ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「有罪」か「無罪」か。

2012年01月11日 | とんでもない!
 乗客106名が亡くなってしまった、2005年4月に起きた、JR福知山線尼崎での電車転覆事故の責任追及の一環で、前社長の山崎政男被告に対して、神戸地裁は同被告を求刑では禁錮3年と言い渡していたのに、無罪とする判決を言い渡した。

 私の住む京田辺市にキャンパスがある同社大学へ通学する学生たちもたくさん乗っていて、若き命を無残にも亡くしてしまった悲惨な電車転覆事故だっただけに、多くの犠牲者の遺族はもとより関西地域においては関心の高い裁判ではあったが、大きな組織であるJR西日本と言う組織の長である、社長に「事故が起きる危険性を予見可能」かどうかを判断するという裁判であったわけで、確かに心情的には、あれだけの犠牲者が出て、しかも速度超過の運転で事故を起こした運転手は事故で死亡しているために、誰かに責任を明確にしてほしいと願う遺族らの心情は理解できたが、「無罪」という結果が出てしまった。

 私自身は同じく組織の責任が問えるかどうかで裁判になった、1982年の東京赤坂のホテル・ニュージャパンの火災での当時の横井社長の責任は明らかで、スプリンクラーなどの火災予防機器の設置を怠ったという、会社社長の罪は、明らかに利用客である人命の軽視であり、たびだび消防関係者からの指摘にも耳を傾けず、利潤追求が最優先で危険性の予見は当然可能だったのに、適切な機器の整備や対応を取らなかったが故に、大火災となって多くの犠牲者を出したのであった。

 このホテル・ニュージャパンの火災では、私も出会ったことがある当時フォークシンガーの高石ともやの事務所の経営者であった榊原氏が不運にも亡くなったという記憶も重なっていたので、その後の裁判によって、横井氏らの有罪が確定したことは納得のいく結果であったのだが、今回の裁判による「無罪」は、あのカーブでのスピードの出し過ぎによる転覆事故まで、前社長が予見できたとは思えないし、当時はまだカーブだからと言ってATC、自動列者停止装置の設置を義務付けるとか、設置を勧告するとかいった指導やルールはなく、ただ原因とされる運転手の極端なスピード超過が問題とされるのであった。

 今回の裁判では、JR西日本という鉄道会社に対する問題提起はされている部分があるのだが、問題となつた事故で死亡した運転手を含む運行職員が、「もし遅れたら」とか「時間通りに走行できなければ」と強い恐怖感とでも言うべきプレッシャーを感じて運転していたのではという問題、つまり「失敗」や「遅れ」を認められれば、とんでもない人権無視に近い「日勤教育」と言う名の「お仕置き」的指導に処されるという恐れを組織に属する職員として大きな恐怖を感じていたのではないかと言われている。

 そういった報道が、この事故が起きて以来何度もテレビや新聞でも取り上げられていたのにも関わらず、今回の裁判では、そういった社内での指導のあり方や職員が感じていた恐怖感などが、「遅れてはいけない」という焦りを生んで、事故現場となったカーブを制限時速をはるかに超えるスピードで通過しようとしてしまって、とんでもない転覆事故を招いたのではなかったのだろうか。

 そういった観点から見ると、前社長の山崎氏の個人的犯罪としての「有罪」は無理としても、組織的ルールや内部指導のあり方などを通じて、一人ひとりの運転者や運行関係に従事する社員にとっては、「痔間厳守」がひょっとしたら「安全」よりも大きな遵守目的であったかもしれないと思われるので、やはり会社上層部、すなわち当時の社長、取締役、安全運行担当者などには多大な責任があるとも言えるのだが、そういった観点からの裁判結果は詳細には報告されていないのは甚だ疑問視されるのである。

 私は決して山崎前社長の無罪がおかしいと言っているのではなく、個人的犯罪としての立証には無理がある面があると思われるのだが、間違いなくあのJR福知山線事故の大きな発生した原因の背景に、JR西日本の「安全重視」の社是が生きていなかったとも言え、現実的には裁くことが難しい面があるとはいえ、JR西日本という大企業の利益追求優先の企業風土が生み出した「最悪の事故」であることだけは間違いのない事実だと指摘されねばならないと思うのである。

 全く直接の関係はないのだが、今日同じように裁判記事として、あの民主党元代表の小沢一郎氏の「陸山会公判」が行われていて、政治資金規正法違反で強制起訴された同被告の代3回公判で、被告人質問に答えた同氏が、問題となっている世田谷区の4億円の出所については「はっきりと覚えていない」と返答し、売買契約書についても、「見たことない」と答えているとの報道があり、全くおかしいことであり、通常考えられない「嘘」ではないかとしか言いようのない供述を繰り返しているという実態に対して、国民の多くは「いい加減にしいや」と思っているし、いくら政界のドンだったかしらないが、そんないい加減な4億円の支出や売買契約が当人が代表を務める政治団体で行われるということがあるわけないと思ってしまうのである。

 まだこの小沢裁判は続くのかもしれないが、茶番劇の様な公判や証言のいい加減差を越えて、裁判長が正々堂々とした国民も納得するような「判決」を言い渡していただきたいと思うしかないのである。

 人が人を裁くということの難しさ、有罪、無罪、冤罪、多様な事件や法律違反が起きている現代において、少しでも良識ある普通の市民が納得できる「裁判結果」を期待するしかないのである。
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