ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「生活保護」の急増!

2011年06月14日 | とんでもない!
 全国の生活保護受給者が今年の三月時点で202万2333人となり、戦後の混乱期だった昭和27年度以来、59年ぶりに200万人を突破したことが判明し、厚生労働省の集計では受給世帯数も145万8583世帯となり、過去最多を更新したという。

 ここ数年、この生活保護費の支給資格の問題をめぐり、いろんな地方自治体で不正受給や「年金生活よりも生活保護を受けた方が裕福」などと、まだまだ働けたり健康な人までもが、不順な動機で不正と言わざるをお得ない申請をして、生活保護費を貰って日夜パチンコ三昧をしていたり、マイカーに乗って市営住宅や生活困窮者用の住宅に入居しているなどの実態が後を絶たない。

 その典型的な自治体の代表とも言えるのが、我が実家のある大阪市であり、ここ数年だけでも多額の生活保護費の予算のために200数十億円もの税金を支出し、地方自治体としての財政赤字に拍車をかけていると言われていて、全国的に有名となっている。

 私が市議会議員をしていた第二の故郷、京田辺市でも年々生活保護世帯や生活保護費が増えていて、生活保護費の不正受給と見なされる様な例が数例紹介されたりしていたので、予算、決算委員会などで質疑として問題提起を行ったことがあるのだが、たいていは高級外車は本人名義ではなく、弟さん所有のものだったり、本人が病気と申請しているとかで、行政も十分な調査や裏づけを行わずに、申請者の言いなりになっているケースも見られたのであった。

 また大阪市の例だと、高齢者や医療機関にかかっている独身者などを、福祉的サポートの様に偽って、本人の生活保護を申請し、本人を安アパートや飯場的な仕事場に住まわせて、必要経費と称してピンハネする、詐欺商法の様なケースも発覚していて、貧困ビジネスとまで言われている場合もあるのである。

 よーく考えなくても、昭和27年という戦後の復興期と比べると、現代社会は仕事の選り好みや好き勝手を言わなかったら、高校卒や大学卒の就職難とは称されている近年でも、仕事は選り好みしなければあるのである。

 しかし、3Kとか5Kとか言われる、汚い、きつい、危険な仕事などには、なかなか就きたがらない人も多く、私の住まう近くの自動車解体や廃棄物処理の仕事現場では、バングラデシュやパキスタンなどの外国人労働者が多く、日本人労働者の姿は少なく、結局仕事はあっても「したくない」人たちが増えていて、中途半端に仕事をするよりも生活保護費を貰ったわ方が楽などと言った考え方が助長されている様である。

 昔の日本人の多くは「お上には世話になりたくない」とか、「福祉の世話になるのは嫁が悪い」とか言った、自立もしくは「何とかしよう」と言った気持ちの中高年の人たちが多かったのだが、現代は「貰った方が得」だとか、「貰らわな損」とか言った自己主義的「貰い得」精神が蔓延している様で、パチンコやだけでなく、公営ギャンブル場や前記した「福祉?」関係者が知恵とサービスと称して「手続き」を代行したりするケースすらあるたいなのである。

 また世に言う「サラ金」と称される「消費者ローン」などにおける多重債務なども、現在では珍しい問題ではなく、テレビのCMでたくさんの司法書士事務所や弁護士事務所が営業として、グレーゾーン金利と称されていた、サラ金などの利息の払い過ぎに対する還付などを手助けしているが、そもそもは高金利などでの「自己破産」なども、一昔前とは異なって「恥ずかしいこと」ではなく、「自己破産してしまえ!」とばかりに誘導し、結局は「生活保護のお世話になる」と言ったケースも増えていると思われるのである。

 いずれにせよ、厚生労働省管轄としての発表は200万人を超えたというのだが、同じ政府の金融庁の政策としての大手銀行傘下に入れられたとはいえ、未だに「消費者ローン」と称する高金利は一時よりも低金利となったとはいえ、貧困家庭や低所得者を餌食とする構造を保っていると言っても過言ではあるまい。

 こうした一方では大手企業の商業的「金貸し」を奨励するかの政策を推進しつつ、一方では「生活保護費の増大」という矛盾を抱えているわけで、その背景で潤っているのは「公営ギャンブル」「宝くじ」「消費者ローン」、そして「新興宗教」などではないだろうか。

 貧乏人は寿司を食うなとは言わないが、冒頭のイラストの様な「全く遠慮のない」、生活保護費泥棒が、どれだけ全国にいるのか、しっかりと調査して、前例主義を踏襲するのではない「大きな楔」を打たなければ、税金の無駄遣いは続き、いずれ地方自治体の財政再建は全て不可能な赤字団体に化けて行くだけではないだろうか。
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アジア一周の夕食。

2011年06月13日 | イベント
 梅雨空の日曜日だったが、妻と久しぶりに電車に乗って京都市内まで、夕食を食べに出かけた。

 「アジア一周コース」と名づけられたアジアの主要国の味を駆け足ならぬ、一コースとして味わえるというディナーを予約して出向いたのだが、これにはそれなりの理由があった。

 なんと半年近く前、正月三が日明けの一月四日に、実はパソコンのメールアドレスが復活し、インターネットのネットサービスの人である例の「FACE BOOK」に登録したりして、再びPCメールを毎日確認することとなったところ、GROUPONと称するグルメなお店のいわゆる「ディスカウントクーポン」が紹介されているメールが一挙に受信されることとなったのであった。

 そこで、試しに一つのお店のメニューに目が留まって、気軽な気持ちで京都市内の名も知らないが、私の大好きな東南アジアを中心とした国々の、ちょっとアジアンぽい料理を少しずつコースとして出してくれるセットメニューのクーポンを興味を抱いてクリックして購入したのであった。

 しかし、それから約五ヶ月も経過していたのだが、6月の結婚記念日が近づいていたので、そういえば一月にクーポンを購入していたはずだと思い出して、クレジット会社からの請求と共に代金を払ったことになっているのかをさかのぼって確認したところ、間違いなく「御代」が銀行からは落とされていて、支払い済みであることがわかった。

 でも、私自身の手元には「クーポン」なるものが全く形としてはなかったために、信販会社の請求書に記載されてあった決済会社の問い合わせ先に電話したところ、なんとも親切に電話口に出た男性担当者が「私も使っているので」とく前置きして、この「クーポン」の出し方を教えてくれたのであった。

 早速、グルーポンのHPからログインして、マイクーポンなるものを確認して、未使用となっていた二枚をプリントアウトして店の名前と場所の確認と共に、お店に予約を入れようと電話したのであった。

 しかし、確かに「クーポン使用」の際には前日までに予約を入れることと明記されいたのは知っていたが、思いついたのだから吉日と信じて、電話口に出たお店の女性に無理を言って、当日予約を受け入れてもらったのであった。

 とにかく結婚記念日のディナーのつもりだったのだが、妻には「アジア風の料理」としか説明できなかったし、また記念日ディナーとしてはケーキや記念の品がプレゼントされるわけでもなかったし、場所も一度も行ったことのない店なのでわからなかった。

 近鉄と地下鉄を乗り継いで降りた駅から小雨が降り続ける道を二人でだいぶ歩いて、プリントした店の紹介ページに記載された通りの角までたどり着いたのだが、目的の店が何処にあるのか定かではなく、再びお店に電話をかけて聞いたのだが、その通りの角から北ですか?南ですか?という問いに対して、女性店員がなかなか答えられないのであった。

 地図の読めない女性が多いとは知っているが、自分の店の位置、場所を尋ねる客に対して、南北や東西と言った地図の常識的な場所確認すら答えられない店員さんに対して、こちらは何度も「北か南か」と問うしかできなかった。

 ようやく北側に歩いて約100メートル行ったところの西側だとわかったので、やっとこさビルの一階にその店の屋号を書いた看板を見つけて、傘をたたんで二階の店の扉をあけることができたのは予約の時間の十分ほど過ぎた時間だった。

 梅雨らしい雨が降り続く市内の繁華街だが、こじんまりしたお店の中には客はまだ少なく、私たちがこの日のディナーの最初の客だったようで、先ほどの電話口の女性店員らしき女性が「予約のお客様ですね」と念をおして客席に案内してくれた。

 肝心の「アジア一周コース」は、まずフリードリンクを注文した後、日本の前菜として「かぼちゃの煮物」が出て、二番目が韓国風の「鯛のカルパッチョ」、ベトナム風の「米ブン揚げバリバリサラダ」、そしてタイの有頭大海老の「トムヤンクン」と続いた。

 日本料理には違いないが、「カボチャのたいたん」は、少し辛いくらいにしょうゆ味で煮てあって、たぶん早く煮てあったものを冷蔵庫で保存されていたらしく冷たく濃い醤油味で、少し京風でもない強い味にがっかりしたが、韓国風と称された鯛のカルパッチョは、優しく辛く美味しくいただけ、ベトナム風サラダは味がほとんどなかったので、カルパッチョのソースにつけていただいたりし、タイの王道のスープである「トムヤンクン」は、やはり独特の「ナンプラー」の味付けであったが、温かく全て木のスプーンですくっていだだいた。

 後半は、中国の料理として、上海の麻婆として「茄子と揚げ豆腐」が入った麻婆味で始まり、これもソースというかお味が慣れ親しんだトロミと共に美味しく食することが出来た。

 続いてはインド料理の定番とも言える「タンドリーチキン」で、上品にチキンがねぎと玉葱と交互にくし刺しにされていて美味であったので、すぐに平らげてしまった。

 残るはインドネシアの代表的料理とされている「ナシゴレン」と称する卵焼きがのったケチャップと○○味がミックスされた、食べやすいご飯料理の「焼き飯」であり、私もインドネシア、バリに行った時にもたぶんネパールやインドでも食したことがあったので、特にインドネシア料理というほどの印象はなかったのだが、やはり食べやすく日本人好みのご飯料理であることで、「ナシゴレン」という名称の馴染みもあって全て美味しく食することが出来た。

 最後は、和の甘味という触れ込みで出てきたデザートは、何処の店にでもある「ゆずアイスクリーム」であったので、これは店特製ではない既製品、すなわち何処かの食品メーカーの市販品の業務用なのかなと話しながらラストのメニューとしていただいた。

 私はジンジャーエルをソフトドリンクとして飲みながら、妻は焼酎のレモンソーダ割を飲みながらの夕食だったが、全般的にはアジアン風の食事は「辛い」感じの味付けが多かったので、「お水」もいただいて全て完食したのであった。

 おまけは、帰宅途中の繁華街歩きと「スタバ」でのお茶だったのだが、アジア一周の食事のラストが何故かアメリカ西海岸シアトルからやってきた「スターバックス」のコーヒーショップとなったのかが甚だ疑問だったのだが、私は「ソイラテ」をホットで飲み干したので、益々分からなくなったアジアンテイストのコースとなった。
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陸上日本選手権

2011年06月12日 | プロスポーツ
 プロ野球セパ交流戦やザックジャパンの国際試合と、春から初夏に向けてのスポーツの話題はたくさんあるのだが、テレビを中心として中継されたり、録画で手も紹介される人気プロスポーツ競技だけでなく、地味でも黙々と日々鍛錬と練習を重ねて、ようやくひのき舞台である「日本選手権」などに挑むアマチュア選手もたくさんいるのである。

 陸上協議の日本選手権も埼玉県熊谷スポーツ文化公園陸上競技場で今日三日目を迎えて、決勝種目を中心に日本選手の最高峰を極めたアマチュア選手たちが、世界選手権やオリンピックへの挑戦権を獲得した者もいて、大いに賑わったと報じられているが、テレビなどで話題になるのは、限られたオリンピックでのメダル候補生だけかもしれない。

 その中で、日本陸上のトップクラスのアスリートとして紹介されるのが、ハンマー投げの室伏広治選手、やり投げの村上選手、女子短距離の福島千里選手ら限られた選手たちだけである。

 そうした日本陸上界にあって、世界ではなかなかトップアスリートとして紹介されたり、記録が世界選手権出場参考記録には達しないが、日本国内では素晴らしいトップアスリートとして優勝を重ねていたり、日本記録に迫る勢いの若手やベテラン選手もたくさんいるのである。

 男子400メートル障害で優勝した法政大学の岸本鷹幸は、同大学の12年先輩にあたる為末選手に惑わされぬ様にと自分のレースに徹して、中盤以降は完全に足が止まって大きく後退した先輩を尻目に、堂々と果敢なレースを展開して世界選手権への出場を内定し、ロンドン五輪まであと一年だが、目標に向かって自分を信じてがんばりたいと決意を語ったという。

 また女子やり投げの大体大TCの宮下梨沙選手は、自己ベストを4メートルも越す60.08メートルを最終投擲の6回目に投げて世界選手権参加標準Bを超えて、昨年のアジア大会で日本記録を出して優勝した海老原有希選手を抑えて、初代表候補として前進した。

 また、私の住む京都の南八幡高校出身だと思うのだが、正月明けの都道府県対抗女子駅伝の京都府代表チームの監督としても優勝の栄誉をもたらした、38歳になる、京都光華ACの早狩実紀選手が、女子3000メートル障害でベテランの走りで6連覇を成し遂げている。

 ほかにもたくさんのテレビや新聞報道では無名に近い、陸上競技に青春を捧げているアスリートがいるのだが、なかなか脚光を浴びて紹介されたりする機会が少ないのが、陸上競技の選手ではないだろうか。

 私の住む京田辺市の地元の中学校にも当然「陸上部」というクラブ活動があって、いろんな生徒たちが日々早朝練習から授業後の居残り練習、そして土曜日曜、祭日にも各種大会やけ練習会に参加して、中学生記録や自己ベストを塗り替えるべく努力と研鑽を繰り返しているのであろう。

 時々、私も顔見知りのクラブに入っている選手生徒に出会うことがあるのだが、日々の学業をする傍ら、いやひょっとしたら学業以上に、日常的には頭の中は自分の「陸上競技」のことで頭がいっぱいではないかと思うほど、帰宅寸前の夜道を帰る足取りは重たそうだったり、若い青春のさなかだが疲れ果てた表情の彼らを見ることもあるくらいである。

 陸上競技に限らないが、一部のメジャースポーツだけでなく、日本中で各々が出会ってやり始めたスポーツ競技に没頭している若者たちだけでなく、老若男女がいるわけで、ほんとうに一握りの氷山の一角の様な「テレビ、新聞」などのマスメディアで紹介されるトップアスリートたちを目指して、日夜練習と自身の体力を鍛えている彼らにも拍手を送りたいものだと思ったのである。

 そういえば、私が中学校時代に同級生だった鉄腕ぶりの女子で「砲丸投げ」の選手として当時は好成績を出していた、多賀みはる選手や高校時代に走り幅跳びの高記録を出していたS選手なども、その後どうしただろうかと、ふと昔の彼らの姿と笑顔を思い出したのであった。

 東京オリンピック時代の女子短距離の依田選手以来のアジア大会女子100メートルの覇者である福島千里選手や、陸上日本選手権でハンマー投げ17連覇という偉業を成し遂げた、室伏広冶選手、そしてやり投げで12連覇という村上選手などに続く、若手、ベテラン陸上選手たちにも、大いなるエールを送って、彼らと彼女たちの世界選手権やオリンピックでの活躍を期待したいものである。

 

 
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「非現実的な夢想家」として。

2011年06月10日 | 感じたこと
 「ノルウェイの森」などの著者で国際的にも高い評価を受けている作家、村上春樹さんがスペイン北東部のカタルーニャ自治州政府が人文科学分野で功績のあった人物に贈呈する国際賞を受賞し、「非現実的な夢想家として」と題するスピーチを授賞式に行ったと夕刊が報じている。

 彼は「東日本大震災と福島第一原発事故」に触れて、第二次世界大戦で廣島、長崎でアメリカ軍による原子力爆弾を投下されて数多くの惨禍を味わった日本人として、「核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」と述べたというのである。

 この「非現実的な夢想家として」と称した村上春樹氏独特の謙虚さと大胆な発言ととられがちだが、世界中で福島原発事故を契機にして大きな「反原発」のうねりが起きていて、欧州ではドイツやスイスで「原発計画の中止」と「現状の原発の廃止」を目指すという閣議決定がされたというし、あの原発大国フランスやアメリカでも「反原発」のスローガンの下でのデモや活動が活発化していて、決して「非現実的な夢想」ではないことを証明しつつあるのではないだろうか。

 村上春樹氏の講演では、日本は今回のフクシマ原発事故は、「2度目の大きな核の被害」とし、「自らの手で過ちを犯した」との厳しい見解を示したという。

 また村上さんは「効率優先」の考え方が「過ち」り原因だとし、政府と電力会社が「効率の良い発電システム」である「原発」を国策として推進した結果、世界第三位の原発大国となってしまったと指摘し、原発に疑問を持つ人々は「非現実的な夢想家」として退けられてきたと批判されたのである。

 その上で「我々の持てる英知を結集して原発に代わるエネルギー開発を国家レベルで追求すべきだった」とし、それが廣島、長崎の犠牲者に対する「集合的責任の取り方だったはず」と述べられたという。

 また東日本大震災及びフクシマ原発事故からの復興に際し、簡単に修復できないのは「倫理や規範の再生」なくしては成し遂げられないと指摘し、「夢を見ることを恐れてはいけない」、「効率や便宜という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはならない」と語り、我々は非現実的な夢想家」として強い足取りで進んでいくと述べ、彼のスピーチを聴いた聴衆は最後に大きな拍手と共に受賞をたたえたとされている。

 同じ今日の毎日新聞夕刊に、福島原発事故の放射能漏れの多大な影響で、福島原発から西南部の飯館村で有機農法による自給自足生活をし、幼い娘三人を豊かな自然環境の中でのびのびと育てていたという、農業の村上真平さん52歳が、震災翌日の3月12日に福島原発事故の危機的状況を外出先から戻った妻から聞いて、午前三時に自宅を出発し家族揃って車で親戚の居る山形、静岡を経て、彼の母校のある三重県伊賀市に避難されたという。

 村上さんは、飯館村にいた時から反原発運動に取り組んでおられ、四月中旬になんと日本社会を研究している東京の日仏会館研究センターからの講演の依頼があり、電力の約8割を原子力発電に依存する国フランスで、五月にマルセイユ、ブルターニュ地方、パリなど5箇所であった農業関係のシンポジウムや市民集会で講演をされたとのことである。

 村上さんは、自分たちが生きる糧である農業と自然の中での生活を、今回の福島原発の事故で根こそぎ奪われた経験を話し、「誰でも原発の被害者になりうる」と訴えて、皆さんも自分自身の問題として考えてほしいと語り、現地では「フクシマの証人」として紹介されたという。

 村上さんは、伊賀市の山間部に古い民家を借りて生活を始めておられ、もう福島県飯館村での農業の再開は無理だろうと考え、この無念さを教訓に、今後も国内の大学などでも講演活動を続けるつもりだという。

 また福島原発事故を引き起こした東京電力の株主たちが「定款」に「反原発」を書き加える様にとする要求をつきつけるという動きも出ていて、決して「反原発」は、「非現実的な夢想家」たちのシュプレヒコールだけではなくなってきているのが、現実なのではないだろうか。

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気になるニュース

2011年06月09日 | テレビマスコミ
 三月に起きた東日本大震災と大津波に加えて、福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故の余波は、いたるところに広がっていて、収束のメドすら立っていない現状だが、あさって発生から三ヶ月を迎えるのである。

 その間、菅民主党内閣の対応ぶりがどうだったかは言わずもがなであり、その責任追及をすることより、すべきことが山積みされていると思うのだが、この期に及んで菅首相は「被災地の瓦礫の撤去」は私の責任だと話したとか、全く焦点がぼけたまま、大連立だの次期首班候補だのと新聞、テレビのメディアは忙しく伝えている。

 そんな「震災関連」や「国会事情」とは違ったところで、相変わらず「気になるニュース」なるものがあるのだが、皆さんはどの様に感じておられるだろうか。

 私はまず「皇室の被災地訪問」について、誰が仕掛けるのか定かではないが、天皇、皇后両陛下をはじめ、皇太子殿下夫妻、秋篠宮夫妻など、公務と称して関東圏にはじまり東北三県の福島、宮城、岩手と、この三ヶ月間に何度となく行かされて、被災地の避難所などを回られて「慰問」されたとのことである。

 この「慰問」という形の皇室の方々を被災地に派遣するというスタイルは、たぶん政府が宮内庁に要請して実現させているのだろうけれども、特にご高齢の天皇、皇后ご夫妻や長期にわたって心身ともにお具合が悪かったと伝えられていた皇太子妃の雅子さんにとって、公務としての出張はどうだったのだろうか。

 こうした国難とも言える災害による被災地に、皇室が出向かれるというスタイルは、たぶん阪神淡路大震災の際も行われていたとは思うが、いくら東京から被災地が比較的近いからと言っても、毎週の如くで向かれていた様で、政府の対応や対策が遅れる中で、皇室が利用されていると感じたのだが、如何お思いだろうか。

 そんな「震災関連」のニュースの一つに、宮城県石巻市の大川小学校で児童の震災後の大津波に対する避難が遅れて、なんと108名の児童のうち68名が死亡し、6人が行方不明となったという事実が判明し、避難に手間取った原因としての状況説明が二度にわたって保護者に対して行われたらしいが、何故に避難開始まで40分もかかったのかが不明で、慎重すぎる対応が多くの犠牲者を生んだとの痛ましい結果は、ただ残念では片付けられない話であった。

 また、福島原発事故の放射能漏れ関連では、多くの風評被害が後を絶たない現状の中で、福島県いわき市の男性が避難先の東京都内で献血をしようとしたところ、原発事故による放射線被曝の可能性が高いとの理由で、献血を断られたというのであった。

 男性の妻から、「医師に放射線で遺伝子が傷ついているかもしれない」と言われたらしく、日赤側は、「説明の中で誤解を招く言葉があり、男性に不快な思いをさせ申し訳なかった」と謝罪したらしいのだが、本人が被曝しているかもしれないと申告したため、本人の健康のために献血を控える方が好ましいと判断し、献血を断ったのだという。

 日赤は、今年四月に累積被曝量が100ミリシーベルトを超えた原発作業員については、半年間献血を制限する方針を通知していたらしいが、非難している一般の福島県の人たちには、この通知は適用されないので、同県では被災後も通常通りの献血が行われているという。

 いずれにしても、何の医学的、科学的根拠としての被曝量や数値も説明せずに、献血拒否という結果だけが一人歩きするとすると「風評差別」と同様になりかねないと思われるので、慎重かつ明確な根拠や被曝量の測定を義務付けるなどの明確な指針が必要なのではないだろうか。

 全く震災や原発とは関係はないが、昨日のニュースでは、高知県の主婦が台所で寝ていた夫にガソリンをかけて火をつけ殺害したという痛ましいDV、家庭内暴力の挙句の悲惨な犯罪が報じられているのだが、再三再四ご近所や警察にも訴えがあったらしいのだが、極端な凶行に及ぶ前に防止することが出来なかったのかと憂いを感じたりした。

 昨今起きている乳幼児の虐待死や餓死、そしてストーカーやDVなど、プライバシーに関わるとはいえ、もっと積極的な防止策、保護策を近隣の自治体と地域でやらないと、命を救うことができないのではと苦慮する事件が多発し続けている。
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大連立必要なし。

2011年06月08日 | 日本の課題
 菅直人内閣の不信任決議案の採決をめぐって、民主党小沢一郎一派と鳩山由紀夫前首相が前日、いや当日まで自民党などの野党が提出した「不信任案」に賛成するという動きが加速していたのに、衆議院本会議開会の少し前までに開かれた民主党両院議員総会で、菅首相の「一定のめどがきたら若手に責任を」発言を受けて、急遽反対票が圧倒的多数となって、不信任案が否決されたとたんに、にわかに民主党と自民党を中心とする「大連立」構想が再び浮上した。

 とんでもないことである。

 国民、有権者の選択として二年前に「政権交代」がなされ、民主党を中心とした政権に移行し、鳩山、菅と頼りないままに続いていた現政権を、いくら震災対応が遅いとか、リーダーシップが見えないとか、消費税問題で税収増が必要だとかというメッセージなどがあったとしても、「大連立」という大儀名分が立つ分けなく、「国民をなめとんのか」と言いたい。

 私は決して現政権を評価するものでもないが、少しうまくいかなかったり、大震災に原発事故と言う信じがたい天災と人災が重なった国難に対して、民主党とか自民党とかどちらがいいというのではなく、被災地の復興と被災者の救援、生活支援のためになすべきことを、国会議員全員がじっくりとすばやく議論し提案し、是々非々で予算案も含めて可決して行くべき緊急時である。

 いい加減な数の論理だけが先行する、従来までの議会運営の常道?を、各政党や派閥が繰り返すのではなく、本当に必要な物と金を出来るだけ早く被災地ならびに被災民に届けられる様に、ひとりひとりの国会議員がイデオロギーや所属会派のボスや決定に従うのではなく、適切なる議論のうえでの決定へと決断すべきなのである。

 「大連立」なんて、形をとることを優先しなくても、必要な施策を真剣かつ大胆に話し合えば、自ずから選択肢は見えてくるはずなのに、今までも「国会議員」として個人の意見、選択よりも、派閥の決定や党の方針に従うという、従来の旧態依然とした選択しか出来ない議員が大半だとすれば、結局「大連立」などという、おろかな選択しかできないこととなるのである。

 つまり、一人ひとりの国会議員が、この非常事態の国難に対して、しっかりとした決断さえ出来れば、与党だとか野党だとか言ったセクト主義ではなく、民主党案でも自民党案でも、より良い選択を検討し、必要であれば手早く修正や追加をしてでも、一定の施策案を予算案と共に、共同提案もしくは一方が他方に賛成するといった形で、協力すればいいのであって、なにも「大連立」なる形なんか必要ないのではないだろうか。

 すなわち、国会だけではないが、無理やり同じ「グループにしてしまえば話が早い」とでも思っている人が居るのだろうけれど、国会に限らず、個人個人の姿勢、考え方などは十人十色だろうことは当然なのだから、本当の意味での「民主主義」としての国会、議会運営に立ち返れば、数の論理を優先した与野党という主従の関係ではなく、是々非々の適切なる施策を導き出すことが出来るはずなのである。

 二年前に多くの国民、有権者が選択した「民主党」を中心とした現政権が、とんでもない大震災と原発事故という未曾有の「想定外」の状況下にあるわけだが、もし自民党政権であったとしても、今回の大震災、大津波、原発事故はトメラレナカッタはずなのだから、誰々の責任とか言っている場合ではなく、国会、内閣の責任として全員野球ならぬ、全員協議の施策決定をすればいいだけなのである。

 一番問題なのは、あえて言うが「民主党」が内紛状態になったり、派閥間でのいがみ合いになったりしている場合ではなく、また一方の「自民党」も、菅が悪いとか民主党には任せられないとか言ってる場合ではなく、より良い選択肢を提案し、協議、議論し与野党の対立ではなく、被災地ならびに被災民の立場に立った「被災地与党」として、ベターな決定をすればいのである。

 決して妥協せよと言っているのではなく、はじめから対立構造に立って思考するのではなく、政党や派閥の利害や言い出しべぇに囚われずに、白紙の状態からの必要な議論を徹底的にしていただき、この施策は民主党案、この支援策は自民党案でもいいから、素直に選択肢を明確に提案し比較し、正々堂々と被災地の復興策や支援策についてだけは決定するという謙虚な国会議員としての仕事をしていただきたいだけである。

 「大連立」なんぞは、どうせ財界の裏で経済優先の利害をもくろんでいる大物?企業人などが提案し、自分たちのイニシアティブで政治を動かそうと目論んでいる輩たちの愚案に過ぎないとおねもう者である。
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「池田小」事件から10年。

2011年06月07日 | とんでもない!
 明日、六月八日は2001年の当日の朝に、大阪教育大学付属池田小学校に刃物を持った男が乱入し、児童8人が死亡し、教師を含む15人が重軽傷を負った「付属池田小・児童殺傷事件」から丸10年になる。

 午前10時に小学校の二時間目が終わり、三時間目との休み時間に入る直前に、当時37歳の犯人Tが無施錠の自動車専用門から校庭を経て体育館の前を通って、南校舎一階の2年南組に入って、まず女児5人を無言で包丁で刺し、続いてテラスから隣の西組に移って児童を襲い、今度は廊下に出て、その隣の東組に入って更に4人を襲ったのだという。

 男は東組から外に出たところで、タックルしてきた教師(一年南組担任)の胸を刺して重傷を負わせて、その後も教師の「逃げろ!」という声に中庭へと逃げていく児童たちを男はしばらく追いかけたところで引き換えして、再び1年南組に行って黒板の傍に居た4人の児童を切りつけたところで、ようやく副校長ともうひとりの教師によって取り押さえられたという。

 この凶行は、たった5分ほどの突然の出来事だったわけで、学校の教職員たちは、いったい何処で何が起きたのかもすぐには判らないうちに、男は児童8人を殺害し、教師2人と児童13人に重軽傷を負わすという、卑劣かつ大胆な殺傷事件として、大ニュースとなったので多くの人の記憶に今も直残っていると思われる。

 犯人のTは、逮捕後精神障害を装って罪を逃れようとしたみたいだったが、本人は小6の時に大教大付属池田中学校の受験を希望したことがあったらしいが、模擬試験の結果が悪くて断念した経歴があるらしく、中学校時代から家庭内暴力が始まり、工業高校に進学後は野球部に所属したが、練習態度が悪いなどから上級生にいじめられ、高校2年で中退し、この頃から不安感や体のだるさを訴えて、近くの精神病院に入院したことがあったらしい。

 その後、航空自衛隊に入隊し、パイロットを志望したが整備などにまわされたために除隊し、父親の金で運送業をはじめるが失敗し、不動産会社に就職し、母親との二人暮らしをしつつ母親への激しい暴力は続いていたという。

 その後も、不動産会社の業務中に集金を装って女性宅に上がりこんで暴行、強姦し、逮捕を免れるために精神病を装って入院したが、性格異常だが理非弁能力はあるとの地検の嘱託医の診断で逮捕され、この婦女暴行事件で懲役3年の実刑判決が出て少年刑務所に入所しているという。

 その後は4度の結婚、離婚を繰り返した上、殴り合いの喧嘩やストーカー行為や暴行事件を数々起こしていて、その前後にも精神病院に入院したりして、技能員として小学校に勤務していた際の傷害容疑事件では精神分裂病の疑いと診断されて、措置入院となり結局不起訴となっていたらしい。

 この幾多のトラブルを経て、その腹いせに「大量殺人」を企図し、犯行に及んだというのであった。

 捜査と公判両段階で行われた精神鑑定では、彼は「人格障害」と診断されたが責任能力は認められ、殺人、殺人未遂罪で起訴され、結局「死刑」が確定した後、死刑廃止を訴えるアムネスティ・インターナショナルの活動に参加していた女性と5度目の結婚をし妻が最期を耳取ったらしいが、最後まで被害者遺族に対する謝罪の言葉はなかったという。

 事件後、全国各地の幼稚園、小中学校などで「安全対策」や「事件防止策」が議論され、学校の門扉が閉ざされて、地域に開放された学校という理想が遠くなったのは、この事件との因果関係が強く、何処にでも「非常識な行動」や「異常な精神状態」の人間がいると思われるのだが、どうも完璧な防護策や似た様な事件の再発を防ぐことは不可能ではないだろうか。

 いくら「さす股」と呼ばれる防御道具を職員室や教室に置いたり、校門にインターフォンを設置したとしても、こうした犯行や自己中心型の想いを凶行するであろう犯行予備軍ともいえる「心に闇」を持った人間が、社会の隅には必ずいると思われるからである。

 「理不尽な犯行」という犯罪が多発している現代社会の闇は、人間の英知や対応策だけでは止められないのである。
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「芒種」という二十四節気。

2011年06月06日 | 季節の話題
 今年は何故か五月下旬に全国的に「梅雨入り」して、早や2週間近くになるが、六月六日は「芒種」と呼ばれる、二十四節気の第九番目で立夏と夏至の間にあたる日になっている。

 「芒種」(ぼうしゅ)とは、稲や麦など「穂が出る穀物の種を蒔く」という意味であり、この頃は種まきを始める農家が忙しくなる時期とされている。

 しかし、昨今の気候の不順さや地球温暖化の影響もあって、既に日本国中の多くの地域では、既に「田植え」がされていると思われるので、その前に行われる「苗床」のための「種まき」も既に一ヶ月ほど前に終わっている場合が多いと思われる。

 私の住む京都南部、山城地方でもいたるところで「田植え」がなされていて、先週末の土日も半農半勤め人の農家では急いでの「田植え」をしようとされていたのか、路上に「稲の苗床」が一塊落ちていたことがあって、少しもったいない気がしたので、よほど車を停めて拾得し我が田んぼを作ろうかと思ったほどであった。

 確かに農家が忙しくなる季節なのだが、東日本大地震の被災地においてはそれどころではなく、いまだ避難場所での生活を余儀なくされている農家、農業専業の方もいると思われるので、「芒種」も全国的には今年は出来ないところもあるのである。

 「梅雨入り」して、近くや移動する近辺の道路脇から、田んぼに水が張られて、稲の苗が田植えされている光景を目にすると、ほんとうにお百姓さんのご苦労に感謝すると共に、秋の稲刈り、収穫まで、どうか台風や暴風雨の被害にあわずに育ってもらいたいものだと心から願う気持ちになるのは、私たち日本人が「農耕民族」としての歴史が長く、たぶん体内のDNAに、そうした「感性」が埋め込まれているせいなのではないかと思っている。

 ほんとうに「緑のたんぼ」、すなわち「稲の苗が植えられた」田園地帯は、ただ単なる「米の生産地」というだけでなく、日本の農村地帯の原風景として、また食物生産現場としての伝統と誇りを感じさせてくれるし、自然環境とマッチした「環境保全」の一端を担っているというべきだろう。
 そんな「たんぼ」も、時代と共に様変わりしているのは、ひとつは人手不足からくる機械化、そして「農薬漬け」の危惧があるのではないだろうか。

 いくら「安全、安心」の食糧生産と言っても、肝心要の「人手」が足りなければ、そして前述した如き、「半農半勤め人」と言った農業形態では、なかなか「無農薬」や「有機栽培」と言った手間隙かけた「米作り」が出来ないのではないだろうか。

 最近の一般的な農協やスーパー、中には生協と呼ばれる昔は「産地から安全な食物を」と言った理念で始まった消費者参加の組合組織でさえ、需要と供給のバランスの問題を契機に、現在は一部の組織を除いては、「有機」や「無農薬」の米の取り扱いすら行っていないくらいになってしまっている。

 「種を蒔く」という神聖かつ人間の英知に基づく「農産物」を栽培する術すら、現代社会の価値観の中で、自然な姿を失いつつあり、時期もさることながら、自然な「いのち」を自然に近い形で生産し、我々の「いのち」の源となる「食物」として我々の口に入るといった自然な流れが、自然でなくなってきていると言えるのではないだろうか。

 「芒種」と言われる本日、改めて日本の農業、特に「米作り」についての「無農薬」「有機」栽培を見直してがんばっている農家とお百姓さんに賛辞をおくりたいと思うのである。

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理想は三世代同居。

2011年06月05日 | ファミリーイベント
 明治、大正、昭和、平成と日本の社会の変動に伴って、特に戦後経済の高度成長期を境にして、日本社会の家族構造が大きく変化しだして、いまや三世代同居という形で生活している人たちが極端に減っているのが現状であると言える。

 確かに高度成長の実態というのは、農業や漁業、林業といった第一次産業と言われる「仕事」から、都会を中心とした第二次産業、第三次産業と言われる工場や会社での雇用が増大し、田舎から都会や別な地方へと若い世代が移り住むことによって、だんだんと崩壊してきたと言えるのが「三世代」以上の同居といった日本的大家族だといえる。

 昭和30年代半ば、つまり東京オリンピックが開催された1964年ごろから、新幹線や高速道路網の整備や、戦後の日本経済の底力を見せ始めた産業構造の大幅な発展は、大量生産、大量消費の「豊かさ」をうたい、公共事業を中心とした「まちづくり」「インフラ整備」などの建築、土木業も右肩上がりの成長を続けてくる中で、見失ってきたのが「三世代同居」を典型とする日本の家族の姿であったと思われる。

 何故に、この「三世代家族」を取り上げたのかと言うと、昭和から平成の世、すなわち20世紀の後半から21世紀に突入して11年が経った、ニッポン社会が誰もが「何かが狂って来ている」と感じ出している「元凶」とは何だろうかということなのである。

 つまり、「虐待」「DV」「ストーカー」「詐欺」「家族殺人」「窃盗、強盗」と言った各種多様な犯罪が、あまりにも多くなっている現代になってしまった一因が、ここにあるのではないかという推論が成り立つのではないかと思うのである。

 ただ「昔は良かった」と言っているのではなく、世の中の規範、人間的モラル、社会的常識などと称される「価値観」が、世代を超えて「三世代家族」や「大家族」の中にあっては、知らず知らずに見聞きしたり、叱られたり教えられたりと、反面教師と言われる逆の示唆も含めて、日常的生活の中で学ぶことが出来ていたのではないだろうか。

 子供たちが幼稚園、保育所に始まる集団的社会生活で、初めて体験したり学んだりすることもあると思うが、たいていの「物事の善悪」や「普通の対応の仕方」などは、就学前も含めて「家庭の躾」や「父母、祖父母」などからの「教え」で身についている人が大半だったような気がするのである。

 しかし、現代社会にあっては、多くの子供たちが共働きや忙しい父、母の居てもいない時間や状態が多い中で育ち、「預けられたり」「一人でいたり」する時間が多く、たいていは「テレビ」や「ゲーム」や「漫画」の世界で時間をつぶし、中には食事もコンビ二や買い食い、または孤食と言われる「一人」で済ますと言った状態も増えている様である。

 そういった現状が増せば増すほど、「自分勝手」な気持ちが優先し、「他人を思いやったり」、「相手の気持ち」を考えて行動したり言葉をお選んで配慮するなどと言った「感性」を失い、「だって嫌なものはイヤ」とか、「自分の好きな様にしたい」と言った行動や言動を許してしまい、結局「ワガママ」や「すぐキレル」人間を生み出しているのではないだろうか。

 最近、ご年配の方々と話していると、この様な話が多く聞かれるようになっていて、私も戦後の団塊の世代として、「三世代同居」はしていないが、近くに娘夫婦と孫が二人居て、少なくとも一週間に二度や三度は会っているためもあって、同居に近い心境ではあるのだが、親子や祖父母との距離感を大切にした「労わり」や「手助け」が必要だと実感しているのである。

 私の老母は94歳で大阪で健在なのだが、自分が21歳の時に実父は他界している関係で、最近は私の住む京田辺市内で「三人の母と二人の父」と感じている知人たちと交流する機会が増えて、いずれも「私を息子」の様に思っていただいているので、とっても嬉しく感じつつ、出来るだけの「お手伝い」や「話し相手」になって、お役に立てればと思っているのである。
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首相回転ドア。

2011年06月04日 | 日本の課題
 菅直人首相の就任から、またもやたった一年しか経っていないのに、与野党あげての「内閣不信任案」をめぐる攻防がドタバタとされたあげく、民主党の両院議員総会という場で、菅首相が「震災復興と原発事故の収束への一定のめど」が立ったところで、若手に引き継ぐとスピーチし、「首相退陣」を示唆したということで、一夜にして逆転し、民主党内部からの造反は衆議院議員二名にとどまり、小沢一郎氏と田中真紀子氏を含む民主党会派の14名が不信任決議案の採決をボイコットして退席するという形で、前夜に賛否が拮抗し、ひょっとしたら「不信任案可決」もありうると予測されていたのに、圧倒的な民主党議員の大半の反対票で否決という結末に至った。

 その後、鳩山由紀夫前首相が、菅首相をペテン師呼ばわりしたり、民主党の幹部議員も野党のさまざまの議員たちも、口々に「菅首相の退陣時期」について、勝手な憶測を交えての私見をいたるところでそれぞれ言っているが、肝心の菅首相自身は退陣の時期については明確な表現はしていないのである。

 鳩山氏は六月中に退陣されると約束されたと言うのだが、別の民主党幹部の若手は、第二次補正予算のめどがたつ八月から九月頃には自らの決断で退陣されるだろうとの見方で語っているのだが、当の菅首相は九月の日米首脳会談も含め、当分は責任を果たすために全力を尽くすと側近には言っていて、もうしばらく首相退陣とは行かないようである。

 しかし、「一定のめど」をつけた段階という「あいまいな表現」で、両院議員総会で発言した菅首相の本心は如何だったのだろうか。昔の僚友であった鳩山前首相に説得、示唆されての苦肉の策での「めど」発言だったのかもしれないが、一瞬先は闇と言われる政界にあって、なんだか「一定のめど」発言でしばらく生き伸びたと言った感が強いのである。

 日本国内では、東北、北関東を中心とする東日本大震災の被災地および、福島原子力発電所事故で避難を余儀なくされている多くの福島県を中心とする東北地域の人々にとって、今回ほど「政治家は何をしているのか?」と心底思ったこともあるまいと思うほどの、相変わらずの権力闘争か自分たちだけを良とする自己主張の仕合の果てが、いい加減な「退陣予告」による、一旦収束という「わけの分からぬ」形での「首相の延命策」となり、「あきれた」上に、「全く何を考えているのだ!」との怒りにも似た声や反応しかなかったのではないだろうか。

 また、全世界では日本の東北地方の大震災、大津波の被害と原発の放射能漏れという大事故については、同情と共に多くの支援活動や人と金の援助が続く中、「日本の首相」は、「回転ドアの如く」という、「くるくる変わる日本の首相」は、「回転ドア」と称されていて、「Japan’s revolving-door leadership」、すなわち「回転ドア」と評されているのだそうである。

 巻頭の写真にもあるように、ここ数年は毎年の日替わりメニューのような形で、自民党時代の安倍、福田、麻生、民主党政権になってからの鳩山、菅とほとんど一年後との首相交代を皮肉るのも通り過ぎて「回転ドア」と称して評価というよりもあきれているようである。

 どう考えても、自民党を中心とする政権から、初めて総選挙によっての「政権交代」が民主党を中心とする新政権にようやく変わって、少なくとも衆議院議員の任期としての四年間をじっくりとお手並み拝見といきたいところだったのだが、前鳩山首相は沖縄の米軍基地飛行場である普天間基地の移転問題で、辺野古に新滑走路を建設するという形で何とかお願いしたいという、とんでもない結論を猛烈に批判されて退陣せざるをえなくなったのが昨年六月だったのだが、その一年後再び自分のことはお忘れになったのかもしれないが、菅首相を「うそつき」呼ばわりして批判されているのだが、自らが取られた行動や言動とほとんど同じ様な優柔不断な首相の態度にクレームをつけておられるのだが、「同病相哀れむ」と言った感じで、あの闇将軍、現在も政界のドンの様な振る舞いと言動の「小沢一郎」も見かけ倒しの傾向があり、誰もが「同じ穴の狢」としか見えないのである。

 世界のメディア、特にイギリスやヨーロッパEC諸国にとっては、未だに日本の首相は「麻生」か「安倍」と言った自民党時代の一年代わりの末期の首相像のままであり、先日のフランスで行われた「G8」、先進国首脳会議「サミット」には、たぶん菅首相が出席していたのにも関わらず、似顔絵かイラストに描かれた日本の首相らしき姿が全く「菅」ではなく、「麻生」だったというから、苦笑いというよりもいい加減かどうでもよい存在であるという証拠だったりも露呈したのであった。

 「くるくる変わる日本の首相」を皮肉った「回転ドア」がいつまで続くのかは定かではないが、震災、大津波からの被災地の復興、再生およぴ原発事故の安心な収束のためにも、少なくとも民主党政権の最大任期のあと二年間を暫定的でも「回転ドア」と揶揄されない、権力闘争や与野党の政争の具としない、本当の意味での国民の生活を守るための「政策優先」の内閣を新たに創っていただきたいと思うのは私だけではあるまい。

 さて、回転ドアのしかけを創ったのは誰だかしらないが、少なくとも国会議員の権利と利益だけを優先したような「首のスエカエ」をいい加減な目先の利害で決めるのではなく、菅首相の言う「若い人たち」に受け継いでもらう体制作りを、少なくとも6月から8月にかけてじっくり検討し、9月の日米首脳会談を最後の首相の晴れ舞台として正々堂々と退陣されることを期待したいと思うものである。今すぐにお辞めになっても、何も変わらないし、余計にみっともない回転ドア周期を一年とするだけである。
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