って敗れ、後北条氏に仕えることとなる。茂光の子孫とされている狩野泰光(一庵)の子が狩野主膳と言われていて主膳は豊臣秀吉の小田原征伐で八王子城に籠って討死する、この時二歳だった主膳の息子(のちの右京)は母と共に八王子城を出て母方の伯母に保護され養育される。主膳の妻の父親は新野左馬助(井伊直虎の母方の伯父)であり、右京を保護した伯母の夫は木俣守勝。

 守勝には実子が誕生しなかったため、やがて右京が木俣家を継ぎ木俣守安と名乗り、井伊直孝に認められ木俣家を彦根藩筆頭家老の家格へと押し上げて行くこととなるのだ。

 余談ではあるが、安土桃山時代から江戸時代を代表する狩野探幽ら狩野派の絵師も茂光の子孫である。


北条宗時(右)と工藤光茂(左)の墓(静岡県田方郡函南町)
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源頼朝の上洛

2022年01月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 治承・寿永の乱で平家を討ち破った源頼朝だが、実はこの戦いの間に頼朝が上洛したことは一度もない。それどころか、平治元年(1160)に起こった平治の乱で父・源義朝が平清盛に敗れ、頼朝自身が伊豆に流されたのちに頼朝が一番西進したのは富士川の戦いに進軍したまでであった。つまり頼朝は鎌倉を拠点とした限られた地域から動くことなく武家の頂点に立ったのである。

 そんな頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした翌年の建久2年(1191)に伊豆へ流されてから30年ぶりに上洛する。『吾妻鏡』の記録では、10月4日に鎌倉を出発。29日には青波賀驛(大垣市青墓町)に到着。この月は小の月であったために11月1日に青波賀驛を出発したであろう頼朝上洛について次に記されているには11月5日に野路宿(草津市野路町)に到着した記録となる。大垣の西端に近い場所から南草津駅近辺まで5日も掛ったことになるのだ。時代は異なるが、織田信長は多くの饗応を受けながらも1日で岐阜城から安土城まで行軍し、江戸時代の参勤交代では彦根藩が最初の宿泊地にしていたのは大垣辺りであった。頼朝の行列はこののち、野路宿を七日午一剋(午前11時半頃)に出発し申剋(午後4時頃)に入京。つまり、例え大行列でも遅滞はないため、普通ならば1日、長くても1日半あれば進める青波賀と野路の間(帰路は12月14日に東近江市の小脇宿、翌日は旧近江町の箕浦宿、16日に小雪舞うなか青波賀)を、約3から5倍の時間をかけて進んだこととなる。

 『吾妻鏡』に記されていない5日間に何があったのか? この疑問に対しての小さな答えが彦根市大堀町の史跡が伝えてくれている。

 東山道(中山道)を小野宿から高宮宿に向かう途中、芹川の渡し辺りで急に体調を崩した頼朝は千本原の九我弥九郎宅で養生をした。

弥九郎は頼朝が回復するまで尽力し、当時流行していた地蔵信仰にも縋ろうと、多賀富之尾村の長福寺(現在の瑞光寺)の地蔵菩薩に祈願するために東山道沿いの石清水神社近くに壇を築いたとされている。この壇の跡には祠が建てられ現在では「大堀家の地蔵堂」として残っている。

 この話は、大堀家の地蔵堂に掲げられている案内板の概要を書いたものだが、案内板では頼朝に仕えたあと千本原で隠居していた弥九郎と紹介されているが、弥九郎が誰なのか? そもそも九我姓なのか久我姓ではないのか? 千本原が何処なのか? なぜ『吾妻鏡』がこのことを記さなかったのか? 謎が広がってしまう。しかし頼朝の発病については雨壺山麓の長久寺にも建久2年に彦根の風土病(マラリア)に罹患した頼朝が同寺の鎮守に祈り回復したことを喜び自ら紅梅を植樹したとの話も残っている。三日熱や四日熱とも言われるマラリアと謎の5日間、そして彦根の伝承が符合するのである。余談ではあるがこの行列には北条義時も加わっている。


大堀家の地蔵堂
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井伊家千年の歴史 追補1

2021年12月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 令和4年の大河ドラマは鎌倉時代初期に武家政権を確立した北条義時を主人公とする『鎌倉殿の13人』である。物語としては義時の姉・北条政子とその夫である源頼朝らが台頭する治承・寿永の乱(源平合戦)から始まり承久の乱が最大の見せ場になるのではないかと推測する。

 この時代の井伊家では、保元の乱に参加した井八郎、近江佐々木庄で起こった日吉社宮仕法師刃傷事件で罰せられた井伊直綱、源頼朝の東大寺供養の上洛に加わった伊井介らが名前を残しているが、実は承久の乱にも参戦しているのだ。

 承久の乱は、鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺されたのちに、後鳥羽上皇が北条義時追討を命じたことから始まった公家と武家の戦いである(異説等省略)。鎌倉幕府ではなく義時が個人的に朝敵とされてしまったこともあり武士たちは忠誠心よりも利益を優先とした参戦を考えるようになっていた。このため、近江の有力な御家人である佐々木氏が兄弟で対立、源頼朝を支えた官僚である大江広元ですら京都守護だった嫡男・親広が上皇方について親子で戦うことになる。京に近い武士たちが上皇方に加わるため、義時は軍を編成し京に向かって素早く行軍することで行軍地域の武士たちを鎌倉方に付けるしかなかった。こうして義時自身は鎌倉に腰を据えて、長男・北条泰時と弟・時房を東海道、武田信光を東山道、次男・朝時を北陸道の大将として軍を進めて行く。井伊家は新野家らと共に東海道を行軍する泰時に従ったとされているのだ。

 しかし、佐々木家や大江家の例に漏れず井伊家の分家である貫名重忠が上皇方に内通した(三日平氏の乱のときという説もある)ために安房に配流となっているため井伊家も一枚岩ではなかったのかもしれないが、泰時の軍に加わって承久の乱を戦ったのならば、美濃国摩免戸(各務原市)で戦い、近江国野路(南草津駅付近)から宇治橋で激戦を経験し伏見から京に進軍したと考えることができる。

 このときの井伊家当主の名は伝わっていないが、井伊家系図の中に九代井伊泰直という人物を見つけることができる。もしかすると戦いの中で手柄があり泰時から「泰」の字を与えられたのかもしれない。

 日本史で中世に区分される時代の始まりは公家から武家への政権交代である。治承・寿永の乱において源頼朝が他の源氏や平家・奥州藤原氏を討ち武家の頭領として公家に並ぶ地位を得た。そして承久の乱で北条義時が後鳥羽上皇に勝利し罰を与えたことによって、武家が公家から主権を奪ったのである。

 井伊家は藤原氏の血を受け継ぐ公家としての希少性で遠江西部を中心に勢力を広げながら承久の乱で鎌倉方として参戦することにより武家の名家とに転身する。これより先に様々な困難を経験しながらも、井伊家が持つ不思議な先見の明により千年の歴史を刻み続けているのだ。


承久の乱合戦供養塔(各務原市前渡東町 仏眼院・前渡不動尊)
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水と石垣

2021年11月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 令和3年(2021)の秋、滋賀県に台風被害のニュースが聞こえなかった。台風での増水を防ぐために事前に琵琶湖の水が放出されているため琵琶湖の水位低下が深刻な問題となっている。
 この反面、私のような歴史好きにとっては何年かに一度のチャンスとも考えてしまう。それが湖中史跡の出現である。長浜城の太閤井戸や膳所城の石垣そして坂本城の石垣も見逃せない。
 平成6年(1994)の琵琶湖水位低下は100センチを超えた。このとき坂本城の石垣が姿を現しニュースとなった。近年では大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀が築いた城として広く知られた城の一つであり、昨今の城ブームで無名であった城にも人が訪れるため、坂本城が話題に上ることに違和感はない。しかし平成6年の渇水時には今のようなブームとは無縁でありながら坂本城の石垣に多くの見学客が詰めかけていた。もちろん私もその一人だった。
 再び坂本城の石垣が湖中より現われたと聞き見学に行ってみた。坂本城跡の湖中石垣は本丸跡と言われている区画の東にコの字方に残るもので石垣を構成する上で重要な支えとなる根石になる。大津教育委員会の『坂本城跡発掘調査報告書』によれば南北ラインで長さ22メートル「このラインの石垣は基礎石だけではあるがすべて残存していた。残存する石材はすべて東面して構築されている」とのことであった。とくに南隅から南面が良く見学でき大きな根石と裏込石に使ったと思われる小さい石が歴史のロマンを掻き立ててくれる。
 坂本城本丸は水城であり、城から直接船に乗って琵琶湖を横断し安土城に行くこともできたが、水に沈む石垣をどのように造ったのだろうか? 水城ではなくとも彦根城の堀の石垣などでも同じ疑問がわきあがってくるかもしれない。そもそも石垣はすべて石でできている訳ではない。土塁を積んでその周りを石で固めているので水によって土塁が崩される心配も考えられる。崩れない工夫の一つは土塁と大きな石の間に裏込石と呼ばれる小さな石を詰めて、水を土塁内に留めず排水させることである。また石垣の上に建物を乗せることでその重みが石垣を安定させるコツにもなっている。そして水城や堀に面した部分、地盤が軟らかい土地に建てる城などにはもう一つ大きな工夫が施されている。それが石垣の最下部である根石の下に胴木と呼ばれる木材を敷くことなのだ。
 木材と水と考えると木に水が染みていき腐ってしまいそうなイメージがあるが、実は木材は水に沈んだままでは腐ることがない。この性質を活かした上で耐水性が強い松や椎類の角材や丸太を最下部に敷き、その上に厚い板状の胴木を重ね細かい石で補強、それから根石を並べる作業へと取り掛かったのである。
 本来ならば石垣作りに適さないであろう場所にも巨大建築を施す技術にも人の探究心を感じることができるのだ。

坂本城跡湖中石垣 令和3年11月18日撮影
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彦根城総構え400年(6)

2021年10月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 今更ではあるが「総構え」の定義は難しい。城を中心とした外郭と解釈されている。単純に考えると防衛や生活・経済が城と総合的に結び付いていて堀や土塁などで囲まれた区域である。
 中国などの諸外国の城は城下町を含み高い城壁に囲まれている光景である。これに対し日本の城は城下町の外れにしっかりとした区切りが感じられない。理由として現在は城の定義に城下町まで含まれていないために研究が進んでいないこと、明治維新から現在までの町作りで総構えの外郭である堀や土塁などが早々に壊されたことなどが挙げられる。
 そもそも、九州北部を除く日本の戦では異民族の襲来が無かったため玉砕を覚悟しなければならないような凄惨な守城戦が行われなかった立地も総構えに高い城壁を有しない結果となった。それは江戸時代においても城下町が総構えで囲まれた有限的な区域で終わるのではなく城下の外でも安全に町が拡大できたためにますます総構えを感じることが難しくなっている。
 彦根城においての総構えはどこであるのかと考えるならば、史料として『御城下惣絵図』の範囲であると考える。北は松原内湖・南は芹川・西は琵琶湖・そして東はJR琵琶湖線の少し西側までの範囲となる。
 『御城下惣絵図』は彦根城を紹介する本などに掲載されていて彦根城博物館のHPでも閲覧できるため興味がある方は調べていただきたい。そのときに注目してほしい部分は城側の外堀沿いである。ここに緑色が塗られた部分があり、堀と一緒に城下町を囲んでいる。この緑色は土塁があった場所を示し、城下町の総構えには土塁と外堀が一つの区切りであったと知ることができる。彦根城下には幸いにして土塁が残っている場所がある。以前に銭湯だった山の湯が庭園築山として使っていた場所で平成27年(2015)に本格的な調査が行われている。これによると土塁の底辺18メートル、上辺4メートル、高さ城内側5.5メートル、城外側6メートルだった。そして土塁上部は竹藪になっていたことも記録に残っている。単純に考えれば外堀の内側は十メート以上の壁に遮られていたこととなる。外堀から遠く離れないと山の上に建つ天守すら見ることができなかったであろうと想像できる。彦根城天守を目印にしながら攻め寄せる敵は外堀近くで城を意識した瞬間から目標となる天守を見失うこととなる。実はこれは外堀を突破したのちに中堀を攻めるとき、そして中堀を突破したのちも攻め手に天守が見えない不安を与える作事が行われている。
 私は隠れた彦根城ビュースポットとして城西小学校西側の本町三丁目の信号辺りを案内することがあるがこの場所も江戸時代には土塁と竹藪で天守が見える場所ではなかったのである。私たちが当たり前のように彦根市街地から見る彦根城は、江戸時代には当たり前の光景ではなかったのだ。

彦根市本町三丁目の信号から見る彦根城天守
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彦根城総構え400年(5)

2021年09月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前回、彦根城下町は彦根道から始まったと考えられることを記した。これは彦根だけの話ではなく都市計画においては当たり前のことである。しかし、時代の需要によって町の形は変わってくる。
 古代は京都市内に碁盤の目として今でも残るような条里制が主流であり、この形は都市だけではなく日本各地で痕跡を確認することができる。滋賀県内もその例外ではない。対して現代に近い時期の土地計画としては太平洋戦争後の戦後復興ではないだろうか? その象徴的な逸話として名古屋市を例に挙げたい。
 大空襲で名古屋城天守すら失った名古屋市の復興に乗り出した佐藤正俊市長(当時)は、田淵寿郎を技監に招き土木建築業務の全権限を託す。佐藤自身は前後の公職追放で市長職を追われるが田淵の仕事は継続された。まず田淵が行ったことは墓地を一か所に集めることと幅の広い道路を造ることだった。特に道路に関して見てみると、国策として公園整備も兼ねた100メートル道路が立案されていた時代ではあったが、それを除いたとしても道路幅8メートル以上を考慮した200万人都市を念頭に置いた道路計画が実行された。まだ高度経済成長期など夢にも思っていない時期に将来の車社会を見据えた道路計画は無駄とされ、田淵や佐藤は冷笑された。しかし、現在は先見の深さを高く評価されている。これに対し空襲の被害をあまり受けず江戸時代の街並みを残す彦根市では人口は名古屋市の20分の一ほどだが車の渋滞状況は場合によって酷いとも感じる(私見)。
 名古屋市は例外だが、現在の都市形成は江戸時代に遡ることができ、各都市が持つ役割が組み込まれている。彦根は譜代大名筆頭井伊家の城下町であるため物流が活発な大規模地方都市であり、旅人を監視する監視機関であり、軍事都市でもあった。
 物流は城下を通る道さえ整備できれば自然に商人がやってくる。監視に関しては「彦根城は道を通る人の顔が判別できるように道とは並行せず斜め向きに計算して築城されている」との眉唾な話を耳にするが、城下町には門や木戸を設置していて役人が常駐しているためわざわざ彦根城から監視する必要がない。絵図などを観ると城下町にも多くの門が作られていたことが確認できる。
 そして軍事都市としての痕跡は、城下の中の細い道や「どんつき」と呼ばれる急な行き止まりと「食い違い」と呼ばれるクランクの多様であった。これら全ての道が敷かれたのちに町作りが始まった訳ではなく町作りの中で必要に応じて配備されて行くのだが常に重視されていたことは間違いない。
 第一期の築城で現在の内堀より内側の築城が行われ、その堅城さは現在の城ブームでも語られる。しかし防御に適した城を戦いに使わないために城下町で敵を防ぐ工夫が考えられたのである。

彦根城下町の食い違い(彦根市本町二丁目)
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彦根城総構え400年(4)

2021年08月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 《道》は不思議である。「すべての道はローマに通ず」との有名な言葉があるように日本が記録に残る歴史を有する前から人類史の中で道は重視されていた。では道が人類の英知なのかと言えば、それは否と答えざるを得ない。動物が動く場所には目に見える形で獣道ができる。また植物が繁殖するルートも道である。極端な言い方をすれば単細胞生物が移動する行程も道と解釈できる。
 単細胞レベルでも確認できる《道》だが、一方で人類の経済活動にとって重要かつ不可欠な存在でもあるのだ。
 有史以来、人々の生活にまず道ができた。小さな村単位での生活では村の中に通る道で充分であり、生活圏が外へ広がるに比例して道も延びていく。そして近くの村の道と結ばれることとなる。今から四半世紀ほど前には史家から「江戸幕府はオランダや朝鮮などの使者に国土を広く感じさせるために街道を曲げて造らせた」との説明をよく聞いたが、実は先に個々の村々の道がありその道を無理やり繋げたことで道が無理に曲がる原因となった。地方分権であったため幕府といえども道を統一させるのは不可能だったのである。それでも五街道の制定などの国家事業を遂行させた功績は大きい。
 さて、長々と《道》の話を書いたが、戦国時代後期辺りから大名たちも道の重要性に気付くようになる。軍事道路を整備した武田信玄や楽市楽座により道を使い易くした六角定頼・今川氏真・織田信長などである。特に信長は東山道(中山道)から離れた安土に城を築くことで脇街道である下街道(現在は主に県道二号線)を現代でも使用される主要道路へと発展させた。
 城は必ずしも主要な街道沿いに建てなくても良いと信長が示した。この城下町造りは彦根城築城において発展を遂げる。安土では既存の下街道を利用したが、彦根城下町では新たな道を作っていく。第一期工事で彦根山周辺の村々を強制的に移転させ善利川の流れすら変えて生まれた広大な平地。中山道から離れたこの平地に町を造るには中山道から城下を通る道を考えなければならない。幸いにも信長の下街道が摺針峠から琵琶湖方面に結ばれているためこれを利用することとなる。鳥居本宿南端から佐和山の切通しを越えて彦根城下町に入る「彦根道」である。彦根道は下街道へ繋がり野洲宿から中山道に合流する道と、芹川の浅瀬を渡って高宮宿に入る道が考えられているがどちらにしても中山道を旅する人々が譜代大名筆頭井伊家の城下町に寄るためには中山道から外れることになる。現在の彦根市域で考えても彦根城下・高宮・鳥居本はそれぞれに経済効果があったのだ。その上で街道に大型兵器などを通させない軍事的観点から幕府は悪路を推奨した。このため旅人の殆どが徒歩である。城下町を中山道から離すだけで、彦根藩領を抜けるために数日の宿泊を行う旅行客が見込めたのである。私は彦根城完成後の町造りは、まず彦根道から始まったと考えている。

鳥居本宿南端・彦根道への石柱
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『長曽根郷土史』

2021年07月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 歴史調査に欠かせない情報として郷土史がある。
 郷土史作成は、行政が市史・町史などの編集時に協力した郷土史家の声掛けや歴史継承の危機感など多くのきっかけがあるが平成から令和へと時代が進む今は郷土史を作成する最後のチャンスであるとも言える。それは太平洋戦争を経験した肉声が聞けるタイムリミットが迫っているからである。
 2021年6月に滋賀県彦根市長曽根町歴史勉強会が『長曽根郷土史 わがふるさと長曽根の歴史』を発刊されたとのニュースが流れ私も拝読させていただいた。
 長曽根は、彦根・里根と共に「三根」と呼ばれ彦根城築城以前から栄えていた地域と言われている。「根」とは山の尾根から連なる平地に開けた土地という意味があり、「曽根」という言葉になると河川氾濫ののちにできた自然堤防の意味もある。水や土壌が豊かであることは交通の要所でもあったのだろう。同書にも掲載されている彦根城築城以前の古地図を見ても長曽根村の大きさは彦根村・里根村よりも広大であったと考えられるのだ。
 私が長曽根のことを強く意識したのはNHKドラマ『真田太平記』で長曽根村に忍び小屋が作られていたことだった。ドラマの設定はフィクションではあるが、556戸の長曽根村は、彦根城築城時に井伊直勝(直継)から周辺の村々も含めて大規模な村落移転をさせられたとの記録を読むと、勝手に石田や真田の匂いを消そうとしたのではないかと関連付けて妄想したくなってしまう。
 また長曽根には「虎徹の井戸」と呼ばれる史跡が残っている。幕末京都で起こった池田屋事件。ここで死闘を広げた新撰組局長近藤勇が使用した刀こそ長曽袮虎徹興里が作刀した物であり、他の隊士たちの刀が使えなくなる程の被害を受けた激闘でも虎徹は無傷であったと近藤が身内に送った手紙に記した。このため刀剣好きだけではなく歴史ファンに認知されている刀鍛冶に長曽祢虎徹が挙げられ、その長曽祢こそが長曽根村のことと言われている。虎徹興里には越前出身説もあり刀鍛冶として活躍した地は江戸になるが彦根城築城を境として村人の移動があったならばその中に一族が含まれていた可能性は低くない。
 時は進み明治29年(1896)。琵琶湖大洪水の被害は湖岸の町である長曽根村にも甚大な被害を及ぼす。曽根という地名の由来意味を重ねてみるならば虎徹の井戸に代表される水の恩恵も水害の被害も納得できるものなのかもしれない。この水害をきっかけに長曽根村や八坂村などの人々がカナダに移住する。それらの日系人が野球チームを作り活躍した映画『バンクーバーの朝日』に繋がるのもこの地域なのだ。
 今稿では書ききれない歴史が長曽根町にある。その歴を残そうとされた『長曽根郷土史』は市販がされていないため、興味がある方は彦根市立図書館で読んでいただきたいとのことであった。

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彦根城総構え400年(3)

2021年06月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 前稿では六左衛門が誕生する頃までの奥山家について記したので、今稿では六左衛門について書いてゆきたい。
 「国宝・彦根城築城400年祭」の頃から井伊谷での井伊家を調べていた私は、井伊直親が暗殺された後に鳳来寺山に逃れることとなった虎松(のちの直政)に同行し幼い虎松を守っていた者こそが六左衛門であったと思い込んでいた。大河ドラマ『おんな城主直虎』でも直虎が井伊家後見人となったときに中野直之と六左衛門が青年として登場する。しかし『侍中由緒帳』に「六左衛門十六歳之時直政様江被召出候」と記されている。これは直政が徳川家康に仕えた天正3年(1575)のことであり直政は15歳だった。つまり六左衛門は直政より1歳年上のほぼ同年代であったこととなる。鳳来寺山への同行も直政と六左衛門は主従関係ではあるが同時に共に幼い頃から苦楽を共にした同志であったのではないかとも考えられる。もちろん場合によっては六左衛門が直政の影武者として身代わりになる可能性も否定できない。
 天正3年(1575)、直政(虎松から万千代に改名)は小野玄蕃の息子朝之(万福)と共に徳川家に仕官する。この時点で井伊家と小野家は対等の立場であるため六左衛門が再興した井伊家初期の家臣となり、六左衛門は直政と共に歩み続ける。また中野直之の娘を正室に迎える(ドラマの2人は同年代に見えるが実は義理の親子)ことで井伊谷以来の家臣団で閨閥を作る。この行為は祖父朝利と同じ政治感覚を見ることもできる。
 関ヶ原の戦いでは侍大将として戦い、大坂の陣にも参戦した六左衛門は彦根藩内で二千石の所領と中老の地位を与えられ、藩祖直政の外戚としての家格も得た。
 元和の彦根城築城二期工事で六左衛門が総奉行に任じられた大きな要因は、再興井伊家最古参の重臣であったためと推測する。工事中の六左衛門に対して目に付く逸話が残っていないことからも工事を円滑に進めるための無難な責任者であったのだと推測できるのだ。
 藩の期待通り無事に工事を終え、7年後に六左衛門は亡くなる。その後奥山家には不幸が続き七百石まで減封となるが、明治維新まで家を残すのだった。
 時は流れ昭和の頃、京都に「おく山」を号とする店が記録されている。祇園の御茶屋と平安神宮近くの旅館である。御茶屋おく山で育った奥山はつ子(奥山初)が祇園を去った後に営んだのが旅館おく山であったらしい。「はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する美人」と女性を観ることに長けた谷崎潤一郎が『京羽二重』(『谷崎潤一郎全集』中央公論新社)に書いている。そして同作の中ではつ子自身が「自分の親たちは彦根の生まれで井伊家の一族である」とも話している、はつ子は六左衛門が先祖であることを他でも話していて、谷崎文学の読者に奥山の名を記憶させる一翼を担うのだ。

奥山家墓所(ただし六左衛門の墓石はない)
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彦根城総構え400年(7)

2021年05月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2022年は彦根城築城第二期工事が終了して400年の記念年。彦根城総構え400年であることから昨年より総構えに関わる話を記している。あるとき「昔の城下は職業ごとに集まった町ができていたと聞きますが、同じ職業が集まると不都合の方が多いのではないですか?」との質問を受けた。

 歴史的に当たり前と思っていたことが、現在の常識から外れていることもある。と、私が思い知らされた瞬間であり城下町に関わる大切な事項であるためこの機会に紹介してみたい。

 城下町において同じ職業の人々が集まり、彦根城下でも「鍛冶屋町」「桶町」「左官町」「八尾屋町」「魚屋町」などを見ることができる。この中で「鍛冶屋町」「左官町」などの職人が住まう地域は協力して大きな仕事を行うときに便利であるとも考えられるが、商人たちはどうであろうか? 例えば「魚屋町」と聞いて現在の感覚を重ねるならば何軒もの魚屋が店を並べてそれぞれに客を迎えるイメージではないだろうか。こうなると立地・値段・鮮度・珍しさなどを売りにして店同士で生き残りを賭けた激しい争いが起こすことになると想像してしまう。魚屋町は彦根城下に「上魚屋町」と「下魚屋町」があり、現在の彦根市本町二丁目(上魚屋町)と城町一丁目(下魚屋町)の辺りだった。この範囲で40軒近い魚屋があったとされているのだ。普通に考えるならばその40軒が城下町の方々に散った方が各店で繁盛すると思われる。なぜ一か所に集まっていたのだろうか? この答えには私たちの常識を壊す必要がある、それは江戸時代初期に店舗という考え方がなかったということである。

 「店」はもともと「見世」が語源であり、室町時代に大きく発展した市で筵などに商品を並べて見せて販売する形だった。市は八の付く日(八日市)四の付く日(四日市)など一か月に数日だけ開かれるだけであり商人は行商が基本的なスタイルだったのである。特定の場所に店舗を構えて日常的に商品の販売を行えるようになるのは18世紀初頭の元禄文化まで待たねばならない。それまでは商売をする人々が必要な物を持って声をかけながら歩き回っている。朝食の時刻に合わせるように納豆売りや魚売りが長屋近くを通り、夜になると落語でよく登場するような屋台のそばやうどん、江戸では日中に寿司屋や天ぷら屋も出ていたが彦根城下ではどんな屋台が出ていたのかいずれは調べてみたい課題でもある。

 魚屋町で店を構えて来客を待った訳ではなく、各地から仕入れた魚が行商によって城下町に広がって行くのである。彦根藩では魚市が行えるのは上下の魚屋町に限られていた。現在の感覚で考えるならば魚屋町という卸売市場に魚が集まりキッチンカーで調理販売されていたということになるのかもしれない。これが業種ごとに存在したのである。


旧魚屋町への案内石柱(彦根市本町二丁目)
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