blog 福祉農園通信・龍神伝心

アジアモンスーンに吹かれて
共生の農業
見沼田んぼ福祉農園 

人々と共に生き 人々の中で逝った静佳さん

2010-02-06 | 共生社会のデザイン
生活・介助・労働 すべてを創り出す時代を生きた静佳さん
上と左の2枚の写真は、
生活ホームオエヴィスができた1990年の「ニューコアラグループ」のようすです。
この当時は介助や援助の制度がごく少なく、夜間や土曜や休日には関わる人がいますが、
平日の昼間は介助者が限られていました。
そこで、このように静佳さんも弘昭さんの車いすの介助者として活躍していたのです。
ただ、静佳さんは他人のいいなりに動かされるだけではなく、
時々弘昭さんが車いすのうしろにさげていた手提げ袋から中の物を道にポイポイとわざと放ります。
弘昭さんが気がついて怒り、それでまた介助者が気がついて引き返すのが、
静佳さんの「人間宣言」だったのでしょう。
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その後の静佳さんの踏み跡―
1992年に重度障害者職業自立協会の事業所「ぶてぃっく・ぶあく」が開店し、店員となります(上左写真)。
翌93年、カナダで開かれた知的障害当事者の組織「ピープルファースト」国際会議に
日本からの派遣団の一人として、母静枝さんやわらじの会などのメンバーと参加
(上右写真…この写真の静佳さんの左後ろに母静枝さん、
その左にいま衆議院議員の石毛エイ子さんが映っている)。
上写真・スーパーで食材を買う
1996年、埼玉障害者市民ネットワーク主催・「ノーマライゼーションを求める埼玉市町村巡礼」に参加し、
県内各地を回る(上左写真)。
1998年、ぶあくに雇用されている知的障害の女性達が、共に働く人たちの手を借りながら、
わらじの会の二つ目の生活ホーム・もんてんの一室を使って体験宿泊等を行う
上の写真は、オエヴィスの縁側で
上の写真は、買ってきた食材を使って、生活ホーム・もんてんで、
お昼にお好み焼きを作っているシーン。
…とまあ、いろいろな踏み跡を残しながら、やがて、静佳さんは、
生活ホーム・オエヴィスの正式な住人となり、
地域デイケア施設・パタパタの通所メンバーとなって現在に至ったのでした
生活ホーム・オエヴィスでのくらし
比較的最近の静佳さんのある一日。オエヴィスでめざめ、朝の介助を受け、車で県庁へ。
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県庁第2庁舎の1階ロビーにあるアンテナショップかっぽで店番。

そして午後は、県庁内を移動販売。帰ってくると泊まり介助の学生達が待っていた。
静佳さんの一日は、今もなお生活・介助・労働を創りだし、そのありかたを問い直す日々だった。
さようなら