マーベラスS

King Of Western-Swing!!
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いづもやのづの字が鰻になっていた、遠い記憶

2012-12-24 14:31:36 | Weblog


織田作之助が、小説「夫婦善哉」の中に書いた、鰻の「いづもや」。

たぶん大阪人で知らぬ者はいないほどの名代の看板。
いわずもがなの、まむしの老舗である。







関西圏以外の人は、まむしの名前に眉をひそめるかもしれない。
今さらながらであろうが、まむしというのは「鰻(まん)蒸し」から来ている説。
ご飯の間に鰻を挟むから、「間蒸し」説。いろいろあるぜよ。
江戸の街で芝居勧進元、大久保某が鰻の出前を取るのだが、忙しくて冷めるから、
めしに挟み込んで持って来させた。食べる頃にはご飯の間で丁度よく蒸されて美味だった、と
これも定説というだけ、確信ある訳ではない。

さて、いづもや。

出身は「出雲の国」島根。
そもそも江戸中期、松江は鰻の豊漁に湧き返った。
これに目をつけ、高値で取引されていた大阪へ売り込む者あり。
どの時代にも目先のそろばんの立つヤツぁいる。

安来港から岡山通って播磨灘へ。ここから海路、京大阪を目指した。
これを鰻街道。鯖街道ばかりぢゃないのだ。
食紅を商っていた初代末吉、商売をしにきてこの鰻の魅せられた。
浜名湖の養殖が一般化するまで、鰻というと出雲の天然鰻だった。

明治9年(1876)創業、出雲屋の名前は鰻屋の代名詞となり、独り歩きした。
自称出雲屋も含め、ピーク時は大阪に300軒もの出雲屋があった。

三越少年音楽隊を皮きりに、松坂屋、高島屋などが宣伝用の楽団を持った。
出雲屋も少年音楽隊を持ち、そこで若き日の服部良一少年がサックスを吹いていたのは
有名な話。







都合五軒の出雲屋の中でまむしのうまいのは相合橋東詰の奴や、
ご飯にたっぷりしみこませただしの味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のを
フーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月」へ春団治の
落語を聞きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握り合ってる手が汗をかいたりした。

意識して食べると、ほんとに酒塩がきいている。
たまり醤油と酒、みりん、砂糖などで作るタレは、酒の弱い人なら
一瞬酔いそうな気になるほど、ぷんと酒が香るまったりとした味。
そのタレがまんべんなくご飯にまぶされている。
柳吉でなくとも「う、うまい…」と言いたくなる。

職人はタレをかけて蓋をして、パコパコと振るのである。
これがいかにも大阪風な手荒さで面白い。
オダサク書いた相合橋東詰は遠になく、それを引き継ぐ
千日前の角にあったいづもやが閉めて5,6年にもなるか、
ここに30年いた職人が、船場センタービルに来て始めたのが「船場いづもや」。
だから、本家筋の味を継承していると店員は胸を張る。







住吉公園にも西田辺にもあるが直接的な関係なく、
京都、東京にも同名店あるがちがう系統。
どこぞに「柴藤」はいづもやが出す高級版とあったが、これも言下に否定された。

鰻料理を大衆化させたのは「いづもや」に相違あるまい。
ここは歴史をもう一度ひも解いて、きっちりと整理しておくといいだろう。
こういう大衆路線の歴史は日々の忙しさの中に埋もれ、うやむやになってしまう。

昼定食880円は、二切れのまむし・うまき・漬け物・肝吸い(または赤だし)が付く、お値打ち。
上定食1050円は、鯨のお造りが付く。ゆっくり一杯やるならこれもよし。

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