2019 1/15 掲載に関連して
一部の賢人には恐縮だが、どうも腐りきった商業マスコミの、忖度ばやりの隠し屏風によって慎重に思索し、将来を逆賭するような意見は遮られるようだ。
別に掲載して欲しいとは思わないが、自由を担保する表現まで邪魔しないでくれと感ずる世俗になった。
「忖度」も流行りだが、「逆賭」もそのうち流行るだろう。流行りだから廃れるもする。「将来を推考していま手を打つ」それは善悪を問わず、今どきの人にはオセッカイでもあろうが、「今言うべきことを言う、聞くか聞かないかは問わない、しかし、いま言わなければならない。」と喝破した幕末の横井小楠を想像すればよい。
お犬さんでも後始末
以下は、たしか数年前の拙章ですが、前回の関連備忘として・・
ことさら反対や、白けて無関心だからと考えるものではない。だだ、政府なり自治体為政者は、鎮まりを以て歴史を俯瞰し、将来を逆賭したような施政を都民はみたいと願っているのではないだろうか、あるいはそんな面倒なことを考えないと一瞥さえしない人たちにも、民癖のようになった好奇心、迎合心など、そのまま投影したような政治メッセージは、いずれどのような状態を導くのかを政策意志を通じて魅せてほしいと思うのである。
以前、あの石原新太郎さんがIOC(国際オリンピック委員会)総会に皇太子殿下の出席を依頼したことがある。学習院の運動会でムービーカメラを抱える殿下ならひと肌ぬいでいただけるだろうとの気分だったに違いないが、そこは宮内庁の職員が踏ん張った。
そこで「宮内庁ごときの役人が・・」と殿様気取りの荒事を平然と行ったことは記憶に新しい。
こんどは「ミカドの肖像」と題して小文を書いた著述業の都知事がオリンピックに血道をあげている。その招致経費は数百億、晴れて開催が決まれば元が取れるとの算段だが、相手は名うての慇懃姑息な集団である。ロス・オリンピックからとみに商業化したというが、大人が飛んだり跳ねたり潜ったりする興行はなぜか熱狂を生み、たとえ転籍した国でもその看板が付けば居住国籍のヒーローにもなるし、社会は高揚する。
一方では慎太郎氏だが、ころから税の徴収はことのほか厳しくなった。職員ですらノルマと成果報告を課せられ汲々としていた。「上の都合でこちらも大変です」といいながらの強硬な徴収は普遍性の名のもとに多くの延滞に差し押さえが強行された。とくに近郊農家だった地主は有効活用もままならず資産税の滞納が続き、売れば別の税で捕捉される状態だ。
そこにきて新銀行東京の乱脈破綻、息子の事業への便宜供与と職員の優遇、オリンピック招致の失敗など、マスコミ情報の谷間となっている都政状況にこぼれる情報に怨嗟の念が巻き起こった。
そして、第二次招致だ。いくら選挙公約だといっても余程のことがない限り都政の実態に興味をもたない都民は、民主党の国政失態を、゛気分変え゛と考えた単なる選択だった。
もともと大都市をかかえる自治体の選挙はその様な結果をたどるようだ。安井、東の振れは左翼とおもわれる政党の推薦で美濃部という学者を選択した。後は官僚の鈴木、また振れてタレント青島、そして小説家元代議士の石原になった。大阪も漫才のノックから官僚の大田女史、そしてタレント弁護士だった橋下になった。ことさら選挙民が面白がっているわけでもないだろうが、その候補者のキャラクターばかりが印象となり、また人気投票のような選挙を敢えて意図する戦術がとられる、まさに都市型衆遇の誘導選挙でもあった。
こんどは相続選挙のようで、゛どうなるか、何ができるか゛とあまり期待観のない知事のようだが、威勢のよさそうにみえるのも似合わない元気さだが、それを維持し、その位に留まってくれればいいと思うのは都民ならず官吏の切なる願いだろう。
その花火がオリンピックとは、イベント会社やマスコミに垂れ流す資金でネガティブな都政情報をスル―されると思えばホドよい宣伝費だろうが、旧来型便宜供与には変わりはない。
台北
標題のオリンピックだが、随時帰化のようなことも起きる。教育機関の優先特待生のようにその学校を有名にして経営を安定化させる手法は、落ち着けばその特待制度はなくなる。オリンピックを国家高揚、商業利得にするには帰化が当然のようになっている。五輪の各色は人種を表しているというが、愛と人権と自由を謳いあげただけあって混血がすすみ、欧米のメダリストはアフリカ系の選手が多い。あの芸人ネコさんがカンボジアに帰化して出場を試みる例もあるが、陸上競技にはそのメダルが多くなっている。
そのメダルも年金、勲章、国民栄誉賞、プロ転向と名誉だけでなく、金を生む。それに群がる競技関係者もおこぼれに与かるが、熱中のあまりの指導が近ごろでは体罰やしごきとして社会問題にもなっている。
不思議に思うのは水泳競技にアフリカ系が少ない、いや、まだ見ることはない。アフリカ系米国人のプロスケーターはいるが、あの浅田真央さんの競技では見ることもない。
南洋諸島の氷上ソリ競技の出場に耳目が集まったが、稀なことだ。ともあれそれが世紀の祭典というものだ。巧い具合に4年にごとという目標があるせいか国を挙げての狂乱は飽きることなく、待ち望むにはちょうど良い間隔があいている。
その興行招致に政財界が打ち揃って昂揚しているが、国民の期待度はわずかしかないのが実情だ。経済効果や国威の伸張を謳っているが、国民は煽られて買い求めた高性能テレビジョンか有料テレビでこと足りると思っているのか、さほど騒がない。ただイベント補助,招致資金に群がる関係自治体は旗を立て、バッチを付けて迎合しているが、その先はかいもく不明だが、如何にせん御上の為さることと、おんぶにだっこの様相だ。
あの麻生太郎さんなら「さもしい騒ぎ」と内心呟いているだろう。だだ、忸怩たる気分にさせることは、今どきの選挙の一部の狂乱と無関心に似て人の動態が捕えづらくなっていることへの危惧が、どでかいイベント花火を打ち上げることで、どうにか経国の流れがつくられると思っている為政者の出現だろう。
都民は何故そんな金を使って騒いでいるのかと、つかみどころのない心配がおこっている。しかも総理や殿下までオリンピック興行の談合の場に晒すことに疑問視しないアンチョコ為政者の軽薄な心根に嫌気がさしている。
また、視察と称して飯を喰わせ、酒を飲ませ、観光まで案内する。もしかしたら、また総理や殿下に暇をつくらせるのかと国民は心配している。
鐘や太鼓で民を躍らせ、だからと言って楽にならない民の「いずれ虚しくなる」という賢こい思いをしりめに多くの時と労力と税を湯水のように遣う官製イベント興行だが、カスリはサラマンチ王朝の寺銭になる。しかもそれを承知で卑屈にも阿諛迎合する選良に嘆かわしいと諦める国民の声は届かない。
不思議なことに、テレビ・新聞を代表する商業マスコミもファッショのようなオリンピック礼賛に異を唱えるものはいない。あれほど支持率という数値で政権まで倒す力がありながら、都民の意識の「分」、つまり読者の吐息は届かない。都市開催がうたわれ世界の小都市までが名乗りを上げているが、冬期はロシアの黒海沿岸のソチだ。莫大な資金を使って大工事をおこなっているが、一方では政権勢力の浮揚にもオリンピックは効用があるようだ。ただ、二代つづけて二番煎じのお祭り施策をされると、「本当かな・・」と賢い国民のアンテナが敏感になっている。
東京は前回と2期つづけての立候補だ。意地もあるのか官民総揚げで国内外をあおっているが、あの伏魔殿のようなIOCに弄ばれ、喰われてしまうのではないかと心配になる。もっとも国民の大多数はその様な気分になってきた。IOC委員の不祥事、国内競技の指導問題など、意気消沈しないか、あるいは意地とメンツで突っ走るか、そしてなりふり構わず芸者目当てのように置き屋の女将に金を握らせるのか、たかがオリンピックと揶揄することなく、為政者の能力と質をみるには適当な状況でもある。