東日本大震災が起きてから3週間が経過した。
その間に電気や水道などのライフラインが復旧し、最近ではガソリンも買いやすくなった。
だいぶ普段の生活が戻ってきた。
はじめの1週間は今日生きるのが精一杯で何かを考える余裕がなく、
1日1日を生きてきた。
その後1週間は電気が復旧したこともあり、周りが、日本がどうなっているのか知った。
その頃から遅れていた農作業が再開し、その作業に追われていた。
そして3週目になると、水道が復旧し震災前の生活に戻り、
少し気持ちにも余裕が持てるようになってきた。
少しずつ地震の現実を受け入れられるようになってきた。
今感じているのは、メディアの情報があまりにも偏りがあること。
被災地でよく取り上げられているのは、気仙沼、石巻、陸前高田など皆北部ばかりで、
角田の隣町で同じく津波の被害が大きかった亘理、山元という南部の街の名前は一向に出てこない。
街や住民の状況や復興が進んでいるかなどいずれの情報もわからない。
家は朝日新聞をとっているが、毎日毎日亘理、山元の名前を紙面で探すが、
いつになってもその名前は出てこない。
同じく津波の被害にあったのに、街は北部の被災地と同じく大きな被害にあっていると言うのに。
この間、父と一緒にその亘理まで被害状況を確認しに行った。
海沿いの街は以前の面影が残らないほど無残に消えて無くなっていた。
海沿いに近づくにつれ視界が開けてきて、
周囲にあったであろう建物は、空爆があった跡のような瓦礫に変わっていた。
そして、無造作に打上げられた車や船がその被害の大きさをより際出させた。
その光景を目にした時声も出ずにただ眺めることしかできなかった。
それから数日後、亘理の現状を目の当たりにして、何も出来ない自分に不甲斐なさを感じ、
その気持を抱えながらトラクターで田おこしを行っていると
ラジオから亘理のいちご農家からのメッセージが読まれた。
県内有数のいちごの産地だった亘理だが、
この津波の被害で95パーセントのいちご農家が被害にあい、
亘理のいちごブランドが壊滅の危機にひんしているという。
農家自体の高齢化も相まって、今後の再建は難しいと話していた。
でもその人のハウスは無事で、亘理のいちごを廃れさせないように、
被災者に配ったり、出荷も再開している。
亘理のいちごをこれからも残すため頑張っているという話を聞き
同じ農業を志す者としてものすごい勇気をもらった。
だが、そのような情報も一向に大手メディアでは語られずに忘れされている。
宮城県南部の情報は皆原発にかき消され紙面に載ることはない。
ただ政府からの情報をそのまま載せるだけで、
助けを求めている人の声や被災に遭いそれでも立ち上がろうとしている人たちの
希望の光すら原発問題の前に忘れされている。
それを容認しているメディアに対して苛立ちを覚えている。
そして何も出来ない自分が情けなくなった。その悔しさを噛み締めながら、
それでも角田で以前と変わらず田んぼを耕せるありがたさ、
日常を送れる喜びを感じながら畑に通っている。
それでも隣町になにかできないかと考えながら。
今自分に出来ること。自分の家で米を作る手伝いをすること。
伝えること。繋げること。
まずは、1に全力を尽くして、それでも余裕ができたら
2、3と南部の復興のために出来ることをやっていきたい。by 面川常義
宮城角田からの便り 苗づくり作業始まる - blog 福祉農園通信・龍神伝心