2017 12再 桂林の子供たち
数年前の再掲載ですが、病巣は拡大している
官と民間の棲み分けが曖昧になってきた。
それは公私の分別といったものだろうが、古典では「公私の間」の重要さを説いている。
しかし、このところその「間」を巧妙に使い分け、まさに狡猾な狡務員が増殖している。昨今の世情を騒がしている防衛省の問題だが、装備備品の水増し請求についての錯覚した争論をみてみたい。
石破大臣の弁に「官側でその価格の査定をする内部組織と人員が必要だ」とある。
また野党民主党も追従している。
教育改革の論もそうだが、組織やシステムを論ずることによって問題が解決すると思っているのだろうか・・・
民の代表である議員職が政府側の大臣になった途端、妙な論を展開するのは常だが、このところの内閣は官吏の怠慢から生ずる問題の言い訳に終始するのが答弁の通例になっている。野党とて党首の意地や政権奪取の点数稼ぎのために自由な議論がなされない状態である。
とくに顕著に現れた石破氏の答弁と野党の同様なる論の構成は、紫禁城に増殖した宦官の群れに汲々とした政治家と衰亡した清朝の状況を同様な姿として観るのである。
世間、或いは読者にも石破氏の論は、゛オカシクハナイガ・・゛と思うであろう。
事、ここまでの状況にしても未だ理解の淵に届かないのだろうかと筆者は不思議に思う。
不見識だか「わかっちゃいるけど,止められない」と植木等氏が謳っていたが、いま国民の経済状態をよそに官域は増殖し、かつその既得は民活の合唱のもとチェックの効かない領域に逃避し、より強固な姿になっている。
隣国の国営も「公司」の名において軍官の派閥形態の中に納まり、国法国費を流用増殖して統制の効かない牙城として根付いている。
「生きている人間のすることだから色々ある」というが、筆者は決して四角四面で苦言を呈するのではない。
厚生省も社会保険庁も防衛省も、いくら枡添、石破両氏が論点をずらそうと、官吏は重々承知の上での行為である。米国では軍用機の便器の蓋が数千ドルということもあった。
民族運動家 赤尾敏氏
明治人の言論は言い切る小気味よさがあった。
古人の言を活用して問題発生を俯瞰してみてみると、ブログにも前記した「五寒」に当てはまる。
敬重、謀弛、内外、政外、女レイを以って「五寒」であるが、これが顕著になると亡国だという。
防衛事務次官守屋氏は、謀弛(ハカリゴトが漏れ、官規が弛(ゆる)む)そして、おねだり女房は女厲 ジョレイ(女が烈しくなる) 然り。
厚生省は謀弛から敬重(敬われることがない)と政外(政策のピントが外れる)
内外(内政が上手くいかないために外交に視点を向ける)はひどいときには戦争を仕掛けたり、国民に外交危機、環境危機を論点に乗せる。
美麗な語意解釈ではなく、民主、自由が恣意的な政策大義として、ときには軍備を以ってしてお題目のように広げられてきた。
国家は連帯を失い、世界あらゆる所で与野党の拮抗が生まれ国家の座標軸が揺らいできた。家庭は規範を失い、社会は経済のみに興味を奪われ、テクノクラートでさえ財貨の欲望に没している。
また、放埓した社会の収斂欲求はシステム論、組織論に委ねられた隙に、利便思考に追い立てられた管理社会に収斂されてしまった。
物事の興味は「局面」に追われ、落ち着いて行く末を考察する余裕さえ無くしている。一過性の刺激ある「局面」は枝葉末節な重箱論議に終始し、軽薄な大義に酔う議員によってセレモニーが繰り広げられるようになった。
まさに「五寒」にみる局面浮遊でしかない国家の姿である。
これを亡国の徴という