goo blog サービス終了のお知らせ 

まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」体罰  稽古は倣うとこで、習うことではない

2025-01-02 01:21:04 | Weblog


 理屈のない体感   ゛水は自分で掛けるのか、かけてもらうのか゛必要なことは同じだ



「倣う」は自身の特徴を活かして自分なりに修得する。つまり人物なら、あのような人になりたい、という目標を設定することだ。一方,「習う」とはまず前例や既存の規格に従って知なり技を習得することだ。

 昨今、体罰が問題になっている。規律違反があれば対価で補うのではなく、肉体的衝撃や苦痛をもって自身に課すものだが、いまは第三者に依頼して一喝してもらうことでも、もう一方の第三者がみると体罰になるようだ。

自己鍛錬のために競技なり芸事を選んで、縁あって指導者や師を得て、もしも同じ訓練者との調和がとれなかったり、互いの礼を失念したとき、自身の軟弱な意志に代って伝え、教えてくれる第三者の人間、ここでは先輩や同級生,師の、゛気付かせてくれる゛本人自覚の代理行為が、往々にして体罰と称されている。
 

代理依頼は教員や先輩、両親縁者だが、ときにはみも知らず人からの、゛気付き゛への促しである。
 そさえも、゛うざい゛、゛いやらしい゛が多くなっているが、スポーツだけではなく、さまざまな場面で起きている。
 加えて、教師の言葉つかいも荒っぽく行儀が悪くなっている

 以前、教師は背広ネクタイで、男子には「クン」、女子には「サン」をつけて呼んでいた。いまは性名の呼び捨てだ。体育系の教師は保健体育の授業をジャージ姿で行うようになった。それに倣って女子も男子を呼び捨てにしている。もちろん、親もそだろう。そもそも学び舎が集団規範もなく、他に譲る意(年齢や技能、役割)である「礼」もなく、教員同士も役割権能を差別ととらえ抵抗する職員と校長の軋轢も当然なことのように蔓延している。

言葉が乱れれば服装も変わった。だらしなくなった。
それは教科書を説明する教員はいるが、人の倣いとなる教師がいなくなったことでもある。





台湾の教育に命を懸けた六士先生  士を懐かしみ殉難を讃えた台北芝山巌霊園にて





 競技、芸事でも志願するのは本人だ。つまり志を遂げるために選択した競技なり芸事におきる諸問題の解決や考え方はそれぞれの選択に任されている。自由は担保されている。   
 ただ、相手のいる競技は自由のはき違えで調和をなくし、゛コンビネーションがない゛と敗因を指摘されるが、好き勝手な自由担保のなか、競技中に早く、強くとパートナーに指摘され気分を害したら競技にならず、相手側にもマナーを逸することになる。

 頑張ってくれと背を押されても、気が向かないコーチや監督だと体罰やセクハラと騒ぎ立てる。あの張本勲氏がいみじく吐露した、「張本が殴れば暴力、長島が同じことをしても愛の鞭」がそれだ。戦闘行為の疑似行為がスポーツなら、団体競技はチームリーダーがいる。

そこには名声のある者、熟練選手、あるいはチームアピールのために容姿端麗を選ぶことがあるが。勝てばヒーロー、負ければ戦犯のように叩かれる。それはいずこでも観覧料を払った観衆の歓喜と失望に包まれた尋常な状態ではない環境で繰り広げられる現象だ。

 ましてや熱狂すべきクライマックスで無表情をとおす野村克也、落合満博監督は愛の鞭どころか考え抜かれた悪意のない皮肉と嫌味、そして無視に受け取られる態度で注目をあつめるが、これなどは体罰はないが選手にとってはダメージが高い。

それはたとえ団体競技でも個々の特技の集合体ゆえに、個々のなすべき仕事と責任は,誉める、教えることより、当然のように理解修得しているとの厳しい前提を課している。
 まだ、星野監督の鉄拳、王監督のモノへのヤツ当りのほうがわかりやすいという選手もいる。兵隊に軍曹や将官の役割要求など酷なことだと選手は考えている。
それは交代する監督も縁や運だが、当り外れのなせるものだとも理解している。
そこまでくると、会社や役所の上司も同然だ。






先ずは僧侶(師)に礼を尽くすことが仏教の教えの前提  僧も信徒も忘却している日本の倣い



 それは体育会系といわれる範囲の見方だが、文科系と理数系に色分けされる学派とは違い、武骨で先輩後輩の垂直的関係が習性として態度表現にあらわれる人たちのことの総称のようだ。競技においても個人種目、団体競技があるが、たとえば空手やボクシングは向かう相手を排除するような性格的特徴があり、逆に組み付く柔道やレスリングは実生活においても独特な交流関係を構成するようだ。

つまり選択種目によってそれぞれが類似した性格をもつ競技者が不思議と集まる。いや、なかにはそれしか選択肢がない人たちもいるに違いない。

 世にモンスターペアレントという言葉がはやった。往々にして母親が多い。だがこのモンスターとよばれる教員もいれば生徒もいる。
いま、騒がれているのはスポーツの監督やコーチだが、始末悪いのは当事者同士の完結主義はない。組織役員や上司、マスコミ、司法関係者を巻き込んで、それぞれの職掌を看板に「それらしき空気」を連呼する。

「それらしき・・」とは、肉体的衝撃あるいは負荷をふくめた活発な行動、溢れんばかりの衝動的運動の苦手ゆえに机上書学を選択し、かつ一方に数値偏在することを唯一の勉学としている人たちの空気である。それらは世代の経過に当然訪れるであろう情緒の集積すら乏しく、スポーツにみる世代を超えた協働作業の根底にある、長幼を超えた人の信頼や感動体験を無意味なこととして考えている。つまりスキップしている人たちだ。

 一応、エスカレーターのように大学を出ても、思春期にスキップした情の欠落は人間関係構築にも多くの弊害をおこすようだ。それは人間観察でも部分考証が多く、ゼネラリストしての人物観もなく、部分エキスパートを、「すごい・・」と狂喜驚愕する幼児的観察しかできないような、往々にして、゛びっくり屋゛さんが多いのも特徴で、いわゆる落ち着きもなく排他的な人間関係に陥るものもいる。
 そして言葉もなく人の行いをみて倣うことができなくなっている。それは「聞いていない」「習っていない」ひどいのは「教えてもらっていない」「書いていない」と反発がある。
つまり、自習がないし己も知らないので、素行自得さえままならない。

 それらは修練の扶助を苛めやしごきと観察し、激励や模範試技ですら体罰ともおもえるのだろう。しかも第三者の見た当事者の技能の可能性への指摘すら拒絶することとなり、自己限界を既定のこととして、その一線を納得限界とする近ごろの風潮でもある。










 あの武蔵も眼で見ることではなく、「観の眼で見る」ことを技の容量を増やすことだと語る。
著者吉川英治氏は武蔵を実在の人物に置き換えて人物像を描いた。その武蔵の「観の眼」のくだりは、漢学者であり剣道をもって身体鍛錬とした安岡正篤氏の言である。
 挿絵は新井画伯、その三人で牡丹焚きの逸話が安岡氏の童心残篳に記されている。筆者も安岡氏に倣って牡丹焚きをしてみたが、部屋中煙くなって薫りもしなかった。
 嵐山の農士学校(現郷学研修所)では仲良く田植えもしている。







 剣道は切っ先を見ていては全体が観えない。それを倣いとして学問の世界でも自信の内在する能力を知り、現象の因をさぐり、部分検証しながら全体を描く。いまは表現や説明の能力が必要とされているが、吉川氏や安岡氏はその目的を内なる心(精紳,意志)の確立としていた。人と比較する数値やメダルの数や、それが地位や名誉、安定した食い扶持に結びつけることを学問の堕落として忌避していた。

 何を倣うのか、その倣うものはどこにあるのか、前提は習うことだろうが「本」の座標がなければ、強い、速い、も単なる一過性の熱狂の具になるか、あるいは儚い財利の徒になるしかない。
たしかに走狗も早い方がいいと聞くが、それこそ肉体的衝撃による神罰が必要だろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝者の資格 機略のタイミングと逆賭   2015 9/5一部挿入

2024-12-31 16:08:55 | Weblog




「機略」機会に応じた考え。(略には奇略もあれば策略もある)
「逆賭」将来を予測して、いま手を打つこと。

 

これでベトナムの敗戦は帳消しだ。
政府や軍だけでなく大衆の意識にも認めたくない記憶があった。

ベトナムは冷徹な秀才、マクナマラ国防長官、今度も類似したラムズフェルド氏だ。

共通点は、兵站、戦端、継戦は数値計算でできるが、防戦、撤退、或いは占領軍政となると世界は解らなくなるようだ。アフガン、イラクは今でも混沌としている。

 

 

筆者 幹部講話  統御、機略、浸透学、謀略 死生観

 

指揮司令の機略とは、臨機(機会に臨む)に、いかに各ユニットのコンビネーションを計り、組織を司る人間の職掌を超えた連帯意識と調和を考えることであり、かつ目的を共有した使命感がなくては行動のタイミングを失うことになる。

また多くの識者も大意はそのようなことを仰せになる。なぜならそこには人間が絡む問題が発生し、多くの時間と労力が割かれる憂慮があることに他ならない。

元米国の国防長官ラムズフェルド氏の回想録を読んでいる

自身の出生から思春期の事情もあるが、考え方はことのほかドライである。筆者の友人である米国人に聞くと「右派」と切って捨てられたが、何処か納得するような気分にさえなるが、似て非なる心情吐露もそこに感ずる内容もある。

それを日本人なりの忖度推考としても、彼の順を追った経歴説明がどこか空虚に映るのは、幼児期に無垢で素直な童心に添うことのない大人の対応からの離脱と、それが他への厳しすぎるくらいの客観的間合いにしみついた習慣的思考の組み立てが見て取れるからだろう。

解りやすくいえば寝技型の柔道と突き放し型のボクシングとでもいおうか、思考、性格にも現れている。音楽でいえば人付き合いの巧くない奏者がセッションによって不規則ハーモニーといえるような楽曲と、楽譜通りに演奏するパートが指揮者のもとに楽曲するバンドのようなものだ。

聴く方も解ったような気する熱気とソロ曲奏、雑音一つ許さないオーケストラは、双方、演奏する者も聴く方も同じようなものが集うのである。

そこの了解事項は、ともに結果に納得性があるが、あらたな機会の創造と目的の自己納得という正当性のロジックを、他のくちばしの届かないところ、それはバーチャルであれ、球体であれば底部しか見えない位置に浮かせる必要性がある。

それは彼の行動説明の方程式のようなもので、全ての組み立てに応用され、その分析理解と論理的考証、そして他への説明は明解ではあるが「明晰」とは異なり、あるいは右派というよりか、中国の混乱期に交渉を委任された説家のような自在応答の巧みさであろう。

それは余程計画だったものでも開戦、終戦、掌握,平定、撤退と普通なら数年かかる軍事オペレーションから現地の臨時軍政、施政委譲など、選択変化が多い状況に合った政策が事前に策定できるものか疑わしいし、その変化をネガティブな論争を想定し、かつ耐えるような継続的大義なりが必要になる。





「大統領の戦争」とは・・・



何よりも大統領の発意を政策として練り上げることは、そもそも大統領の戦争というエピソードを記しつつ、逡巡する高官の意見を調整するという従順な臣下と、一方の権力への緻密な客観的観察に長けた臣下という姿を自己調整しなければならない。

いろいろなエピソードが綴られるが、それを超えて向かわなくてはならない使命があった。いやそう見える。なぜなら、機会に望んだときに現れる有能な人間の多面的な考察にある両にらみの気質ではあるが、ラムズフェルドの能力と大統領と良き相談相手のチェイニーの登場は、その段階から意図されていたともおもえるような絶妙なセッションパートであったようにも見えるのは、職掌や権域を超えて符丁が合ったからでもあろう。

つまり、失敗しても氏の責任として問わない事前了解のようなものだ。
それは、勝つのは解っている。どう勝つか、どのように整理するか、ということが目的に合った戦争だったように、そこからみえるのだ。

とくに強大な軍事力が背景にあるからこそ可能な説得論理でもあり、近ごろの日本の若者にもあるような分類、考証し、自身に組み込まれている思考の手順、結論の導き方に合わせ、その範囲とは異なる方策に討論を挑む、ある意味の小心で排他的な自己確認の様子が回想経過にもみえる。

それは納得せざるを得ないような高邁な理屈を並べ、珍奇な学説さえ編み出せるような環境作りのために、別の意志で戦争ロジックを作り、それらしく発表することだ。批判、反論が出やすいロジックだ。

本意は前に記した、くちばしの入ることのない所か、球体の底辺しか見えない箇所に吊るせばいい。なぜなら食い扶持としての足場がないところ以外には立たないことを知っているからだ。

突き詰められたときの国家への帰属意識や、より複雑な要因を以て構成されている合衆国へ無条件の貢献という、より難解な取り組みてはなく、繁栄を毀損すると考えるもの、市場の増殖を抑えるもの、あるいはメンツを汚すものへの復讐など、米国民の潜在する一方の良心との葛藤の様な行動にみえるのだ。

それを整合するための他との事前了解と自己(米国そのもの)の納得は、より難しい論理の整合性を求められるのは当然なことだ。
民主主義の体裁、議会の了解、予算の確保、まさに簡略拙速が求められる後方戦略でもある。


また、その後方における広報戦略のイロハは、広報をゲリラユニットとフォーマルユニットに分け、大統領コメント、あるいはメッセージとして各機会の用となすのだ。彼はその機能を駆使して機略を整え周知している。

ただ、戦後軍政については、それほど時を割かなかったようだ。だが、それが政権の足を引っ張ることまで彼の性格上組み込まれなかったようだ。それは既定勝者の増長ともいえるが、米国民が納得する戦争の意味からすると、より混乱の種となることは必至だからだ。

それはベトナム、ソマリアの泥沼にトラウマが潜んでいることを彼自身十分知っていたことと、機を逃さないとする熱気の高まりがそれを置き去りにしてしまった。
米国は戦争の長期耐力が衰えたとの印象を世界に与えた。長期戦に耐えられない・・・、それは装備にも如実に表れた。


初戦さえ防げば・・・。あのフセインは開戦前に「空爆でやられても、地上戦では勝つ」と言い放った。それはゲリラでもなんでも長引けば米国世論が後ろから槍を向ける、つまり大統領選をはじめとする選挙の攻撃を受けるということだ。それを読まれた上での戦争だ。

国防長官も難儀だが、一番は前線兵士の想定意志だ。まかり間違って「こんなに戦闘が長引くとは・・」「こんなに増員補充が必要だったとは・・」
この部分ではラムズフェルド氏は有能だった。そして完遂した。







かれはビジネスマンとしても優秀だった。それも全米でも優秀な企業として世界にも販路を広げている製薬会社だ。あの高熱死亡の流行り病で騒がれた当時、我が国の国策で購入したタミフルも彼の会社の主要品だ。多くの副作用が問題視され薬害とも噂されたものだ。

組織の組み立て、人員配置、能力の可否判断、販路の開拓、よく整理され、それぞれの部署が機能的に連動し、氏の人脈も加味された総合的な企業として成功している。それは社員の冷徹な観察が人事にも表れ、そのガバナンスは総合戦略の具体的な手法と相まって優れた業績を上げている。もちろんラムズフェルド氏の経歴も大いに効果を上げたようだが、株価、利益率など経営上の数値基準も整ったグローバル企業として成功している。

我が国も民官の交流と称して天下りが横行しているが、米国のそれは前任の関係充て職だけでなく、多くは実質的経営を就任の前提となっている。財務長官がゴールドマンサックスの社長、国防長官が製薬会社の社長など多くの政府高官が民間企業との関係を持つが、再就任する場合は議会の厳格な公聴会をクリア―しなければならない。

余談だが、我が国でも天下りなどと揶揄されないよう官吏の事前審査公聴会を開いたらと思うのも、あるいは人事考査の峻別厳格さなど、米国の手法を憧れと感ずる日本人が多いのも事実だ。

それはアメリカらしい姿として、かつ公私のドライな峻別の姿として人の追及を容易にさせている。我が国のように政界のみならず産業界まで狡猾に支配する官吏の姿からすれば、分かりやすい人材の登用基準である。

彼は国防長官となりアフガン、イラクを指揮したが、すべてのきっかけはブッシュ大統領の一言から始まったと記述している。また冷徹と合理の塊といわれた彼にとって唯一気がかりな子息の薬物依存と浮浪の生活を旧友のチェイ二―や大統領が個人的にも心配してくれたことに涙を流す場面に、大統領が肩を抱える状況は戦争意志の構成に多くの職掌を指揮する他の部下とは違う三人の共通意図がみえる。それは誓いに似た強固な意志を常に確認するエピソードとしても綴られている。






真の正義と勝者の判別は・・・・
「時が熱狂と偏見が過ぎ去った暁には、女神は秤の均衡を保ち、賞罰の置くところを変えるだろう」
インドの司法家 ラダ・ビノード・パル博士



それが9/11を切っ掛けとしたものなのか、あるいは彼らの考える除外すべき異端の敵なのか、それとも純に自由と民主を広げる殉教的に近い考えなのか、はたまた自由な市場をグローバルに広げる意図なのか、その分類された理由ではなく、単に力を持ったものが陥る思考の行き付く極単純な現示的行為であり、宗教的教示の強圧なのか。それは単なるアカデミックな分析では理解の淵にも届かない複雑な問題のようにもみえる。

日本にも「説明責任」がはびこった。行為について解るように説明しなければならないという強圧に近い促しだ。その上、聴いた印象でものごとの可否を民主的に採決して数値の多少で納得する。

たしかに中枢会議では一言も疑義をはさまなかった将官が、マスコミに語りそれがさも反対意見のように書かれ、しかも将官が訂正しない不思議さをラムズフェルド氏は、非難はしないが、不思議さを感じている。

いや、戦術の合理的説明には挿入する言葉もないのだろう。しかも大統領の戦争なのだ。
将官の憂慮は、たとえGPSをつかい誘導爆弾を投下しても、あるいはトルコを除く関係国の領空飛行許可、諸外国の賛同、そして米軍の召集がスムーズに進み部隊運用が計画されても、戦後の駐留にともなう異なる多民族、異宗教、異習慣を深慮しなければ、より多くの要員を派兵しなくてはならず、抜き差しならない状態になると考えていた。

日本の戦後を例にとったものがいたが、そこには毀損されなかった「長」がいた。そのことはマッカーサーも熟知していた。ベトナムはマクナマラが指揮をとったが、数年かかってキッシンジャーの交渉で結末をみた。中国、フランス、日本、そしてアメリカなど歴史上侵攻してきた国にとっての国防の矜持は力を背景にした文明国でも歯が立たないことをホ―チーミンは示し、逃げ帰った米国との交渉に一歩も引きさがらなかった。

その後のアメリカ社会はどうなっただろう。アジアの賢明なる指導者はその勝者の弛緩と糜爛したアメリカ社会の民情を決して鑑とはしない。

もし、ヒット&ウエイの戦術合理的手法によって拙速に戦闘終結しても人々の血は怨念として刻まれる。いくら「オー・マイ・ゴット!」と叫び、神は許すと考えていても戦争は人の血を消耗品として「率」を数値計算する。それは将官(騎士道にある武人)として合理的言辞に馴染むものではなかった。

それは自国の法を世界に普遍化しようとする意図と、異民族にも普遍な情の乖離に逡巡するゼネラルとして当然な精神だったとおもう。

彼はそれを理解しても同情心を抱いてはいけない、あるいは雨のように投下する爆弾の下で逃げ惑う人々の声を聴いてはいけない、それは立場を変えれば吾が身も家族もそのようになる、と納得した。もちろん勝って当然な戦争でも、である。

たとえ一人でも部下を死地に赴かせる愛国指揮官としてその説明責任は問われる。自分さえ解らぬものが説明はできない。いやラムズフェルド氏だけではない、みな真意でなく状況を知りたいだけなのだ。その説明の具は数値の比較有効性と飾り立てた大義が、一番納得し易いことを知っている。

ラムズフェルド氏はそれを部分の問題として考慮の範囲においていた。だが、まずは戦争に勝たなくてはならない。しかし誰が考えても負けるはずはない戦いだ。

それを如何に合理的に説明つくところで決着をつけなくてはならない、その工夫が大統領の意志に沿うことだった。イラクの戦後より選挙の動向が一つの要因にもなったようにもうかがえる。

それは、国務長官のパウエル、ライスへの人物観、友人チェイニーとの永年の回顧、ロックフェラ―副大統領への評価など、何をもとに人物をみているのかが遠慮がちな記述でも解るし、それが氏の人との関係の、゛間合い゛として有効なものを選択する基準のようなものだった。

また、なぜそのような評価をするのかは、戦争の大義と勝つための戦術、紛争地の異民族との応答という多面的な要素を整理説明する手順と結果に導かれた現実感の共有化を促す姿、つまり池の小石の波紋ではなく、染料を流し込んで色付けする作業のようにみえるのである。

波紋は障害があれば流れを変えるが、色は薄まりながらも平均化する。だだ、ブルーに染めても染める前の透明化をまつことなく、時々の繕った大義で順次黄色や赤色を流しこんだら民族なり環境の他とは異なることの有効性や、生存するために異質の慣習を持つ民族の種さえ毀損してしまうことになる危惧もある。








勝者の自由・・・?



異様な種や厳しい陋習、稀なる結論の導き方など、白人、西洋、キリスト教、文明国と評され、現在では論理的とも思われている米国の強制威力を持つ軍事責任者の異なるものの理解は、謳いあげる自由と民主と市場拡大が、随い順化され、平準化を有効として、かつ圧倒的な力によって見せられた民族は、言われるがままに、衣を染めつけられるだろう。

地球上には多岐にわたる陋習慣が存在する。それは近代国家の選別カテゴリーとして独裁、社会主義、民主主義と選り分けられるが、宗教分類ではイスラム、キリストという一神教の軋轢が国家戦争ともなっている。

それは未だ多くの要因を含み、ときに戦争によって新たな闘争を誘引している。武器消費においては市場拡大だが、その戦争経費の出どころは金融と資源、つまり懐と地下から取り出したもの、つまり宗教では禁じられた金貸しの金利と為替、資源の意味のない浪費という、なんら宗教戒律とはかけ離れた戦費調達によって、何らかの宗教的使命感や現示的幸福感のための異なる欲望を満たしている。

゛邪魔ものは殺せ゛とは映画のセリフだと、またそんな恐ろしいことを考えることなく生を営んでいる処世の人々にとって、欲望を理屈に符合させ、整理して説明しても真の納得はない。いや以前はそうだった。

だだ、都会の衆遇の多声や,衆を恃む扇動家を周知宣伝する商業マスコミの騒論は、群れとなった衆を思索と観照から遠ざけ、より高邁な説明論法によって方向を集約している。これも一つのユニットの力でもあり、有効な判断観察の恣意的な姿である。


ラムズフェルド氏に戻るが、現実の諸問題に対応するのは政治家の勤めだが、相手の峻別を一方の価値に包む謀は、自陣営ですら煩いの種として排除し、彼の視点では多くが優柔不断に思えるような強固な意志は、愛国者というよりか、効率的思考のテクノクラートと映る。

ゆえに戦いは勝利しても混乱期の軍政(占領統治)には現地の歴史に浸透した固陋な掟や習慣、そして底流にある面子や金銭などの欲望について理解が深いとは思えない。いや,前記したが深くては戦争などできないのだ。数パーセントの副作用を見込む薬業の世界と同じことのようだ。

あのアフガンで推戴された指導者も権力が安定すれば、主体的に戦闘を協働した米国を始めとした西側といわれた国々の影響力から離れ、逆に歴史的にも対抗する大国の援助に多くの利権を与えるようになっている。それはラムズフェルト氏を含めエリートと称される人々の理解範疇にはない、つまりアカデミックから土着的協調への変化と、現地の転化という将来観とは別なる情緒に対する考察が欠如している故だろう。

学科の数値能力と応用能力と異なることは、我が国の「不」エリートではなく、「似非」エリートのintention(意図)とAction(行動)の乖離と効果なき連動は、既得概念に染まった官吏の慣性劣化で実証済みだが、米国発知的労働者像も数値に対する愚直さとしてみれば、情緒や将来観などは不必要な部類であり、それゆえに繰り返して記す、゛戦後の現地折り合い゛の稚拙さは当然なことと思われる。

意図を行動に結びつけるとき、目の前に大きな溝なり障害が逡巡のもととなるが、それは自身の欲の一種である習得知力の範囲内での行動のこだわりや、切り口の異なる異能者に対する排他的態度など、数値エリートの宿命的欠陥でもあろう。

よく数学者が挑む素数の証明も、物理学者(量子学)とのふとした縁で知った原子の性質との類似性によって、数学の世界では証明できなかったことが、別文野との接触て新たな切り口が発想となり、可能性が進歩した例がある。

処世て言うなら「世間知らずの専門バカ」の様なもので、個々の特徴を調和(譲り合って)させて、連帯する効果の接続要素は、人間社会ては「縁」ということすら解らないようだ。その動きの法則を素数の配置で証明しようとしているのだろうが、大自然の原子ら始まる運動体の複雑な動きは、数学者ならずとも無学な知恵者は直感している。なかには「そうゆうものだ」と心身調和した実利的生活を世代を超えて継続している。

滅びの順は、心身や調和と個々の結びつきがなくなれば分裂し崩壊する。

それは、ソフトパワーによってある程度の効果はあがり、人心や金融は混乱の極におかれるようになったが、今度は戦争というハードパワーによって、より亢進性をたかめる両面策の目的は、単なる動いていればエネルギーは発するといった単純なものではないらしい。

処世の哲人たちは、そのセキュリティまて知っている。それは自身の「ホド」と「キリ」た。説明すれば「欲のコントロール」と「吾身の限界を知る」ことだ。

高級な学び舎に行くと心が放たれ、知恵が飛散する。

だから「勝つために」「効率よく破壊するため」「人間をひとくぐりにまとめるため」などに妙なシステムや組織論を論じ、そして世界観を夢想するのだ。

しかも、的が外れるから混乱するのだ







天地は同様なものを映す 名栗湖


英国は対外諜報機関M16の特務員によるクェートとイラクの直線分断によって利権を確保したが、それはあの混乱期のことだ。こんどは北のクルド人地区をイラク新政府と分断して採掘権契約を結ぶ様な意図は、数百年にわたる彼ら西洋商人との複合国家のたくらみとして現地人は『またか・・』と政策には面従腹背している。

アジアの賢人からしても戦争大義と勝者の態度は決して心の勝者とはいえない姿であり、勝者の資格さえない権力の使い方である。

ラムズフェルド氏が単なる軍事オタクならそれもあろうが、「しょせんはそんなもの・」と思われる米国の大義も意気地がない。やせ我慢ゆえ獲物を目の前でかすめ取られることはヤンキーの意地と精神では我慢ならないだろうが、自分で獲物を抱えて腐らせる愚かものは別として、唱えた大義のために、かつ怨霊の恨みでなく、米国の若い兵士の意志として獲物を分け与えたら兵は死ななくて済むようになる。これは経綸であり大戦略であることを、まず知ることだ。

皆、腰ぬけと嘲られながら戸惑うのはその将来への逆賭なのだ。つまり将来に起こることを想定して現在取るべき布石を打つことへの、もう一段高い調整と努力の検証の必要性だ。

だだ、「兵は拙速を旨とする」定石からすれば、機会を逃すことにもなる。その間に隠匿されたり逃避されたり、外交問題が混沌としてキャスティングボードが握れないかもしれないが、負けたら大変というともあるが、勝ったらどうなるか、人心は弛緩しないか、奢らないか、いくら民主と自由を掲げても敗戦国の国民からから怨嗟を受けないか、まずは戦闘者の矜持として戦災地の民生と勝者の自尊と弛みを慎重に考えることへの促しである。

それを以て勝者の資格であり大国の名誉だということを考えることが必要なことだろう。


戦後、米国の勝利は高級軍人の口利き、納入便宜など、正義を謳って勝利した大国にあるまじき弛緩が起こっている。くわえその弛みは戦闘の大義であった大量破壊兵器はなかったという情報がイギリスから洩れた。増長した為政者に対しては自国の自制として漏れたものだが、はかりごとが弛む風潮はウィキリ―クスの出現によってより広がった。

そして戦勝国のアメリカは信用を失くし、「力」を敬する諸外国から侮られるようになってきた。

それさえも指をくわえていなければならない東北アジアの同盟国として忸怩たるおもいがある。あの阿諛迎合的にみえた被占領国民であった日本人の姿は普遍ではない。米国の力が弱まっても先の戦争を「アジア侵略!」「謝罪と賠償」などとは吠えない。カリフォルニアの日系人強制隔離があっても、忘れかけたころ米国大統領が過ちを認めれば、それでこそ米国大統領だと賛辞を呈し、しつこく賠償金を訴えない。

だからこそ米国の変質が気にかかるのだ。戦後処理、つまりその態度に敗者は戦争の意志をみる。憎らしければ虐殺、虐政を救いたければ徹底的扶助、だだ風の吹きまわしで起こる戦争は意志がゆるみメンツのみで泥沼になる。

米国は色々な経験をした。だだ、大国の「欲」にもみえる、経済市場の確保と支配の意図が見えすぎると、折角の戦略も兵士の血も台無しになってしまう。

その米国の世界戦略にほころびが出てきた。我が国同様とは思えないが縦割り機関である国務省と国防総省、つまり戦闘と外交、戦後処理の意志の乖離だ。それも表に出ない暗闘だ。

それは多岐にわたる陋習と導かれた為政は整理分別し集約転化したとしても、積み残されたファクターを敢えて無理解におくエリートの整理切り捨て意識は、ライス、パウエルといった有色種に祖をもつ情緒には届かなかった。

また、そう考えると論理が構成できず、また「情」という彼らの考えるいい加減で無価値な事情をファクターにしたら、効率的殺戮ができないと真面目に考えるのである。つまり戦争のコストの問題なのだ。

息のかかるような白兵戦など効率的ではない、なによりも自軍の兵士の命、いや効率の問題であり、時を逸すると愚かな市民が世論という手で邪魔をする。それが朝鮮とベトナムで学んだことだ。「兵を動かすには拙速をむねとする」、司令官としては有能だが、縁あって戦闘を共有した敵味方の兵士に鎮魂をささげ、敗者に哀悼を捧げる心が乏しいのもその考えからなのだろうか。

たしかに大統領はともかく国防責任者の作業認識は、今の理屈では妥当だろう。しかし大国アメリカの愛国者はゼネラリストであり、武力の行使は政策としても、司令としても世界から「正義と公平」の認知を受けなければならない。それは誰も正面切って戦いを挑まれることのない米国だからこそ表すことのできる忠恕の心であるべきだ

あなた方は教える。弱者の正義はないと。中国も善悪問わず「力」は正義だと故事は記す。







だから負けた国は「いまにみていろ」と。米国もそのような勝ち振る舞いをする。
たとえ好奇心と阿諛迎合の軟弱精神と集団狂乱の癖があるとの事前調査結果の功があったのか、日本の戦後は誠に従順だった。

今頃になってマッカーサーのせいにしているが前線の兵士以外の軍官吏や官吏は従順だった。おかげで仮にも居心地いい社会になったが、おんな子供は烈しくなり、公職者は食い扶持に堕している。

それも占領軍政策のせいにしたがる人もいるが、かといってケネディーやレーガンに憧れ、あんな政治家が日本にも欲しいとの声も聴く。アメリカに負けてよかったと思えるのも現下の幸せ感が、いまは最上なのだろう。不可思議な国だ。

これでは武力集団も戸惑いつつ、「ます゛、実戦はない」と、囲われることに問題意識もなくなる。

居酒屋の人生論でさえ「男が一人前になるのは闘いと貧乏だ・・」といわれてもピンとこない日本男子だが、世俗では大病、疑獄、倒産の三拍子が揃うと一人前だという。

政治家は人をだまして雄弁家。軍隊は物を壊し人を殺して英雄。むかしはその様にして男子を鼓舞して育て上げた。

有能な国防長官のおかげで、また一時の安逸が味わえる一方の陣営だが、やはりコストはかかる。

疫病の蔓延を恐れて我が国は膨大なタミフルの常備在庫がある。有効も期限がある。感謝のしるしとしては些少だが合理的説明がつく、それぐらいのことしかできない国になってしまった。



【イメージ写真は関係サイトより転載】

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数多の主義とのつきあい方   08/1,17再

2024-12-31 01:04:34 | Weblog

         孫文 

主義なるものはともかくにして、先立つものは金だと・・・

歴史をあれこれ言ってもも、生きているうちが華だとも聴く・・・

人はそれぞれ、抗論するお節介も江戸っ子には野暮ったい。

しばし旧稿を眺めることにしたい。

 

   

 

≪2008の章ですが・・≫

社会構造の変革は産業革命に匹敵するという情報化社会だが、何れも人知れず人間の悲哀が潜んでいる。

当時のイギリスは生産性も上がり消費地を確保する為に国外、とくに野蛮で未開の地と彼らが思っていたアジアに進出した。そこからのアジアの歴史と悲哀も言を多くするところだが、国内に目を転じると労働力確保のために多くの少年少女が日に十数時間と過酷な労働があった。

日本でも紡績工場や炭鉱など産業発展の影には多くの労働者の物語がつくられた。

それは海外への市場拡大と国威伸張を描き、また背伸びであってもその能力を保持していた邦人の姿だった。

その中でも特筆される出来事として田中正造の義行によって衆目を集めた足尾銅山鉱毒事件があった。

経営者の古川家と政府重臣の縁故もあったが、紡績、炭鉱同様に軍需物資もしくは産業の種といわれた銅の確保という国家的な問題であった。

誰が名づけたか資本主義、それが民主と自由による人の変質によって消費資本主義、はたまたその変質した人間を一方向に収斂する必要から便利さを謳ってデーター化した管理、つまり消費資本管理主義のようなものに姿を変えてきた。

個性を謳いながらも婦女子は同一方向性の流行に没頭し、高学歴の青年はビジネス留まりのない欲望のスパイラル的惰性にその覇気を集中させ、唯一無謬性を感じさせていた官吏も食い扶持、貰い扶持にその志を沈めている



  桂林の友人より




以前、筆者は民情は似て非なる国中国に棲む方々との同化を危惧したことがある。
色(性)、食、財の欲望が解き放たれたとき、かりそめの領土はあっても日本人が存在しない邦になってしまう憂慮だった。

個別の欲望とその経過は様々な現象によって説明を省くが、その変質したものを悟る理解もなくなろうとしている。
景気もよくなれば考える余裕もできる。官吏の待遇も気にならない、とはいうが、時のスピードと阿諛迎合性を性癖としてもつ多くの日本人にとっては、その同化の進捗は驚くほど早くなっている。

なにも隣国だけではない。人間の尊厳を護ることを前提とした主義も、収斂管理を目的とした網目はより細かくなり、投網に跳ねる雑魚の自由はあるが水から上がってしまってはお終いの状態である。ユーロー参加と東西ドイツの合併を駆け引きにされたドイツは国内通貨マルクを消滅させられた。


平ナラヌものを平スレバ、平ナラズ
つまり、それぞれの特徴は平らではないが、無理して平ら(平等)にすれは不平を生ず、というものだが、不平が出ないうちに力の差を付けようとするのであろう。
その力とは足踏みするユーローを尻目に国家民族を融解させる情報と金融である。

翻って我国、いや民族は今の主義に合うのだろうか。
かといって学者の整合性を追う従前の各種主義という代物に、人間の尊厳を護り、かつ描けなくなったような日本人像と理想の方向性を見出せるものはない憂鬱もある。

いっそのこと外国製の主義を理解もせず政権運営の具とした隣国と我国の政党のように、主義にとりつくバチルスのように食い扶持を得るか、また付き合っていくのか。まさに理屈は美醜混濁する借り物の主義に聞けとのことだろう。

いまは無理かもしれないが、何れの期にアジアの真の意志と独立は、再び謳い、掲げるべきことを要求されるに違いない。

近頃はとくにつき合いづらい主義という代物である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間がおるじゃないか 2008 12/19 再

2024-12-29 02:29:36 | Weblog

 

「人間がおるじゃないか」

菊池九郎が米国人教師ユングを横浜まで迎えに行く道すがら、須賀川の学校に行く後藤新平に会い、宿や道中でいろいろな話をしている。その不思議な縁は菊池の甥、山田兄弟の仲介での当時台湾民政長官だった後藤新平と孫文会談、台湾施政の要諦は、人を観て、育て特徴を伸ばし、その人物に資財を任せれば、超数的効果が生まれると、菊池の説いた「人物」こそ事業の成否を左右する要諦と確信し台湾の基礎作りを行なっている。

 

 青森県黒井市

 

物理的な問題もあろうが、いま若者は車に興味が無く、酒も飲まなくなったという。゛エンジョイ・カーライフ゛などともてはやされ、゛一気飲み゛が流行った世は移り、世界的な博打投機が破綻し、金貸しは資金を膨らますことに没頭し、おんぶに抱っこの柔和な公的という資金がその宴を掃除している。

どこ吹く風と思いきや、小銭入りを探りながら寒空の公園でカップ麺をすする若者の眸に虚ろさは無い。これも慣れなのか。だが、ここにも学びはある。

私事だが、妙な縁で「狭間の学び」を体験した。

それは、この人生備忘ともいえる当ブログに再三登場する安岡正篤氏、佐藤慎一郎氏との邂逅である。

時を違えての縁だが、偶然両者は学びにおいて学風・体験こそ異なるが、互いに歴史の恩恵を利他の増進に役立たせるための人物教育に共通した意志があった。学びの姿は、行ったり来たりのキャッチボールを両者の縁者を交えて、まさに廊下トンビの風のようでもあった。

それゆえ、「学」の方はともかく、珍奇変異な筆者なる者が形成されたのかと、縁の不思議さを感じている。

以下は、その佐藤先生の小会での講話の一部ではありますが、ご紹介します。

 

 

 【人間がおるじゃないか】 
            佐藤慎一郎氏の郷学研修会での講義録より


               

               佐藤慎一郎

 さて、私は、これからの日本の進路の一つは、どうしても、すでに開始されている太平洋時代の充実、完成と申しますか、アジア民族の興隆による世界平和への貢献ということに重点をおく可きだと考えています。

 太平洋時代を考える場合、どうしても忘れられないのは、中国近代革命の父、孫文という人です。孫文こそ、現在の太平洋時代に対して、その先鞭をつけた大先覚者の一人です。

 孫文は、革命につぐ革命によって、清朝の専政体制を倒して、中華民国を創立した人です。彼は、中国共産党すら、これを無視することのできない、全中国民族から「国父」として尊崇されている、すばらしい大人物です。

 その孫文という人は
 「中国革命は、第二の明治維新である。日中の提携がなければ、アジアの復興
はない。アジアの復興がなければ、世界の平和がない」

 と言い続けて、その一生涯を日中提携によるアジアの復興と興隆とに尽した第一人者であります。つまり、現代の太平洋時代の開幕に先鞭をつけた達見の持主であります。



                
           
           佐藤氏の叔父 山田純三郎と孫文


 孫文は、その自序伝の中で、自分とその志を同じうして、その生涯を中国革命に協力してくれた日本人は6名あると、書き残しています。
 「その革命のために奔走して、終始怠たらざりし者は、則ち山田兄弟、宮崎兄弟、菊池、萱野らがある」と書きとめています。

山田良政、純三郎兄弟、宮崎弥蔵、寅蔵兄弟、菊池良一、萱野長知の6名です。
 
 しかも、この6名の中で真先に挙げられているのは、山田兄弟、これは青森県弘前出身です。次に菊池良一、これも弘前出身です。


               

                  山田良政

 さらに孫文は
 「山田良政は、外国人で中国革命のための犠牲となった第一人者である」と感謝しています。と云うことは、その当時、その出身地弘前では、そのような時代にさきがけた素晴らしい教育が行われていたということでしょう。

 山田兄弟の父は、浩蔵。明治13年、弘前に漆器授産会社を興して、津軽塗の名称で、全国に売り出した最初の人です。その山田浩蔵は、私の母の父であり、良政は私の母の兄、純三郎は私の母の弟です。菊池良一は、菊池九郎の長男で、私の母の従弟です。

 菊池家は、熊本県の菊池武光の一族で、長慶天皇が南朝を復興しようとして、全国をおしのびで歩かれた時、そのお伴をして津軽に来て、そのまま此の地に留まったものと言い伝えられています。西郡の岩崎には、菊池の城跡が残っているようです。


               

                  菊池九郎


 菊池九郎は、弘前の長坂町で生まれています。
 21才の時、藩命を帯びて庄内藩に使いをし、奥羽列藩同盟に加入し、使命を果して津軽に帰ってみたら、津軽藩は、勤王に組することに変っていた。

九郎は藩主の命によるものとは云え、庄内藩をだましたことに、なったのです。それでは武士としての面目はたたない。九郎は庄内との約束を果すべく、脱藩して庄内に赴くことなったのです。

 九郎の母の幾久は、他国で屍をさらすのであろうと、羽二重の嫁入り衣裳をくずして、鉢巻と下着を作り

 「かねてより言いし言の葉忘れめや、ふかく思え武士の道」

と和歌をしたため、金子をそえて、その門出の祝いとして贈っています。
 九郎は庄内藩に出向いて違約の責めを一身に引き請けて処刑を願い出たのでしたが、庄内藩では、それどころではない、官軍と戦ってくれと懇願され、西郷軍と戦ったのです。

やがて庄内は官軍に降り和議が成立したのでしたが、九郎は西郷隆盛の庄内藩に対する処置に感銘してしまった。要するに九郎は、時代に開眼されて津軽へ帰って来たのです。


             
            庄内と西郷

 しかし庄内藩に組した九郎は朝廷に刃向った賊軍の残党であると見なされたのです。

 九郎には許婚者の恋人がいたが、破約となったのも、そのためでした。それで、山田浩蔵の妹を嫁に貰うことになったのです。

浩蔵の妻は九郎の姉であった。山田家と菊池家は、二重に結ばれたのです。要するに山田兄弟は、そのような家系と菊池家の深い影響の中で成長したのです。

 私は中学時代、勉強はきらい、寝小便はたれる、人一倍悪たれる。もて余されて九郎爺さんに引きとられ、九郎爺さんと同じ蚊帳の中で寝起きしていたのです。

九郎爺さんからは「慎坊、慎坊」と可愛がって貰っただけで、叱られたことも、教えられた記憶も、何一つありません。

たった一度
 「慎坊、お前は体は弱いから、ベコヤ(牛の牧場)ででも、働けばいいよ」
 と言われた記憶があるだけです。にもかかわらず、82才になる今日まで、何か問題ぶっつかる度に、九郎爺さんなら、きっとこう教えて下さるだろうと考えながら、善処してきていたのです。九郎爺さんの「不言の教え」が身にしみて感じられるのです。


            
             満州 佐藤慎一郎


 私が今回みなさん方に、こうしたお話を申し上げるのも、実は青森県にもう一度菊池九郎のような偉大な教育者が出現して欲しいものと念願しているからです。

 長い長い封建社会も、世界の大勢の前に崩壊し、世は明治の世となりました。

その明治4年8月には、廃藩置県、やがて青森県もできましたが、県にはこれと云った特産者とて無かったのです。

当時の人々は、これからの見透しについては、全くお先まっくらで、一体これからどうなるんだろうと悩んだものだという。
 
 そのような時に、西郷隆盛に心服して鹿児島へ留学して津軽に帰って来たばかりの、弱冠25才の菊池九郎は、毅然として

 「人間がおるじゃないか」とたった一言。

有志と計らって従来のしきたりを大きく破って、知識を広く世界に求めようとして、アメリカ人ウォルフ夫妻を教師として招請し、東奥義塾を創設したのは、明治5年のことでした。すべて問題の解決は、これからどうなるかではない、どうするかにあるのです。

 今日のように、まだ小学校すらなかった時代に、しかもこの東北の北端の片田舎に外国人教師を招いて教壇に起たせたのです。時代を背負って起つとは、こうした事を云うのでしょうか。

 「百年の計は、人を樹うるに如くはなし」
 
まず人材を養成することだと云うのです。


                 
                  ジョン・イング


 明治7年に着任したアメリカ人ジョン.イング先生は、一度教壇に起てば、その「一言一句は、みなその肺腑より出で、その歴史の講義において、忠孝節義の条に至れば、音声顫(せん)動、両眼に涙を浮かべ、一堂の学生も亦ために鳴咽すること屡々であった……」と記録されています。

 文字や文章を解釈する先生は、いくらでもおる。しかし人間の師となる先生は極めて少ないのです。本当の教育とは、今日のように先生がしゃべり、学生に暗記させることではない。それは、「記誦の学」と云って、学問のうちには入らないのです。

 教える者と自ら学ばんと志す者との魂と魂との触れあい、交流の中でこそ、学生たちをして感動奮起せしめることができる。それが教えである。青年学生たちに感激を与えうる教えが有ってこそ、はじめて青年学生たちをして奮い起たしめ、その志を継がしめることができるのです。

 学問をするのは、今日のように良い学校に入り、良い会社に入り、専ら出世栄達を計るためではないのです。まして男子たる者は、永遠の大計に志すのが、本当でしょう。

使命観に生きる者であってこそ、永遠に生きる者であると言って然るべきでしょう。

 そのような教育をうけて育ったのが、山田兄弟であり、菊池良一たちだったのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

潜在する良心  強く正しい国家の宰相とその教育 09  8/13再

2024-12-28 01:31:33 | Weblog

 

2024年


全国PTA連合会が揉めている。金の使い込みと不透明な会計処理だ。

教員が上司へヒラメの付け届け行われている。

むかしは親の付け届けが多かったが、校長に成りたいから官官賄賂では締らない。

 



上っ面の道州制や地方分権の争論が華やかだが、善男善女に潜在するであろう良心は他人との調和や制御において強い力のある善なる権力を望んでいる。潜在などと解りづらい表記ではあるが、依頼心や他動的な動きに安住する見方とは別に、またシステム的な分権システムを論ずる前に潜在する心の中に在る「分限」を考えるべきであろうと考えるのである。

よく、後味の悪い反発、批判のような自身の付和雷同を悟るとき、それが政治指導者なら尚更のこと、その対象になるような対象は目の前の官吏や職場の上司、あるいは芸能人などと同様に、一過性の怨嗟、反目、嫉妬など一種、説明の容易ではない自身の内面の患いがその因を成していることがある。

利権の分配や依頼心や安住を昂進させるような人の弱さ、集合の混乱、分離の放埓を考えるとき、どうしても内在する心の分限を、゛教える゛あるいは習慣化することを前提にしないと平準化、普遍性の名目のもとに混乱した社会、つまり混沌した国家を作り出してしまう。

それを防ぐには、正しい権力の使い方や仰ぎ見るような力が必要となる。
国家で云えば宰相(総理大臣)の力量とし至高な道徳心を顕す存在である。
以前にも記した「・・・複雑な要因で構成されている国家の要素は、領土、民族、伝統と精霊の存在である・・」を考える人間の存在である。





                     






極論のようだが、便利だ、文明だ、合理的だとスパイラルのように変遷した歴史を近代だけを切り取っても民族の風情、つまり人心の、゛変化゛と、゛変化しないもの゛あるいは一過性にあるものなどは俯瞰できない。

昨今の人権、平等に言う元々備わっていると謳われているものが、他と接すると軋轢を生むことに、いかに表層理解であったか分かりつつある、つまり潜在する人心との齟齬が大きくなっているようにもみえる。

騒々しい、まとまりの無い、あるいは、゛どうしたら゛と争論する姿は、強く正しい力を現すべきと希求するとき、政治であれば統治力に必須な税と警察の姿に観るべきことがある。それらは公務という建前はあるが、官吏という立場の食い扶持待遇の惰性と、キャリアという分限の矜持の衰えが、正しい強さの表現でなく、手前勝手な既得権者と映っているのではないかという問題である。

それは権力の公平と正義が国民の面前に近い所で行使される権力の有り様の変化であるが、身近な教育でも教師が論議による理解を謳うあまり、悪しき習慣の矯正や制御を元とした調和が欠落し、思惑の自由を考える生徒に対しても率先力が乏しくなり、教室のコントロールがつかなくなっていることもその一つの姿のようだ。












その教育についてだが、校長と教師、学校とモンスターと揶揄されるPTAも、騒々しさ、まとまりの無い学校、どうしたら、といった困惑は免れない。ここでは当世擬似知識人に有りがちな責任転嫁が横行している。システムではない。人間の問題である。

以前、双心(ふたこころ)について語ったことがある。対象に対しての本音や建前ということではなく、自身のみが覚える、あるいは結果として悟る心のことである。それは、面前で突き詰められても言葉を捜してしまうほど戸惑いを覚えることでもある。

対象は登校拒否の高校生を寄宿させて教科を補う塾のお母さん達である。俗に父兄とはいうが、戦後のGHQの勧奨で始まったPTAも、アメリカとは異質の構成と推移をもって現在に至っているが、とくに女性の社会進出や情報交換の場として、あるいは遊興カルチャーの場として揶揄されて、ある意味、健全育成の名分の下、夫からの治外の場とする女性も出てきたと聞く。

唐突にも「お子さんが好きですか・・」と問うた。
巷のケースワーカーや教育関係者はこのようなことは問わないであろう。あるいは問題傾向や原因の羅列など「実利」の無い前段が先ず語られるはずだ。

「問題があるとあなたが困るのですか・・、それともお子さんのことが心配なのですか」

「・・・・・」

「お母さんが困るなら私は解決するすべはない。お子さんのことなら一緒に考えましょう」

「実は私も体験したことがあります。青年期の司法ボランティアのころでしたが、こんなことがありました。やっと願いが叶ってガールフレンドと食事に行こうとした、そのとき青年が相談に訪れました。彼は天涯孤児です。お父さんもお母さんも親戚もありません。不心得で法に触れて施設から退院してきたばかりでした。

悩みました。本当は食事に行きたかった。でも理由を話すにしても今どきの守秘義務ではありませんが深いわけは伝えられず、誤解を招きました。これは決して生真面目やストイックということではなく、それが誰であっても人の信頼に対する相応する応えと自身への、゛試し゛の機会でした。

つまり、゛ヤリタイこと゛と、゛するべきこと゛の問題です。葛藤などという言葉では片付けられない素直な気持ちでした。でも私なりに清々しかった」

「じつは思春期ということを考えたときのことです。春を思う時期とは何時でもあることです。老いも若きにも関係が無くあります。それは結婚をして子供を持ち、仕事や立場があっても自然な心の動きです。それはもう一つの心の姿です。つまり双心の一つです。大人は春の芽を積むことも避けることが出来ますが、童心に振り返るときその芽の育ち具合をそっと想像することが出来ます。それは自身の新しい可能性を想像することですね」

「パチンコ好きなお母さんが大当たりを想像するとき他人の心は入りません。カラオケを歌うときプロの歌手を想像します。そのようなものですが、母親と女性ば同一ですが動く心は違うようです。子供も呼称は学生でも一人の人間の心はお母さんと一緒です」






上海


冒頭の言葉はこのようなことでしたが、あまり父親の存在感は垣間見ることはない

ささやかなPTA男性構成員は会長か監査役で、一昔前は近在の地主、あるいは一人で多くの役職である似非名誉職を獲得したような床の間の石のような人を置き、子供の教育を預かるお上御用宜しく地域でも特別な地位として映っていた。

とくに有力者が議員なら選挙協力として女性保護者を手伝いなり票なりのアタマ数として算出提供すれば、晴れて会長候補となりえる地域もあった。

それらは意外と政権党の持分だが、保育園などは野党シンパの乗っ取りなどの不祥事が起きているが、一つの園で五百票と嘯く議員シンパもいた。

いまはお年寄りが集票や時節企業の食い物のようになっているが、子供は遥か以前からそのターゲットになっている。しかも年寄り、子供に関する施策は大義美名のもとに特殊な名誉と地位が提供され、だれでも参加しやすい、つまり反核、平和、人権のスローガン同様に全てが、がぶ飲み理解しやすい善なる行いとして理解させられている。

これらの例は、人の良心の表層であるのは百も承知ではあるが、潜在意識では下世話な事として男性の名誉や地位利得、女性の社会デビューの用となり、家庭や社会での分別のない権利を主張するような雰囲気の陥ったようだ。ひいては付き合いと称して教師や管理者と酒席を設けたり、教室を宴会の場として使うような無感覚の大人世界を子供に指摘されることも出てくる。






                          





PTAだけではなく、社会全体が、゛このくらい゛との風潮で弛緩し始めると政治すら嘲笑や猜疑の対象となり、民主の名の元に自由という放埓が加味されると、その場限り、その日限りの遊惰な無責任状態に陥り、批判することで自己存在をはかなくも認めるような人が多くなり、動物ではないが「群れ」となったとき「国情」として、また一方の潜在する良心では徒労感や茫洋とした困惑が訪れることとなる。

ひとえに、゛横並び ゛の平等感の為せることだが、分別や尊敬、あるいは性癖の成す民情というべきものが制御、自制、良心の呵責という言葉によって覚醒されずに、ただ時流に蠢く群れとして一過性の時空を漂っているように観えるのである。

標題に戻るが、この問題が多くの要因を添加され、かつ教育であれば誰もが生育適齢世代を超えてしまうと忘れ去られ残滓のみが集積される。そのような問題集積のなかで当事者となった世代は自身と別の力の依存なり到来を、いずれ願うようになるだろうとの逆賭が筆者は見て取れるのである。

たとえば7月25日の拙章「明日を深慮して復(ふたた)、王政復考すべし」だが、あの創造力と突破力、そして変化があった明治の19年に天皇という称号を戴いた一人の人間の観察がある。それは教育について現在に起きている問題を当時の環境で推考している。それはシステムや組織、技術の末節論ではなく、人間を独りとあるいは集団の一員としての役割と為すべき修学として指摘している。

ここで天皇制や政治不干渉、当時の国民国家創生時の身分制や人権などを、あえて添加して論ずる向きもあろうが、暫し熟読、再々読して現在の状況と照らし合わせてみたら眼前の人の行なうべき本来の姿と解決策が明確になるのではないだろうかと考えるのである。

そこには、文部省や左右の思想に包まれた各種運動の争論、あるいは教職員組合や教育産業、モンスターと揶揄されている今流日本人の姿などの煩悶する問題の以前に考える本質があることが観えてくるだろう。見えるではなく、観えるである。

それは眼前の問題に口舌を駆使することではなく、民族の性癖をも加味して人の修学や習いを大きく俯瞰することでもある。また将来を容易に描くことでもある。





                  





【以下、拙章転載】

ここに教育面において『相』の養成に心を砕き、当時の教育に憂慮を抱いた天皇のエピソードがある。
「聖喩記」 明治天皇の侍従 元田永フが天皇の言葉として記したものである。
「喩(ュ、さとす)」は、諭す、分からせる、ではあるが、「君子、義において喩る」の、ここでは「教育に敏感で疑問を取り出してさとす」と考えたほうが、この場合は理解しやすい。
明治19年11月5日 元田永フ謹記とある。
小生の拙訳だが

11月5日 午前10時 いつものように参台いたしますと、陛下は直接、伝えたい事が

あるとのこと。私は謹んで陛下の御前に進み出る。 陛下は親しく諭すようにお述べに

なった。

「過日(10月29日)帝国大学(現東京大学)の各学科を巡視したが、理科,化学,植物,医

学,法科はますますその成果は上がっているが、人間を育てる基本となる修身の学科は見

当たらなかった。

和漢の学科は修身(人格、識見を自身に養う)を専門として古典講習にあるというが,ど

こにその学科の存在があるのか。

そもそも大学は我が国の教育でも高度な人材を養成する所である。

しかし、いまの設置している学科のみで、人の上に立って政治の要に役立つ人物を教育

できるような姿であろうか。

設置されている理科医学等を学んで卒業したとしても『相』となるべき人材ではない。

現在は維新の功労者が内閣に入り政治を執り行ってはいるが,永久に継続する事はできな

い。 いまは『相』となるべき人材の育成が重要だ。

しかし、現在大学において和漢修身の学科が無いようだが、国学漢儒はかたくなで、狭

いと思われているが、それは、それを学ぶ人間の過ちであって、真理を求めた学問を狭

い範囲に置くのではなく、普偏な学問として広げなければならないと考える。

わたくしは徳大寺侍従長に命じて渡辺学長に問うてみる。

渡辺学長は人物の養成についてどのように考えているのか。

森(有礼)文部大臣は、師範(教師育成)学校の改正の後、3年経過の後、地方の学校

教育を改良して面目を作るといっているが、中学は改まっても現在の大学の状況では,こ

の中から真性(ほんもの)の人物を育成するには決してできない。君はどのように考え

るか。」

さて、我々はどの様に考えるか・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大自然から授かる教え 2014 再

2024-12-24 00:47:21 | Weblog




地球に生きている生物は、目に見えないが大きな恩恵を享けています。
それは、生命を育むすべての動植物のさまざまな姿として形にも表れます。

熱いところ、寒いところ、苦しい時や楽しい時など、色々な場所と時間のなかに棲みわけながら、また大自然の色々な形に素直に随って人間という動物種はそれを保存してきました。
アジア観では人間を最高なものとしてではなく、他の動植物と同じような生命体として、共に影響しあい、かつ生きることに必要な共存対象としてみてきました。

私たちは感謝したり、猛威を除けたりしながらも抱かれている大自然ですが、近代科学では宇宙の少しの意味や、生物の微細な原子からの成り立ちは解ってきていますが、大部分は解明されていません。また解ったからといって人間は有効な対応がとれません。

太陽はいつも輝き人に明るさと暗さを知らせ、季節の移り変わりにみる周期的な変化は、変わることと、変わってはいけないことの大切さを教えてくれます。また、雨が小川になり、生活の河となって人々の生活を潤します。

沼にながく留まることもあれば、たとえに泥水でも黙ってきれいな水を受け入れます。逆に大海は汚い水でも受け入れ地球を回遊します。

それは、すべてが人間のように要求するものでなければ、除外するものもなく、だだ、そのようなものとして受容します。つまり授かるものに対する受け入れる器と許容する大きさが必要だと教えてくれます。

太陽から光と熱を享け、水も土も生命の誕生と発育には欠かせない環境です。
人間の考える生きられる感謝は、自然を利用する便利さでもあります。

しかし、それだけではありません。大自然の本当の恵みを活かせるのは、ときに苦難さえ試されるような厳しさのなかで、人間はその授けられるものを受け入れる器の大きさに加え、人間を自然界の一部だとして教えてくれるかのように包み、強く励ましてくれる姿を知ったとき、真の感謝をささげるのでしょう。

その時、心の奥深いところに誰にでもある精霊や神の存在を覚える(思い起こす)のです



ベンガルこども新聞「キシロチェトロ」東京支局長 寳田時雄

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Japanese ZEN 2012再

2024-12-21 17:10:34 | Weblog

 

ベンガルこども新聞「キシロチェトロ」10月号コラムより
この章は翻訳して掲載されます



日本語では「禅」ですが、インドのバリュー語ではdhyana、また地方によってはJhanとも発音しています。

仏教の詳しいことは省きますが、日本における「禅」は多くの文化を派生させています。武士道、茶の湯、教育、生活習慣など、「静かに物事を考える」dhyanaの意味に沿って日本人の精神や教養を支え、いま世界の人たちに映る日本人の印象に多くの影響を与えています。

それは、騒がず、競わず、外のものに影響されずに一人で考える、つまり本当の独立した自分の精神の内面を深く考えることを生活のなかで習慣化することでした。

どのような宗教でも物理的な大小や贅沢のために心を滅ぼすことを戒めています。そして悩みや苦しみの救済を説いていますが、真に求めるものは自分の心の中にある欲望のコントロールの難しさであると、もう一人の善なる自分の姿を想像することを教えています。






社会の問題を無垢な心で表現する。大人の関心も高い



瞑想する座禅には教科書やマニュアルはありません。

静かに落ち着いて心の中をみることで想い起す色々な問題を考えますが、それを超えた世界に自身を還ることです。

その「還る」という終わりのない自然の無限の循環に溶け合うような心の安定を任せます。それは細かいことをこだわることではなく、大空からもう一人の自分を観るような気持ちです。

死の恐怖、幸福の追求、悩みの解放、という実利を求めることから、逆にそれに困っている人を現実社会で解放するという利他のために働く充実感も含まれています。

それは尽くしても対価を欲しない、施しても求めないという無条件の貢献を生みます。

キリストもモハメドも無条件の貢献を説き、欲望のために争い自滅するようなことの無いよう、独特な戒律を提示して人々の連帯と調和を促しました。

また大自然に沿った性と食と財という人間の本性を自制しながら、能力に沿った繁栄や快楽を是とする教えもあります。

現実の世界の「有」は様々ですが、すべてを包み込む無限界の「無」は、「有」から見たzeroやnothingではなく、無限大、無境界のという安心と自由、つまり能力自在な世界観です。

実利のみで考える世界では夢想とか虚無として無理解になりがちですが、近ごろではその「禅」が有効性をもって見直されています。

このキシロチェトロに携わる日本の人たちの無条件なお手伝いも、両国の歴史の偉人や無限の可能性を秘めた子供たちのために、゛深く静かに考えた゛試みであり、少しでも立ち止まって静かに、そして深く考える習慣を養い、欲望に翻弄されない本当の心の独立を期待する願いなのです。


                          東京支局長 tokio Takarada

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アジアの友人たち あの頃

2024-12-21 00:49:35 | Weblog


【ベンガルこども新聞キシロチェトロ9月寄稿」

南スーダンの国連PKOに参加した日本の自衛隊をガードしてくれたのは、バングラデッシュの軍隊でした。

日本は自衛隊と名称で国を護るための武力を維持していますが、たとえ外国の平和のために協力するためであっても戦闘は憲法で禁止されています。そのために今回のスーダンでは優秀なバングラデッシュの軍隊に警護されて任務を行っています。

では、大きな武力を持っていない自衛隊が紛争地域でどのような援助活動をしているのか、その能力や規律とはべつに、現地の人たちとどのような精神で向き合っているか、イラクPKO部隊の司令の言葉を紹介します。

それは、お金や資材、機械を与えるだけの援助や、単に武力制圧の一員としての参加ではなく戦争に苦しんだ現地の人たちと一緒に汗を流して働き、復興の喜びを分かち合う人々の信頼こそが、過去に戦禍を体験をした日本からの有効なメッセージと考えたからです。







「我々はあなた方の友人として、日本からサマーワに来た。我々日本も、60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化した。すべてが無に帰し、食料にも困る日々が続いた。そんな廃墟のなかから、私たちの祖父母、父母の世代は立ち上がり、大変な努力をして、日本を復興させた。

そして、その結果、いまや経済力世界第二位という日本を築き上げることができた。メソポタミア文明という人類にとって偉大な歴史を有するあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に同じことができないはずはない。我々は友人として、あなた方が立ち上がるお手伝いに来たのだ」

その結果、はじめ不安に思っていたイラクの人たちは自衛隊員とともに働き、日が暮れても仕事の手が止まらず、爆弾を投げ込まれれば「日本の宿営地を守る」とデモが起きた。

そして、終了近くなると「日本よ、帰らないでください」と大きなデモ行進が起きました。他の宿営地にはない光景たった。欧米の宿営地では驚愕したが、その本当の理由は彼らには解らなかった。


≪現地の新聞記事≫

我々は,我が県に日本隊が到着するまえは、この道徳と倫理を維持した立派な人たちについて何も知らず、感情のかけらもない技術革命により全世界を支配するつもりだろうと思っていた。
しかし、日本国自衛隊が県内に到着して数週間のうちにサマーワの人たちは、彼らが「古きニッポン」の子供として、愛情と倫理溢れた人々であることを見出した。
彼らは偉大な文明を保持するとともに、他の国家を尊重し,他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な伝統を持っていたのだ。






戦争にはさまざまな理由があります。とくに勝者の理由が大きく発表されますが、真の勝者としての名誉は、理由はともあれ国のために戦った相手を讃えることです。

とくに負けてしまった国の人々に対してどのような心で接し継続するかは、本当の戦争の理由と、賞罰のあるところの「秤」として、世界の賢明な人々が見て考えるときなのでしょう。

                         

ベンガル子供新聞「キシロチェトロ」東京支局長 寳田時雄

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豊かさのあとに    12 7/2 再

2024-12-20 01:39:09 | Weblog

八嶋龍仙 作  青森県弘前市



≪ベンガルこども新聞「キシロチェトロ」コラムより≫

 

                編集長



地球の薄い表皮、大地では多くの生物が大自然の恵を享けて生活しています
生きることから、もっと豊かになろうと知恵を出して、生活に利用できるもの、より便利なものの追及にとどまることがありません。

さまざまな地域に棲む人々の習慣や幸福感は異なります。

近ごろは、それを追及することによって滅んでしまう心の姿を心配する人々も増えています

また、その現象に表れる結果を文明とか未開とか、あるいは野蛮とか決めつける人たちの幸福感は、物や利便するテクノロジーによって、よりその状況観察は厳しいものになっています。

日本でも西洋人から未開だといわれていたころ、外国の宗教家が、「神がつくった最高のものは人間・・」と教えました。

すると日本人の多くは「よく働く牛や馬も一緒なのではないですか?」と応えています。
その当時は寒くても毛皮を着る習慣もなく、肉も食べませんでした。

また、豚などの家畜を飼うこともありませんでした。動物は可愛い家族のようなものだったのです。

 

      

新聞の読み聴かせ    

 

             

 

交易が盛んになると安価な労働力と、ごく普通に流通していた金や銀などの貴金属、そして陶磁器などの工芸品が貿易国の為替である交換比率のマジックによって、今では考えられないくらいの安い値段で海外に持ち出されました。

現代は人を「人材」と呼び、安い労働力を求め多くの企業がバングラデッシュに進出しています。中国からバングラデッシュ、そしてミャンマーへと広がっています。その労働から得るお金で物や権利を競い、洪水のように押し寄せる文明と思われている商品に人々は殺到ています。

人々は落ち着きを失くし、あの抑圧された数百年の歴史が再び数値と物質に置き換えられ、人々の群れを社会の正しい目標から遠ざけたりします。

すると、人がうらやましくなったり、人を信ずることなく、人々の連帯は離れて孤独となり、頼るものは財貨のみを偶像視するようになります。

それは、気がつかないくらいに、少しづつ、そのようになってきた日本からのお知らせでもあります。

                

       ベンガル子供新聞 キシロチェトロ 東京支局長  寳田時雄

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベンガルこども新聞を創刊  2011/2 あの頃

2024-12-18 21:28:07 | Weblog

 

バングラディッシュという国を知っていますか・・



地理的にはインドとビルマの間の中州のような国です。毎年のように洪水に見舞われ、一時は最貧国といわれた国であり地域です。

また、日本との関係も深い国です。インドといわれたころ、ベンガル地方に生を享けた詩人タゴールは岡倉天心、インド革命軍の英雄スバス・チャンドラ・ボーズと頭山満、東京裁判のインド判事ラダ・ビノード・パルと下中弥三郎など多くの交流がありました。
それはアジアを知り、日本を惨禍から救う精神の援助でありました。

貧しいゆえ、抑圧されたゆえ、人は人生を深く考え、あるいは打破し、そして正義の在り処を直言する、そんな賢人達が生まれ、多くの日本人の共感を受けました。また当時の日本人にはアジアに普遍な意志がありました。

精細で巧みな仕事をする職人は指を切断され、学校も作らず、道路などのインフラも作らず、何百年にわたって途方も無い時間を異民族の支配下におかれました。
それは「媚びる」ことのない精神の涵養にも役立ちました。

 

 

 


青森県弘前市  子供議会

 

いま、バングラデッシュは経済的にも注目されています。流行のようなバブルです。

日本からも多くの企業が進出しています。あの独特な経営で脚光を浴びたグラミー銀行もあります。

その特異な経営とは日本の消費者金融を真似たのか、担保の無い人々に数十パーセントの金利と10人くらいの保証人をつけた貸し出し方法です。韓国の金利上限60パーセントと担保は、゛子女 ゛とまではいかないにしても、国が認めている貸金法です。

日本のユニクロがグラミー銀行と合弁会社を作るようですが、中国もチッタゴンの港湾整備援助を行なってインド洋の拠点と考えています。いままでは注目さえされなかったバングラデッシュが、経済的にも戦略的意図としても脚光を浴びています。

大人社会が興味を持つ情報や他国の政治意図も大切なことですが、それでは人口構成の大きな底辺を支える子供たちが、世の中の変化をどのように考えているのでしょうか。
構成比は日本と逆で底辺の広い三角形です。

 

 

日本  昭和の頃

 


大人の及ぼす経済的繁栄には見過ごされる「負」は子供世代に堆積されます。
それは知識量の数値比較ではなく、子供心にある正義感、自然順応力、転化順応性、それを基にした観察力や批判力。

一方は童心の直考は残虐性とも映るが、受け入れる大人の許容力が貧しさからの諦観となり、財利、名利の思惑と計算で、醇なるベンガルの子供心を
封じてしまう「負」が経済の繁栄と共に更に増える危惧です。

その経験者であり、抜けきれない先進国の子供事情を鏡として、万全ではないにしても、社会に有効なセキュリティーを有する子供たちの発する考えを善なる意志に高め、大人が忘れ苦悩している根因の覚醒を、拙い言葉と文章で心の蘇りができると期待するのです。
子供頼りではなく、顧みることの機会でもあるのです。

 


 新聞を授業に  バングラデシュ




               

                頭山満  タゴール




我国にも子供新聞があるが、大手出版社が購読料を貰い、広告を掲載して記事は大人が書き、振り仮名をふったものがある。

「ベンガルこども新聞」は、子供が記事を書き、学校のポストに投函、現地で取りまとめ東京に送信、東京では在日バングラデッシュの子供が日本の子供や技能者の取材を行い、編集を行いPDFファイルにして現地に送信、印刷、学校などに無料配布。


現地でも絵を描いたり、取材をしたり、印刷の手伝いをする、すべて子供たちである。
つまり、知ることを平準化せず、情報を金に換えないことでもある。
それは「知って教えず、師あって学ばず、学んで行なわず」という現代が陥っている学びの心を取り戻すことでもあります。

購読料も無ければ広告もない。
平行して本を読みたいが電気も無い地域の子供たちの記事で、日本の電気マニアが1m2にも満たない小型のソーラーと蓄電池、そして発光体はLEDをつかって暗闇に読書灯を燈す試みも始動している。

予算は毎号3万円、筆者の仲間と毎月一万円づつ。それで1000部を作っているが、5万円で5000部を計画している。ページはあの夕刊フジの大きさで16ページ。もちろんカラーで写真付だ。

あのころ多くのベンガル青年が日本に滞在していた。その職種は土木、IT、機械工、飲食などだが、印刷工として精細な印刷技法をマスターした若者がいた。
その若者が意志を持って始めた新聞発行作業だ。

 

 

   

授業が終わるとみんなで手洗い 台湾



興味あることを書き、人が見てくれる、考えてくれる、そして掲載されることを楽しみに、多くの子供たちが記事を書き始めた。大人社会にも直なる質問を投げかける。


金が無い、家も無い、恋人がいない、仕事が無い、政治や社会の仕組みが悪い、そんな宿命に近い考えが行動を止めている。しかし記事を書く子供には「無財の力」がある。
財が無いからこそ無限の智慧が湧くのだ。それが鏡となるようにお節介を続けたいと考える人たちがベンガルにも日本にも増えてきた。

                                       キシロチェトロ 東京支局長 Tokio Takarada

 

 

 

  真剣な教室  北京




http://www.flickr.com/photos/59344194@N03/ こども新聞写真集

 

   

大人も読む子供新聞           教材として

 

 

以下資料

「こども新聞発行の社会的背景と目的 」

世界子ども白書(2008) の教育指標によれば、バングラデシュの初等教育純就学率(2000-2006 以下同様)は男93%、女96%であるのに対し、中等教育純就学率では男44%、女45%となり、中等教育になるとその数値は約半数に激減します。

このことから、バングラデシュのこどもたちは、義務教育を受ける機会が十分に与えられていなことがわかります。特に農村部では図書館が少なく、インターネットやテレビもあまり普及していないことから、こどもが学ぶべき情報量が絶対的に不足し、都市部と農村部の情報格差がますます拡大しています。

数年前まではバングラデシュ政府がキショルバングラという子ども新聞を発行していました。この新聞は教科書以外の情報源としてこどもたちに大変な人気があり、長年、こどもの精神的な成長に貢献してきました。

しかし、近年、政治的な問題により廃刊に追い込まれ、現在のところ、それに代替するメディアがありません。こどもに必要かつ役立つ情報を提供し、母国語で正しい書き方を覚えるようなこどもの精神的な成長に貢献できるメディア、子どもが各自の能力を自由に発表できるメディア、こどもが夢をかなえる架け橋になるメディア、こどもと一緒に大人も楽しみ成長できるメディア、それがキショロチットロです。
                     
                             ベンガルこども新聞サポート編集長
                                     プロビール・シャカー     

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人を知らずして国を語ることは・・

2024-12-16 01:41:56 | Weblog

     桂林 

 

よく隣国を語るとき、時の政権の政策、経済、その意図などを科学的根拠として数値を用いて説明し、歴史的経緯の中での事柄も互いに我田引水のように争論さえいとわない、つまり些細な応答の隘路まで一方は四角四面、相手は白髪三千丈のごとく止まることのない外交だが、どちらが猫かわからないが、ネズミをいたぶるように楽しんでいる。

たしかに歴史では夜郎自大化した一部の無頼の徒は他国の庭でそのような狼藉を働いたが、相手は巨大になり武力をもって脅かしても、未だに押し寄せてこない、いや白人のケツ持ち頼み(他国の盾)の半植民地根性では嘲られるという負け犬根性が哀れに見えるのではないだろうか。

 

      

 

子供の頃に貧乏ゆえに苛められたが、その辛苦がゴム紐のように引っ張られ、離した瞬間のエネルギーは、ぬるま湯で育ち集団で苛めた連中より躍動感もあり、幸福感の異なりはあっても、その集合体のパワーは巨大になる。

苛めた方は、晩年の同窓会のように窓際でコソコソとその成功者を嫉妬交じりで眺めることと似ている。

 

それは国があって民がいるという形態と違い、地球の表皮のいたるところに生存できる民族の姿として、いまや世界を席巻している。一方は国なるものの庇護に不満を持つが、そこから離れられない悲哀のようなモノをもって人生さえ描いている。

単純数値化された試験選別のお陰なのか、社会の問題意識すら汲み取れず、解決能力すら失った官域もさる事ながら、政府の補助政策から抜け出せない一部の民意も滞留している。まさに宿痾であり民癖のようでもある。

 

    

    桂林

 

よく言われるのは、日本人は一人では猫、大勢集まれば虎。大陸の華人は一人でも虎だが、集まれば収拾がつかなくなり、猫になる。

大陸の虎は国家なるものの意識は希薄で、元(モンゴル族)や清(満州族)が中原(北京のある地域)を占拠しても、色・食・財の実利的欲望は、永い歴史のほんの一刻とばかり悲嘆にくれるどころか、嬉々として為政者と戯れ、その果実のみを獲んとして躍動している。「言うことは聴くが、邪魔しないでくれ」ということだ。

四角四面の民は「嘘つき」「だまされた」と騒ぐが、たかだか列島の中のこと、今日の嘘は明日の真実とばかり、常に狡知を磨いている民の鋭敏さは理解が届かない。

面従腹背」の熟語は知っていても意味は半知半解。せいぜい官域で生涯賃金を企図する貪官の上司や政治家に用いるだけで、用を成さない。これを賢さとか知的とほめたたえる性根は、まさに小人の器だ。

利があるところに集い、利が薄くなれば散りぢりになる、どこでも高官とはそんなものだと民は知っている。

このところ官吏や政治家、商売人まで同化したかのように似てきたが、狡知にかけては月とスッポンのごとく似て非なる群れになっている。

泥水に棲むことのできる人たちは清い水にも馴染むが、清水の魚は泥水では生きていけない

本能的欲望を明け透けに生きる環境に多くの異民族が同化し、満族(清)やモンゴル(元)も衰亡した。

早く負けて日本に帰った方が良い、そうでないと日本そのものがなくなってしまう

新京の魔窟「大観園」の親分の憂慮だった。(佐藤慎一郎談)

 

   

           桂林の子供

 

友好は「誘降」ともいう。その種(タネ)は、色(性)と食と金の三欲だ。

小人、利のために殉ず

(小者は金のために死ぬ) 大人は義のために殉ず

 

今どきは、「小人、利に集い、利薄ければ散ず

小者は金に集い、なくなれば離れるような交友

 

利は智を昏からしむ

利ばかり考えていると、智慧が廻らない愚か者になる。国内でもその傾向だが、なおさら他国に行けば嘲られる。

要は「人情は国法より重し」だろう。  

普遍的な人情は、国の法律より優先される行為の範だ。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある切り口 オトコの付き合い

2024-12-14 14:38:08 | Weblog

 

 

台湾を興した男の付き合い   官でも…、軍でも、変わり者同士  後藤新平 児玉源太郎

 

 

 

食い扶持稼業なりには夫々「界」がある。政治の世界、経済界、また「壇」という奇妙なものもある。画壇、文壇だが夫々が「界」を構成している。

その世界も狂気の世界、嫉妬の世界、批評の世界と「世」に関わると、「界」なり「壇」なりに棲み分け安住して粗餐をむしばみ兵隊ごっこよろしく「賞」なるものを設け商業出版の奴隷なりパラサイトとして世を惑わしている。

世は変わり者を称賛し、汗を知らずして汗を書き、ヤブにらみ批評を斬新とするような、つまり童心から見れば滑稽かつ妖怪の世界を映し出している。

 

世に売文の輩、言論貴族と称す堕落した似非文化人を気取る者がいるが、隣国では「九儒」、や「臭九老」として蔑んだ。先進国と称するところでは知識人、いや今では「識」にいう道理もなく「知」のみの偽論、偽文が氾濫していることを文化の進捗というのだろう。

 

つまり彼の世界は「別世界」なのだ。

「智は大偽を生ず」という。言い訳、虚飾、に智が用いられ、その美辞麗句は文章の巧みさという巧妙な文術によっていたる所に錯誤を、錯覚を巻き起こしている。

「詐」を頭がいいと言いくるめ、「暴」を勇気と、贅沢を幸福と為すようなもので、しかも明け透けな様相や、もの珍しい事象、裏話や人の理性の働かない欲望を「人の在り様」として書き連ね、その結果辿り着くであろう複雑怪奇な世情を「人の世」と後書きする。

 

また「真理」探究と称して覗き、脅し、エゴなる欲求を虚なる物語として具象化しているが、それは単なる「心理」の読み込みであり、勝手な切り口の書きものである。

 

いたらぬ物書きの世界だが、近頃では教壇に身を置くものまでが故事を引っ張り出して訓話マニュアルを習文しているが、これらにも文化人としての褒め賞が与えられる。所詮、商業出版の世界の出来事だが、さすがに陛下の勲章ともなると「界」も「壇」も神妙になり、かつ別の顔を取り繕うようだ。

 

以下の章はある老作家の戯れ文である。

一風その世界を俯瞰しているようだが、おなじ壇や界の縁に生息している。それゆえ物書きの心情はよく読みとれるらしい。

その世界の、その話として理解いただき御高読戴ければと思う次第。

 

                                 編者 孫景文

 

 

        中央 平凡社 下中邦彦  右 小学館編集者

 

 

昭和四十五年だった

 

君は山本さんとお会いになった・・・

 

ええ・・先輩のおかげで一寸

 

僕も会った、一度だけど・・

 

はぁ

 

横浜の何とかイフ・・

 

はぁ

 

そりゃ、僕も若かった。まだ三十そこそこだった

 

山岡さん、壮八さんには・・・

 

いゃ

 

戦争中は貪るようにこの二人のを読んだ。若僧にも分かりやすかった・・ピタリときた

 

・・・・

 

君のはじめに読んだのは何だ

 

橋の下・・・、   ですね

 

山本さんが変わりだした頃だな

 

はぁ?

 

壮八さんのは

 

徳川家康,信長ものですね

 

二人とも戦後は書くものが大転換したなぁ

 

・・・・

 

僕が二十代で読んだ頃は二人ともまだ新進で、今みたいに有名じゃなかったから評論だの講談だの・・・そして講談クラブ、富士なんぞに戦争真っ盛りにやっと吉川英二海音寺白井喬二らに連ねた

 

・・・もうこうなると知らないから黙って聞くしかない・・・

 

戦争が終わってからか、敗戦寸前かね・・・二人とも呑み助だが打ち合ったときに夜呼び出して、山岡さんが壮八となった話は知ってるか

 

そんなことがあったんですか

 

二人とも、まだ四十前後で血気盛んだったなぁ

 

・・・・・

 

山本さんは横浜市に住んでいて、お子さんを空襲で亡くした。火葬したくても柩も葬儀社もない。幸い遺体だけは見つけて、そこいらの焼けた板片や枝で箱をつくって焼き場に運んでいる

 

へぇ・・・・

 

壮八さんのほうは海軍報道班員に徴用されて、鹿屋基地だか特攻基地に付きっきりで、このため特攻隊員を毎日見送り、その遺書、遺品なども渡され、敗戦後、渡せるものは遺族に渡し、残ったものは丁重に保存し、自宅の庭に特攻観音といったかなぁ…慰霊塔をささやかに祀って、いまもあるそうだ。

 

はぁ・・・

 

それも立派だが… 戦争は、゛御盾゛なんて小説知っているか・・

 

知りません

 

二・二六事件は

 

何とか聞いています

 

その二・二六以前の引き金になった陸海軍の少壮革新派の核となった藤井育少佐(当時は大尉)の作った連絡機関、゛王師会゛の動きを二年にわたって書きつづけた。終了が二十年四月・・・

 

・・・・

 

今から言えば軍国主義、天皇絶対主義、右翼革命家の話だ

 

・・・・

 

これを書いて随分ふっきれた。山本さんのほうは日本婦道記(直木賞に選ばれたが菊池寛社主が嫌いだとして蹴った)に次いで日本士道記(これは戦陣に赴くなか、その将校,兵士らの死への を促し、再来の心情を描いた粒よりの小説。二、三十枚の紙がないから作品も短かったが慰めや癒しとなった

 

・・・・

 

今からいえば戦争謳歌、反動、封建軍国主義だね

 

はぁ、知らなかった

 

それでだ、庭へ呼び出すと山本さんは・・、君は何だ、あんなものばかり書いて若い連中を無駄に死なせた。おれが代わって制裁すると壮八を殴った。壮八さんは黙ってその鉄拳を受けた。山岡さんはそれっきり絶交

 

・・・うーん

 

ところがだ,十数年後、とにかく再開した文人の酒の会があった

 

・・・・

 

この時、また呼び出した

・・・・

 

山本さんは壮八さんに、゛俺を殴れ゛と。黙っていると、゛あの時は俺も血迷っていた、早まった、悪かった、気の済むように殴れ、思いっきり。

 

・・・・

 

壮八さんは、殴らなかった。゛忘れよう゛山岡さんはペコリと一礼した。

 

・・・・

 

まぁ、正確じゃないがこのようなことだ

 

うーん

 

山本さんは、゛樅の木は残った゛を頂点に、その後大物になった。壮八さんも家康もので大成長だ

 

・・・・

 

書くものの傾向が大分変化した。とくに山本さんの戦前、戦中、敗戦後の文章、文体は作品は町人もの、市井もの、人情ものに集中し、武士を描いても生活心情に則したもので、武士道ものやサムライ魂の昂揚したものはなくなった。

とくに文体が快く吾々の心情に測々として染み入り流れるような文章から、西洋風の、゛ナニナニは言った゛と、確かに明確、明晰にはなったが、長くなるとしばしば息苦しい、ひどく言えばカンに障る文章を意識して書きだした。それだけ巧くはなった。短編、小編では効き目があるが長編になるとクドクてもたれ気味だ。

 

 

    

       何を考えているのやら・・・ 香港

 

 

君は戦前ものと戦後代表作と文章を比較してみたことがあつたか・・

 

ありません

 

やってみろよ。例えば、゛橋の下゛゛あざみ゛(最高傑作だ、モーパッサンやバルザックの短編をも超える)と、士道記の、゛紀梅月゛や、゛粛々十八年゛などと、婦道記では、゛墨丸゛とか゛風車゛とかな・・思い当るところがあるはずだ。

 

・・・・・・

 

いちばん俺が山本さんに不服なのは禅をすこしコケ扱いしている。一方では一時流行ったラジオの三木鶏郎、丹下キヨ子、三木のり平らの冗談音楽をとらえて、日本神話を侮辱していると静かな声音だが罵ったことがある。そして君の会社の週刊光陽の山岡付きの記者の木村某に、戦中、戦前の作品を一切 廃棄焼却したいと言ったということだ・・

真意は確かめなければならんが、これだけは気に入らん。

 

若いころの作品や創作を有名になった後は刊行したくない、若気のいたり,愚劣痴気を残したくない、れいれいといった萩原朔太郎や北原白秋とは、これはチト違うようだ。

 

詩人の勘介も大木惇夫もそんなこと言わない。川田順なども老いらくの恋などと嘲られたが、営々と戦中作品も敗戦後刊行している。

比べりゃ壷井繁治、小野重治など左翼をはじめ三好達治や志賀直哉、武者小路,ゾロゾロと・・・

 

戦中、戦後、作品を自ら抹殺,無視、白眼視しているのは一般だが、そんなのと一緒にしたくない

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

混迷の自由と、やっかいな民主  2009/3 再

2024-12-13 02:08:52 | Weblog

資本家からの解放を謳った一群も、民主と自由を謳った一群も、現状の勝ち負けを論じたところで、体裁のよい噺であろうと考える一群が存在する。

一方の自由と民主を提供された一群の掴みどころのない不安だが、為政者の掲げる国民の自由と民主への錯誤は往々にして国家の連帯を融解させることを、人々は薄々気がついている。

とくに其の主義と仕組みを提案され、たとえ面従腹背によって好い処取りをした民衆も、悠河が激流に変化するに連れて、自ら生じたさまざまな雑物が混じった汚流になることに、何の処方もなく戸惑っている。

たしかに自由な主人は己を扶養することに汲々としている。食い扶持は勝手に探せるが、結果と片付けはおまえの責任だ、ということだが、為政者あるいはそれに伴食を預かっている連中にとっては、管理のコストは主人である、゛あなた持ちである。

それは、他に習い順ずることを好まないが、さりとて他人が巻き起こす流行ものが気になって仕方がない民衆の面妖は、意思の在り処が見当たらない無機質な社会を作り上げるシステムを民主と自由に読み替えた民の姿でもある。



               



誰かが解決してくれる・・・、だが美名に誘引され権利と称するものを収穫物とした民衆にとっては、そうそう自らの口では発することに幾分かの遠慮もあるが、厚顔にも他の責任を追及した理論や糊塗に勤しむ知識人と称する一群も見うけられる。なにぶん民主と自由に飛び跳ねたそれらも、自らの存在に迷っているのが実態である。

ことのほか自由と民主は自他の関係においても厄介なものである。

どうも文字のニュアンスなのか、解放とかレジスタンスには良心と勇気のようなものが感じられるが、それに抗して独裁、専制はまるで悪党の搾取のように印象付けられている。だが、不埒なエリートや群れとなった不道徳な欲張りが多くなり、法匪まがいの輩の奴隷のようになった善男善女を考えると尭舜とは云わぬまでも、善政への矯正に必要な機会が永い歴史には必然としてあった。




                 



たとえば、明治の王政復古もそうだ。幕府も御家人旗本も威を失くし、まさに「維」の更新に大向うを唸らせる舞台が登場した。

フランス人やロシア人は革命によっての長(おさ)を倒し、平準化した人権、平和、平等を唱え、混交人種を広げる運動の恣意的な企てに連なった。もちろん掲げるものは自由と民主であった。それ以来少々落ち着きがなくなったが、却って重厚さはエカテリーナ宮殿やベルサイユにあると人々は過去を誇るようになったのは皮肉なものだ。



              
                           某茶室にて


「譲り合う自由」と「認め合う民主」の有り様を知る良機になること、まだ阿吽で分かる日本人が残存している限り望みはある。

政治や経済の問題は其の後で充分間に合う筈だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間考学 餌を散らせば隠したことがバレる、一網打尽之術

2024-12-12 00:46:57 | Weblog

 弘前城

 

旧稿ですが・・・

 

毛沢東は百花争鳴を奨励した。

思っていることを自由に、かつ大いに言いなさい。

役に立つと思う考えを言いなさいよ、と大衆に宣言した。

今までは何か言えば反抗的だと捕らえられたが、恐る恐る言い始めた。

今までは陰で隠れていたもの、仲間で色々な政治の話しをしていたものまでが出てきた。

盛んになると海外の評価も変り、それらと恊働するものも現れた。

それは自由のない頃の社会、いや、食べることの懸命な大衆にとっては異質な人たちだった。多くは読書人(知識人)と称される者たちだった。

考えている人間、言っている人間、協力する人間、これで目星はついた。

あとは投網を掛ければ、一網打尽。

もともと政策の裏付や飾りに知識人らしき者を任用するが、知識人からすれば御上御用で箔が付き、食うには事欠かなくなり、長生きすれば勲章までもらえる。学者が名誉や財を求めるようになったら国は滅ぶとは古典の倣いだが、愚かな政治家と狡猾な役人には必要不可欠な言論貴族なのだろう。

近頃は瓦版の類のマスコミ関係者も先を争ってご注進に励んでいる。江戸の時代は、瓦版やメアカシの類で、事件情報をもらいに警察や政治家にポチのようにまとわり付いている徒だ。

世間は為政者の政策に何か臭うと思うが、東大や海外の研究者と比べて遜色なければ、表立って懐が痛まなければ「仕方がないか」と、あとは無関心。

 

 北京の友人作

 

 

その隣国の大衆は学者、知識人をどの様に観ていたのだろうか。

人の階級を10段階に分けたら、学者(儒学者)は、下から9番目で九儒、その下は乞食。ならば毛沢東はどのように思っていたのだろうか。彼らは口先だけで、妙な臭いがする鼻持ちならない、「臭九老」と考えていた。

歴代皇帝に仕えて占術や故事をひいて施策提言した儒学者や役人も多いが、多くは傾国の導きでしかなかった

標題になるが、コロナ禍でも、災い転じて福となす人もいるようだ。

他国に倣ったのか、政府は国民に時短なり、休業を要請するにあたって多くの名目で資金を供給している。

今までは国民一律二万数千円があったが、今度は一律十万円から始まって、飲食店に協力金、事業者に持続化給付金、この度は政府利用性にしたがって休業・時短名目での要請金が簡易な申請でふんだんに支出されている。

ここでは、業態は問わず逼迫した状態での申請審査に基づく支出なら問題はないが、もともと休店したり開店なから暇だから早じまいしていた飲食店でも一律支給が行われるという不思議感がある。

本来はどんな業態でも税務申告があるはずだが、一日開けて1~2万円、昼のみ開けている店もある。それでも数次にわたる協力金と、一日6万円の現金給付が行われようとしている。小さな店では3万売り上げで利益は多くで1万円。6万となれば一日20万ほどの売り上げがないと純利6万は得られる計算ではない。

人の懐に対して細々とケチなことを云うつもりはないが、一度思いもよらず安易に資金が降ってきたら、それは成功体験として再度の招来を期待し描くものだ。

あのバブルも大根畑の一反(約300平方)50万が、一夜にして500万になったとき、持ちなれなかった人々は放蕩三昧で夫婦離婚も子息は非行と蕩尽、そして没落したのはそんな昔のことではない。金融機関も痛い目に遭って今でも立ち直ってはいないところもある。

以前の一律給付のとき麻生太郎氏は「さもしい」と語り非難されたことがある。大多数ではないにしても、そんな気持ちを持つ国民は多かったと推察する。

税金を戻してもらっている、貰えるものは貰え、と声高に騒ぐ人もいたが、まだ税金食い(タックスイータ)と、納税者の分別はついていた。その代わり消費税は8から10%に上がった。

税制も企業招致や捕捉が煩雑になった理由もあるが法人税の割合が下がり、その分、捕捉しやすい売上税(消費税)の割合が増え、比率は逆転した。しかしコロナが騒がれる前は消費は落ち込み、露見すれば失政を叩かれることは当然の状態だった。そのころヘリコプターで札をばらまくような消費喚起策も経済学者から出ていた。

非生産的分野(福祉、医療、年金等)の支出は削減し、経済の基礎的部分(ファンダメンタル)の投資を増大させれば経済は伸び、税収は上がり、収支が安泰して赤字国債は無くなる、と政治家は官僚の腹話術のように謳い、直間比率(直接税、間接税)の変化も一つの要因ではあるが、年齢的人口比率や少子化が一方では危機として騒がれるようになると、麻生さんの「さもしい」発言ではないが、人心が落ち着かなくなった。

そのことは、取りも直さず公機関と国民の契約の曖昧さが政策の信頼すら失くしたかのような状態となってきた。

 

   

 

筆者の観点だが、コンプライアンスは民情の慣性に合った狭い範囲の掟や習慣性を数値評価や成文(文章)に変わり、曲がりなりにも国に委ねた資財に国民大衆が安易に手を出せるようになり(効力を失くした民主の相互契約)、それは大衆の欲望に応える政府の無謬性の崩壊であり、政官の責任さえ負いかねない徒労感さえ抱くようになった。

それは流れに任せ、流れに乗ずる、腰の定まらない政治ともなった。

そして国民の察した成功体験がある。しかも、一過性の給付に核当する人たちだけでなく、当たらない人との反目や嫉妬さえ起こしている。すべて政府に向かっている。

無関心と事なかれ、そして上しか見えないヒラメ

ある組織では、世の事情に無関心どころか、その現象を考えることさえ難しい、めんどうくさいと思う徒がいる。

その上司は手をこまねき、徒労感も加わって目的意識や使命感も薄れ、キャリア(経歴)を踏むことに汲々としている。良心に誠実な部類はハジかれ、だだ、己を偽り従順な者だけが地位だけトコロテンのように昇ってくる。

上っ面のキャリア組は生涯計画を支える給与の担保と保全、そして高位ステータスの虚飾に励む。

それが政界.官界、教育界、学会(知識人)、あるいは御用民間人にはびこって、昨今、とくに顕著になっている。

まさに「さもしい」人心に陥っている。

政府からの助成は「さも、欲しがっている」ことが、素直な欲求ではあるが、それは国民と政府が金でしか取引できない風潮を起こし、自己抑制や気質まで変化させている。しかも、次代への借金でもだ。

 

  

 

それは、今までにない日本人像と違うと思うのは民族的贔屓の意識だったのかと、思うほどの姿だ。

ありもしない、できもしない、と互いに監視し合うようになった、自由・民主・平等・人権、の美句は、用いる人間にとっては、それを盾に却って猜疑心や狂騒の種となり、こと金がからむと解決不能な状況に陥ってくる。

そもそも、この混沌は、今までの経過をたどると当然な状況(部分成果)であり、最終の帰結はその先に招来するはずだ。

要は、奇異な病によって人口は減少し、さまざまな手法を駆使して富は吸収され、救いを求める民は管理される

人間種の循環ならばこその大局観ではあるが、いずれ地上哺乳類が「知」を得た結末として亡羊な淵に迷い込むだろう。

 

若かりし頃、銭湯の釜焚きの古老がバブルのさなか「このままでは済まない」と、炎を眺めて呟いていた。

ぬくぬくと湯加減の按配に文句を垂れ、他人の陰口を叩く客の気楽さに、釜焚きの伸吟を覚ったことを記憶している。

釜中の民」まさに当然の帰結でもあろう。

 

【釜中之魚】

「資治通鑑」漢紀から》まもなく煮られようとしている釜の中の魚。

 死が迫っていることをいう語。魚 (うお) の釜中に遊ぶが如し。(gooサイトより)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あの頃の米国 職務に忠実なアメリカの高校カウンセラー

2024-12-10 01:04:00 | Weblog

           

          桂林の子供たち



1998年02月27日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 ニューヨークに赴任したことのある資生堂の八木さんの、初めの半年の悩みは当時高校2年生だった娘さんのことだった。公立高校に通わせていたが、いつま で経ってもアメリカの学園生活に慣れなかった。

ある日、高校のカウンセラーに「これ以上この学校にいても娘は慣れることはないだろうから、近くの日本人学校に転校させたい」と打ち明けた。


 カウンセラーからの返事は八木さんを驚かせた。「あと一週間下さい。自分なりに最後の努力をしてみたい」。日本語では平凡な言い回しにしかできないが、 英語ではまるでその娘さんを立ち直らせることが自分の義務であり、一週間の時間が与えられることが担当者としての権利のような言い方に聞こえた。

一週間 後、カウンセラーの努力のかいがあって娘さんは見事に立ち直った。

 たった11ドルで得る手厚い教育システム

 アメリカの公立学校の外国人対策は州によって異なるが、八木さんが住んでいたコネチカット州では、英語を第二外国語とする外国人に対する特別の英語クラスがあり、児童や学生に少しでも早くアメリカに慣れてもらうシステムが定着している。

文化や生活習慣の激変で悩む子供たちには専門のカウンセラーも常駐し ている。

 八木さんは言う。「われわれは年間の授業料として体育のウエア代金などたったの11ドルしか払っていないんですよ。なのに外国人に対するこの手厚い教育システム」。ただただ感動した。
 

 

     

   台北 生徒自治会主宰の朝礼

  

   

   北京 1989  6/26

 

 

人種差別が横行し、凶悪犯罪が絶えないのが多国籍国家アメリカの一断面だとすると、外国人の定住への公的支援が活発なのももう一つの側面なのだ。在留邦人で、アメリカの行き届いた教育システムに驚きや尊敬の念を抱く人は少なくない。

 ひるがえって自治体を含め長年、国際化を標榜してきたわが日本はどうだろう。日本語が出来ない外国人に対する特別クラスどころか、制度以前の日本人生徒 によるいじめや村八分が待ち受けている。

アメリカ社会でうらやましく思うことは、外国人だけでなくマイノリティーや障害者を社会に受け入れていこうとする モーメントが常に存在することである。

 アメリカに差別がないわけでない。アメリカを無批判に礼賛しようというのでもない。1960年代前半までは、それこそ白人と黒人とが別々の学校に通うアパルトヘイトが存在する州が多くあった。

しかし、差別をなくそうとする運動は、弱者や有色人種を擁護するアファーマティブ法として結実した。社会の効率を 多少犠牲にしても「正義」を優先したのだ。1990年代に入ってこの法律が逆差別だとする批判もでているが、お蔵入りになるような勢いがあるわけではな い。

 

                 

     日本   縁側の子守っ子  

 

    

                 弘前 こども祭


 ●求められる"異なるもの"を受け入れる度量

 凶悪犯罪の低年齢化や登校拒否児の増加など、日本の教育現場では深刻な問題を抱えている。「外国人対策どころではない」。そんな声が先生方から聞こえそ うだ。

しかし、アメリカだって同じ問題を抱えている。少年犯罪は日本より進んでいるし、スラム地区でも学校の荒廃は日本の比ではない。

 問題は、外国人子弟のアメリカへの定着が、犯罪増加や登校拒否と同じ土俵で論議されているのに対して、日本ではまったく異次元の問題としか捉えられてい ないことである。

 

              

バングラデシュ クミンラの中学校    

   

            子供新聞 交番取材

 

 

真の国際化とは、日本人が外国へ行ったり、外国語を使うようになることではない。誤解があってはいけない。

日本の中で外国人が不都合なく 暮らせたり、法律的にも日本人と同様の取り扱いを受けられるようになることである
 

日本の教育現場が、外国人子弟がすんなり順応できるような環境になれば、きっと日本人の子供だって気持ちよく学校に行けるようになる。

いま、大人にも子供にも日常生活に"異なるもの"を受け入れる度量が求められている。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする