今晩、サッカーのオリンピック予選の第一段階のクエート戦の中継が終わって、九時からNHKスペシャルが上記のタイトルでのアメリカのピューリツァー賞受賞作家であり、太平洋戦争末期の沖縄戦で戦った当時の米軍海兵隊の兵士だった父を持つ、デール・マルハッジ氏によるドキュメンタリーレポートを見たのである。
彼の父であるスティーブ・マルハッジ氏は1925年生まれで、19歳の時に第二次世界大戦末期の沖縄の地上戦に第6海兵師団の「L中隊」と呼ばれる総勢240人の部隊の一員として、1945年4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸し、その後6月24日に実質的に沖縄戦が終結するまで戦ったのだが、生き残ったたった31人の兵士のひとりとして戦後帰国したらしいのだが、2000年にすい臓がんでこの世を去った人らしいのである。
その息子であり、ジャーナリストとしても活躍し著書も出版しているデール氏が父の死の寸前に枕元で語った「私は昔、沖縄戦で日本人を殺した」という言葉の真相を確かめようと調べだし、彼が亡くなる前に残した戦争の遺品のいくつかの中にある「日本軍手引書」なるものの表紙裏に「与那城実正」という氏名を確認し、それも手がかりに2011年、今年の4月1日に沖縄にやってきて取材をしているのであった。
父が生前、「沖縄戦で日本人を殺した!」ことを悩み苦しんでいたことを母親からも聞いていたので、その原因のひとつが日本兵ではなく、少年のような罪もない民間人を出会いがしらに射殺してしまったことを、生涯ずっと悩んでいたらしく、戦後自宅に帰ってからも自宅の地下室の仕事場で、時々機械に向かって「ママはいないんだ、黙れ!」とか叫んでいたらしく、精神をも病むくらい正常ではなかったらしいのである。
沖縄に現在もある「県立工業高校」の生徒だったらしい前述の「与那城実正」という人は、確かに昭和14年に卒業した生徒として実在していたのだが、当時物資が極端に不足していたので、その「日本軍手引書」も数が少なく、先輩から後輩へと譲り渡して使用していたらしく、この遺品としてアメリカに父が持ち帰った品は、必ずしも名前の本人が持参していたものではないらしいことが判明した。
というのは、与那城実正という人物は戦争中の死亡、すなわち戦死ではなく、戦後に一般的な死亡という形で記録されていたそうなので、たぶん父が遭遇した少年兵らしき少年が譲り受けて持っていたものらしいことが分かったのであった。
つまり、デール氏の取材、調査によると沖縄戦が実質的に終結した1945年6月23日の後に、まだ投降していない人たちを探す任務をしていた父スティーブさんが突然出くわした少年と目と目が合って、恐怖からか彼は少年を撃ってしまったらしいということが分かったのであった。
その当時の戦争は、「やられる前にやる(殺す)」というのが当たり前の自分を守る最大の術であり、全てに関して兵士はそういった訓練と鍛錬をしていたので、実質的には終焉していたとは言え、まだ戦争自体は終わっていない非常時にあって、彼が民間人であったとしても撃ってしまったこと自体は避けにくい状況だったと推測されるのである。
しかし、戦後66年も経った現代でさえ、生き残りの沖縄戦経験者の沖縄に住む老人たちは、米軍が何故に罪もない民間人の多くをも殺戮したのかを恨み、信じがたいと証言していて、手榴弾や火炎放射で集団で逃げ惑っている沖縄の人たちがガマや隠れ家から逃げ出したところで両親や兄妹を殺された証言者の怒りはいまだ収まらないのは当然である。
現在、アメリカで生存している、この沖縄戦で戦った生き残りの84歳以上のお年寄りの証言者の多くが、こうした沖縄戦での民間人の殺戮に関しては悔やんでいたり、悩んでいたりしているというインタビューもあり、デール氏自身は前述の一家を殺戮された沖縄の宮平さんという証言者に「アメリカの正義とは何か?」と問われて、答える言葉すら出なかったというのであった。
私も二十数年前と十年ほど前に、沖縄戦の戦場でもあった読谷村の「チビチリ蝦蟇」に行って、現地の人の案内で自然の洞窟の中にも足を踏み入れたことがあったが、狭くて暗い自然の洞窟の中で人々がひしめき合って米軍や日本軍から逃れて、食べる物も着る物もろくにない中で、助け合い息を抑えて時の過ぎるのを待っていた光景や惨状を想像するだけで、息が詰まりそうな苦しさを覚えたことを記憶している。
戦後、66年が経ったとは言え、6月23日に太平洋戦争末期の最大の日本内地の地上戦であった「沖縄戦」が約3ヶ月足らずの激戦の末、日本は敗戦、全面降伏への道を下らざるを得ない致命的な敗残を喫したのだが、沖縄戦での約20万人の犠牲者のうち半数は民間人であることを忘れてはならないし、また1ヶ月余後の廣島、長崎に投下された「原子力爆弾」による犠牲者はさらに多く、ほとんどが民間の生活者であったことを思うと、戦争という異常事態とはいえ、恐怖の中でイノチを落として行った亡き人たちの無念を改めて思わざるを得ないのであった。
最後に、この戦後66年間日本は国内では戦争を一度もせず、いや朝鮮戦争では朝鮮半島で戦っているが、アメリカはずっと戦争を世界の何処かでし続けているという言葉が、重たく聞こえたし、現実として改めて捕らえなければならないと感じたのであった。
彼の父であるスティーブ・マルハッジ氏は1925年生まれで、19歳の時に第二次世界大戦末期の沖縄の地上戦に第6海兵師団の「L中隊」と呼ばれる総勢240人の部隊の一員として、1945年4月1日に沖縄本島の読谷村の海岸に上陸し、その後6月24日に実質的に沖縄戦が終結するまで戦ったのだが、生き残ったたった31人の兵士のひとりとして戦後帰国したらしいのだが、2000年にすい臓がんでこの世を去った人らしいのである。
その息子であり、ジャーナリストとしても活躍し著書も出版しているデール氏が父の死の寸前に枕元で語った「私は昔、沖縄戦で日本人を殺した」という言葉の真相を確かめようと調べだし、彼が亡くなる前に残した戦争の遺品のいくつかの中にある「日本軍手引書」なるものの表紙裏に「与那城実正」という氏名を確認し、それも手がかりに2011年、今年の4月1日に沖縄にやってきて取材をしているのであった。
父が生前、「沖縄戦で日本人を殺した!」ことを悩み苦しんでいたことを母親からも聞いていたので、その原因のひとつが日本兵ではなく、少年のような罪もない民間人を出会いがしらに射殺してしまったことを、生涯ずっと悩んでいたらしく、戦後自宅に帰ってからも自宅の地下室の仕事場で、時々機械に向かって「ママはいないんだ、黙れ!」とか叫んでいたらしく、精神をも病むくらい正常ではなかったらしいのである。
沖縄に現在もある「県立工業高校」の生徒だったらしい前述の「与那城実正」という人は、確かに昭和14年に卒業した生徒として実在していたのだが、当時物資が極端に不足していたので、その「日本軍手引書」も数が少なく、先輩から後輩へと譲り渡して使用していたらしく、この遺品としてアメリカに父が持ち帰った品は、必ずしも名前の本人が持参していたものではないらしいことが判明した。
というのは、与那城実正という人物は戦争中の死亡、すなわち戦死ではなく、戦後に一般的な死亡という形で記録されていたそうなので、たぶん父が遭遇した少年兵らしき少年が譲り受けて持っていたものらしいことが分かったのであった。
つまり、デール氏の取材、調査によると沖縄戦が実質的に終結した1945年6月23日の後に、まだ投降していない人たちを探す任務をしていた父スティーブさんが突然出くわした少年と目と目が合って、恐怖からか彼は少年を撃ってしまったらしいということが分かったのであった。
その当時の戦争は、「やられる前にやる(殺す)」というのが当たり前の自分を守る最大の術であり、全てに関して兵士はそういった訓練と鍛錬をしていたので、実質的には終焉していたとは言え、まだ戦争自体は終わっていない非常時にあって、彼が民間人であったとしても撃ってしまったこと自体は避けにくい状況だったと推測されるのである。
しかし、戦後66年も経った現代でさえ、生き残りの沖縄戦経験者の沖縄に住む老人たちは、米軍が何故に罪もない民間人の多くをも殺戮したのかを恨み、信じがたいと証言していて、手榴弾や火炎放射で集団で逃げ惑っている沖縄の人たちがガマや隠れ家から逃げ出したところで両親や兄妹を殺された証言者の怒りはいまだ収まらないのは当然である。
現在、アメリカで生存している、この沖縄戦で戦った生き残りの84歳以上のお年寄りの証言者の多くが、こうした沖縄戦での民間人の殺戮に関しては悔やんでいたり、悩んでいたりしているというインタビューもあり、デール氏自身は前述の一家を殺戮された沖縄の宮平さんという証言者に「アメリカの正義とは何か?」と問われて、答える言葉すら出なかったというのであった。
私も二十数年前と十年ほど前に、沖縄戦の戦場でもあった読谷村の「チビチリ蝦蟇」に行って、現地の人の案内で自然の洞窟の中にも足を踏み入れたことがあったが、狭くて暗い自然の洞窟の中で人々がひしめき合って米軍や日本軍から逃れて、食べる物も着る物もろくにない中で、助け合い息を抑えて時の過ぎるのを待っていた光景や惨状を想像するだけで、息が詰まりそうな苦しさを覚えたことを記憶している。
戦後、66年が経ったとは言え、6月23日に太平洋戦争末期の最大の日本内地の地上戦であった「沖縄戦」が約3ヶ月足らずの激戦の末、日本は敗戦、全面降伏への道を下らざるを得ない致命的な敗残を喫したのだが、沖縄戦での約20万人の犠牲者のうち半数は民間人であることを忘れてはならないし、また1ヶ月余後の廣島、長崎に投下された「原子力爆弾」による犠牲者はさらに多く、ほとんどが民間の生活者であったことを思うと、戦争という異常事態とはいえ、恐怖の中でイノチを落として行った亡き人たちの無念を改めて思わざるを得ないのであった。
最後に、この戦後66年間日本は国内では戦争を一度もせず、いや朝鮮戦争では朝鮮半島で戦っているが、アメリカはずっと戦争を世界の何処かでし続けているという言葉が、重たく聞こえたし、現実として改めて捕らえなければならないと感じたのであった。