まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

観人則からみた宰相の器量 【Ⅰ】  8 10/23再

2020-09-08 09:04:05 | Weblog

安倍一次政権のころ・・・


浮俗をにぎわし、かつ煩わせる鎮まりのない争論について、四編に分けて駄論を弄したい。

謂わんとすることは《観人則》である。
近頃、腰の落ち着きが無く、つまり沈着冷静に国家、社会の行く末や社会の実像に身を浸して吐息を聴く政治家が乏しくなったきた。

とくに鎮座独想(心を落ち着けて、独り考察)すべき宰相(総理大臣)の姿と、国民側の見方について、くわえて宰相の閣僚任命に際しての人物観のありようを文上にて問うてみたい。

以下、本文 四の一

諫言するのも憚ることだが、昨今の人物を観るための秤は、概ね外形に見える地位、財力、学校歴、などではある。

それは何ら人物人格なりを代表しない附属性価値のみを人間の姿としてしか観ることができないマニュアル評価でしかない。

度量、器量にある人物の観方は、余程のこと「量」でいう重厚感を推し量ることの可能な識見と、人の行為を忖度できる雅量が必要になってくる。

言葉の伝達による人の説明は異なる地域や文化を有する相手にとっては当然ではあるが、同種、同民族にとっては簡略なる言葉による阿吽の識別がその要となる。

それに比して現在の見方と評価のアンチョコは、偏差値、数値評価の類でいう受験評価のようなものであろう。つまり虚偽、架空による実態評価でもあるが、殊のほか利他に勤しむべき立場に立つ権力構造の中の要員には安易な評価基準でもある。

その観人評価の錯誤の弊害は、ときとして国家社会を構成する権力機構や経済を操る資本家の恣意的行為となって社会の基礎的基盤を融解するのみではなく、ダイナミックな循環を阻害することでもある,
それは歴史のいたるところで観られた社会システム耐用期の更新において、臨機を錯誤することによって衰亡から亡国の徴を予測認知できず、政策遂行を曖昧にさせている因になっている。つまり人間の行為として表れる歴史の観測に鈍感になることでもある。


殊に人間の織り成す歴史の事象において、人間の高度な教養と、そこに培われた矜持の如何で決することの多い国家社会の盛衰が、人間そのものによって集積される刻と存在である歴史の有効性を、無用にしかねない危険を含んでいるようにも観得る。

コメント (1)
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