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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

徳川家康と卯年

2023年01月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2023年の卯年が始まった。現在では十二種の動物をメインにした「十二支」ばかりが注目されているが、以前は古代中国からの思想である「十干」を加えた「干支」が重視されていた。十二と十の最小公倍数である六○で干支がひと回りするために、我々も60歳で生まれ変わるという思想が誕生し、満60歳(数え61歳)を「還暦」として祝うのである。これを踏まえると2023年の干支は「癸卯」になり、五行では「相生」と呼ばれ、順送りに相手を生み出す年とされている。そんな年に大河ドラマ『どうする家康』が始まった。

 徳川家康の幼少期をあまり描かずにいきなり桶狭間の戦いがメインに語られたことに賛否もあるようだ。しかし私が驚いたのは「寅の年、寅の日、寅の刻」生まれであることが伝説として伝えられていた家康が、実は卯年(癸卯)生まれであるという説を採用していたことである。
 家康が卯年生まれだったのではないか? という説は古くからあった。有名な話では、家康が征夷大将軍の宣下を受けたときに自らの年齢を61歳と記したことである。家康が征夷大将軍に任ぜられた慶長8年(1603)は卯年であり、寅年生まれであるならば家康の年齢は数えの62歳になるはずである。  
 当時の家康の実力ならば寅年で還暦でもある慶長7年に将軍宣下を受けることもできたであろう。なぜ慶長8年だったのか? その答えとして、実は家康が卯年生まれではなかったか? とされていたのだ。

 実際に家康はウサギを好んでいる。

 本誌では謡曲『竹生島』に絡む波乗り兎を小太郎さんの記事で紹介されることがあるのでご存じの読者様も多いと思う。その竹生島紋様を家康が羽織に使っていたことも知られている。また竹生島に残る大坂城極楽橋の遺構も家康の寄進による物であった。

 私たちは、ウサギは弱々しく可愛い動物だとイメージしているが、戦国時代には兜のデザインにも使われていた。大きな耳で情報を素早く聴き取り、高く跳ねて、早く走る。そして後ろには引かず常に前に向かって進むのがウサギだと信じられていた。また月の神の加護があるとも信じられていたのである。
 海を渡るウサギと言えば昔話の『因幡の白兎』を思い浮かべる方もいらっしゃるだろう。彦根市下稲葉町の稲葉神社には石灯に波乗り兎が刻まれていて、これを「稲葉の白兎」として昔話に批准する説もある。波乗り兎なのか? 昔話の舞台なのか? 卯年だからこそそんな歴史の浪漫に触れてみては如何だろうか?

 さて、癸卯の年に生まれた徳川家康は、癸卯の年に征夷大将軍の宣下を受けた。そして癸卯の年に大河ドラマとして一年中注目されることになる。徳川家康は「どうする」と問われ「どうしよう」と悩みながら令和の私たちになにを生み出してくれるのだろうか。


稲葉神社(彦根市下稲葉町)の波乗り兎
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彦根城総構え400年(13)

2022年12月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根市内で古くから紙業を営む正木屋商店で見つかった安政2年(1855)古文書を紹介したい。

  覚
 一 三人扶持
 一 大御紋上下 一具
 一 銀子    三枚 
        河原町
          猪助
 右者紙類渡世致し居、相応取続来候付、御国恩為冥加金弐百五拾両永上金并渡漉紙一本指上度旨願出候付、願之通申渡候、右様願出候儀ハ寄持之事二付、件之通年々御扶持方并為御褒美、右之御品被下置候間、存其旨可被申渡候、以上
卯十二月 庵原助右衛門印

 庵原の名前のあと、「在江戸」として木俣清左衛門・長野伊豆・新野左馬助・岡本半助・三浦内膳、「在京」として脇五右衛門・中野小三郎の名前が記され、町奉行衆以下八つの役職に宛てて書かれた旨が記されていた。この古文書は「御拝領 御証文 同白銀 三枚 安政三年辰正月 正木屋猪助」と書かれた箱に入っていたらしい。銀はすでに入っていなかったとのことではあったが、安政四年一月(孟春)に井伊直弼から吉田(御馬役吉田清太郎か?)という人物を通じて猪助に盃が渡されたと考えられる記録も出てきた。

 古文書の内容を少し読み解くならば、河原町に店を構える正木屋猪助が、彦根藩が領内を治めてくれている国恩に報いるため、二百五拾両お冥加金を毎年納めるという申出を行ったところ、そのことは少数の者が勝手に受け入れを決定できないので、(藩主の命で)家老衆が町奉行らの役職の者と協議する旨を記し、その際に猪助に対して三人扶持などの褒美を与えることも踏まえた形で伝えている。実質的には藩主の意向を家老たちが連名で伝達した事後確認であったと考えられ、卯(安政2年)12月にこの古文書の原本が庵原から出され翌3年1月に猪助に白銀などが渡され猪助がこの古文書である覚(写し)と箱を作成、その翌年(安政4年)に井伊直弼からの杯が贈られたと考えられる。
 この古文書を私に見せてくれた正村圭史郎氏によると、「正木屋は享保年間に開業し、明治維新のあと高宮宿から河原町に移転したと思っていたが、安政年間には現在の場所に店舗を構えていたことがわかった。また彦根城下では元禄年間に7店、安政年間に2店の紙業があり、安政年間の2店のうちの1店は正木屋であることも確実になり、もし元禄年間の1店が正木屋であったなら開業時期が早くなる可能性もある」とのことであった。

 元和8年(1622)の彦根城総構え完成から400年を迎えた2022年もそろそろ終わろうとしているが、まだまだ陽の目を見ない面白い史料が眠っている可能性は高いのだ。


正木屋猪助の古文書
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彦根城総構え400年(12)

2022年11月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本史においての貨幣の歴史は、近江朝で作成された無文銀銭、683年頃に鋳造された富本銭、その15年後の和同開珎などの鋳造が分かっているが、国内で大量に銭が使用されるのは中国からの輸入銭に頼ることとなる。特に平清盛や足利義満は銭を多く輸入した。

 戦国時代から安土桃山時代、西日本は貨幣経済が主流になっているが、関東より北では伊達領など特定の大名領以外では物々交換が行われていたが、豊臣秀吉の天下統一によって全国で貨幣が使用されるようになった。しかしその中でも統一した貨幣が使用された訳ではない。西日本では南蛮貿易が盛んで銀山も多かったため銀を中心とした銀本位制が採用されていて、金は大判の金貨が恩賞代わりに使われていた。逆に金山が多い関東を領していた徳川家康は小判を鋳造し東日本に金本位制を広げて行く。これが江戸時代に入っても継承され、日本は一つの統一国家でありながら江戸中心の「金(単位:両)」と大坂中心の「銀(単位:匁)」そして庶民が日常的に使用される「銭貨(単位:文)」の三種類の貨幣が同時に使用されていたのである(三貨制度)。この東西の金銀の交換を行っていたのが両替商であり両替の手数料が三割程度だったため三井などの両替商が豪商へと育ち財閥を築く基となる。江戸後期に田沼意次がこの三貨を統一しようとしたが田沼時代の終焉と共に失敗に終わっている。

 日本のみではなく世界においても貨幣は金でも銀でも銭でも貨幣そのものが額面通りの価値を持つ物質だった。この常識を打ち壊した象徴的な貨幣が紙札(紙幣)である。紙に印刷するだけで貨幣として通用する紙札制度を安定させるには発行元の信頼が高くないとならない。しかし江戸時代の日本では寺院や各藩によって紙札が発行されるという稀有な環境を生み出しているのだ。

 日本での紙札は室町時代に伊勢神宮の祈祷師が発行した山田羽書から始まると言われているが、確実に確認できるものは江戸初期のものとされている。その後、大坂商人が銀札(銀の価値を記した紙札)を使い始め、寛文元年(1661)に福井藩が紙札を発行するに至って「藩札」が誕生した。藩札は徐々に全国に広がるようになり各藩領内での通貨となって行く。場合によっては近隣藩でも使用できることもあった。

 彦根藩でも藩札は発行されている。領内では藩札の使用が推奨されていたとの話も耳にした。藩札は現在の地域通貨以上に価値があり流通していたと考えられる。彦根藩札をはじめとする藩札についての研究はまだ進んでいないため不明な点が多いが、城下町では現代の私たちが紙幣と小銭を使っているように藩札と銭貨が流通していた可能性もあるのだ。

また、藩札などは偽造防止のためデザイン性にも優れていて見ているだけでも楽しい物でもある。


左:彦根藩札 右:大徳院札(共に筆者蔵)
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彦根城総構え400年(11)

2022年10月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩領の町医者について前稿で紹介したが、彦根藩領出身の医者たちは日本医学史にも功績を残している。

まず挙げられるのは産科医の賀川玄悦である。日本史において大きな問題とも言える事項の一つに出産についての理解が低かったことである。資料などを読み込むと出産に対して用意される産室や産所の環境や衛生面について疑問を持たざるを得ない場面は多くある。そもそも日本では妻が出産したあとに「産褥の穢れ」として夫が数日間仕事を休むという習慣もあったのである。そんな中でも、江戸時代に入って妊娠を医療の対象と考えて研究される動きも盛んになってくる。賀川玄悦は元禄13年(1700)彦根藩士三浦長富の庶子として生まれたため家禄を継ぐ可能性は低く母の実家に所縁のある賀川姓を名乗る。鍼や按摩を学び医学を修めるために京に上る、玄悦は産科を志したわけではないが近所の女性の出産を助けたことから評判をうみ、独学で産科を研究するようになる。この頃は日本だけではなく世界でも子どもは母胎の中で頭を上にして育ち出産直前に頭を下にすると考えられていたが玄悦が母胎内の胎児の頭が下向きであることを明らかにする。産科器具も研究し産科鉗子を発明している。玄悦は徳島藩医として登用され賀川流産科の祖となり、この功績から大正8年(1919)従五位を追贈されている。

 注目すべき彦根藩領出身の医者として岡崎仲達・文徳兄弟も紹介したい。岡崎兄弟は平田山において行われた腑分け(人体解剖)に参加してその記録を残した人物である。腑分けは江戸後期辺りからよく行われるようになる。宝暦4年(1754)京都所司代の許可が下りたため山脇東洋が幕府に仕える医者として初めて腑分けを行い5年後にその記録を『臓志』という本にまとめる。この本はそれまで信じられていた人体の構造を否定するものであり大きなうねりを医学界に持ち込み、東洋が初めて腑分けを行った20年後には杉田玄白らによる『解体新書』発刊まで発展し続けることとなる。余談ではあるが山脇東洋の山脇家は近江国浅井郡山脇村(長浜市湖北町山脇)から出た家である。

 東洋や玄白が立ち会った腑分けは、処刑された罪人の体を切り開いたものであった、罪人の首は晒されるため首が無い状態での記録だった。『解体新書』は基となる洋書があったため頭部の記録もしっかりと掲載されているが、この本に触発されて各地で行われた腑分けの記録にも頭部の記載は稀である。しかし寛政8年(1796)6月24日に彦根藩で処刑され、平田山で腑分けされた様子を岡崎兄弟が記した解剖図『解體記并圖』では、頭部までの腑分け記録が残されていると『日本医学史』第62巻第2号(2016)で佐藤利英氏と樋口輝雄氏が記している。私は未見であるが彦根藩での腑分け記録に大いに興味が湧いている。


腑分けが行われた平田山(現・雨壺山)
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彦根城総構え400年(10)

2022年09月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
江戸時代中期以降、一番先進的であったのは医者ではないだろか? 徳川吉宗が医学書に限って洋書が日本に入ることを認めたために蘭学と呼ばれる分野が日本中に広がるようになった。この影響で西洋の医学書を読もうとする意欲も高まり、杉田玄白(小浜藩医)や前野良沢(中津藩医)らによって『解体新書』が刊行されるなど、医者が蘭学者であることは歴史の必然であり、幕末の日本を動かした人物にも医者は多く存在したのだ。彦根藩でも藩論が勤王へと変わる大きなきっかけを作った下級藩士による至誠組の存在が欠かせないが、至誠組を率いた谷鉄臣の生家・渋谷家も町医者であったことを私は重視している。

 ただし医者がすべて蘭学者であったわけではなく漢方など日本古来の医療に精通している者も多くいる。彦根藩でも諸説あるもののだいたい30家近くが藩医として召し抱えられていたとされていて彦根藩では医療技術の高い人物を登用すると共に藩校稽古館(弘道館)に医学寮を設置して藩医養成にも力を入れていたとされている。

 彦根藩医として召し抱えられた人物として特に名が知られているのは、河村文庫を残した河村純碩と養子・純達である。純碩は近江国内で複数の医者に学び町医者として開業。評判が良かったようで彦根藩内で藩主一族など要人が病に倒れ藩医のみでは判断が決まらないときなどに藩からの要請で診断に加わっていた。弘化元年(1844)彦根藩に二人扶持で召し抱えられることとなり翌年には「御医師並」となり苗字帯刀を許されたことを皮切りに次々と出世、「一代切奥御医師」(純達が正式に奥御医師に就く)となり五十石の知行地を得ている。町医者でも彦根藩士として重要な役職に就き知行を得ることができるという一例を示しているのだ。なお純碩は井伊直亮(十二代藩主)の死病を診て記録を残していて彦根藩主の最後を知る重要な記録となっている。また純達の代には弘道館医学会頭御用懸となり河村家は藩医育成にも影響を示したことが伺える。

 河村純碩の例を見るように、場合によっては立身出世もあり得る医者だが、藩領内の百姓が医者になるときに現在では考えられないような理由が存在していた。『新修彦根市史』第二巻には、『文政十二年に高宮の医師周蔵が作成した弟子証文では、弟子の勘平が「病身者」で「御百姓業」を務め難いので医業を行うとのべられている』と紹介されている。つまり藩の貴重な生産者である百姓から医者に職替えをするために、医者でありながら病身者であるという理由が書かれるという矛盾した理由付けが行われたのだ。日本における形式主義の可笑しさを極端に示した例ではないだろうか?

 そんな冗談のような話もあるが、患者自身が自ら医者を選んで通っており、現代と変わらない姿がうかがえる。


谷鉄臣屋敷跡碑(彦根市京町三丁目)
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井伊家千年の歴史 追補2

2022年08月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2015年8月25日、井伊直虎を主人公とする『おんな城主直虎』の制作発表が行われた。この日は直虎の命日前日でもあり私は知人と共に今後の活動について語り合った。

 私たちが早い段階で行ったことは翌年に井伊直虎命日法要を行う企画を井伊谷龍潭寺に持ち込むことであった。「国宝・彦根城築城400年祭」のとき彦根市が彦根藩主十四代をメインとして井伊家を紹介していたため、その前を知ろうとのことで井伊谷井伊家六百年を集中的に調べ、400年祭の3年後には井伊家初代共保公誕生1000年を迎えることも念頭に置いて活動していたため、大河ドラマ発表時には必要な情報が整理できていた。このことは直虎の命日がすぐにわかったことや私がここで記し続けて書籍化された『井伊家千年紀』にも繋がる。

 こうして私たちの小さな企画を井伊谷の方々がしっかりとした形ある大きな行事に昇華され、大河ドラマ放送前年に1回目の井伊直虎命日法要が行われたのである。

 天正10年(1582)8月26日、3か月弱ほど前に起こった本能寺の変で井伊家が仕える徳川家中だけではなく世の中が大いに混乱している中、井伊直虎は龍潭寺山門近くの松岳院で生涯を閉じた。松岳院は今川氏真の命で井伊家が所領を失ったあとに直虎と母・祐椿尼(新野左馬助の妹)が住んでいて、こののちに直虎が龍潭寺住職で大叔父・南渓和尚と図って井伊家再興を進めた拠点の一つとも言える場所であった。井伊家の娘として生まれ井伊家の滅亡と再興を見続けた直虎の最後には相応しい場所であったかもしれない。その功績は広く語られることはなかったが、『井伊家傳記』など井伊家の伝記に次郎法師の名で記され、少ないながらも井伊家に関わる場所での記録が残ること、また井伊家の後継者である虎松(井伊直政)の教育と仕官について尽力したことなど井伊家には欠かすことができない人物であったことは間違いない。

 しかし母・祐椿尼の死後、「直虎」という男名も「次郎法師」という井伊家総領の名も捨てて「祐圓尼」という尼僧の名を南渓和尚に与えられたことで、直虎は井伊家総領という重責から解放されたのかもしれない。そうならば大河ドラマが放送されるまで、井伊家を救った人物でありながら静かに歴史に埋もれていたことは直虎の意向に適っていたのではないかとも思えてしまう。

さて、7回目を迎える2022年の命日法要は、井伊直虎が亡くなって440年の区切りとなる。この記事が掲載されるときにはすでに命日法要は終わっているが、例年通りであるならば寺内と墓前で手を合わせて焼香をすることができたであろう。10年後には450年を迎える。それまで同じように命日法要に参加できるのか私自身のことはわからないが、でき得る限り8月2日に井伊谷龍潭寺へ行き、直虎を始めとする井伊家の御霊に手を合わせたいと思っている。


2016年1回目命日法要の様子(井伊谷龍潭寺)
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彦根城総構え400年(9)

2022年07月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本人の識字率は世界最高基準である。当たり前のように文字を読み文字を書く、ひらがな・カタカナ・漢字場合によってはアルファベットでも自由に使いこなしている。日本で住んでいると文字が読めないという環境がなかなか想像できないが、少ない割合とはいえども日本で文字が読めない人もいらっしゃる。そして世界に目を向ければ識字率の向上こそが大きな目標ともいえる。字を読んで理解するだけでも不利益を回避できることが多くあるからである。

 では、なぜ日本の識字率が高いのであろうか? その答えの一つに寺子屋がある。寺子屋は江戸時代中期辺りから全国に普及した初等教育施設である。始まりを遡ると室町時代に寺院で学問指導を行ったことではないかとされてきたが、近年の調査で奈良時代にも民間教育施設の痕跡が見られる発見があり、日本では想像するよりも古い時代から民衆の間でも文字を使う習慣があったとも考えられている。しかし日本国民の学問水準を飛躍的に向上させるのはやはり寺子屋であろう。

 江戸時代中期から徐々に増え始めた寺子屋は幕末には教育内容によって多彩な寺子屋が登場した。庶民として最低限の「読み(読書)書き(手習)そろばん(計算)」を教育する場から商人になるため、職人になるためなどの現在の専門学校に近い施設、女性の教養を教える施設もあったのだ。これに応じるように教師も武士・僧侶・職人・女性と多彩化して行く。基本的には六・七歳から十代前半までの子どもが朝から昼過ぎまで師の下で指導を受けるが現在のような授業方式ではなく生徒が個々に自らの学習を進め、師がそれぞれの能力に応じて個別指導を行っていた。このため、師弟の関係は生徒が寺子屋を卒業した後も続き一生の付き合いだったとされていて、師が亡くなったあとに生徒たちが師の遺徳を忍んで筆子塚と呼ばれる顕彰碑を建立し、歴史の中で忘れ去られる恩師の名を少しでも残したいと願った生徒たちの熱意が現在まで伝わってくる。

 さて、彦根藩領での寺子屋教育について詳細は公には知られていない。寛政8年(1796)井伊直中が12名の寺子屋師匠を召しだして「手跡指南職」として株仲間の制度に組み込む。指南職たちが管理した手跡指南所は幕末には9か所に減る。その9か所のひとつとして花しょうぶ通り商店街に残る寺子屋力石がある。手跡指南職の一家である力石氏が代々残してきた史料は現在滋賀大学経済学部に収蔵されていて時折調査報告がなされている。この調査が進むことで彦根藩領における寺子屋教育の実情が明らかになることを期待したい。 

 幕末、初代駐日米公使タウンゼント・ハリスは日本人の女性や子供までもが読書を楽しみ手紙を交換している姿を見て驚嘆し、日本を英語教育で植民地化しようとした方針を断念したとも言われている。


街の駅・寺子屋力石(彦根・花しょうぶ通り)
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彦根城総構え400年(8)

2022年06月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 地域外からの友人を彦根に招いたとき、「彦根名物を食べさせて欲しい」と言われると私は大いに悩んでしまう。紹介できない名物がない訳ではないがそのほとんどは彦根藩領で収穫されたものを使った名物であり現在の彦根市域から考えると近隣地域の食材を使用した料理ではないだろうか? 

 私はこれを踏まえて「彦根城下は今でこそ情緒ある地方都市だが、江戸期は現在の名古屋のような大都市であったため、生産地ではなく消費都市だった。そのため彦根藩領内外から運ばれた材料を使って消費される形になっている」と話すことが多い。もちろん城下町から離れれば農業も行われているが、譜代大名筆頭である彦根藩が最初に求められる生産は米であったことも忘れてはならない。これを踏まえて彦根藩領の特産物を元禄期の『淡海録』(滋賀県地方史研究家連絡会 翻刻)から読むと「多賀牛房・佐和山松茸・彦根長曽根おくて餅米・ひこね京橋うなぎ・松原海老・磯山うづら・中藪芹・米原小豆・醒ヶ井餅・摺針峠餅・ほうづき村大根・浅妻はす魚・平田瓜・青山せんちゃ・太平寺そば・神田上々黒大豆・伊吹からみ大根(常ノ大根二非ズ蕪ノナリに似テ)・独活(ウド)・山葵・小谷山松茸・雨森納大豆」などが記されている。佐和山や小谷山といった古城址で松茸が収穫できたのが偶然なのか籠城に備えてアカマツを植えていたのか? と、新たな疑問も頭をよぎったがそれは機会があれば調べてみたい。ただこれらの自然の恵みが彦根城下の人々の食卓にのぼることもあったのだろう。また湖魚や鮒寿司、八坂鴨も彦根名物として挙げられる。しかし、ここに牛肉と小泉紅蕪や彦根りんごを加える程度で彦根名物は明治維新まであまり変わらない。

 江戸後期から明治維新にかけて西国の外様大名が大きな活躍をする。その要因として潤沢な資金力があったことを忘れてはならない。教科書などでは外様大名らが謀反を起こさないように辺境地に転封させ幕命で普請などをさせたり参勤交代をさせたりして資金難に陥らせていたと言われてきた。ただし幕府が基準とした収穫量を表す石高は関ヶ原の戦いの頃から変わっていない。京都に近い地域での新田開発はほとんど終わっているが薩摩藩や長州藩などの辺境地域は未開発の地も残っていた。彦根藩など譜代大名の領国は藩政期の収穫に大差はないが地方には新田開発の余力はある。そして石高に似合った収穫さえ望めれば後の土地は何を作っても良いのである。米以外の風土に合わせた特産品の栽培が各藩で密かに推奨されると、食べ物が増え人口も増え、農作物以外の産業を行う余裕も生まれる。日本各地の伝統工業の殆どが江戸中期以降に発展し日本中に広がって行った。その資金が藩の経済を支えたのであった。その面では江戸初期から大きく石高が変わらず消費都市だった彦根藩を地方の大名が200年以上かけて追い抜いて行き、現在に繋がっているとも考えられるのだ。


彦根りんご(令和3年7月撮影)
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二階堂氏と甲良町下之郷

2022年04月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は東国武士の物語が中心であるため関連する話はあまり書けないと思っていた。しかし所縁の地訪問やドラマ視聴時に気になったことを調べて行くと紹介したい事柄が湧き出てくる。今稿もそんな話である。

 源頼朝が鎌倉殿と呼ばれるようになり、東国で武家政権の足固めを築き始めた頃、京の公家から頼朝との縁を頼って東下りをし、鎌倉政権に組み込まれ官僚として活躍を始める人物も現れるようになる。のちの「十三人の合議制」に選ばれる中原親能・大江広元・藤原行政、そして京都から鎌倉に情報を送っていた三善康信である。今回はこの四人の中から藤原行政に注目したい。

 行政はもともと工藤姓を称し、ある系図によれば行政の曾祖父・工藤維兼の弟・維弘の子・周時が井伊家に繋がると伝えている。行政の父・工藤行遠は遠江国司を殺害し尾張に流されたと言われていて、ここで熱田神宮大宮司・藤原季範の妹を妻に迎え、生まれた子どもが行政だった。そして季範の娘・由良御前は源義朝との間に頼朝を生む。つまり頼朝は行政の母方の従甥(いとこの子)ということになり、血縁としても鎌倉にとって重要な人物でもあったと考えられるのだ。行政はそのような期待に充分こたえられるだけの成果を残し、奥州藤原氏討伐後に奥州合戦の犠牲者を慰霊する永福寺を頼朝が建立したときにこの近くに邸宅を構えることが許されたとされている。

 永福寺は当時の寺院建築には使われていなかった二階建ての本堂が用いられ、その珍しさから二階堂と呼ばれていた。このため行政も「二階堂殿」と呼ばれることが増えたと考えられる。このことから子どもの代から二階堂姓を名乗るようになった。また行政は、頼朝から絶大の信頼を得ていた大江広元と並ぶ政所別当を任されるようにもなり、頼朝没後には十三人の合議制に参加するが、源頼家幽閉後辺りに息子に跡を譲って政治の表舞台から引いたと考えられている。その頃に岐阜城の前身となる稲葉山城を築城したとの伝承も残っているが、なぜ行政が築城しなければならなかったかは謎であり資料も乏しい。

 藤原姓を使い続けた行政に対し息子は二階堂姓を称し、嫡男・行村は武官、次男・行光は文官として鎌倉幕府を支え子孫たちも鎌倉幕府の要職を歴任する。特に鎌倉幕府滅亡時に政所執事を務めていた二階堂貞藤(道蘊)は「朝敵の最一、武家の補佐」とみなされ、朝廷に嫌われて甲良町下之郷の二階堂宝蓮院で寓居させられたが、その能力が必要とされて建武政権に登用される。しかし北条時行が起こした中先代の乱に加担したと判断され六条河原で処刑されたのだった。

 二階堂宝蓮院は、織田信長によって破壊され本尊阿弥陀如来坐像は安土城下の浄厳院に移されるが、ご本尊様がどうしても元に居た場所を向いてしまうため、下之郷に向いて浄厳院が建立されたと伝わっている。


二階堂法蓮院址(甲良町下之郷)
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曾我時致の子孫の城

2022年03月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 鎌倉幕府成立から間もない建久4年(1193)5月28日、幕府を揺るがせる大きな事件が起こった。工藤祐経暗殺事件、後の世に『曾我兄弟の仇討』として『忠臣蔵』『鍵屋の辻の決闘』と並んで日本三大仇討の一つに挙げられる出来事である。

 事件の詳細は複雑であるためここではあまり紹介できないが、かいつまんで記すならば、北条義時や政子の外祖父である伊東祐親が、養父(実際には祖父)の子で義兄となる工藤祐継が没したことを利用し、祐継の子・工藤祐経に娘を嫁がせて後見人となりながらも、経祐を京へ向かわせて平家に仕えさせたのだった。祐経は京で六年間を過すが、その間に祐親は祐経の所領を奪い娘も離縁させてしまう。これを知った祐経は祐親を訴えるが、平家に対しての裏工作を行っていた祐親が勝利し祐経は浪々の身となる。元安2年(1176)祐親は狩りを催し、その最中に祐経が放った二人の郎党に襲われる。祐親は無事だったが嫡男河津祐泰が命を落としたのだ。

 こののち、源頼朝と対立した伊東氏は没落、祐親も頼朝に殺され、それと反するように京で教養を得ていた祐経が頼朝に重用されるようになる。ここで問題となるのは祐親の代わりに殺された形になった祐泰に息子がいたことであった。まだ幼かった二人の息子と祐泰の死後に誕生した男児は母が曾我祐信に再婚し「曾我」姓を称するようになるが、源氏の世になっては伊東祐親の嫡孫に風当たりは強く、祐経は源義経の愛妾・静御前が鶴岡八幡宮で義経を想って舞った舞台で鼓を打って合わせられる程の文化人でもあったため頼朝の信頼が厚く、祐泰の二人の息子は祐経を仇と狙いながらも実行は難しかった。

 しかし、兄弟の弟の元服に際し北条時政が烏帽子親になり時の字を与えて「時致」と名乗らせるなど反工藤祐経勢力が曾我兄弟(曾我祐成・時致)に味方し、祐泰殺害から17年が過ぎた建久4年に、頼朝が富士山の裾野で行った狩りの最中に祐経は兄弟に討たれたのだった。曾我兄弟の兄・祐成はその場で討たれ、時致は頼朝の命も狙ったために本陣近くで捕えられ祐経の息子犬房丸の家臣に斬られている。

 この曾我時致は19歳で斬られたのだが、その孫が承久3年(1221)の承久の乱では北条軍に属し宇治川の戦いで討ち死した曾我祐重とされていて、この功績により息子祐盛に犬上郡久徳郷曾我の地頭職が補任され同地に曽我城が築城されたと伝わっている。現在では多賀町木曽の曽我城跡地付近に曽我神社が建立され『多賀町史』によれば配祀神に曾我祐成と時致(時宗)も祀られている。しかし19歳で亡くなった時致に29年後戦に出られる孫がいた可能性は極めて低く、系図を調べると「祐信―祐綱―祐重―祐盛」との繋がりがあるため、多賀曽我城に関わる家系は曾我兄弟の養父の子孫とも考えられるのだ。


曽我神社(多賀町木曽)
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