80年代初頭全米チャートが英国ニューロマンティックスやエレポップで席巻される第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが勃発していた頃、ヨーロッパのベルギー経由でチャートやブームと無縁のアーティストの群が静かに日本に上陸した。クレプスキュールと呼ばれるレコードレーベルの作品が当時の大手レコードチェーン新星堂から配給され、パンクやニューウェイヴの狂乱に疲れた一部の音楽ファンに憩いを与えた。当時レコメン系前衛ロックやフリーインプロヴィゼーションや地下音楽に心酔していた筆者にとって、オシャレなイメージで宣伝されたクレプスキュールは胡散臭い軟派な音楽に思えて仲間内では「マスカキ野郎のBGM」と呼んでいた。実際にOTHER ROOMのタカシマ君が聴かせてくれたヴィニ・ライリー(ドゥルッティ・コラム)の繊細なギターの爪弾きは、確かに夜の独り遊びの快感を増す効果がありそうだし、彼の痩せ細った顔がその証拠だった。
月日は流れ再び地下音楽や即興ノイズの世界に惹き寄せられた21世紀も10年以上過ぎた頃、YouTubeで偶然流れた静謐なギターのフレーズに30年前の快感の記憶が蘇った。音数の少ないミニマルなサウンドと幽霊のようなビートは心の内の毒を吐き出し浄化する解毒剤、軟弱に聴こえた線の細いヴォーカルは精神異端者が呟く悪魔払いの呪文。見かけのオシャレ感は、狂気の果ての白けた桃源郷の幻影に過ぎない。10年前にレコファン吉祥寺店閉店セールで手に入れた『LC』を聴いてオーガズムに達し、更なる刺激を求め目にしたカタログを次々購入しオカズにしてきた甲斐があり、今では聴くだけで達することができるようになった。そんな筆者の元に嬉しい新ネタが届いた。
●SHORT STORIES FOR PAULINE
1983年に録音されたままお蔵入りになり、2012年に初めて日の目を見た4thアルバムが新装ジャケットでリイシューされた。完全に後追いの筆者にとってはどのアルバムも初体験だから気持ちよさは同じ筈だが、クリアヴァイナルはひと際高まる。クレプスキュールのもう一方の首領(ドン)タキシード・ムーンのブレイン・L・レイニンガー(viola)の参加もソソるが、何と言ってもバック・ヴォーカルのポーリーン・マレイ(元ペネトレーション)とヴィニ・ライリーのラヴラヴなジャケ写にジェラシーを感じて昂奮してしまう。
●どうもありがとう〜ライヴ・イン・トーキョー〜デラックス・エディション
1985年4月25日の五反田簡易保険会館での初単独来日公演のライヴ・アルバムに、同公演のフルライヴ音源とドキュメント映像、さらに前年1984年4月29日新宿ロフトでのクレプスキュール・イベントでのライヴ音源をカップリングした3CD+DVDの4枚組ボックス。それで3000円+税とは安すぎないか? それはともかく、筆者は1984年4月にアート・アンサンブル・オブ・シカゴ、5月にキング・クリムゾンを五反田簡易保険会館で観て、1985年10月にレジデンツを渋谷パルコ劇場で観たので、ドゥルッティ・コラムとニアミスをしていたことが判明した。1985年はアインシュテュルツェンデ・ノイバウテン も来日しているので、ポストパンクの謎/硬/軟の三極が日本の地を踏んだ記念すべき年だった。
The Durutti Column - The Missing Boy (Domo Arigato)
ヴィニ・ライリーは2010年に軽い脳卒中で倒れたが徐々に回復しているらしい。ライヴ活動復活の折にはぜひ会いに行き、長年お世話になったお礼を伝えたうえで、新たな快楽に身を委ねたいと願っている。
ドゥルッたり
コラムったりの
プレジャータイム