几帳面である。鷹揚ではない。
満州国の副総理だった張景恵は日本人を揶揄して「どうも四角四面でいけない。異民族との調和は何処まで踏み込むか、あるいは引くかの間(ま)が重要だ。二、三度戦争に負けたら角が取れるだろう」と、ある意味、残念がっていた
其の証拠に、今でもあの、゛偽満州゛は良かったと古老は懐古している。
官吏も四角四面で真面目だ。しかし賄賂を取らないために下の官吏に回ってこない。コレには参った。朝から晩まで賄賂を考える処である。しかしこの賄賂も「人情を贈る」こととして定着している。だから貰う側にまわりたいと勉強(賄賂学)を一生懸命習って地位を昇るのである。つまり「昇官発財」である。
其の四角四面と揶揄された日本の官吏だが、このところコンプライアンスと騒ぎ立てているが、゛すり抜け゛については巧妙な知恵を働かせる。まさに狡務員である。
また、国民に対しては殊のほか四角四面である。融通が利かないというよりか、それしか考えられない愚直な人間が多くなったようだ。だが身を守ることには長けているし知恵もまわる。
「内部情報は漏らすな。ついては生涯を保障する」と、裏金領収書を大量に作成しキャリアの餞別や遊興費を捻出する。それはタブーとは云うが検察キャリアの調査活動費と称する裏金、警察機構を曇らせているこれもキャリアへの上納金のような裏金だとマスコミは記した。
治安関係が先頭を切るものだから諸官庁もノーパンしゃぶしゃぶ・改竄・隠蔽の財務省、調達利権の防衛省、俺も仲間にと斡旋利得の政治家、青少年健全育成を謳う教師も縁故就職、どうも表面は四角四面だから始末に悪い。とくに体面を気にする背信の官吏がみみっちくも卑しい態度を見せたとき国民はどうなるだろう。
政治家をそそのかして立法は、ときに、やらなくてもいい理由付けや間違っても責任が及ばないようになっている。違反も「捕まえなくてはならない」では責任が生まれるので、「捕まえることができる」と、本人の運用(気分)次第となっている。
江戸の仇は長崎で・・・の例えではないが、理屈で装った言い訳には逆らえず、背中を向けてバカヤロウと怒鳴るしかない。まさか警察や検察、あるいは税務署の不祥事に、゛問題あり゛と告げるところも無く始末が悪い。しかたなくヌード掲載の週刊誌や、ワイドショーに告げても一過性のお笑いになるのがオチ。確かにあの狡猾さを知るものは止めを刺すまで不安でしょうがないだろうが、弱者の復讐は寄ってたかって残忍であるが徒労感がつきまとう。
かといって投票所の区切られた箱の中で誰の目も気にせず、怨嗟と復讐、あるいはオネダリを図っても、ことはより複雑怪奇な様相を浮かび上がらせ、時に不安に駆られる。
「禁ずるところ利を生ず」とは税と治安機関の専権だが、政治家とて選挙法の網目を厳密に抜けきれるものは無いのでコレも役に立たず。せいぜい違反の目こぼしと関係予算で融通しあっているのがオチだ。
始末に悪いのは、自身の資金を賄賂に使うのはまだマシだが、互いの組織の不祥事を舐めあうように公金をキャッチボールしたり、善良な部下にそれを強いる手合いは隣国の賄賂、汚職は笑えない。
考えようによっては陰湿でたちが悪い。
ことに人間の質や格としての高貴さがなくなった高位、高官、あるいは寄生虫のように擦り寄る御用学者、はたまた津々浦々の主だったボスによって其の劣化、劣情の進捗はいっそう甚だしくなっている。
天皇は民を「大御宝」と呼び、心に記している。
翻ってそれに倣う忠恕と高貴さは高位高官には無い。
鐘や太鼓で送り出した開拓民を辺境に置き、護るべき関東軍や高級官吏は真夜中に電話線を切って遁走している。
新京の日本人会のボスは、日本人婦女子を騙し集めて慰みとして占領軍に提供している。
四角四面どころではない。口舌は巧みで肉体的衝撃に弱い高位高官の喰い扶持官吏が、土壇場で逃げた歴史がある。異民族の地で王道楽土を謳い上げた彼等の結末の醜態は、日本人の恥として異国の地に刻まれている。異民族からの侵略非難どころではない。畏敬されるべき高官たちが同種同民族を食い合い陵辱したのだ。
内外の検証や批判は分別が大事だ。先ずは非難も足元からだろう。なぜなら其の根は増殖し、今以て変わらないからだ。
あの張景恵や孫文が歎き残念がった「真の日本人がいなくなった」という意味をもう一度探索してみたい。それを動かすものは、滅ぼすのは惜しいと首の皮を残してくれた彼等の日本人に対する想いであり期待だ。
多くの邦人は実直かつ勤勉だった。その精励態度を残像とする愛顧や、彼の国には乏しい人間の調和と連帯の国風に思う気遣いでもあったのだ。
終戦間際、満州へ侵攻した北方の異種人にはこの人情はなかった。
黙っていたら損をする。相手が言ってきたからと言い返す風儀はない。
敵であっても困っていれば塩を送る人縁への思いもある。故に頼まれずとも国境を越えて侠助に向かうこともあった。また深く思索し観照する民でもあった。だから模倣も巧みだった。
だが国勢の逆転なのか、口先の平和、人権、平等を唱えつつも、表層の異なりを言いつのり軋轢を増幅しているさまは、自らの意志で動くことなく相手の変化を望む依存、甘えの民癖として、いずれ衰亡の道を辿るだろう。
かつ、近ごろの、無気力で偏狭に切り捨てるような、野暮で融通性の無い四角四面の態度は、政経の外交友誼のみならず、人の生き様や経国に於いても、より閉塞感を導くに違いないと憂慮するのである。