極東軍事裁判インド選出判事 ラダ・ビノード・パル氏
「時が熱狂と偏見が過ぎ去った暁には、女神は秤の均衡を保ち、賞罰の置く処を替えるだろう」
つまり、流行りごとのような現代の価値観を人々が冷静に考えられるようになったら、無価値と思えたことに人間として大切な意義と新しい価値を加えるようになると説いている。当時は戦争について勝者に賞、敗者に罰と定義した裁判への考察でした。それは数百年にわたる西洋列強のアジア植民地の声でもありました。
パル氏の生地 西インド地方(バングラデッシュ)
識字率向上のために発行したベンガル子供新聞「キシロ・チェトロ」は学校の教材にも使われている
よく政治家、経済界、知識人が、コロナ以後の世の中をいろいろと推測(予測)しているが、人間(他)を考えることばかりで、己を考えることが無為なことと感じているようだ。以下は旧稿ですが、とりつくシマ
旧関連稿ですが・・
社会(国情)が騒がしいと、ろくなことはない。
もともと四角四面だが決断が遅いといわれた民情が、模倣の流行ごとに翻弄され、慣れない競争ごとに投下されるとろくな結果を導き出すようだ。
音楽でいえばメロディーが揃わなくなり、重低音のリズムが氾濫するように、心拍が乱れ不整脈をおこしているような動きが社会全体に蔓延する。
荀子は衰亡の徴として
「そのような時は音楽が雑音のようなる・・」と。
その章には
「歌舞音曲が淫靡になる」
「一つのことに集中できなくなる」
「服装がオンナだかオトコだか境がなくなる」
そうなると
「子供は親を棄て愛人に走る」
規範が衰え世の中が騒がしくなると社会(国家)は衰亡し、「亡国の後に、その亡国を知る」と結んでいる。
もともと国家意識が薄い民族は連帯と自律意識も薄い。
たとえ解放と自由、民主、改革、という文字が躍っても繁栄の裏側にある「衰亡の徴」を範とする心はない。ここでは「意味の無い」ことのようだ。
荀子の郷(中国)もその繰り返しのようだが、日本もその騒がしさは同化しつつある。
しかも、それをもダイナミック、活性化などと言いくるめられても、その衰亡は必然である。
東洋にいう循環の中での衰亡期、西洋にいう終末には人々が落ち着かなくなるという共通な民情観がある。これは一国のみに当てはまるものではなく、連鎖の慣性として浸透し染まっていくものだ。
目ざとい民族はこの民情をコントロールしつつ、己の有利さに誘導しながら目に見えない支配という形でよりその力を強大化させている。
つまり、鎮まりのない民族は強大化されスタンダードとなった支配に誘引されたとも知らず矮小化された問題に一喜一憂してしまうのである。
それは、思索と観照と精霊の在ることを認知することなく、己さえ亡くすことに何の危機感をも抱かなくなった人々の姿でもある。
哀公と孔子の応答だが
「引越しに女房を忘れていったものがいる・・」
「女房ぐらい忘れてもいいが、今の人は己を忘れてしまっている」
小話のようだが歴然とした故事である。
そんな時は学びも役立たない
「小人の学は利にすすむ」
「志すところ全て利」
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
それらの人間が社会を形成すると
「上下、交々利をとれば国危うし」
内なる良心に問いかけることもなく、面前の現世利益の一部分である「名利」に競う落ち着きのない騒がしさは東洋の循環性の一過と看過しつつも、同化した種の変質の倣いに危惧を覚えるのである。
゛熱狂と偏見が過ぎ去った暁には女神は秤の均衡を保ち・・゛とパル判事は歴史に問うたが、己を自尊してその種の継続をつづける動植物の一隅にある棲み分けられた人間種が、稀なる姿と精霊を抱くことの理由(意味)を、今こそ鎮まりを以って考える其の機であろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます