ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

海の日って、きな臭いな!

2005年07月18日 | 季節の話題
 「海の日」と言われても、我々には、どうも夏到来で、海にでも海水浴や遊びに行くのに絶好の季節の開幕と言った感じなのだが、どうも何故、この日が「海の日」なのか、少し紐解いてみようと思ったのである。

 どうも私の第六感では、きな臭い匂いが漂ってくるのであるが、「海の日」自体は、日本の祝日として一番歴史が浅く、1996年から国民の祝日となったのだが、7月に祝祭日が一日も無かったので、無理やりつくった感じの祝日と感じている。

 そもそもは、7月20日が「海の記念日」としてあったそうなのだが、2003年から
、7月の第3月曜日となり、少しでも土日に続いての三連休を増やす目的で、成人の日や建国記念日、敬老の日などと共に、全くその日と関係ないのに、祝祭日とされてしまっているのである。

 海の記念日は、1876年に、明治天皇が東北地方の巡幸をし、それまで軍艦で渡航されていたのを、灯台巡視の汽船「明治丸」で初めて航海し、横浜港に帰港した日が7月20日だったということから、1941年に逓信大臣、村田省蔵の提唱で制定された日に拠るらしい。

 たいした根拠たる理由では無いが、海運や船舶に関するお仕事の方々には、「海の記念日」として記憶されていたらしい、ただの記念日であり、国民の祭日にするほどの理由だとは思えない、やはり7月に1日くらい祝祭日を、とした経済や消費を高めるための、政府の思いつきの祝日に過ぎないのである。

 しかし、本日7月18日は、7月第3月曜日ということだけで、「海の日」として休日化したたけの日なのだが、実は61年前の今日、7月18日は、あの大東亜戦争をしかけ、多くの国民、アジアの人民の悲惨な戦場を演出した,東条英機内閣が総辞職した日だったのである。

 第二次世界大戦の末期として名高き、サイパン陥落の責任を取って、東条英機内閣が総辞職し、小磯,米内協力内閣が成立し、対策に苦慮したが、ビルマや、太平洋沿いのアジア諸国での抵抗にもあって、戦況は益々不利となり、レイテ島沖海戦、が日本海軍の最後となり、1945年になると東京、大阪大空襲として本土が焦土と化し、4月には沖縄での地上戦が6月まで続いて、8月の広島、長崎への原始爆弾の投下で、連合国に対して無条件降伏で8月15日に敗戦となったのである。

 まさに地獄の本土決戦を前に、今A級戦犯として問題の靖国神社に合祀されている、歴史上の人物と化している東条英機内閣総理大臣の総辞職と言う、やはりきな臭い日々との関連が浮かびあがってきたのである。

 明治天皇の巡幸などと言う、日本国民にとっては触れることの出来ない、宮内庁行事に端を発していると言うことは、庶民の生活とは全く関係のない日であることが、明白な事実だと確認できるのである。

 「海の日」は、海の安全を祈願する、海開きの日である。
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禁煙エリアと携帯電源

2005年07月17日 | 感じたこと

 本当に、日本社会のモラルは何処にあるのだろうかと思うほど、社会的に決めたルールなんて、どこ吹く風の如く、破ったり従わなくても平気な大人たちがたくさんいるのである。

 きようも駅のベンチで、次の快速電車を待つために10分ほど座っていたのだが、隣のおっさんがベンチの前のプラットホームに禁煙ゾーンと、わざわざ書いてあるのに、密かに煙草を吸っているではないか、おまけに後からやって来た、そのおっさんの知人と思われる人も、ちょっと目配せしながら「ここは禁煙とちゃうん?」てなアイコンタクトでコミュニケートしながら、煙草に火をつけたのである。

 こちらと来たら、ちょっとの時間ではあるが、わざわざ禁煙ゾーンと大きく書かれたベンチの前に目をやりながら、大きくため息をつくしか出来なかったのであるが、電車のホームから見える壁には、「子供達が見ている大人の姿!」と大きく掲示されているのだが、まったく気にも留めていない様子であった。

 私達非喫煙者の権利を守る時代にやっとなって、最近は喫煙者にとっては過ごし難い世の中だとは思うが、公共的な場所を中心に、しっかりと明記された禁煙マークやゾーン表示にも、見て見ぬふりなのか、「赤信号皆で渡れば怖くない」的発想なのか、全く迷惑なことである。

 まだ喫煙者の、こうしたマナー違反は、その場から立ち退くことが可能な場合は、煙の害や煙たさを避けて移動すれば済む場合もあるが、ちょうど2年ほど前の、議会の研修の旅行の際には、全く憤りすら感じた事象に出くわしたことがあるのである。

 市の議会事務局職員が同行するのだが、本人が喫煙嗜好者のために、西武鉄道の特急に乗車の際に、6両編成の1両だけ喫煙車なのに、わざわざ参加者の喫煙の有無も確かめずに、全員を喫煙車両の指定席を取っていたため、発車前の車内は、喫煙者たちの煙でもうもうと煙っており、座るどころではなく、踵を返して隣の車両に移動したのである。

 彼の脳裏には、自分が喫煙することしか浮かばず、非喫煙者の迷惑や間接喫煙の害など、全く配慮や思いを巡らすことすら出来ないのである。こんな人が公務員として市役所で仕事をしているのだから、社会的弱者と言われる人たちの福祉やサービスが、行き届かないのは当たり前だと思ってしまうのである。

 また最近ひどい状態なのが、公共交通機関である電車内での、携帯電話の使用である。さすがに車内で話す人は少なくなったとは言え、ある車内では向かい側も含めて座席に座る若者から中年まで、二人に一人は携帯の電源をONにしたままと思われる状態で、メールや情報サイトの検索かゲームに夢中なのである。

 JRと私鉄の携帯に対する「注意喚起とお願い」に違いはあるが、何れにせよ心臓ペースメーカーをつけた障害者には、たまったものではない。私の知人の老夫婦が30分ほどの私鉄の車内で、ある時肩にもたれかかってくる青年があり、居眠りかと思ったら、「電波で気分が悪いのです」とペースメーカーの不調による「しんどさ」を訴えられたそうなのである。

 そこでご婦人の方が、車内の携帯電話を持って、操作している人たちに、勇気を持って、〔スミマセンが、こちらの方がペースメーカーを装着されていて、しんどくなられているので携帯の電源を切って下さい」と訴えられて、何人かの人が対応されたが、再度言われるまでは、まだ数人の電源が入ったままだったそうであった。

 その時以来、彼女は自分が心臓障害を持っているつもりで、車内の携帯使用者には、必ず注意をさせていただくのだとおっしゃっていて、「年寄りだから、逆切れされて大丈夫だよ」とちょっとした勇気で、少しでも心臓障害者だけではなく、快適な車内空間で迷惑な行為を排除する努力をされていることに、敬意を感じているのだが、なかなか注意喚起はし難い場合が多いものである。

 いずれにせよ、大人の社会的マナーの欠如は、禁煙や携帯使用だけではないが、まず公共的な場所での、最低限の公衆マナーとしての、この二つのルールの徹底と注意喚起が必要である。

 「子どもが見ている大人のマナー」をわきまえて、迷惑行為の少ない社会に近づけたいものである。
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自立支援法なんて!

2005年07月15日 | とんでもない!
 国会での「郵政民営化」騒ぎの中で、もうひとつ大切な法案の審議が続いていたのだが、マスコミの大半は、この障害者自立支援法案については、ほとんど報道をせずに、先日、ひどい「自立を妨げる」法案が、衆議院厚生労働委員会で可決されてしまいました。

 昨日の兵庫県川西市で行われた「市民派議員交流勉強会」でも障害者市民の方が参加されており、散会間際に「ともかく障害を持っていても安心して暮らせる弱者への方策、制度を!」と切実に訴えておられたことが、深く心に残り、私達地方議員としても、責任と強い怒りを、政府、自民党、公明党に感じざるを得ません。

 先日は1万人以上の障害者の方々が、国会周辺でデモをされて、口々にまたプラカードで、「私達の命と生活を守って欲しい」と訴え続けられましたが、何と冷たい仕打ちとでも言わざるをえない「自立支援」ではない、「自立放棄への」の政府案が、名前だけ「自立支援法」として一人歩きしています。

 障害者に対する福祉サービスは、支援費制度への移行でも多種多様な問題が投げかけられて、従来通りではない政府の福祉切捨て策が感じられていましたが、今回の「障害者自立支援法」は、とんでもない障害者の生活を不安に陥れる、福祉サービス全てに1割の受益者負担を強いる悪法であり、障害者年金などで、自立を目指している人たちの日々の生活、暮らしを破綻させかねないマヤカシノ法案なのです。

 政府は介護保険との統一化、すなわち受益に対しての「応益負担」をさせるという制度に無理やり移行しようとするあまり、性急に議論半ばで、民主党などの反対を押し切り、強硬な態度で数の論理のみで、郵政法案同様に、突っ走っているのです。

 財政難によって、障害者にも応益負担と言う、とんでもない厚生官僚や国会議員の懐は全く、不況や金欠病なんてなく、最低1千万から二千万円強の給与所得や報酬所得のある「お偉い」方々ばかりが、机上の計算で1割位の負担は、止むを得ないと言っているわけで、全く実情を知らない、障害者に「死ね!」と言っているのと同然の仕打ちです。
 
 彼らの障害年金は、二級で月額6万6千円。デイサービスなどの支援を受けると自己負担の上限1万5千円はあるが、生活費として残るのは5万1千円となってしまうのである。従来の生活費の20%強の支出増ととなり、食費や最低限度の日用品費の捻出もままならない窮状となってしまうのです。

 最低限の介助や福祉サービスまでもを、受益とみなすこと事態が間違っており、障害者の生活支援は、自立に最低限必要な福祉であり、国、府県、市町村などが、責任もってすべき行政施策であり、社会的弱者をほんとうの意味でサポートするサービスを行政にしていただきたいと強く要望したいものです。 

 財政難や予算が少ないのは、不必要な談合や大企業や利権団体に多額の税金を無駄に垂れ流しの様に、またばら撒いてきた、自民党を中心とする政府の責任であり、その責任を自覚せず、弱いものいじめとしか思えない「障害者自立支援法」は「郵政民営化」と同様に、良識の府、参議院で廃案にしてもらいたいと願ってやまない。
 
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人の噂も75日か?

2005年07月14日 | 日本の課題
 あのJR福知山線の電車転覆激突事故後、初めて事故現場の尼崎、塚口間を同系電車で通った。

 車内から例の激突したマンションが見えるところを通過する時、手に持っていたデジカメで撮影しょうと思ってシャツターを切ったつもりが、パワースイッチをoffにしてしまって、撮影は出来なかったのだが、家人に話すと現場では合掌すべきなのにと、ご指摘を受けた。

 このパソコンで、「例の現場」と表示しようとしてキーを押しても「霊の現場」と表記されてしまうほど、この現場の怨念は強いものがあり、私の拙い腕もあるがスナップ写真一枚のシャッターすら、まともに切れずに電源をOFFにしてしまう程、107名に及ぶ犠牲者の霊は強かったのだろうと感じたのである。

 ところで、あの電車事故以来、JR福知山線に接続する私達の町を通る片町線及び東西線の乗客は、暫くの間は一両目、二両目にわざわざ乗車する者が極端に少なくなっていたのだが、「人の噂も75日」と言われるだけあって、今日乗車してみると1,2両目の車両にも他の車両と同様に乗客が乗っていたので、びっくりしたり、人の記憶や思いは、何故に75日をボーダーに薄れていくのだろうかと、改めて不思議に感じたものである。

 しかし、決して忘れたりしてはいけない事象や出来事も多いものであり、4月25日に起きたJR福知山線、電車転覆激突事故は、犠牲者の数の多さだけではなく記憶にしっかりととどめて、本当に二度と起してはいけない人災であると思うのである。

 ちょうど「人の噂も75日」と言われる時期に、外国ではあるがパキスタンで死者180名、負傷者700名を越す、列車の三重衝突という大事故が起きて、テレビ報道がされていたが、再び日本中の普通の市民、視聴者が、あの尼崎の列車事故を再び思い出すきっかけとなったと思われる事故報道であった。

 JR西日本は全ての補償交渉などを円滑に進めて、早く、この惨事を忘れたいところだろうが、私達市民、乗客はもとより、公共交通機関の安全運行を願う者は、決して忘れてはならないことを、きっちりと教えてくれた意味で、「災害は忘れた頃にやってくる」と言われるように、パキスタンの列車事故が再び人災としての列車事故の悲惨さを教えてくれた様に感じている。

 兵庫県川西市に所用があって、たまたま事故現場を通って往きは通ったのだが、帰途に着く時は阪急川西能勢口駅から梅田への経路で帰ったために、JR福知山線の現場を復路として通ることがなくなり、手を合わせることも、現場のその後を撮影することも出来なかったのだが、心から再び「安全な鉄道」への祈りだけは、心に秘めながら梅田までの阪急電車の車中の人となって帰ったのである。

 「人の噂も75日」って諺に、何の根拠も無いが、一般的には大きな騒ぎや話題になっていたことでも、約2ヶ月半の75日くらいが経過すると、自然と人々の口から、その話題が消え去り新たな話題や関心事に心が奪われてしまうみたいであり、なかなか的確な諺と言わざるをえないが、忘れてはいけない例外的な話題や出来事もあるので、リピートしてみたのである。

 そうそう、戦後60年の広島、長崎、沖縄などの悲惨な戦時の惨状も、風化させてはいけない、語り続け「人の噂も75日」どころか、永遠に語り告がなければならない現代史である。
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「普通の対応」の違和感

2005年07月13日 | 感じたこと
 いろんな人がいて、いろんな生活、仕事、考え方がある。

 しかし、人は一人では生きていけないのである。多くの人に直接、間接を問わずお世話になったり、支えていただいたりして生きているのである。

 家族、友人、知人、同僚、関係者。いや全くの赤の他人の立場の方々にも、大変お世話になることが結構あるものである。

 日常の生活は、ややもすると自分の能力と考えと行動で全てがされている様な錯覚に陥っていることも多いのだが、事実は多くの行政マン、地域の人々、学校、職場の関係者、公共交通関係者、電気、ガス、水道、電話等のライフラインの影の力、そして何よりも大きなのが家族のサポートなのであるが、如何にたくさんの人々の世話と支えで生きているのかが分かる。

 そんな日常生活の中で、多くの出会いと関わりが生じるのだが、買い物での会話、市役所での応対、医療機関や交通機関での対応、町の中でのちょつとした出会いでの会話なども、よくよく考えて見れば、一日に何人もの人と出会っているのである。直接出会わなくても電話やメールなどでも多くの情報と言葉に出会っているのである。

 そのひとつひとつに、感情のある動物としての自分が心動かされたり、嬉しい、寂しい、がっかり、失望、明るさ、暗さと多種多様な影響を受けているのである。

 でも、他人にとっては、「普通の対応」として受け流される様な出会いや会話の一言に、深いショックや悲しみを感じる場合もあるのではないだろうか。

 「相手の気持ちを察する」ことは極めて難しいものである。相手の生活リズムや価値観、またその時、瞬間の思いなどは、想像もできないケースが多々あるだろう。

 何故、相手が不機嫌なんだろう。また何故何も返答が無いのだろうと、いちいち考えていても始まらない場合が多くて、一瞬違和感が感じられても、すぐに見過ごしたり、忘れて次の会話や動作に移っていて、再度先程の違和感を詮索したり出来ない場合がほとんどである。

 家族においても、そういう場合があるくらいだから、仕事や友人関係などでは結構あるのである。また一期一会とまでは言えないかもしれないが、全くの最初で最後と言ったような出会いでも感じることがあるものなのである。

 私は出会いを大切にしたいし、出会いから人生の悲喜こもごもと言うか、「人生の味」が始まると信じているものなので、この最初の違和感を、遠慮せずに相手に伝えることの大切さを、最近強く感じているのである。

 「普通の対応」に隠されている、見えない相手の違和感や不満、何かの過不足感を、是非素直に表現して、少しでもその隙間を埋める努力をしたいと思っている。

 昨夜も実質的には初めてと言える、同年輩の知識人にお会いしたのだが、前回はとあるところでお見かけしての名刺交換だけだったのだが、人伝てにご連絡をいただいて、改めて1時間余話す機会が与えられたので、じっくりとお互いの関心事や課題の入り口だけは話したと思うが、やはり何かの疑問や違和感は皆無ではなかった。

 でも人は相手を最初に出会ったときから、一定の自分の価値観と人物観で選択しているらしく、思想や考え方の違いではない、人生の生き方の相違は当たり前なのだがら、その上での「会話」が楽しめた満足感があったので、次回に時間をかけて再度会うことを約束して分かれたのであった。

 あまりにも、最近の社会が「普通の対応」の表面はあっても、相手のニーズや気持ちを察する「配慮」の出来ない拘り対応が多すぎると、私は感じていたので、久しぶりの「配慮」のできる「出会い」に「安心感」を持ったのである。

 自分が「普通」と思っている「対応」が果たして、相手にとって「普通」の受け止め方で受け入れられているのか、時には暫し検証、いや見直してみることも必要なのではないかと、つよく感じている昨今である。
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京都拾得、七夕コンサート!

2005年07月12日 | 感じたこと

 昨日の夜、久しぶりに京都は大宮下立売上ル、ライブハウス拾得(じゅっとく)に出かけた。

 何と33回目を数える、日本で最長の連続年数を誇る「フォークコンサート」である、七夕コンサートを聴きに、私自身は10年ぶりくらいに、拾得に出向いたのである。

 京都の古い住宅街の一角に、1970年代からあった「拾得」という名のライブハウスは、私達にとっては、四条の「たくたく」と並ぶ、京都のライブハウスの老舗であり、ここでコンサートライブが出来ることが、フォークシンガーにとっては誇りであった時代を生き抜いて来た、5名の敢えてフォークシンガーと呼びたい連中の老練の歌声を聴きに行ったのである。

 熱血のブルースを歌う「豊田勇造」、現代の語り部「三浦久」、ロック界の巫女「中山ラビ」、吟遊フォークシンガー「ひがしのひとし」、そしてコンサートの事務局として、33年間歌い、企画し続けてきた、バンジョーと美声の「古川豪」。この5人である。

 33年前、ベトナム戦争の孤児救援を目的にスタートした「七夕コンサート」だが、同じ72年にスタートした、天王寺野外音楽堂の「春一番コンサート」や円山野外音楽堂の高石ともや等の「七夕コンサート」が途切れている今、日本では最長の33年間続く、それも出演者が同じ5人のコンサートとして、今年も開かれたのである。

 最年長の三浦久氏が、当年59歳というから始まった年には、彼とて26歳の若さだったのである。私は縁あって、彼が20代の頃、フォーク系の音楽事務所をしていたので、彼と共に「みなみらんぼう」とコンサートツアーをしたこともあるのである。

 三浦久の歌声は、如何にも「現代の吟遊詩人としての語り部」にふさわしい、言葉と共に低くい歌声は、日本のレナードコーエンか哲学者と言った感じであり、私は彼の説得力ある歌声と、テーマとする人間の詫びさびが大好きである。

 今回も「地球に生きていることが素晴らしい、美しい」と歌う人間賛歌に感動を覚えたのだが、数年前に信州のご自宅を訪ねて、友人と共に聴いた「ミャンマーの青年の抵抗の歌」が懐かしくて、また三浦久の歌声として強く今も心に残っている。

 豊田勇造も、幾多の縁があって、20年近く前になるが、大阪の地下鉄、御堂筋線本町駅で全く偶然に、私は列車の乗り降りの際に、勇造に出会った縁で京都の私の住む町でコンサートを開いたことがあり、彼の熱くて、歌いこんだ「チャオプラヤ川」や「親父の背中」などの声量とブルースぽいギターとハーモニカにしびれたのである。

 他に、古川豪のバンジョーと町内会ソング、中山ラビの今も衰えぬ女性ロックシンガーとしての声の張り、ひがしのひとしの如何にも気取った詩人ぶった歌、それぞれの個性が今も50代のおじさん、おばさんになっても変らぬシンガーとして歌い続けていることの素晴らしさを、多くの同世代の聞き手として共感しつつ、時の経った今を思い、昔のエネルギーと純粋さを懐かしく思い出していた。

 コンサートは4時間近くに及んだが、最後に5人が一同にステージに上がって、ホーボーズララバイを原曲とする旅の歌や、おやすみソングを歌ったのだが、全てのキャラクターがまちまちで、揃わぬところが、如何にも30年以上、自分の個性を全面に歌い続けてきた連中の真骨頂だと、改めて感動と敬意を感じたのである。

 皆んな歳を同じようにとるわけではない。仲間であった高田渡、岩井宏、西岡恭象たちは、今やこの世にはいない存在となってしまっているのに、現に今を生きつつ、昔からのスタイルで歌い続けている、フォークシンガーに心からのエールを送ると共に、私自身の人生にこれからも大いなる影響とエネルギーをもたらしてくれる「永遠の歌」の数々に感謝の気持ちでいっぱいであった。

 実は、今日が私の?回目の誕生日であり、その前夜祭としての「七夕コンサート」を多くの思い出と出会いに感謝して、聴くことができた幸いを重ねて喜ぶものである。
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不思議な大型犬

2005年07月10日 | 地域の話題
 
 昨日から今日にかけての不思議な出来事であった。

 昨日の昼、私の友人夫妻の実家の前を車で通った時に、いつもは停まっていない友人家族の自家用車が駐車スペースにあったため、暫くして友人が立ち寄っているならば、時間があれば少しお茶でも飲んで話そうと、携帯に電話を入れたのである。

 友人のご家族全てを縁があって知っていたのだが、電話の応対によれば、夫人の実家のお父さんが「今朝亡くなりました」とのことで、私は驚きを感じながら、お悔やみを伝えて、通夜とご葬儀の日程を聞いて、友人との再会は、改めて別な機会にと話して、電話を切ったのである。

 翌日、今朝だが友人の夫人から電話があり、正式な葬儀の日時のお知らせかと思ったら、全くちがったお願いと言うか、相談であったのである。

 昨日、お父様のご遺体がご実家に帰ってきて以来、少し疲れた首輪のついた大型犬が、玄関先に居座っていて、通夜や告別式の準備にあわただしいお家なのに、玄関を開けると、中に入ってくるというのである。

 体は大きな茶毛の犬で獰猛さはなく大人しいが、人の出入りや今後のセレモニーに邪魔になるので、どうにかならないかとの相談であった。

 役所も土日業務はストップしているし、警察に通報しても対応してもらえないのでと、言われても私も途方にくれてしまう気持ちであった。しかし、これは何かの縁ではないかと私は感じたので、早速車で出かけて、その大型犬を荷台に乗せて、とりあえず引き取って帰ってきたのである。

 細いロープしかなかったが雨にぬれた首輪に結んで、狭い私の家の玄関先に結わいて、とりあえずは牛乳を与えてやった。ちゃんとした茶碗や入れ物がないため、プラケースに入れた牛乳を、奴は美味しそうに飲み干した。

 しかし近所の犬達、一番身近な隣のいつもは大人しい鳴き声など聞かない犬や向かいの小形犬たちもが一斉に、この大型犬に反応して吼え出したので困って、近くの縁のある幼稚園の脇にあるネットにつなぎとめることとした。

 その幼稚園は住宅街から少し入った森の中にあるため、ご近所に犬もいないし、ご迷惑をかけることも無いだろうと判断したからである。

 しかし、この大型犬は何処から何故やってきたのだろう。友人に寄れば、数日前の雷の時に驚いて逃げ出して以来飼われていた家がわからなくなって、たまたまお亡くなりになった某家の玄関先に佇む様になった様なのだが、私には故人に何か縁があるのではないかと思えてならないのである。

 市役所や保健所のお世話になってしまうと、ひょっとしたら処分の対象として、殺されてしまうかもしれないと思ったため、私の役どころかどうかは分からないが、昨日からの縁と今朝の電話での依頼に応える、最善の方策として連れ帰ったのである。

 昼前に、御飯をナベで少し味付けして、かまぼこやかつおのふりかけも混ぜて、犬用の御飯を作って持って行ったところ、奴はのっそりと起き上がり、軽くいっぱいのおじや風御飯を食べ切ったのである。

 今夜のお通夜と明日の告別式が終了するまで、私が仮の飼い主として世話してやって、その後は同じ住宅街に、ひょっとしたら飼い主が探しておられるかも知れないので返そうと思っているのだが、犬好きな私としては少し心苦しくも感じているのである。

 私の家人は犬は大嫌いの人だから、我が家で飼うわけには行かないし、友人のお宅にとっても何のかかわりもない、この大型犬を飼われるおつもりはないだろうが、これは何かの縁が必ずあると信じている私は、どう対処すべきか悩んでしまう。

 愛らしい野良犬よ君の気持ちを聞かせて欲しい。どうしたいんだね。何処に行きたいの?ゆっくり休んで、明日の午後、私に教えてくださいな。
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食卓のない食事。

2005年07月09日 | 感じたこと
 いつもの八百屋の仕入れで通る府道沿いのバス停留所ヨコの壁に、誰が掲げれているのかは知らないが、一枚の大きな紙に、いろんな言葉が書かれているのであるが、先日は「いい食事をすると何て気持ちがいいんだろう、不思議だね」とあった。

 この言葉の解釈は読み手によって多種多様かも知れないが、私は「美味しい食事は、決してお金や食材のよさではなくて、食事を共にする「食卓」の有無に関係しているのではないかと思ったのである。

 昨今の食事は、多くの場合ひよつとすると人間が生きて行く為の「餌」となってはいないだろうか。「個食」「孤食」と呼ばれる、家庭内にあっても「ひとり」で食事をする、しかも「食卓」に座ってではなくて、テレビの前や、自分の居場所の周辺、つまり「食事」をする場所としての特定の場所や、家族と共には関係なく、ただ食べている場合が多いと推察されるのである。

 つまり、食事とは食べることなのだが、人としての「食」を意識した「食卓」でのマナーや感謝の心や食べ物への敬意とか、そういった人間的「食」へのこだわりやしぐさが無くなってきているのではないだろうか。

 聞くところによれば、自宅に「食卓」のない家庭も増えており、台所に俎板や包丁がなくても、電子レンジと湯沸しポットさえあれば、「食事」が出来るといった家庭があると言うのである。

 確かに、スーパーやコンビにには料理をする必要の無い「出来合いの食品」がたくさん並んでおり、ほとんどの食品が、電子レンジで暖めたり、お湯をかけるだけで食べられるのである。

 家族がいてもいなくても、「食」は自分の勝手な時間に、勝手なものを食するといった習慣というか、そういった情景が普通になりつつあると言っていいのではないか。つまり「ご飯ですよ!」と家族や仲間に呼びかける光景がなくなりつつあるし、「いただきます」という挨拶も死語になりつつあるのではないか。

 「食卓」のない「食事」は、どんなに上等な食品や料理であっても、上記の言葉の様に、何故か気持ちのいい、つまり「美味しかったり」「「感謝」できる食事であったと思えないのではないだろうか。

 「どんな美味しい料理」もひとりで食べるのと、家族や友人と共に「食卓」を囲んで食べるのとは、自ずから違うのである。

 一日三度三度の食事を「食卓」を意識して、家族と、または友人や仲間と囲める人は幸いであるし、何かいつも気持ちがいいものであると思うのである。

 もう一度、人としての自分の「食事」を見直して見て、「食卓」を意識して囲める「家族」や「友人」「仲間」たちのいることを感謝して、ぜひ「御飯にしよう」と呼びかけて一緒に「食卓」で食事が出来るようにしたいものである。

 いつも同じ顔を見ながら、いろんな話をしながら、食事をいただく幸せは、何にも変えがたい幸いなのである。したくても、いつも一人である方や、家族がいてもねいつも皆が自分勝手な食事の取り方をして方は、これからは誰かと共に、食卓で食べられるように工夫と呼びかけを忘れない様にしてもらいたいものである。

 遠慮や気兼ねなしに、「食事」をしたいと考える時もあろうが、「個食」や「孤食」は、たぶん人間としての「食事」をつまらない、ただ生命を保つための「餌」と化してしまう危険性と危惧が大きいのである。

 少しでも美味しい、しかも楽しい「食事」は食事のメニューや内容ではなくて、「食卓」を囲める家族や仲間、友人達によって大きく変るのである。

 食事にお金をかけるよりも、食事を共にする仲間を呼びかけよう。すると人としての「食」に対する感謝や恵みを心から感じられるようになるから、不思議である。

 
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響きの宇宙・風の曳航!

2005年07月07日 | 地域の話題
 2005年8月3日、午後6時半から、京都市上京区烏丸一条下ルにある、金剛能楽堂を会場に、モンゴル仏教僧の読経と長屋和哉のパーカッションとの共演「響きの宇宙・風の曳航」が開催される。

 大地を震わせ、風を招く重低音の読経
   そしてアジアに広がる金属打楽器の鳴動
      それらが一体となって 響きの宇宙を現す
  
 躍動する音の曼荼羅が 
     いま 幻の花のように ひらく。

 主催は、私も実行委員に加わった「モンゴル僧声明公演in京都実行委員会」であり、企画は長野県松本氏の浅間温泉の有名な寺、神宮寺であり、私達の敬愛する高橋和尚である。

 長屋和哉氏は日本有数の打楽器奏者として、アジア各地でも演奏活動をし、日本各地の神社や寺院でも多くの音楽家とコラボレーションを展開し、八ヶ岳山ろくを拠点に音楽活動をしているが、昨年モンゴルの僧侶達とモンゴル国内をツアーした。ウランバートル、ゴビ砂漠、そしてカラコルム。各地の寺院で、僕は僧侶達の読経とともに演奏したのである。
 
 演奏スタイルは、オリジナリティーにあふれていて、おりん、ゴング、シンギングボールなど、アジア全域に広がる仏具などの金属製打楽器を用いて櫓をくみ、時には繊細に、時には激しく打ち鳴らす。それらは宗教音楽ではなく、現代楽曲として復活させて奏でている。

 地球交響曲「ガイアシンフォニー」の第4番のオープニングテーマや世界遺産「熊野・吉野編」など、多くを、映画、テレビにも提供している。作品のCDは「うつぼ」「千の熊野」「シークレットライム」「全ての美しい闇のために」など5枚と現代音楽家、カール、ストーンとのダブルアルバム「RESONATER」がある。

 モンゴル僧は、首都ウランバートルのダシチョイリンから寺院から6名が来日し、オンザットと呼ばれる声明のリーダー、ボヤンデルゲルはチベットに留学し修行を積んできた。大地を震わさんばかりの重低音は聞く者の胸の奥深くまで響き入るだろう。

 私は、現代社会の閉塞状態、つまり欝的な傾向の強まる日本社会にあって、暫しの間、モンゴルからやってくる若き僧侶達の重低音からなる声明の響きと、長屋和哉のアジアを駆け抜けるようなパーカッションマインドが織り成す、コラボレーションに、何かの光明を見出せるのではないかと、期待しているのである。

 真夏の夜、いつもは日本の伝統芸である、能舞台の静寂の中に、異質な声明と金属打楽器の音が鳴り響き、私達の魂とアジアの地球人の心の中に、大いなるエネルギーを秘めた風が吹き込むだろうと思っている。

 戦後60年、被曝60年の日本の夏に、新しい人間の平和への祈祷と願いをこめて、静かな強い響きが共鳴して、全世界に発信する「メッセージ」になってほしいと祈っている。


 
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久しぶりの感動の映画

2005年07月06日 | 感じたこと
 遅まきながら評判のクリントイーストウッド製作、監督、主演、音楽の「ミリオンダラーベービー」を観た。ほとんどストーリーや内容を事前に知らずに映画館に足を運んだのである。

 チケットを買って映画のパンフレットを購入して、初めて女性ボクサーとジムオーナーとジムの雑用係の3人を中心とするドラマであり、第77回のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞の4部門を受賞した作品であることを知ったのである。

 クリントイーストウッドが演ずるフランキーのボクシングジムに、31歳の女性ボクサー、マギーフィッツジェラルドがトレーナーになってほしいとやってくるのである。しかし女性ボクサーは受け入れられないとフランキーは断るのである。

 老いた雑用係のスクラップを演ずるモーガンフリーマンがマギーの才能を知って、時間をかけて薦めて、やむを得ずフランキーが預かって、徐々に二人の信頼関係が生まれていくのである。

 この背景にはフランキーの恵まれない家族関係、特に娘とうまくいかない実情と、マギーも父との死に別れや家族との疎遠ぶりがあって、お互いにボクシングへの情熱と戦いの日々の中で足らざる家族愛を補完するごとくコミュニケートし出して、マギーにはモ・クシュラというリングネームをつけたフランキーが父親の如く、擬似親子的愛情関係になって行ったのである。

 そして百万ドルのファイトマネーのかかったタイトルマッチに上ったマギーは、勝利寸前で汚い手を使うドイツ人ボクサーの反撃にあって、全身麻痺の過酷な病人と化してしまい、闘病生活を余儀なくされて、最期はフランキーにマギーが安楽死を願うのである。

 フリーマンを演ずるクリントイーストウッドも75歳になる老人であり、若いマギーを演ずるヒラリー、スワンクという女優さんとの共演なのだが、どうしてもクリントの方の実際の顔のしわや首筋の老いが気になって仕方がなかったのであるが、マギーの願いを最終的には受け入れた、フランキーが病室で人工呼吸器を外し、一本の注射を打って病室を出て行くのである。

 それを察して柱の影から見ていたのが、フランキーとの永年の縁でジムに住み込んで一緒に仕事をしてきたモーガン、フリーマン演ずるしぶい黒人雑用係りのスクラップであった。

 映画は後半の30分近くは、とっても重たいテーマの生と死の葛藤が「擬似的親子関係」の家族愛で描かれており、現代を生きる私達の家族、愛、生と死について考えさせられるエンディングとなっていた。

 映画の前半の女性ボクサー、マギーの快進撃とジムでいじめにも会う頼りない青年練習生の対比で、アメリカンドリームと挫折が描かれているが、女性の一途な精神力がスターダムに上らせたと感じられ、中盤からはフランキーの老いと寂しさを忘れさせるマギーのひたむきな心根が心に強く伝わってきて、久しぶりに人間の寂しさと愛の強さが描かれた秀作に出会えた喜びでいっぱいになった。

 そういえば、クリントイーストウッドが、壮年期にアメリカの地方都市の市長を一期していたと伝え聞いているのだが、政界に足を踏み入れたことのある映画人が、たくさんいる米国で、再び映画界に戻って、こうしたアカデミー賞受賞作品を、またもや世に出す、クリントイーストウッドの深い人間性と人生観に、改めて感動するばかりであった。
コメント (1)
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