土木技師八田与一はダムをつくり豊饒の大地を、後藤新平は疫病を根絶して住民の健康と連帝を築いた。何よりも後藤は外地赴任で堕落した日本人官吏を一斉に帰国させ、気鋭の官吏を登用し住民の信任を得て多くの事業を成功させている。もちろん教育制度を整え高等女子・台湾大学を創設して内地(日本)に劣らない俊英を輩出している。
後藤は超数的効果を謳い、人を育て、人を活かし、その人物が資物を運用すれば計画数字以上の効果をあげ、無駄を出さない政策がとれると、至極、道理にかなった政策を定着させた。
今どきの日本の官吏の慣性となっている乗数的効果などは知恵のない無能のなせることと後藤は喝破するに違いない。今の日本の窮状と騒然とした国情は当時の台湾の施政を学べば解決することは多いだろう。なによりも国民は歓迎し、信任によって多くの賛意や協働が生まれるに違いない。
その痕跡をたどって市内の教育施設を訪問した。そこは台北市を南北に貫く中山北路をそれたところに在る台北市中山区中山国民小学校だ。台北には中山を冠した道路や施設があるが、中山とは国父孫中山を記念したものだ。三年前の再訪だが、今回も新しい発見があった。じつはこの小学校の朝礼を視察に選んだのは訳があった。
前回、驚いたのは生徒たちが朝礼を仕切っていた(自主運営)ことだった。生徒自治会の会長は全校生徒の選挙で選ばれるが、そのために各教室で立候補の演説をする。選出された会長が、政治でいえば幹部会を組織して運営にあたっていた。新聞委員、校風委員など様々だが、その幹部を朝礼台に下に整列させて連絡事項や規範を伝達する。
前回の訪問では生徒会長みずからが私たちの訪問目的と歓迎の言葉を全生徒に紹介している。
まず、音楽とともに各教室から教師の先導で隊列を組んで生徒が整列する。脇の列には障害のある生徒が並ぶ。校歌斉唱からはじまり、会長は全員に背を向けて朝礼台の後ろに設置されている国旗掲揚台に向かって直立する。掲揚ポールの左右に女生徒がロープを持ち国家斉唱とともに国旗を掲揚する。斉唱が終わるころ青天白日満地紅旗がポールの先端でひるがえる。
以上を記すと懐古趣味、軍国などと日本でも一群は騒ぐが、この生徒たちの慣性行動は、なにもそこまでは考えていない。だだ、小学の習慣学習にある他を知り、己を知る、そのために礼(他に譲る心)を習慣化させ、社会の調和と連帯を考えてのことだ。
なによりも会長が応えたのは
「私たちが勉強できるのは先生や両親の援けがあるからです。そしてそのことは社会の大勢の人が関係しています。それは私たちのためによい環境を作ったり、守ったりしてくれる国のお陰です。だから私たちにとって国旗を掲げるのは感謝であり誇らしいことなのです」
これは誰かに言わされたり、洗脳されたものではなく、幼いながら自得した意志だと感じたのは私だけでなく、同行の訪問者も羨ましくも同感した。
この習慣化された個人と国家、自己と他人の関係は民主化を促した西洋社会にすら微かになった連帯と使命、くわえてこの子供たちが将来にどのような社会を築き得るのかを容易に期待を持って推考できる訪問だったことを痛烈に記憶した。子供をみれば未来の社会が解る、かつ応援する大人の在り様を実感した。
父母の恩
国家の意志が教育に投影されることは数多の国にもある。だが、我が国のように省益と称する官吏の実態、現場の教職員と教育委員会の弛緩した関係、モンスターと揶揄されるPTAの実態、なによりも個に分別された生徒と教員の関係など、教育改革を謳いあげる政治家の施策が末端まで届かないもどかしさがある。
今回は実態と、実体なさしめる環境と風を再度、確認したいと考えての訪問だった。
その姿に涙した同行者がいた。「意味もなかったが自然に涙がでてきた」と。校内の施設を見学したが、その行動は我が身に浸透させる体験として格別な情感が積み重ねられたようだ。
日程が前後するが空港到着、ホテルチェクイン後、直ちに訪問予定の国立中央研究院近代史研究者で唯一の日本研究者である黄自進氏を訪問した。十数年前の再会だが玄関先まで迎えに来てくれた。
現在、博士は南京の学校でも教えているという。欧米帰りの研究者の多い中で慶応大学卒業の氏は近代史科のなかでは唯一の日本研究者で、前回の訪問では蒋介石研究の大著を頂いた。会議の途中、「日本の植民地の歴史について・・・」と、話題が出た。
そこで、こう応えた。
「植民地と称され欧米の植民地経営と類似するようですが、戦後六十年の結果として台湾の人々は世代を超えて我が国の未曾有の災害に多くの援助をしていただいた。なかには食事を割いても台湾全土の大勢の方が協力してくれた。この経年の結果として人々の情緒に日本との関係が凝縮されているようですが・・」
※〔多くの華人にとって財は命と同様なものだが、いくら総統がテレビでキャンペーンをはっても人々は自らの意に沿わないことはしない。金額の大小ではなく政府ですら考えもしなかった日本への情感は、その後の大陸に傾き気味だった台湾の政治動向すら慎重にならざるを得なくなった〕
「また、いつ頃からか台湾の家は窓に鉄格子をはめるようになった。むかし日本の警官がいた頃は窓を開け広げたままでも安心して夜は寝ることができたと聞いた。泥棒も少なく、人々は他人を信じて生活していた」
※[鉄格子が入ったのは国共内戦に敗れた国民党軍が台湾に進駐してきた頃からだ]
教授はそれを聞いてボードに「修身」と書いた。
「これが日本から学んだことです」
あえて「植民地」について問うことはなかった。
つづく