
銀座 某風呂屋にて
もし、あの太平洋戦争がアジア民族解放のための聖戦と考えるなら・・・・
いまでも国内に膨大な面積を占領(領土を占める)している米軍基地の諸問題に難儀している日本を中国が開放名目として企てたら・・・
稚拙な問答だが、たしかに日本は独立国の態をなしていないと考える人間もいるだろう。
少しは考える人間は、行動を起す前に理屈の立つことを考える。
あなたがやったことなら,オレもいいだろうと・・・
あなたはアジア解放を旗印に進軍した。それに倣ってオレも解放軍とした。
要は資源と人間の支配だ。オレは金で白人の棄てた世界に傀儡政権をつくる。
ところで、精神が確かな日本人は、「聖戦の美名に隠れ・・」と議会で唱えたが、国民の代表と地位も名誉も保全された議員の多くは大勢に迎合して野次を飛ばして除名した。
だが、次は最高得票で議会に舞い戻った。ときの陸軍大臣に「腹を切れ」と議会で発言した剛毅な議会人もいた。
どうも日本風の議会制民主主義という代物は、議会では罵詈雑言を浴びせられる実直な議員を除名したが、最高得票で再び議会に送り出すような多くの賛辞を無視するらしい。
今どきの飼い馴らされたような、さもしい欲望の交差点と成り果てた議会とは似たようなものだが、日夜の空襲、戦地での惨禍、食料困窮にさらされた、もの言わぬ国民の願いは、賢い議員の発声さえ除名という代償を与えるような、日本人になり下がっていた。
その心根でアジア解放をいくら説いても、純真な彼らの多くは見抜いていただろう。
五族協和のスローガンも庶民の世界では善なるエピソードは数多有ったが、ソ連侵攻の報がきたとき、まだ数百キロ離れた新京では高級官吏、軍官僚は電話線まで切断し、しかも居留民を置き去りにして夜陰にまぎれ内地に遁走している。
新京の日本人会長平山某は日本人婦女子を集めて占領軍に提供している。当時の日本人婦女子の貞操観念は異人に汚されたわが身を恥と考え、そのまま異郷の地に残った人も少なくない。
ベンガルの子供たち
戦後のレジーム脱却はアジアも歓迎するだろうと考えがちだが、危険性を感ずるのはあながち見当はずれでもない。それは除名された議員や満州にとり残された居留民ではない。現地の戦闘を現状追認し、守るべき居留民を棄てた明治以降の速成エリートの立身出世に問題意識もなく流された指導的立場とそれに追従した日本人が信用できないのだ。
それは、日本やアジア圏のみならず、全世界の政治形態にたずさわる為政者や周辺関係者にも表れる背徳でもある。
そのことは中華民国(台湾)の国立近代史研究所の黄自進研究員(慶応大学博士課程)の言にもある。中国は日本軍閥の行為を糾弾するが、日本国内では歴史検証のもと責任者の処罰を行わず、戦勝国に任せている。そして当初はそれを受容しながら、現在では日本としての検証が対外的反証となっているようだ。
それは日本国民が考えることだが、その組織構成に伴う責任所在の明確化などは過去の歴史考証のみならず、現在、日本の政策や災害対応において歴史反復しなければならないことを考えるべきだろう。
震災後、欧米のジャーナリストの検証では「作業員の技能や精神は責任感とともに世界で有数だが、会社の責任者や担当政治家は最も低い評価がある。どうして日本のエリート教育はこのように間違ってしまったのか・・」というのが彼らの総意だった。
戦後レジュ―ムの脱却は対米国の戦後体制ではない。
日本人の変容と正邪を含む民癖を慎重に分別し、一方の邪まな内面を観察して省き更新することが、明治の近代化速成に取り残され、あるいは忌避された部分の検証になるだろう。要はその部分に在る日本人の覚醒だ。
そのためには、教育、民生、治安、の政治が行う部分と、自ら(己)を治める自治の地域(郷)再興を分別して取り組まなくてはならない。つまり、「書き連ねた法律の条文」と「掟や習慣性」の分別だ。また、それぞれが境際を峻別して補い合う関係をつくることが大切なことだ。また、その前提として「人情は国法より重し」にある潜在する善なる情緒性の作興も含まれるだろう。
余談だが、いま問題となっている慰安婦云々だが、慰安婦とは優しい言葉だ。
当時は多くの日本人女性が外地に渡った。現地軍司令官などは妾を帯同している者もいた。
いつも其ればかり興味を示すので部下から叱責され、なかには殴り殺された総司令官もいたが、もちろん病死扱いだ。残された机の引き出しには女の写真が幾枚もあった。
戦後、外地で行方不明になったあの参謀もその折檻のような暴行は止めることはなかったという。
不埒な上官も女と喰い物に強欲だと突撃の際に後ろから友軍に撃たれることもあった。憎悪の感情は世間と変わらない。
ある島ではお国のためと、出征送りまではなかったが、率先して慰安婦として外地に赴いた女性もいるが、当時は島民からは剛毅な女性と称えられたりもした。
よく女は「身を落として春をひさぐ」というが、男は「身を崩してやくざになった」といわれたことがあった。いまはそれらの人たちが否応なしに連行されたといわれているが、現代において置き換えれば、ひどい話であろう。
だが、外地占領を追うようにして料理屋や芸者斡旋のために商売を始めた商人もいる。たしかに芸人や置き屋という職種は今なら知らず当時は素人の手を出す商いではなかった。
それでなくても身を売る商いは、地方の困窮身売りとは言うが、口減らしで長男以外は郷から放逐されたように、多くは都会に出てきたことによる供給があったからだろう。
金貸しの証文でも小作人(男)や作物では担保にならず、まして返済財源もなく、働き手の子供を商人の手伝いとして年期を定め預けていた。いくら売られたといっても総てが春をひさいだわけではない。また連れていくほうも悪徳だけとは限らない。要は金が介在すると人身売買のように見えるが、西欧の奴隷売買とは大きく異なる。
当時は郷の名家でも行儀見習いで子息を預けていた。男は書生や丁稚、女は女中、多くは分別の付く社会人として成長して大人物になったものもいる。つまり、思春期を過ぎれば親子間の関係ではなじまない教育もある。だから社会の親代わり、烏帽子親といわれる仕組みがあった。
手元に置くことを固執すると往々にして人物観、あるいはその峻別意識が狂うことがある。得てして一過性の愛欲や地位や財力、学歴といった変化が激しい附属性価値で選別する夫婦関係はよく破綻するが、公位に就く立場の戸惑いは社会や国家まで価値錯交に陥れることがある。
侠客はやくざと呼ばれ、人生行路の選択を可哀そうだというのは他人の言葉だ。似て非なるものだが、「これがしたくてやくざになった」というのが大半で、身を崩したとみるのは他人の言葉だ。彼らにとっては、男を売る、格好いい、と思う風潮もあった
いま、若い女性が学費や遊興、あるいは趣味のためにか、当時でいえば春を売る仕事に就いている。もちろん短期アルバイトか興味もあるが、彼女たちに身を落とすとか、崩したとは気分は毛頭ない。だだ、教育費が高くて仕送りが間に合わない、たまには人並みにオシャレをしてみたいという理由だが、ここでは供給には事欠かないくらい志望者がいる。
なかには探究心と好奇心でその世界を覗き見ることもあるようだ。老齢な紳士とコンビニで飲料を買い、腕を組んで足取り軽くホテルに入る盛り場の光景も不思議観もなくなった。
どうも日本だけではないようだ。
あの消費者金融の新法ができて過払金までもどるようになった我が国だが、数年前に北海道で韓国の被害者を援ける団体と交流会に参加した友人の話である。
韓国の貸金業の金利は49%,それでもあまりにも酷いので下げたが、以前は66%が法定上限金利だった。その借用書の特記には払えない場合は子女を担保とする項目があるという。どんな高学歴であろうが、あの名門梨花女子大であろうが担保は外さない。
有名芸能人の性的接待で自殺者も出る社会なのか、はたまた女子は蔑まれているのか、行く先は同じ結末をみる。たとえ同族に頼み込んでも66や49%では返済できるはずもなく、多くの被害者が出ている、と当時の状況をつたえ、なかには売春婦として海外に出て行く女性も多く、統計では世界的にも韓国女性の売春婦の割合はつねに高いレベルにあるという。
総生産の指数にはなじまないが、最近の調査では年二兆円余、GDP5%という記事もある。しかも海外に輸出、いや転出して稼ぐ女性は世界一だともいう。
日本でも在日一世のころは母と娘は台所、夫は居室で食事をとっていた。その一世も長男ではなく次男三男で、女性と同様に郷里では口減らしのために外地転出は普通だった。
我が国も苦しいときは都会の働き手として年期奉公もあったが、性を商いとする場所に入る率は高くはなかった。それは余程の事情などというものではなく、職種選択としてカフェの女給、酌婦、芸子が憧れでもあり、裏事情はともかく他人との比較価値に拘り易い女性にとっては外見の装いが大事だったようだ。運よく普通生活をする側からすれば、堕落と切り捨てられそうだが、嘲る側も近ごろでは好奇心ゆえか、淫靡な秘めた行動として不倫が盛んな時節柄である。
男とて江戸のころは都市建設の流れとして、武家屋敷と商家、長屋の職人の構成ではどうしても女性は少なく、お下がりが多かった。武家の腰元、商家の女中など、もしやのお手付きでも、「俺の女房は何々家のお下がりよ」「あの大店の旦那の妾よ」などと、嫁に巡り合った喜びで自慢吹聴していたくらいに、あっけらかんとしていた。
もちろん、性も謳歌していたのだろう色事の文化が流行り、地方では、゛夜ばい゛が公然と行われていた。夜ばいは男が忍び込むだけでなく、先ずは中年女性が手ほどきをすることもある伝承ごとでもある。たとえ子供ができて、父親が判明しなくても縁者や郷で育てたおおらかさと、働き手の必要性があった。
逆に処女性を厳しくする向きもあるが、男の童貞はその厳しさとは別のものだった。いわんや娼婦も心と身体は別物だ。それは現代女性の酒宴で語られる異性体験とは似て非なる職業婦人のせめてもの矜持なのだろう。
色事は、隠しごと、秘めごと、というが、色と食と金の欲望は揃わなくては意味がない。しかし色事だけは、その職種も蔑まれているのが現状だ。
いっそ、慰安婦と総称するのではなく、労賃を貰う売春婦、男と同じように国内でやんごとなき事情があり、喰えなくなって一旗揚げようと海外へ飛び出す男と同様に、売春技能を生職として認知したらどうだろうか。
韓国では売春婦が待遇改善で白昼に繁華街で大挙してデモをするようだが(マスクをかけて)、ことのほか近代化された肉体労働職種でもある。占領地の米国の調査では、行動は自由、恋愛も自由、所得は日本兵士の10倍もある女性もいた。なかには兵士と結婚する女性もいた、という。
彼女たちは、みな身を落として、売られて、嫌な仕事なのだろうか。そうならば待遇改善より治安当局に自由の保全を訴えたらいいはずだ。別に正業といわれる仕事なら不満はあろうが探せばあるはず。なぜその仕事に留まっているのか尋ねることも必要だろう。
男であれば、やくざに尋ねることも必要だろう。いくら資金を遣い更生を援助するといっても、彼らなりの所属の自由があろう。あるいは法の庇護のもとに身を置かず無法の自由を謳歌する者もいるだろう。もちろん道徳に照らして、現行法に照らして誤っていれば堅気も稼業も区別はない。
法(矩)の下の平等だからだ。彼らなりの狭い範囲の掟や習慣、あえて言えば文化に棲むことが、形式的、外形的にもよくないのなら、それはあまりにも許容力のない四角四面の社会ではないだろうか。畢竟、それは堅気にも住みづらい世の中だ。
裏金のために領収書を書かされ、唯々諾々として生涯賃金安定のために辛い思いをする職業もある。あるいは人並みといわれ、借金ローンで家や車を買うことが普通とされ、人生選択の自由すら謳歌できなくなって借り物の幸せに戸惑う大衆もいる。
今は変質したが盗み、強姦、薬物は彼らにとっては禁忌で愚かと排除された。意地やメンツで法に触れれば刑罰を逃げ隠れせず受容した。
いま、堅気や稼業を問わず流行っているのが覚せい剤だ。戦後間もなくは薬局でヒロポンを売っていたが、切れると水を打つ者もいた。荼毘にふせば骨はボロボロで採骨は箸ではなく小さなスコップでなければすくえなかった。当時は疲労回復か徹夜の勉学に重宝されたが、男女の性交にも用いた。眠くなく長続きする、中国のアヘン窟も桃源郷への誘いだった。
常習性は本人も縁者にとっても困ることだが、見つかれば刑務所だとなれば余計に秘匿せざるをえない。だから刑務所の出入りが忙しくなるものも出る。元々、世間の話も効かないためか、本人の更生意欲しか当てにはならない。小心と好奇心が常習性になったものには強制力が必要だが。世間にはそんな場所も人もいない。だから刑務所なのだろう。
津軽の秋
侠稼業にも厳しい親分がいる。いまでも間違いを起せばゴルフクラブが折れるほど折檻するが、親分の元から離れることはない。もちろん覚せい剤は破門だが、この世界での破門は出入り禁止とどこも拾ってくれないため、彼らにとっては死活問題だ。
こんな稼業人もいる。子分が堅気になりたいという。理由は生活保護を受給するためだという。警察に脱会を届け、警察は所属組織に責任者である親分に脱会認証(印)をもらうが、この親分は印を押さないという。
親分が言うには「だいたい世間に迷惑をかけて、生活が苦しいからと堅気の人が汗水働いて納めた税金から、自分の生活が苦しいからとやくざを辞めて生活保護費をもらうなどという料簡(りょうけん、狭い考え)は許せない。それでも警察は印を押せというが、親の孝行をしたいとか、迷惑かけた世間に恩返ししたいなら赤飯を炊いて送り出してやるが、それでも押せという警察の了見がわからない」
親分は半端な気持ちが許せないという。せっかく縁があって来たからには、いい加減な気持ちで世間に出しては堅気衆に相済まない。所属する若い者にも示しがつかない。
こんな心配もしている。東北の刑務所に長期刑で入っている幹部のことだ。
「このご時世に出てきても七十過ぎで、一人前の動きはできないだろう。かといって組織に戻っても彼自身にも無理が出る。堅気になる気があるなら、いろいろ考えてやりたい。あとは、当局がどう見るかだ」
この親分は「おれたちヤクザは・・・」という。
筆者は、言霊(ことだま)は、切なさや、やるせなさ、からは生まれないと応え、
せめて「おれたち任侠は・・・」と語るように勧めている。
誰でも不幸で貧乏に産まれたくはない。ましてヤクザや売春婦になろうと生れついたものはいない。縁は親や友人や環境が運んでくる。屁理屈だが世間に認知されるには税金を払うことだが、彼らは罰金か拘留刑罰だ。
以前、税務大学の洒脱な校長は高学歴税吏の卵に、「泥棒と売春婦から税をとるには、また必要経費」と、設問した。
「売春婦はコンドームと布団に枕、宣伝はチラシがある」
「泥棒は脅し凶器の刃物、黒装束、逃走用車、電話がある」
税金のうずもれた徴収について設問されると世間知らずの官吏は頭をひねった。
校長は「税金は取れない。刑法犯なので罰金収納が適当」
それでも法の埒外に身を置く彼らや彼女にも倣うことはある。
それは、その位置から見える社会だ。
それは差別感や疎外感ではない、ねたみや嫉妬ではない。
存在を自覚する、つまり己を知ることの好位置にいる、ときに独悦だ。
時代環境で収益の増減はあるが、その位置にとどまる堅気から見た不思議感は、ときに、興味や好奇さえ覚えるのも筆者だけではないはずだ。
それは、己は何者かを明確に教えられることもあるからだろう
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