アンスポークン・ワード(The Unspoken Word)はニューヨーク州ロングアイランド出身の5人組。
メンバーは、
ゼーニャ(ジーン)・スタシャック Zenya Stashuk: lead guitar, rhythm guitar & vocals
ディディ・ピューマ Dede Puma: vocals
グレッグ・ブイス Greg Buis: bass & vocals
レス・シンガー Les Singer: drums
アンガス・マックマスター Angus MacMaster: keyboards
リリースしたアルバムは2枚。どちらもメイジャー傘下のレーベルからのリリースで、80/90年代のサイケ再評価ブームでも見過ごされてきた無名のバンドで、然程レアでもない。2007年と2010年にそれぞれCD再発された。
●The Unspoken Word『Tuesday, April 19th.』(Ascot Records AS 16028 1968)
¥950 /1985.12.20/下北沢レコファン
1960年代後半のレコードばかりジャケ買いしていた頃に「無名レコの宝庫」レコファンで漁った一枚。彩色されたジャケ写に映るボブカットの女性が決め手になり購入。見開きジャケットの内側は無駄にデザインされた曲目クレジットが手書き文字で載っているだけ。メンバー名はあるが、担当楽器は書かれていない。余り食指が伸びない気分で針を下ろすと、夢眠(ゆめみ)るアコギとオルガンとチェンバロに上品な男女ヴォーカルが漂う極上のサイケデリックフォークが流れ出し、一瞬で心の一枚の仲間入りを果たした。ストリングスやコーラスを駆使した室内楽風アレンジは、サージェント・ペパーズ症候群に違いないが、リヴァーブの中に漂う美麗ヴォーカルは、B級サイケのダイヤの原石に他ならない。
The Unspoken Word - Anniversary of my mind
●The Unspoken Word『The Unspoken Word』(ATCO Records SD 33-335 1970)
¥1000/1987.6.24/蒲田えとせとら パートII
前作から2年経って男性陣が髭面・革ジャン・ジーンズに衣替えし『バック・トゥ・ネイチャー』化、音楽的に大きく変貌した。テクニカラードリームから醒めたすべてのバンドが辿るメインカルチャーの道。則ちハードロック/ブルース/ソウル/カントリーといったメインジャンルへの接近である。しかしながら多くのバンドが陥る『ワイルドで行こう(Born To Be Wild)』ワンパターン化の轍(てつ)を踏まず、それらの要素を融合し、ディディの歌やファズギターなど宝石の残り香を漂わせる持つセルフタイトル作は、十二分に聴くに値する。
The Unspoken Word - Pillow
サイケコレクターサイトには当時の関係者のコメントが寄せられ、無名のこのバンドにも数多くの思い出が紐づけされていることがよく分かる。メンバー自身のコメントもあり、当時のローカルシーンの熱さが伝わってくる。
⇒ACID VISION
⇒Garden Of Delights
僕はガス(アンガス)・マックマスターが「アンスポークン・ワード」に加入する前3年間一緒にバンドをやっていた。彼は知る限りで最も才能のあるミュージシャンだった。彼が「アンスポークン・ワード」で演奏するのを何度も、そう、ロングアイランドに観に行った。ガスは親友だったので、彼が僕のバンド「ディーペスト・カインド」を抜けたときは辛かった。 「アンスポークン・ワード」の他のメンバーも良く知っていたし、1,2回ジャムセッションをしたこともあった。アルバムも2枚とも持っているよ。
最悪だったのは、ガスが他に4,5人の人と一緒にアラバマ州で自動車事故で亡くなったことだ。彼が当時有名だったコミュニティーで生活していた頃だ。とてもいい友達だったのに、一瞬にして命が奪われてしまったんだ。でもこの記事のお陰で、再び僕の道がガスと交わることになった。ありがとう。グレン
「アンスポークン・ワード」のドラマーとしてアンガス・マックマスターと演奏したのは誇りであり大きな楽しみだった。彼は本当の天才だった。ATCOからの2ndアルバム収録の「パーソナル・マネージャー」でのハモンド・ソロと、アンガス自身が歌うブルースのパロディを聴いて下さい。それより凄いのは聴いたことがないし、その時彼は20か21歳の若さだった。彼を失ったことは(前の投稿の訂正。アラバマじゃなくアーカンソー)、音楽と世界にとって損失だった。レス・シンガー
僕の兄貴は1stアルバムでギターを弾いたあと首になった。彼はURI大学に通っていたとき、ロードアイランドで彼らに会った。バンドはロングアイランドに引っ越して、コーマックに家を借りて、ロングビーチのアクションハウスで働いていた。ヴァージニアンやインウッド・イースとでも。セントラルパークのバンドシェルで、ブルース・プロジェクトの対バンで観たことがある。僕は幼すぎて本当は何が起きているのか判らなかった。 ダーティ・ピエール
アンスポークン・ワードはイリノイ州プロヴィデンスで結成された。1966年にガノ通りのアパートでスクランブルエッグを沢山食べて、ブラウン街やRISD大学内をうろついていたのを覚えている。後にロングビーチのディーン・ア・ゴーゴやクイーンズのコミュニティ・ガーデンで演奏した夜、夏のロングビーチでミッチ・ライダー&デトロイト・ホィールズと共演した。ニューヨークの東10番街のディディの祖母のアパートを覚えている。ジーンとディディとグレッグのことは忘れたことはない。 DCチック
ニューヨーク州モンゼイの国道59沿いのクラブでアンスポークン・ワードを観たものだった。クラブの名前は覚えていないが、バンドと友達になった。レスは親切にも数回僕にバンドのドラムをやらせてくれた。僕はその頃上手いドラマーではないと思っていたが、ジーンとディディは間違いなく気に入ってくれて、バンドが解散したあと、僕に声を掛けてくれた。僕はジーンとディディと、ニューヨークのロングアイランド出身のルイスという名のベーシストとバンドを組んだ。クラブで何度も2ndアルバムの曲を演奏したよ。そんな才能豊かな人たちと一緒に演奏できるなんて信じられなかった。音楽は素晴らしく、2ndアルバムのレスのドラムは凄い。アンスポークン・ワードの曲を2,3ヶ月演奏してから、ジーンとディディと僕でウェズリー・チャペルを結成した。他のメンバーはビリー・ピーターズ(g)、スー・ピーターズ(key)、ボブ・ジェンキンス(b)。71年の夏、グリーンウッド・レイクで沢山ライヴをした。ジャージーやロックランド郡のクラブでもね。素晴らしい時代だった。思い出をありがとう。彼らのことが懐かしい。マイケル
口に出さない
言葉はどうして
伝わるか
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます