ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

子どもの村つうしん

2011年06月16日 | 季節の話題
 北海道紋別郡滝上町滝西にある「森の子どもの村」と称する徳村彰、杜紀子さん夫妻からの今時珍しい手書きのB5版30頁ほどのお馴染みの便りが届いた。

 毎年6月のこの季節に届く通信は、夏の森のこどもの村への案内を中心として子どもたちを中心とした参加者に対する丁寧な案内と参加の仕方、道順、役割、費用、そして26年前に起きた参加者が死傷するという痛ましい交通事故をことを敢えて知らせる記事も含めた便りでした。

 冒頭のイラスト的「もり」の字は、ご存知の方もおられると思いますが、徳村さんが「もり」は、「森」という字ではなくて、土と水と木からなっているのだからと「木」「水」「土」を合体させた新しい字を創造されたものなのです。

 そういう「もり」を感じながら、そういった「もり」に住む徳村彰さんのことを多くの子どもたちや関係者は「おじじ」と呼び、奥さんの杜紀子さんのことを「おばば」と呼んで親しくなっているわけですが、私も北海道の「子どもの村」に行ったのは一度しかないのですが、とても懐かしくまた心にあるひとつの故郷のようなところなのです。

 徳村さんとの出会いは、今から30年らいほど前に、子どもたちの遊び場活動のリーダーをしていた頃に出逢った本の著者である「徳村彰」さんの講演が近くの枚方市の公民館であることを知って聞きに行った時からです。

 その当時たぶん50代だったと思われるので、今は80歳前後になられていると思うのですが、当時は横浜で「子どもの村」と称する子どもたちの居場所としての文庫活動をされている方という認識だったのですが、ご本人のご病気がきっかけで思い切った転地療法というわけではないのかも知れませんが、北海道の現在のお住まいの場所に拠点を移されての活動を続けられて早くも30年になろうとしていると思います。

 「空前の事態のなかで・・・」と題する巻頭に掲載された徳村彰さん、おじじの言葉をゆっくりとかみ締めて読んでいたのですが、東日本大震災を契機に「気づく」ことについて書かれていたのです。

 阪神淡路大震災の機会にも「イノチ」が輝く世にしたいと思いつつも、「豊かな」日常に流され、連帯の力を生活の根本を変える力に育てることが出来なかったという自戒から、今度こそ何とかしたいと思ったが、この圧倒的な現実を前に言葉を失っていたと書かれていました。

 そんなさなかに彼が二十代の時に体験した広島での間接的被曝に言及されつつ、海外生活の慣れない疲れからか原因不明の体調不良から長期入院をし、帰国後十二指腸潰瘍で開腹手術を受け、胃の大半を切り取ったが、五臓のほとんどが病んで、40年前に名医から「あと2年の命」と宣告されたというのでした。

 でも、その後こどもたちと出会い、もりから力をいただいて、今の私があるのですと告白されているのです。

 彼は毎年春と秋の二回にわたって東北は秋田県の奥森吉のもりに一ヶ月前後行かれて、「ブナ」の木、「ブナのもり」に癒され抱かれて、奇蹟的に回復されているというのです。

 一寸先が見えない現在の事態にも、未来はきっとあるので、彼は「もりの力」に頼ること、人間中心主義ではなくて、あらゆる「イノチ」たちに抱かれ一緒に結ばれる新しい生き方を模索することを提唱されているのです。

 思い悩む中で、彼が体感している「ブナのもり」で感じた幸せ感は、本当に優しく泉のように温かなイノチの源を湧き出でさせて、細胞のひとつひとつをとろけさせて、私はイノチさんと一つになりますと綴っておられるのでした。

 つまり、彼の主張は「ものの文化・もりの思想」から来る哲学であり、もりの中には不思議な力、イノチの源泉があり、人間も素直にしぜんの力に委ねたら、もりの力、すなわち木と水と土からイノチの本来の目に見えない伝承を得るというのでした。

 こんな現実ばなれした様なお話と受け取られる方もいると思いますが、今私たちは人間の力で何でも出来るという「迷信」ではなく、自然の生き物のひとつとしての謙虚な反省と共に、自然との「共生」をじっくりと考える「いい機会」に出くわしているのではないでしょうか。
コメント (1)
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