彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

揺れる近江(1)

2023年10月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 日本列島は世界有数の災害大国である。特に地震に関しては顕著である。そもそも日本列島は地殻変動によって形成された土地であり、例えば多賀町山間部で海洋生物の化石が発見されるのもその場所が昔は海であった証拠でもある。

 日本列島近郊には四つのプレートがあり、日本はユーラシアプレート・北米プレートにのっているが、すぐ東の太平洋には太平洋プレート・フィリピンプレートがあり、ユーラシア・北米プレートの下に潜り込んで行く。この境界部分に深い溝ができ「海溝」となっているが、ここではユーラシア・北米プレートの端も巻き込まれるように沈んで行き、やがて沈んだ境界部分が元に戻ろうとする反動が大地震の原因となる。これが南海トラフ地震の要因である。日本史における地震災害で規模と発生頻度が高いものは南海トラフ関連であることは間違いなく、現在でも大規模地震発生で一番警戒されているものが南海トラフであることは、確実に大地震が起こると周知されているからなのだ。

 しかし、日本には地震を起こす原因となる「断層」が縦横無尽に並んでいる。しかもまだ未発見の断層もあると言われているため、日本で地震が起らない安全な場所はないとされているが、せめて歴史からどの地域に地震が起こったことがあるのか? を知ることは防災や減災にも繋がるのかもしれない。今稿からは近江やその近郊の地震を見て行くことにする。
 まず滋賀県の象徴でもある琵琶湖の成り立ちから考えてゆく。定説では400万年前に琵琶湖の始まりとなる湖が今の三重県伊賀市で誕生した。古琵琶湖群と呼ばれる幾つかの湖や沼地のひとつである「大山田湖」と呼ばれる古湖の跡地にはゾウやワニの足跡が残る化石も発見されている。ここから甲賀市辺りを通り現在の場所まで移動したと考えられていて滋賀県の地図を見ると、鈴鹿山脈と信楽高原に挟まれた地域で国道307号線に似た経路で移動の痕跡を残している。この移動によって滋賀県内には細かい断層が作られたとの説もある。

 さて、日本史上最初の地震の記録は『日本書紀』に記載されている。允恭天皇5年7月14日(416年8月23日)遠飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)で地震が発生した。このとき先帝・反正天皇の遺体を仮安置する「殯(もがり)」の最中であったため允恭天皇が使者に殯宮の様子を見に行かせると玉田宿禰という人物が殯の任を軽視し酒宴を開いていたことがわかり、宿禰を討ち取ったとされていて地震の原因が先帝の怒りであると思われていたことがうかがえる。この地震の規模はわからないが人々にとって大地の揺れは恐怖の対象であったようだ。近江での記録は残っていないが、先帝の怒りと解釈されたならば大きな地震であったはずであり、近江でも揺れを感じたのではないのだろうか?


大山田湖の足跡化石(伊賀市平田 せせらぎ運動公園内)
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関東大震災から百年(後編)

2023年09月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、小田原沖を震源とする大地震によって関東各地で街が次々と瓦礫と化してゆく。

 当時の庶民の財産は少ない。行李に入るくらいか風呂敷で包める量、多くても大八車一台で足りるため人々は荷物を持ったまま安全な場所に避難したが、瓦礫のあちらこちらで火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となった。「火事と喧嘩は江戸の華」との言葉があるように江戸を発展させた東京は私たちの想像以上に火事対策に優れた町であり、火事のときに避難所となる広大な火除け地も点在していた。庶民はこの火除け地に集まり油断したところに大火の火の粉が降り注ぎ持ち込んだ荷物が燃える、そこに風が吹き竜巻を発生、人々はなす術なく犠牲となった。関東大震災の死傷者は火災によって拡大したのだ。
 このような大災害ののちに起った二次被害や流言による悲劇などを調べて行くと目を覆いたくなる記述も数多く残されている。同時に短い時間ではあるがこの国の首都である東京が無政府状態であったことも無視できない。

 歴史と災害を見るとき災害発生時の政治的な背景を知る必要もある。関東大震災が起ったとき、日本の政治も大きな転換期だった。約2年前(大正10年11月4日)平民宰相と称された原敬が東京駅で刺殺される。後任に経済に強い高橋是清が首相となるが内閣をまとめきれず半年で総辞職、次に首相となるのが海軍大将の加藤友三郎だった。この段階で日本は大きな変化がある、政党政治から軍部主体の政治への移行だったが、運命はまだ世の中を狂わせる。震災発生の8日前(大正12年8月24日)加藤友三郎在職中に病死。4日後、山本権兵衛元首相が後任として選ばれた。

 そして震災発生。

 翌9月2日、第二次山本権兵衛内閣が発足する。つまり関東大震災が発生した瞬間は日本には政治の最高責任者が存在せず、しかもたった2年で3度も内閣が変わった異常ともいえる時期だったのだ。未曽有の事態から慌てて組閣された山本内閣ではあったが後藤新平が内務大臣兼帝都復興院総裁として復興計画を立案したことは現在の東京に大きな利益となる。しかし第二次山本内閣も4か月で総辞職、次の清浦圭吾内閣も5か月で総辞職となり政治的混乱が復興に多少なりの影響を与えたことは否めない。それでも町は復興する。いざというときに政治が無力であることを民衆が一番知っているのかもしれない。

 さて、前稿で麹町の井伊家邸が大きな損害を受けて貴重な文化財が失われたことを記したが、同じ麹町でも与謝野晶子が住んでいた家は無事であったとの記述もあり自然災害の被害に明確な法則はない。敢えて言うならばすべての者が行政支援の遅れも含めた最悪の事態を想定した準備が必要であることを、関東大震災100年を振り返ることによって心に刻まなければならないのである。


原首相遭難現場、東京駅丸の内南口(2012年撮影)
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関東大震災から百年(前編)

2023年08月27日 | ふることふみ(DADAjournal)
 大正12年(1923)9月1日、関東地方は大きく揺れた。令和5年は「関東大震災」からちょうど100年となる。これを契機に近江をメインとして日本災害史を見直してみたいと思う。

 まずは関東大震災について考えたい。震源地神奈川県相模湾北西沖80キロメートル(小田原付近)、M(マグニチュード)7・9と記録されているが、阪神淡路大震災のような都市直下型地震でもなく、M9・0を記録した東日本大地震の規模でもない。しかし死者行方不明者10万5千人以上、建物全壊11万戸弱、焼失21万戸以上とされ関東大震災は日本自然災害史上最大の被害者を出した悲劇となった。
 もちろんM7・9という規模は単発でも大きいが、小田原付近での本震発生から十数秒後には三浦半島でもM7クラスの余震が発生。関東大震災は強く縦揺れに突き上げたあと激しい横揺れが続き、そののちも同クラスの余震が起こっている。この強い揺れを現在の渋谷区で経験した牧野富太郎は自然を学ぶ者として「驚くよりも心ゆくまで味わった」と後に回顧しているが、もし富太郎が若い頃に住んでいた飯田橋辺りに居たならばそのような能天気ではいられなかっただろう。

 本震が発生したのは9月1日午前11時58分32秒、多くの人が昼食のために竈や七輪などで火を使っていた。また一説によると工場や医療機関で使用される薬品の落下による発火もあったらしい。そしてこの日の朝は石川県沖に台風があり北東に進んでいたため関東地方は風速10メートルの強風にも晒されていたのである。正午前の気が緩む時間にいきなり強い縦揺れから始まる地震に襲われ横に何度も揺れる。浅草では十二層建物であった凌雲閣の八階部分が折れた、当時最新の建物ですら倒壊するならば庶民宅が無事で済むはずがなく次々と瓦礫と化したのである。
 瓦礫のあちらこちらで昼食と薬品が原因となる火事が起こり台風接近によってもたらされた強風によって大火となったのだった。

 さて、この頃の井伊家当主は直弼の孫井伊直忠である。能楽書収集家として知られていた直忠は東京市麹町区(東京都千代田区)一番町に約三千坪の屋敷を構えていた。明治時代後期に刊行されていた『新撰東京名所図会』には伯爵井伊直憲邸として「有名なる邸第にて、家屋の壮麗なるは区内稀に見る所なり」と紹介されている。直忠は井伊家に伝来する品々の中で自らの眼鏡に適う至宝の数々を彦根から東京に運ばせ屋敷に置いていたが、関東大震災が発生し多くの物が火事に巻き込まれてしまう。その中で必死になって守り抜いた物が国宝『紙本金地著色風俗図(彦根屏風)』などの数点だった。他の名家でも多少の差はあるものの東京には至宝が集まっていて震災と共に永遠に失われたと考えるならば、彦根屏風がこの世に残ったことは日本美術史における奇跡とも言えるかもしれない。


関東大震災などの霊堂・東京都慰霊堂(東京都墨田区)
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牧野富太郎の妻(後編)

2023年07月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根にとって牧野富太郎の名前を見る機会は、彦根城天秤櫓近くにあるオオトックリイチゴの案内板ではないだろうか? 彦根の冊子などでは「牧野富太郎の妻・寿衛は彦根藩士小沢一政の娘であり」との文章で強い繋がりを強調しており、富太郎が彦根城で新種を発見することは妻の縁だったような印象があったが、小沢一政について指摘されてこなかった。

 そもそも、富太郎と寿衛は東京飯田橋で出会うため彦根は関わっていない。富太郎の自叙伝などで「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と書いていることを鵜呑みにしているだけなのである。この文章を本人が記しているために何の疑問も持たずにいたが、一政が陸軍に籍を置いていたと考えられる明治前期に陸軍には営繕部がない。また京都の芸者を身請けして広大な屋敷が構えられる身分の者に小沢一政という名前の者は出てこないのである。しかし富太郎自身は寿衛の墓に「牧野富太郎妻小澤一政ニ女」とも刻んでいる。つまり富太郎は小沢一政と言う人物の存在を確信しているが実は誤認識だった可能性が高いのかもしれない。
 この誤認識や他の情報を組合せて、一政を掘り下げてみた。まず関東大震災のあと、寿衛は富太郎の研究資料を守るために自宅を持つことを目標として待合を始める。店名は「いまむら」とした。由来は寿衛の実家の別姓であったとの記録がある。「いまむら」と言えば彦根藩士の重臣に今村姓が存在する。では明治前期の陸軍に今村という人物が居るのか? と調べると滋賀縣に関わりがある陸軍大尉「今村一政」という人物が実在した。明治8年1月に権大尉から陸軍大尉に任官された一政は半年後に罪を受け謹慎三日の処分を受けることはあったものの確実に足跡を残している。明治12年7月には陸軍会計軍に名を連ねていることから営繕部をイメージさせる部署にも籍を置いたこともわかる。明治13年3月からは宮内省判任官を兼任していた。しかし、明治13年10月25日で依願免出仕が陸軍・宮内省共に認められている。このときの今村一政の肩書は「陸軍歩兵大尉兼宮内省十一等出仕」であった。
 今村一政の記録を読む限りでは、牧野富太郎が記す小沢一政に近い人物ではないだろうか? 私は未確認で申し訳ないが、小沢姓については寿衛の母あいの再嫁先とも寿衛が養女になった為とも言われているらしい。

 富太郎と寿衛が戸籍上の夫婦関係になる前に二人の間に生まれた子どもは、彦根に住んでいた寿衛の従兄の戸籍に付籍されていたそうだが個人情報に絡むため調査には行き詰まっている。

 現状で、寿衛の父は彦根藩士今村氏の一族であろう陸軍大尉今村一政ではないか?と推測しているが確信が持てる資料は見ていない。寿衛の情報をお持ちの読者がいらっしゃいましたらぜひご連絡をいただきたいと願っている。


牧野寿衛の墓(東京都台東区 天王寺墓地)
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牧野富太郎の妻(中編)

2023年06月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎の著書『植物記』で寿衛の実家について「東京飯田町の皇典講究所に後ちになった処がその邸宅で表は飯田町通り裏はお濠の土堤でその広い間をブッ通して占めていた」と記している。屋敷地はとても広大でその一部は現在は飯田橋六丁目通り(東西線飯田橋駅)近くの東京区政会館になっている。明治9年の地図を確認すると近くには陸軍省関連地もあり、一政が陸軍省で重要な地位にいた可能性を示唆している。一政は京都の芸者あいを身請けして屋敷に住まわしていることからも裕福な暮らしをしていたことは間違いない。そんな一政の次女であり末っ子として明治6年(1873)にあいが寿衛を生んだ。

 あいは、寿衛に踊りや唄を習わせていたようだが一政は陸軍を辞して程なくして亡くなったために家族は財産を失い屋敷も売却、一家は飯田橋で菓子屋を始め、成長した寿衛も店を手伝うようになったのだ。
 前稿でも記した通り、二人は出会い同棲を始めるがすぐに長女園子が誕生する。その直後、寿衛は夫や娘を置いて京都へ行き、兄の世話になっているようだが、東京に戻ってからのち寿衛の兄弟や母あいの記録が出ることがないため寿衛は実家との縁を切ったのではないか? と予測されている。唯一、彦根に住む従兄との交流があったようだ。
 こうして、富太郎も寿衛も裕福な家庭に育ちながら実家の援助が受けられない立場になっていた。しかし富太郎は小学校中退という学歴しか持っておらず関係が悪化していた松村任三が教授となっていた東大で助手として働くが給料は安かった。それでも高価な書籍購入や標本作成のための旅行を繰り返す。毎年のように子どもが生まれるため寿衛は借金取りとの交渉上手になって行ったらしい。また富太郎か地方で採取した植物を家族で協力して標本にもしていた。
 時々、富太郎を助ける人物も現れ、同郷の佐川出身の政治家田中光顕の紹介で岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が借金の肩代わりをしたこともある、貴重な標本を海外に売ることも考えたが国内で支援者が現れ回避している。
 貧しい生活の続くなか、牧野家は関東大震災を経験する。さいわい大きな被害はなかったが大切な資料や標本が焼ける可能性を恐れた寿衛は安全な自宅を所有することを目指すようになり、母の縁から待合を始める。
 この事業に成功し、翳りが見える前に他者に譲った資金で自然に囲まれた自宅を購入するのだがその直後に心労が祟った寿衛は55歳で亡くなってしまうのだった。

 富太郎は、新種の名前に私情を挟むことを嫌っていて、シーボルトが紫陽花に日本人妻の名前「オタクサ」と付けたことを非難していた。しかし寿衛が亡くなったときにこの意見を曲げてまで新たに見つけた植物に「スエコザサ」と命名した。そしてスエコザサは富太郎の墓の近くに植えられているのだ。


牧野富太郎の墓近くのスエコザサ(高知県高岡郡佐川町)撮影読者
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信長公忌

2023年06月02日 | イベント

6月2日は、本能寺の変の日なので京都の本能寺では信長公忌の法要が行われます。

しかし、コロナ禍の影響で令和元年以来中止になっていたのです。でも今年は信長公忌が行われましたので参加してしました。


当日限定の御朱印

と言いますか、法要の後のイベントMCを任されていました。


例年より早い梅雨入りに加えて、台風2号が梅雨前線を刺激した大雨に日本列島が襲われるなかでの法要となりましたが、本堂にはたくさんの方がお越しになられました。


13:30からは、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館の石川美咲先生によるご講演『本能寺の変と朝倉義景』

本能寺の変の時にはとっくに滅びている朝倉義景をどう繋ぐのか?

キーパーソンはやはり明智光秀であり光秀と朝倉氏の繋がり、そして義景と本能寺の縁、また幕府と義景のことも話て下さいました。

また、ご講演前にも少し話をさせていただき、彦根藩にも溝江氏などの朝倉家臣が仕えていることを教えていただきました。

30分でしたが、濃い内容でした。


14時から法要。

読経が響く中、参列者全員がご焼香をさせていただきました。

個人的な意見ですが、織田信長は雨に祝福されている人だと思っていますので大雨の法要は悪い兆しではないと感じました。


法要が終わり、僭越ながらMCとしてマイクを受け取ります。

15時からの『琵琶と墨絵のコラボライブペイント』を観るための注意事項をお話しして会場準備の時間待ち。

琵琶奏者の加藤敬徳さんの音楽は4年前にも同じ日に同じ場所で拝聴できていて空気感を作ってくれます。

墨絵師の御歌頭さんは、僕自身が10年のお付き合いがあり我が家にも原画を何枚も飾っている大好きなアーティストです。

この二人のコラボです!

琵琶の音をBGMに始まったライブペイントですが、お寺の本堂で雨の音すら雰囲気を醸し出します。






やがて、若々しく力強い信長が描きだされました。

演奏は、琵琶から尺八に移っていたのでが、演奏が終わるまで信長の絵を見つめている御歌頭さんが、本能寺の変の後に殺した主と語らう明智光秀のようにも見えて熱いものを感じました。

こうして、感動のうちにライブペイントは終了しました。



本来なら16時から次のスケジュールだったのですが、テンポ良く進んだのでステージ設営が終わり次第15分早く最後のイベントが始まりました。

吉本所属のダンスユニット『エグスプロージョン』によるライブです。



エグスプロージョンさんと言えば、踊る授業シリーズの『本能寺の変』で一世風靡しましたね。

その『本能寺の変』を、本能寺の変の日に本能寺本堂で踊られるという歴史的な時間となりました。

そして、みんなで踊れるように振付を指導して下さいました。

全員が『本能寺の変』を踊り。最後に記念撮影をして、イベントは終了しました。


やはり織田信長は雨に縁があるようで、こののち雨だからこそ動いたことがあります。

いづれその話をお伝えできれば良いのですがね。


僕としては、しがない歴史好きが本能寺の変の日に本能寺でMCができるという、大きな箔がついたことを喜んでいます。



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牧野富太郎の妻(前編)

2023年05月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 牧野富太郎は、裕福な商家「岸屋」に生まれ義祖母・浪子から25歳まで不自由がない生活を与えられ成長。子どもがそのまま大人になったような人物との印象を受ける。だからこそ植物に向き合える研究者になれたのだが、それを許してくれる理解者と、苛立ちを覚える敵という両極端な人間関係を形成することにもなる。
 この点で富太郎が特に迷惑をかけながら最大の理解者にならざるを得なくなってゆくのが家族である。19歳で初めて伊吹山を訪れた直後に佐川へ帰郷した富太郎は従妹の猶と結婚する。これは浪子の強い押しがあったようだが、結婚後も富太郎は岸屋を新妻や田中知之助に任せて、店の金を浪費しながら趣味に生きていて家族もそれを許している。

 前稿で紹介した東京行きの3年後、22歳になった富太郎は再び東京に向かい現在の飯田橋駅近くに下宿し定住した。そして東京大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授に認められて特別に理学部の資料を閲覧できる待遇を得たのである。東京に行ったまま帰らない富太郎は、猶に多額の金の無心をしているが長く続くものではなかった。
 この時期、富太郎の下宿を訪れ共に知識を確かめ合った人物の中には、既に『進化論』を日本に紹介し、のちに滋賀県水産試験場(彦根市平田町)でコアユの飼育に成功した石川千代松も含まれている。

 さて、岸屋が危機的状況に陥っているときも、富太郎は散財し東京で借金も重ねている。二度佐川に帰るがすぐに上京、26歳のときに東大(この頃は帝国大学に改名している)への通学途中に前を通っていた飯田橋の和菓子屋で働く幼さが残る15歳の少女に恋をした。小沢寿衛である。
 富太郎の著書『植物記』では「寿衛子の父は彦根藩主井伊家の臣で小沢一政といい陸軍の営繕部に勤務していた」と記している。富太郎は、11歳年下の少女に恋をしながらもなかなか想いを打ち明けられず知人に仲介してもらう形で二人は同棲を始めたらしい。
 すぐに長女・園子が誕生したが、富太郎にはまだ猶という妻がいたのである。現在に残っている猶と寿衛の手紙を読む限りではお互いの存在を知っていながら認め合っている(手紙参照:大原富枝『草を褥に 小説牧野富太郎』河出文庫)。手紙を読むと寿衛と富太郎は「牧ちゃん」「寿ちゃん」と呼び合うなど幼さが残り二人が勢いで同棲生活を始めたこともうかがえる。
 しかし、寿衛が第二子を妊娠しているときに、岸屋廃業手続きのため、富太郎は佐川へ戻る。足掛け3年を費やして佐川でも贅沢三昧をしながら廃業、猶と離婚し知之助と再婚させ後始末を任せたのちに東京に戻っているが、この直前に園子が四歳で亡くなる。牧野家は実家の支援がなくなり、少ない収入で生活を送ることになるが、富太郎と寿衛の間には13人の子どもが誕生し(7人が早逝)、寿衛が家計を支えて続けることとなるのだ。


牧野富太郎と交流があった石川千代松像(彦根市船町)
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牧野富太郎の伊吹山

2023年04月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2023年4月から連続テレビ小説『らんまん』が始まった。主人公のモデルは「日本の植物学の父」と評される牧野富太郎である。

 彦根藩では長野主膳や宇津木六之丞が処刑される彦根の獄が起こり、土佐藩では坂本龍馬が脱藩した文久2年(1862)に土佐国高岡郡佐川村(高知県高岡郡佐川町)で酒造業を営み苗字帯刀も許されていた商家「岸屋」の子として誕生したのが富太郎だった。経済的には恵まれていたが、3歳で父、5歳で母、6歳で祖父をコレラで失い祖父の後妻である(血縁関係の無い)祖母・浪子に大切に育てられることとなる。

 浪子は、富太郎の教育として本人が興味を持つこと全てに惜しみない協力を行った。植物研究に必要な書籍や顕微鏡を買い与え、第二回内国勧業博覧会見学や植物研究の専門家を訪ねる東京旅行の資金も出している。これが富太郎を一流の研究者に育てたと言っても過言ではない。この成果の一つともいえる出来事は明治14年(1881)に19歳の富太郎が東京訪問に行った帰路で初めて伊吹山に登ったことである。

 伊吹山はその地理的な条件だけではなく、織田信長が西洋から取り寄せた薬草園を作らせた歴史も加味されて独特の植物が自生している。伊吹山の自然は富太郎の興味を惹き、生涯で七度伊吹山を訪れることになるが、最初の登山から得た物は大量の荷物として佐川まで持ち帰っている。このときに富太郎が通ったルートは長浜から琵琶湖汽船で大津までの湖上旅であるが富太郎の目が琵琶湖には向かなかったことに私自身は不思議さを感じている。ちなみに富太郎は最初の伊吹山探訪でありながら珍しいスミレを発見、三年後の上京時に東京大学理科大学の村松任三助教授に見せたところ同大学の標本にも収蔵されていない物で外来種である「ヴィオラ・ミラビリス」であることが判明する。和名がなかったために「イブキスミレ」と命名されることとなる。興味を持ったことに対してある一定の成果を得ることは人生の大きな楽しみであり深みに嵌る原因にもなる。富太郎の青年期を調べてゆくとこれらの成果に彩られているのであるが、自らが発見した植物に新しい名が付くほどの成功体験はこの後に新種発見600種余、命名2500種以上、50万を超える標本作成の礎になったとも考えられる。

 しかし、植物学の成果とは反比例するように富太郎の家族は大きな負担を背負うことになる。富太郎が25歳のとき岸屋を切り盛りしていた浪子が亡くなり、こののち岸屋は浪子の孫で富太郎にとって従妹でもある最初の妻・猶(なお 伊吹山より佐川に戻ってすぐに結婚)と手代・井上和之助が差配するが富太郎の浪費で廃業に追い込まれる。また、猶との婚姻関係がありながら同棲を始めた二番目の妻・寿衛(すゑ)も苦労が絶えない人生を歩むのである。


伊吹山遠望(2022年1月下旬撮影)
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地域通貨『彦』

2023年04月20日 | その他

今年も受け取りました、彦根市の地域通貨「彦」


エコバッグは眠っているひこにゃんです💤

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井伊家の名

2023年03月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
 彦根藩祖は井伊直政。これは誰もが認める史実である。では長く続いた江戸時代において最も重視された当主が直政であったのか? と問われると答えは難しい。

 大河ドラマ『おんな城主直虎』が放送されていた頃、ある研究者が著書の中で「井伊家は備中次郎を名乗ってきたために、直虎は次郎法師を名乗ったと言われているが、彦根藩主に備中守や次郎を名乗った者は居ないため、この話は信用できない」(筆者意訳)との旨を記している。しかしこれはあまりにも狭い考え方である。まず彦根藩井伊家は井伊直虎の子孫ではない。系図上は直虎の父・直盛の従弟である直親の子が直政であり、彦根藩井伊家は直親に注目している。それでも直親の幼名「亀之丞」や官職名「肥後守」を井伊家は継いでいない。なぜならば直政が徳川家康に仕官したときに平安時代から続く井伊谷を治めていた井伊家が滅びていたからである。家康に仕官した直政は自らの力で井伊家を大名にまで押し上げた。その直政が家康から拝領した名前が「万千代」であり官職名は「兵部少輔」であった。

 前稿で井伊直孝が幕府内で要職を得た遠因について記した。直孝は元老の任を全うし、これにより彦根藩は直政の嫡流である直継ではなく、庶流である直孝が担うこととなるが直政の名や官職名は直継の子孫が継承した。さらに直継の系譜は四代直朝が心の病で藩主の座から退き血流が断たれ、彦根藩から新しい当主を迎えたために実質的に直政の嫡流は断絶している。直孝の子孫は、井伊家庶流でありながら嫡流すら飲み込んだのだ。

 では、彦根藩で直孝の名や官職名はどうなったのであろうか? 直孝は「弁之介(助)」との名が知られているが、歴代彦根藩主の中でこの名を名乗った人物は井伊直亮のみである。直亮は直弼の兄であり大老も務めた人物ではあるが、他の彦根藩主とは違った特別な存在だった。それは直孝以降の彦根藩主の中で唯一母親が正室だったことである。他に弁之介を名乗った人物が直孝の嫡男で廃嫡となった直滋であったことを考えると、彦根藩では直孝の名前が継承される伝統は存在したが正室の子として誕生した男子がほとんど居なかったために堂々と名前を引継ぎ実際に藩主になった者が直亮の例しかなかったのだ。これに対して直孝の官職名である「掃部頭」は歴代彦根藩主が任官してゆき、位階としては従五位下である兵部少輔や掃部守よりも高い「左近衛中将」も直孝を含めた彦根藩主が任官されることがあった。また直政が豊臣秀吉から与えられた「侍従」は直継ではなく直孝に引継がれたために彦根藩主が称することとなる。

 私は直孝こそが彦根藩において最も重視された人物であったと確信している。その証拠に直亮が建立した井伊神社には、井伊家初代共保や藩祖直政と共に直孝も祀られているのだ。


井伊神社(彦根市古沢町)2021年3月下旬撮影
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