ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「阪神淡路」から17年。

2012年01月17日 | 季節の話題
 1995年1月17日、午前5時47分に起きた阪神淡路大震災の記憶は、まだまだ生々しい思い出として脳裏にくっきりと浮かんでくる。

 昨年3月11日に起きた東日本大震災と大津波、そして続いて起きた福島原発の事故による放射能漏れは、今なお多くの被災者だけでなく日本全国に、その余波というべきか影響を及ぼしていて、現地の復興はもとより、生活の術を失い生まれた故郷に帰れない人々も多くおられ、阪神大震災以上の死者、行方不明者はもとより、経済的な被害だけでは語れない未曾有の大災害となった。

 東日本大震災の発生後約10ヶ月が経過して、最近では阪神大震災の復興経験や被災者としての支援のあり方や必要な心のケアなど、多岐にわたってのノウハウや実体験が、東北各地に入るボランティアや行政関係者の協力で、生かされつつあると聞き、阪神淡路から17年を経ての人間の知恵とアイデアが、少しでも東北の被災地を中心として役立つことを願ってやまない。

 私の住む京都南部では、阪神淡路大震災の直接的な被害はほとんどなかったのだが、17年前の早朝の大きな揺れに対して、いつも休んでいる寝床で、突然の地震の揺れに対して、そばにある書棚から本が落ちてくるかもしれないし、ましてや書棚自体が倒れる恐れを咄嗟に感じたので、寝床から足と手で書棚を支えて倒壊を防ぎたいという気持ちが働いて、必死に抑えていたことを思い出すのである。

 その後、テレビのニュース映像を見るたびに拡がる、大震災の爪あとに驚きながら、火曜日の朝だったので、私自身はその日の八百屋としての移動営業を何とか済ませた後、多くの地域の方々から寄贈された救援物資の輸送と、知人の親戚や関係者で被災されたお宅への支援物を届けるため、その夜と翌々日だったと思うのだが、緊急車両としての認可をいただいて、神戸方面へとワゴン車を走らせたのであった。

 その折には、私がささやかに自営で営業している有機八百屋の仕入された食品の中で、すぐにでも食することの出来る牛乳、豆腐、パンなども量は少なかったと思うのだが、同時に持参して、早朝の被災翌日の路上でテントを張って過ごしておられた地域の人たちに少しでもお役に立てればとの思いで、お届けできたと思う。

 その後、当時私はわが町の議員をしていたので、震災が起きる前に予定されていた議員の研修旅行への参加を取りやめるという電話を急遽、議会事務局へした後、数日間は神戸へ行ったり来たりの生活をし、被災者だけでなくボランティアとして現地に入った多くの青年たちや心ある人たちとの新たな交流も生まれ、私にとっては震災被災地への支援というカタチだけでなく、多くの教訓や教えられたことや出会いがあって、とっても意義ある数日間を過ごせたと、今も感謝している。

 それから数ヶ月経った、ある日に今は亡き人となられた、あの「何でも見てやろう!」という著書で一世を風靡し、その後辛口の評論家としても有名になられた、小説家の小田実さんらと、被災地の中心街を歩く機会があり、独特の喋り口調で、行政の復興施策を批判しながらも、地域にあった復興案を提案する彼の独特のエネルギーあるアイデアなどにも触れて、多くの示唆を被災した町、神戸から学んだこともあった。

 今回の東北地方の大震災では、地震だけではなく、大津波という想定外?の被害がさらに大きく爪あとを残してしまったために、今まで仕事をし住まいを持っていた海岸に近い地域の住民たちが、元の場所に帰って住居や仕事場を復建することが非常に困難な部分があるし、ましてや原発事故によるわ放射能汚染に対しては、除染という表面的な作業だけでは済まない深くて長い戦いとでも言った方が良いと思う、施策と行政と民間の支援があっても、さてまず住める環境に戻せるかどうかが大きな課題となってしまっている。

 確かに、17年前に起きた阪神淡路大震災の経験と教訓は、部分的には東日本大震災の被災地ならびに被災者支援に役立つとは思われるのだが、大津波による予期せぬ?被災地域の膨大かつ広い土地の再利用には、ただ高い防波堤、津波をせき止める壁を造ればいいとは思えないし、ましてや放射能汚染とその影響については、チェルノブイリ原発事故の先例を見ても、さらに長期に及ぶ避難と立ち入り禁止区域が設定されている現実も25年以上続いているので、福島原発事故後の汚染地域の復興は全く見えない。

 阪神淡路大震災で犠牲になられた人数は6434人であるが、東日本大震災での死者、行方不明者は2万人近くに及んでいるので、そのご遺族や負傷されたり病気や体調をこわされた方々等を含むと、たぶん少なくとも十数万人の方々が、今も心身共に多くの辛い思いと重荷を感じておられると察するので、その人たちの目には見得ない心境をも推し図って、多くの人たちがケアしていただけることを、強く望むところである。

 阪神淡路大震災から17年が経過し、関西地域に住む住民のひとりとして、その被災の大きさと影響、そして復興の経緯を見守りつつ、時間的経過による「風化が否めない」部分をかんじていたのだが、東日本大震災という天災の再来によって、辛うじて再び自然災害が何時何処で起きてもおかしくない、日本国土の現状を考えながら、人間の叡智と経験を活かして、自然と闘うのではなく、自然と共生する人間の営みを、改めて考える必要を痛切に感じているのである。
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