ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

郵政民営化議案採決!

2005年07月05日 | 日本の課題
 ともかく自民党と公明党の連立内閣になってから、国会審議も日本の政治もめちゃくちゃである。

 あの「平和」と「福祉」「環境」をスローガンにしていたはずの創価学会、公明党が権力志向になって、自民党を補完し、今や自民党を左右する政権政党となったと言っても過言ではない状態となっていて、一連の防衛ガイドラインの憲法違反の法制化も、今回の議論の中身よりも、小泉の何が何でも通したいとする我がままな施策までが、脅しと党議拘束という非民主的手段を講じても、僅差の5票差で衆議院で可決したのである。

 表向きは自民党の内部の権力争いの様でもあるが、実は公明党がしっかりとイニシアティブを握った権力闘争であったのではないかと推察しているのである。

 民主党、共産党、社民党に加えて、反対した37人の自民党員と、退席棄権した14名をあわせれば、何と51名もの造反者というより、堂々と反対を意思表示した自民党国会議員がいたことは、まだ民主主義の場としての最期の良心だとは思うが、数の論理と党議拘束、処分という脅しで、ひとりひとりの議員の意思を束縛するやり方は、全く強権政治と言わざるを得ない。

 そうした小泉自民党の末期的症状を影で日向で支えているのが、昔は良識の野党だったはずの、天下の公明党である。

 この天下の公明党は、先週投開票されて、新しい陣容が決まった東京都議会議員選挙でも、自らの公明党議員を23名全員当選させたばかりか、14名もの自民党議員を応援して当選させていると言うのである。

 この創価学会、公明党の組織選挙の票固めぶりは、異常なばかりの強権選挙の仕組みと統制、強制が惹かれていて、選挙民としての自由意志や、個人的な思考、見解などは受け入れられない、まさに危ない非民主的な投票戦略が、このたびも遂行されたのであろうと言わざるを得ない。

 つまり、この創価学会をベースとした、天下の公党、公明党の選挙民への縛りと、上意下達の命令的選挙行動は、危ない全体主義と同様であり、以前の良識ある平和と福祉の党から、政権ににじり寄った、権力志向の政党に、いつのまにか変化して、多くの学会員や公明党支持者を失望させているが、全く反省もなく、突き進んでいるのである。

 自民党をぶっ壊すと、豪語した小泉自民党総裁率いる、天下の自由民主党は、いまや公明党の配下に下ったような、立場で、いちいち公明党の意見や顔色を見て、政策の推進や国会運営をしている状態となっており、今回の郵政民営化法案の是否よりも、今後の政局を左右する公明党勢力の台頭に危機感を感じざるを得ない。

 良識の府であるはずの、参議院での郵政民営化法案の否決、廃案で、何とか国会の民主主義を最期のとりでで守ってもらわないといけない。

 一宗教政党が、天下の自民党を掌握して、間違った道を選択していく過ちだけむは、何とかして拒まなければならない。これからの真の戦いは、郵政民営化問題ではなく、憲法改悪と教育基本法の改悪という、政治的課題、そのものである。

 決して、権力志向の公明党の開き直りの自民党誘導策に、応えるような国策の方向だけは、断じて避けなければならないのである。

 正念場の国会の戦いは、郵政民営化のオブラートで包まれた、国を滅ぼす間違った道へのベクトルを逆行させるための、ひとりひとりの国民の気づきと、平和への希求の願いと祈りにかかっているのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大切なひと言。

2005年07月04日 | 感じたこと
 人生の節目、節目に、大切な一言があって、今があるような気がしている。

 私にとっての出会いは、ただの偶然ではなくて、全てが「歴史的必然性」なのである。この歴史的必然性だと教えてくださったのが、この町に引っ越してきて出会った、元大学教授のO先生なのである。

 先日O先生を久しぶりにお訪ねして、暫くの歓談の時を持ったのだが、そこに先客としてきていた新聞記者Nさん。平和行進についての取材だったそうだが、O先生の人生観から地球観まで広範囲な価値観や意見に接して、数時間の取材となってしまった様であった。

 私は、O先生に出会ってから、大きな人生の節目を何度か、「大切な言葉」に支えられて、励まされて歩んでこれたと思っている。簡単に人生の師と呼ぶには、失礼なのかもしれないが、幾つになつても人生に悩み、迷うことがあるものだが、その都度ざっくばらんに話を聴いて下さって、時折「大切なひと言」を語っていただけるので、真剣に聞いているのである。

 その一言が何かは、このブログ上では、簡単に披露できないのだが、各々の人生にとって、必ず出会いがあって、大切な一言に接しているのにも関わらず、聞き逃していたり、自分のペースや理屈で素直に心に飛び込んでこなかったりしていることがあるのではないだろうか。

 梅雨空の続く中、一昨日も八百屋の軽四輪で隣町を走っていたのだが、「ありがたい」と題した「文章」に出会った。いつもの踏み切りの信号待ちで、通りの壁の白い紙に記されていたものである。

 雨の日の傘はありがたい。仕事があることがありがたい。家族がいることがありがたい。毎日食べられることがありがたい。いろいろ異なる人生だが、一番ありがたいのは、自分に生命があることである。

 今までも、これからも不平不満がいっぱい口をついて出ることがあるだろうと思うが、いずれにせよ、生きているからこそ、不平も不満も言えるのである。命のありがたさは、言葉で語りきれないが全てを包み込んで余る「ありがたさ」なのである。

 人生での出会いがあって、今があり、今、このとき生命があってこそ、明日があり、明日にむかって、少しでも不平、不満を解消出来るようにと、自分のできる努力と愛情をもって、何事にも接して積極的に、命に感謝して、生命を生かす生き方をしたいと思う、ひと時である。

 「ありがたい」「感謝」を忘れない。人生での大切なひと言に、今日も出会っている。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

やっと梅雨らしい雨。

2005年07月03日 | 季節の話題
 やっと6月30日から梅雨らしい雨模様の天気が続き、里の緑も田畑も恵みの雨に、ほっと一息と言ったところではないだろうか。

 今年の入梅は、例年通りの時期だったと思うが、入梅入り宣言の日だけ雨模様だったが、それ以来真夏のような極暑がつづき、ひょっとしたら「空つゆ」になるのではないかと心配になってきた1週間ほど前に、おかしな現象がおきて、梅雨前線が南から北上するはずなのに、東北、北陸に突如現れて、集中豪雨をもたらしてしまった。

 やっとその梅雨前線が南下してきたのか、水がめが乾わき切って悲鳴をあげる寸前だった、四国、中国地方にも雨天が続き、今年の夏の水道事情に少しの光が差し出していることは、うれしい限りである。

 しかし雨がなくて土地が乾ききっても、雨が降り続けても、田畑の農作物には微妙な影響が出だしていて、野菜のなりに大きく関わってきており、私達の有機の八百屋への出荷をしてくれている、頑張っている小さな農家からは出荷困難の知らせも舞い込んでいるのである。

 私達、町に住み、いつもせいきょうスーパーで買い物をする主婦の皆さん達にとっては、あまり感じておられない方々もいると思われるが、当たり前のことなのだが、野菜や農作物にお天気は大きな影響を与えており、梅雨時にはしっかりと雨が降ってくれなければ、秋のお米の成りにも影響するのである。

 ちょっと雨が降らなければ、暑いねと嘆き、少し雨が続けばうっとうしいねと嘆く。人間さまは勝手なもので、中には土日だけは雨降ってほしくないと迄おっしゃる方もいるほどで、自然環境や地球の大気と人間生活の影響多大な天気の移り変りの責任は、やはり人間に原因がある場合がほとんどなのである。

 やっと一息ついた木々や花たち。そういえば今年の「あじさい」や「ほたる」にも多大な雨不足の影響があったようで、街中でのアジサイの花も、何処か寂しい感じであったし、蛍も発生が少なく、蛍狩りの季節も盛り上がらなかったようである。

 自然の恵みのありがたさは、普通であって、普通ではないときの影響は、私達の物心両面に、気がつかないうちに大きなダメージやしんどさを与えている場合もあるのであって、昔から雨乞いや自然への敬意を表しつつ、祈る行事やイベントが日本だけでなく、世界中にあるのである。

 恵みの雨に感謝しているのは、人間だけではなく、小さな虫から花たち、野山の緑や川、湖、海、世界中の自然界がもたらす、雨が私達の命を守り、生命の進化と保存に役立っているのである。

 明日も、恵みの雨に感謝して、お米やお野菜を感謝していただくこととしょう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知的障害者は純粋だ。

2005年07月02日 | 日本の課題
 ウイークエンドの金、土曜に有機農産物と無添加食品の八百屋として、お客さんの家を目指して約180キロ、たくさんの商品を積んで走っている。

 今朝も市内の新興住宅地の中で、お二人のお客さんを訪ねて荷物を降ろして、お喋りをしながら買い物をしていただいていたら、何処からともなく小学生の少年達が5人ほど通りすがりに、「おっちゃん何売ってんの?」って尋ねてきた。

 無農薬有機野菜や無添加食品の説明を私が簡単に彼らにしてやると、「パンちょうだい!」「バナナほしい!」とおねだりしてくるのである。「売りもんやからダメ」と言うと、「いくら?」と聞くので、「そやな安すうしといたるわ、一個百万円!」と告げると、かわいく「そんな無茶な!」とおどけてみせる。

 素直でやんちゃそうな小学生の男の子たちを相手しながら、商売でなかったら「ほら上げるよ」とパンやバナナなど直ぐに食べれるものをサービスしたいほど、彼らの素朴で子どもらしい、おねだりは嬉しく感じたのである。

 最近の15歳の両親や兄の殺害やクラスメートを刺す事件などが報道されていて、世の中、今に始まったわけではないが、やっぱり間違いなくおかしな兆候を感じる事件が多発していて、八百屋のお客さんでもある中高年のおばさん、失礼、ご年配の女性たちも異口同音に「日本は可笑しくなっている」と感じているらしいのである。

 午後のお客さんは、息子さんが一人は聾唖者、聴覚障害者であり、お一人は知的障害の青年の母であるので、共に活動されている居場所的作業所にお邪魔して、いつも愉しくお喋りしながら買い物をしていただいているのである。

 ここは5人ほどの通所の知的障害者の男女の青年達が、作業を手伝ったり、お茶したり、お風呂掃除の仕事に出かけたり、書道やオカリナの練習をしていたりする自由なスペースなのである。

 ここでは暫くの間、彼らの素直で好奇心旺盛な眼差しとお喋りに加わることがあって、私にとっては八百屋のちょっとした休憩所となっていて、お茶やお菓子をよばれて一休みしているのである。

 そのうちD君が大好きなアスパラを買ってくれて、Mちゃんはお母さんにとメロンパンを買ってくれたので、おまけをつけてサービスしたのである。するともうひとりのKちゃんも、財布を捜して50円を取り出して、何か買える?と尋ねるので、150円定価の青紫蘇パックを『何に使っても美味しいよ」と大サービスで提供した。

 彼らは、このスペースでお母さん達のサポートの中、クッキーを焼いたり仕事の手伝いなどもしているのだが、なかなか貨幣価値と品物の値段を見極めて買い物することは困難な人もいて、私としてもサービスばかりは出来ないが、彼らの純粋な好奇心と私に向けられる気持ちには何とか応えたいと、いつも思っているのである。

 先週の朝には北部住宅街のお客さんの自宅に、早朝玄関のチャイムを鳴らして青年が訪ねて来たらしいのである。土曜日の早朝6時半頃だったらしいが、見ず知らずの青年が戸口に立っていて、玄関のドアをあけると、彼が黙って家に入ろうとしたと言うのである。

 何処の誰だかわからないので追い返すと、隣りの庭側のアルミサッシが暑さもあって開いていたらしく、そこから勝手に他人の家に入り込んでトイレに侵入したらしいのである。その家のご主人がトイレを外から押さえて110番し、警官が彼をパトカーに収容して事なきを得たらしいのである。

 彼は全く言葉を発せず隣の駅付近から裸足で歩いて来たらしく、全く他人様にとっては、さぞ気持ち悪く感じられての通報だった様なのである。

 ともかく最近のマスコミ、メディアの報道では、ちょっとした事件や出来事も大げさに扱っていて、その当事者が知的に問題がある人の場合は、何故社会的に管理したり監視していなかったのかと問題提起することが多くあって、社会の中での異端視がより強くなっている様である。

 しかし知的な障害を持つ青年達は、言葉によるコミュニケーションや人間的応対が苦手だったり、充分出来なかったりする場合も多いが、決して危害を加えたりすることはない、優しくて純粋な好奇心にあふれた人たちなのである。

 でも言葉のコミュニケーションが不足してたり,問うても返答できなかったりで、不審者扱いされることが多くあるのであるが、ちょつとゆっくり話してみたりすると、充分に理解できる場合が多いのである。

 ちょっとした非常識に、すぐ警察や排除の論理ではなく、っかりと相手を見つめて理解の目線で、対話してほしいと思う。みんな素敵で純粋な、子供達と同様の青年たちなのだから。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする