広州
どこの新聞だったか「まるで息をするように嘘をつく」と大文字で書いていた。
その通りだが、不思議がっていること、そのことが不思議になった。
嘘は「キョ」、空気を吸って酸素を取り入れ、必要のない二酸化炭素を吐く、その吐きだすことが嘘である、と佐藤慎一郎氏は説く。
つまり、嘘は正邪拮抗する、あるいはバランスをとる自然な作用だということです。
先ずは己を知らずして、己に嘘をつくことです。
自分が決めたことでも、守れないこともそうでしょう。
学生の頃、夏休みの宿題は間際にならなければ手につかない。
翌朝の起床タイマーを余裕をもってセットして、起動してもウルサイとばかり寝ぼけリセットして、まだ余話の五分あると寝過ごしてしまう。
就職の面接でも得意でないことまで「できます」と自身を売り込むこともある。
ここでの嘘は、相手には被害感はすくない。また「あの人は嘘つきだ」とは言えない状況だ。
それは、自身への嘘は自身に還ってくる問題であり、己に課した要求であるからだ。
しかし、人を貶める嘘は自身の信頼を毀損するばかりでなく、相手にも被害が及ぶ。
いま、官僚は隠していることでも問われなければ話さない、これを「嘘」ではなく、問われなかっただけ、と平然としているが、これが彼らの隠ぺい手法の慣性だとしたら組織内官吏としてなら認知されるようだが、公務員としたら、狡務員、公無員として、いただけない人間だ。
その嘘だが、己に課したものに出来なかったからといって嘘つきとは言われないが、相手の心情や約束事を違えると「嘘つき」とレッテルが付く。加えて「嘘つきは泥棒のはじまり」と昔から言われているが、そこに行き着く人柄への印象も芽生えてくるだろう。
また、嘘をつかれた方は「嘘」は悪と断定して交わりは断捨離になる頑なさもある。
己を内照すれば、人の活かし方もあろうが、四角四面な性癖はなかなか直らないようだ。
筆者が香港駐在していた頃に三人の秘書が附いた。
その時の「嘘」について彼らに語ったことがある。当ブログにも掲載した小章から抜粋してみたい。
素直で能力があったスタッフ
≪ じつは彼らスタッフも私を懐疑的にみていた。彼らビジネスマンは無報酬では動かない、つまりどれくらいの報酬対価があるかについての興味だった。
永年の懸案だった上場に伴う前提として、堆積していた海外事業所の整理に関する好奇な目と不思議さであった。
もともとTMSChinaコーポレーションはトッパン・マルチ・ソフトの略だが、子会社整理に伴って戴麗華が横浜の馬氏の投資資金で購入した会社だ。だだ、麗華がトッパンフォームの社長付顧問ということで、個人的に安請け合いした案件だった。
これが成功すれば上場企業となり、社長も安泰、ついでに麗華も信用を勝ち取り、社員も晴れて上場企業の花形となる。しかも、特別配布の株券の資産価値は膨大な金額になる。そのストックさえ考慮に入れない私の行為が彼らの不思議さでもあったが、ともあれ、その前提としてどうしても解決、整理しなければならない海外の懸案だ。
株式上場の宴はお前たちが勝手に考えればよい、という気分だった。
ただ、器は見栄えができても、人材の資質は変わるものではない。いくらか上場して変化はあるだろうとの安易な考えもあっただろうが、以後は社長の弛緩と個人的案件というべき思い付き、唯々諾々としたがうサラリーマン根性はなくならなかった。
それは今回の懸案と同じ状況が、以後も現地法人で繰り返されていることでも分る。
スタッフはこの別会社の懸案解決を、彼らの所属するTMSの副総経理が行う疑問と不信感だった。しかも、この成果を麗華の名前で報告する気持ちが理解できなかった。
だだ、対価は相手の心算段で、有っても無くてもいいと、一種の利害無境にならないとできないものだった。しかも滞在4日間である。大手企業の上場が懸っているプロジェクトには相当の対価があると考えるのも普通だった。だだ、私の方が普通ではなかったから、より不思議さが増幅したのだった。
これをコンサルタントに依頼すればどれだけの報酬を請求されることも、彼らは敏感に計算しての観察だったようだ。
もともと自腹で空気を吸いに来ただけの香港だった。文革時に師の佐藤慎一郎氏が海岸に泳ぎ着く大陸からの数多の逃亡者を待っていた海岸に行きたかった、それが唯一と云ってよい目的でもあった。それが着いた途端、このありさまだが麗華の祖父王荊山へのささやかな恩返しなら、それも縁だと乗ったことだ。
恥ずかしながら撮られてしまった
TMSの担当社員には迎合するつもりではなかったが、二日目に彼らと昼食を共にした。知らなかったが、長い昼食だった。この地では当たり前と思っていた。ほかの席もハイトーンな言葉のなか二時間席を温めていた。
日本人の女性職員はこういった。
「嘘はどう思いますか?」
こう応えた
「嘘は大いに結構、嘘を言わなければ生きられない国がある、だから皆利口になる。人を貶める嘘はいけないが、評価を高く売る嘘などは可愛いもの、見抜けない方が嘘つきよりひどい愚か者だ」
「でも、困るときがありませんか」
「いや、自分は嘘で飾ることはできない。できないこと、できることは知っている。幸いにも親から嘘をつかない勇気を持ちなさいと言われてきた。時折、お金がないときは好きな女性からデートの誘いがある。そんな時は腹が痛いとかいったことはあるが、これは若いころの格好つけだ。いまは嫌われることより嘘を言って信頼がなくなる自分が恥ずかしい。だから君たちには嘘はつかない。」
翌月の香港再訪には誰も彼ら流の嘘つく人はいなかった。爽やかだった。
コンプライアンス、セキュリティー、服務規則、香港らしくない。
これも日本企業の常套だが、人間を知らずして金を扱うことこそ愚かなことだ。後藤新平も児玉源太郎台湾総督もそんなことはやらなかった。まずは、育てて信ずることだ。≫
彼らは自らを隠し偽らなければ生きられない歴史があった。
政治的謀略は難しい内なる統治にあった。
「お父さんは毛(沢東)先生のことを何と言っていますか」
党員の教師が尋ねた。子供は意図ある質問に素直に応える。
「ときどき悪口を言っています」
早速、生徒から信頼されていた党員の先生は規律担当に報告すると、家族は拘束され査問された。よくあることだった。
これでは親は子供にも嘘をつかなければならない。
家族は分離して、子供は紅衛兵となり、密告された親族、教師などを罵倒し殺害されたりもした。 あの頃はそうだった。
つまり、真意を隠し嘘をつかなければ生きられない社会となった。
そして為政者の政策には、人々の対策が育った
それは対人関係で狡猾に生きなければならないということだった。あの働き者で人情の深い人たちだったが、もともと政治についても「あの人たちのこと」と口にすることもなかった。そしてごく狭い身内しか信用できず、信用できるのは財貨とわずかな人との人情に信をみた。
もともと、人情は国の法律より重いものであり、生きるところは国家より、地球の表皮のいたるところにあるという感覚だ。
また、政治には独特の諦観も生まれた。「しかたがない」「自分とは関係ない」そんな気持ちだ。
桂林
くわえて人情は同種同民族にかかわらず、異民族にも信を認めると厚く深い人情を明け透けに見せてくれる人たちだ。その意味では中国という国家は、利用できる間は看板となる。とくに力をつけた現在は看板を押し出す。力が無くなれば天下思想によって世界中に活躍の場所を求めることができる。
香港駐在の頃は「昼は鄧小平、夜は鄧麗君〈デン・リージュン〉テレサテン」といわれていた。おなじ「鄧」の権力は昼にあり、夜の愉しみはテレサの歌にあり、寝室の睦みにあるということだ。面従腹背とは彼の国の熟語だ。
それは反発するまでもなく、避ける、除ける、感覚の表層の偽りなのだ。
これを「嘘」と決めつけるのが四角四面の我が国の観察だが、為政者とて解っていながら専制的政治を執らざるを得ない都合もある。
多民族と広大な領土、もともとの過剰対応も為政者の習性だ。
田中角栄首相は周恩来氏に「共産党政治は歴史から見れば便宜的選択だ。家族でも子沢山だと親は相当厳しく決まりを作り監督しなければ治まるはずはない」と語っている。
彼の国の異民族(漢族以外)の侵入は多くは北の異民族だ。
古代は匈奴、モンゴル族の元、満州族の清がそうだが、みな中原の北京に都を定めた。
しかし、色(性)と食と財の欲求は漢族も負けてはいない。抑圧された漢族はより狡猾にならなければ生きられない。
しかし、弱さを見せるとすぐに反発反抗をするようになる。
おおくは前記の三欲に同化して為政は怠惰腐敗して弱体する。つまり同化しやすい欲望に誘引されて衰退するのだ。
嘘も方便とはいうが、国家さえ転覆させる雄弁さが彼の国にある。
以前の小章で、我が国は三欲に誘引されて彼の国に同化しつつあると記した。
我が国も、勤勉、正直、礼儀、忍耐の徳目とは言うが、これも看板になりつつある。
孔子や孟子の国、儒教の国、が看板なら、それが発生しなければならない民情を観なければならない。我が国もその徳目を掲げなければならない民情がある。
好奇心、迎合心、依頼心は、群行群止する民癖があるだろう。
しかし、彼の国は好奇も迎合も依頼があっても群れでは動かない。
彼の国は一人では虎、我が国はウサギ、集団になるとその逆に転化する。
いまは嘘をつかなくても良いくらいに自信をもち、力を蓄えてきた。
他への迎合や依頼も少なくなった。
まさに息を吐くように嘘を実態にして拡大している。
わが国では「政治家は人を騙(ウソをついて)して雄弁家という」
官吏は「嘘を巧くなぞって能吏という」
そして国の資材を掠(かす)め取る。
隣国は哂えなくなった。逆に、笑われ、嘲られる政官吏の幼児性だろう。
数値比較だけでは国力評価ではない。深層に蓄えた真の国力である情緒性を毀損する
彼らの醜態こそ民族の危機なのだ。
それでも、競い、騒がず、鎮まりをもって眺める良機ではないだろうか。
それは、世に起きるさまざまな現象を自らの責として受容内照してみることでもある。