午前中、電車はどうなるか信用ならなかったのでバイクで国分寺に向かう。
途中何度も渋滞にはまるが全てスタンド待ちの車で、
そこを越えると嘘のように空いているということが度々ある。
店につくと、何人かスタッフがいたがただならぬ気配。
福島原発がかなり悪い状況との事。
店は当分閉めることがその場で決まる。
どちらにせよ宮城に向かう段取りを組んでいたが、営業の心配は残念ながらいらなくなった。
中越以来被災地行っておらず、その時に購入したヘルメットなどもなくなっていたので、
買出しに行くが大手ホームセンターなどでは売り切れで、
ふと目に入った原町付近の金物屋に入ると1個だけメットがあり購入。
店のおばちゃんも怖いから枕元にメットを置いて寝ていると言っていた。
宮城に行くというと、「じゃあ、これもっていき。」とポテトチップやおはぎをいただく。
心遣いがありがたい。
11時ごろ、戸田の電設の男こーぜんさんと浦和で合流し、宮城県名取市に向かう。
こーぜんさんは11日直後に一度被災地に入っており、
状況などを聞きつつ向かっていると、静岡で震度6の地震がおきたと情報が入る。
高速では、遠くは神戸や四国からも救急などの緊急車両が向かっており、
かなり各地が手薄な状況のなかの東海方面の地震。
浜岡原発がかなり心配だったが、問題なく運転中とのこと。
いや、すぐに止めようよ。他にも各地で度々地震の情報が入りながらの道中。
16日早朝4時ごろ名取市に到着。仮眠をとって、
8時ごろ拠点になっている増田小児童センターで日本財団クロさんたちと合流する。
2011-03-16 【東北関東大震災】
圧倒的な津波の被害に発する言葉もなく
増田児童センターにてクロさん、今年神戸でお会いした1・17希望の灯りのシラキさん、
ソデさんらと挨拶。四万十塾のとーるさんともはじめて会う。
児童センターのネット環境を整備したのは、現地の中学1年生マサトだった。
中越のときにも当時中3のマサトに出会った。この偶然に不思議な縁を感じる。
午前中、アウトドア義援隊が拠点にいているモンベルへ。
運動会テントとフリースを加工する前の生地をロールにしてあるものを、
数本受け取る。床にも敷けるし、切って使えば防寒にもなる。
この日仙台市内は雪が降っていた。
その後に拠点にだった、NPOドリームゲートにさっきのテントを建てにいく。
その時は現地の人たちに休憩や充電できるスペースを提供していた。
(名取市も一部は電気が復旧していた)
一旦児童センターに戻り、ヒューマンシールド神戸・吉村さんと連絡を取り合い、
こーぜんさんと南三陸方面へ向かう。
吉村さんは気仙沼付近おり、
何箇所か気になる避難所などを調査、物資の受け渡しを行いながら、
北からと南からで途中で合流しようということになった。
途中、国道4号線を走っていると、
多賀城のあたりから一気に津波被害の光景が飛び込んできた。
おそらく車などは道を空けるためによけた後だと思われるが、
信号も止まっており信じがたい光景。地震だけではこうはならない。
利府あたりから三陸道にのり、南三陸方面へ。
海の近くに行くと川のあるあたりは、
田んぼがこの時期に水浸しになっているなど異様な光景。
志津川にはいると、突然壊滅した町が目に飛び込んでくる。
津波が押し寄せた場所とそうでない場所の境界が驚くほどはっきりしている。
志津川のあたりは、
陸前高田などと同じくリアス式海岸のなかでも少し平野になっており、
そのためほとんどすべてが津波で流されてしまった。
もう、ほんとに一面壊滅状態だった。
目の前にあるのに、不思議なことにニュースで見ていた以上に現実感がなかった。
何がでいるかなんて、考える隙は少しもないほどの壮絶さだった。
bytuatyuya