ここ数年、ほんとに幼い子供たちや親たちを肉親が殺す事件が多発している。
また飲酒運転などによる危険運転致死罪の適用が望まれるような事故、事件も多発している。
日本国内だけでも、「人はどうなっちまったのだろうか」と思うような事件、事故が毎日のように報道されるたびに、なんとも言えぬ空しさ、虚脱感、同じ人間としての落胆とも言うべき、溜息しかでない「憤り」を感じざるを得ない。
先日、昨年起きた、あの忌まわしい飲酒運転による追突転落事故で、幼い子供たち三人が死亡した事件で逮捕、起訴された若き元福岡市職員の公判で、危険運転致死罪が問われず、酒気帯びによる業務上過失致死罪としての7年6ケ月の求刑が出された。
新聞、テレビなどのマスコミ報道は、「なぜこの事件が新しくできた道路交通法違反に関する危険運転致死罪に当たらなくて、何を罰するのか」と問いただしていた。
またご遺族の若き夫妻は、「危険運転致死罪のハードルの高さを実感した」とコメントされつつも、おかぁさんが切々と三人の幼い子供たちの命の尊さと先祖から受け継がれた「命の連鎖」が断ち切れたことへの「無念さ」を語っておられた。
人が人を罰する基準は、人が作った「法律」という名のルールによる。
しかし、この「法律」の基準を誰が責任もって取り締まり、罰するかは時によって違うし、担当者によって異なる場合が多いのである。
私は決して、今回の事件が「危険運転致死罪」として裁かれるべきだと言っているのではなく、間違いなく三人の幼い子供たちを死なせてしまった「事実」に向き合うことを避けているとしか思えない、容疑者と裁判官と言った見方をしているのである。
すなわち、「命の連鎖」を断ち切った「責任」を誰がどの様な形で認めて、ご遺族だけでなく社会に対して表現するかどうかが問われているにも関わらず、肝心な論点を避けて、「前例のないことは避ける」という無難な結論を導き出して、自分を守ろうとしている裁判長のエゴとしか思えなかったのである。
三人の幼い我が子を、若者の無謀な運転で一瞬にして失ったしまったご両親だけでなく、ご家族や親しい人たちの「無念」に対しての、せめてもの「かたち」を示す「責任」を回避してしまった裁判官の姿勢は許せない思いである。
「命の尊さ」を語ることは簡単かもしれないが、犯してしまった事実に対して、裁判所および裁判官が、厳しく法律に徹して裁かずして、誰が社会に対して、「命の尊さ」「重さ」を示すことができようか。
私の孫である二人の幼い男の子が、今日の身体測定で各々、6歳3ヶ月のお兄ちゃんK君が114.6センチ、21.2キロ。弟の10ヶ月になるR君が65.8センチ、7.63キロという報告が、娘からメールで届いた。
生きていてこその報告である。「命の連鎖」は、生まれて、成長の続く線上にしかないのである。
また飲酒運転などによる危険運転致死罪の適用が望まれるような事故、事件も多発している。
日本国内だけでも、「人はどうなっちまったのだろうか」と思うような事件、事故が毎日のように報道されるたびに、なんとも言えぬ空しさ、虚脱感、同じ人間としての落胆とも言うべき、溜息しかでない「憤り」を感じざるを得ない。
先日、昨年起きた、あの忌まわしい飲酒運転による追突転落事故で、幼い子供たち三人が死亡した事件で逮捕、起訴された若き元福岡市職員の公判で、危険運転致死罪が問われず、酒気帯びによる業務上過失致死罪としての7年6ケ月の求刑が出された。
新聞、テレビなどのマスコミ報道は、「なぜこの事件が新しくできた道路交通法違反に関する危険運転致死罪に当たらなくて、何を罰するのか」と問いただしていた。
またご遺族の若き夫妻は、「危険運転致死罪のハードルの高さを実感した」とコメントされつつも、おかぁさんが切々と三人の幼い子供たちの命の尊さと先祖から受け継がれた「命の連鎖」が断ち切れたことへの「無念さ」を語っておられた。
人が人を罰する基準は、人が作った「法律」という名のルールによる。
しかし、この「法律」の基準を誰が責任もって取り締まり、罰するかは時によって違うし、担当者によって異なる場合が多いのである。
私は決して、今回の事件が「危険運転致死罪」として裁かれるべきだと言っているのではなく、間違いなく三人の幼い子供たちを死なせてしまった「事実」に向き合うことを避けているとしか思えない、容疑者と裁判官と言った見方をしているのである。
すなわち、「命の連鎖」を断ち切った「責任」を誰がどの様な形で認めて、ご遺族だけでなく社会に対して表現するかどうかが問われているにも関わらず、肝心な論点を避けて、「前例のないことは避ける」という無難な結論を導き出して、自分を守ろうとしている裁判長のエゴとしか思えなかったのである。
三人の幼い我が子を、若者の無謀な運転で一瞬にして失ったしまったご両親だけでなく、ご家族や親しい人たちの「無念」に対しての、せめてもの「かたち」を示す「責任」を回避してしまった裁判官の姿勢は許せない思いである。
「命の尊さ」を語ることは簡単かもしれないが、犯してしまった事実に対して、裁判所および裁判官が、厳しく法律に徹して裁かずして、誰が社会に対して、「命の尊さ」「重さ」を示すことができようか。
私の孫である二人の幼い男の子が、今日の身体測定で各々、6歳3ヶ月のお兄ちゃんK君が114.6センチ、21.2キロ。弟の10ヶ月になるR君が65.8センチ、7.63キロという報告が、娘からメールで届いた。
生きていてこその報告である。「命の連鎖」は、生まれて、成長の続く線上にしかないのである。