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2月4日共に生きる福祉講座 ひとびとの精神史の水系から―どこへ行く『埼玉流』

2017-02-05 | 共生社会のデザイン

 
共に生きる福祉講座「ひとびとの精神史の水系から―どこへ行く『埼玉流』(自立生活と共生)」と題し、
栗原彬さん(立教大学名誉教授)にお話をしていただき、語り合う機会を得られた。
 会場の岩槻駅東口コミュニティセンター5階で栗原さんと事前に落ち合う前に、
窓から北を眺めると日光連山と赤城山の間に尾瀬の山々と武尊が、
また赤城山と榛名山の間に谷川連峰がくっきり白く見えた。
雪のある季節だからこそ、思い出と共に浮かび上がる遠山。
到着した栗原さんにそれを告げると、
赤城山の麓に学校で疎開したことやそこから歩いて赤城山に登ったと語る。
最近は足利に原発震災で野良になった犬や猫さらにはダチョウまで世話をしている友人がいるので、
時々通っているのだという。
 昼食をともにしながら、私も大会に2回だけ参加させてもらった日本ボランティア学会の話を聞く。
そもそもの前史として80年代に、
JYVAなどのボランティア活動と草の根の市民運動との交流、つきあわせがあった。
また90年代に入りNPOをめぐる動きが煮詰まり、
阪神大震災を経て1998年にNPO法人が法制化(市民活動促進法)される過程で、
こちらは法人・団体だけでなく個人も(orを)つなげるということで、90年代末に設立したという。
わらじの会では90年からJYVAの1年間ボランティアを毎年受け入れ、
JYVAが2009年夏に解散した後、
派遣先の諸団体有志が連携してV365活動を続けたという話を栗原さんに伝えた。
それらの派遣先は日本ボランティア学会の顔ぶれと部分的に重なる。
同学会は2015年9月をもって活動を終了した。
要因は若い人の継続的参加が難しいことや事務局運営の経済的、組織的基盤が弱い等。
学会としてはひとまず終了だが、
以前から学会内有志による実行委員会形式でやってきたフラットな語り合いの場「カフェ連」を
関東・関西それぞれを中心に続けるということらしい。私たちとはほんとに稀少な遭遇だったが、
このような軌道をめぐる彗星群が数えきれないほどあるのだろうなと思いつつ聴いた。
 
 さて、本番のお話だが、栗原さんが用意してくれた手書きのレジュメには、

「ひとびとの精神史の水系から私が学んだこと」とあった。そのレジュメの各章のタイトルは以下。
(0)学ぶこと、学びほぐすこと
(1)杉本栄子さんから学ぶことー地域、公共性、自己
(2)橋本克己さんから学ぶことー自己と地域の編み直し
(3)緒方さんから「共にいっしょに」を学ぶー共生ということ
(4)緒方正実さん、川本輝夫さn、
埼玉障害者市民ネットワーク2016年度総合県交渉「要望書」から学ぶことー生きづらさ、難民性がひらく可能性
(5)新坂光子さん、幸子さんから学ぶー不在の他者による自己と世界の構成

栗原さんは、
頭、はてなマークについて語った。
ある人のことばや身ぶりの意味が分からなくて絶句してしまう体験がしばしばある。
そこから学ばされたことについて。
水俣病の患者として生きてきた杉本栄子さんは、栗原さんによれば霊的な感性が豊かな人。
彼女が山形県高畠町の近代的な市民ホール前の広場に立った時、
「この下は何ですか」と訊いた。栗原さんは質問の意味がわからず言葉が出ない。
その時小林たかひろさんが、「田んぼです。美田でした。」と答えた。
杉本さんはうなずいた。
水俣では有機水銀を濃縮した生き物たちの亡骸であるヘドロを封じ込める埋め立て工事が行われ、
その上にエコパーク水俣というきれいな公園ができている。
かっての豊かな海もその汚染も、そこで生き死んでいった人々の暮らしや闘いも、
すべてがコンクリートに隠されている。
その現状の地域の下にあるバナキュラーな地域、「原地域」を、
杉本さんは問うたのだと感じ取る。そしてその時、
高畠の広場と水俣の埋め立て地という離れた地域同士が、互いに響き合う音を聴く。
地下の記憶を共有することを通じ、
地上に建設された公共圏とは異なる「もうひとつの公共圏」が形成されたと考える。
 ここでは栗原さんのお話の冒頭部分を紹介するにとどめる。
先に章構成を示したように、「橋本克己さん」、
「埼玉障害者市民ネットワーク 2016年度総合県交渉『要望書』」
「新坂光子さん、幸子さん」というように埼玉の人々からの学びが語られた。
 その中で故新坂姉妹については、「不在の他者による自己と世界の構成」として表現される。
「みずれえから外に出るな」という世間の目と、私が書いた「農家の奥の部屋に紡ぐ文化」、
栗原さんがイリッチにから教わったと述べた言葉を用いれば「バナキュラー」な文化とのせめぎあいとを、
「くりかえし引照するわらじの会の原点」と位置付けている。
栗原さんによれば、
亡くなった姉妹が同時代やさらに前の時代を生きた人々と周りの自然をひっくるめて、
この現在を根っこからいつも再構成し続けているのだと。
 栗原さんのレジュメは、
「第2次大戦・日中戦争のアジア・日本・欧米の不在の受難者が構成する憲法9条。
不在の友を裏切れない。」でしめくくられていた。
 後半の質疑応答、意見交換の時間に、
とつぜん栗原さんから「飯舘村に行かれた山下さんはいかがでしたか」と振られた。
私は別のことを考えていたので、まずそれについて述べ、後から飯舘村のことにふれた。
先々週の土曜に大阪に住む40年ごしの友人が、初めてわらじの会の現場に来た。
といっても、恩間新田を案内し、新坂姉妹やきみ子さんのことを伝え、
彼女らの生家や親たちが亡くなる直前に建てたオエヴィスやべしみを案内しただけ。
活動がない日なので、オエヴィスで住人のKくんと言葉を交わしたのみ。
彼は「ほっとした」と笑みを浮かべて帰った。
彼は大正区という運河に面した沖縄出身者が多い街で生まれ育ち、
現在も認知症の姉とそこで暮らしている。
中学を出てすぐ工場で働き、やがて70年安保闘争や日雇い労働者の運動に参加し、
何度も逮捕され服役もしてきた。

不況の下、寄せ場の変化が進み、野宿労働者が増えテント村が拡大し、
それに対して代執行が強行されテントが撤去され、
一方では貧困ビジネスがはびこり、
行方不明や殺人が疑われる事件も起きている修羅場のただなかに身を置いてきた。
釜ヶ崎界隈では長老格の一人だが、
わらじの会とも交流があるココルームの活動や全国協同集会で
ご一緒したNPO法人釜ヶ崎支援機構のような事業展開とは距離を置き、
野宿者一人一人とのつきあいを基本にしつつ、頑固一徹を貫いているらしい。
一時は大阪各地にあった野宿者村は、
いまや彼が「労働相談所」(テント)を置いている公園だけになっているという。
そんな中で彼が「ほっとした」と言って帰ったのは、
やはり大阪と越谷の「原地域」の通底を感じ、
「不在の他者による自己と世界の構成」を再確認したのではないか。
 飯舘村を案内してくれた安齋さんも彼も頑固者だ。妥協をよしとしない。
互いに連携し、組織力をもって地域とつながり、
行政と交渉し支援施策を作らせてゆくといった活動とは相いれないところが多々あるだろう。
それらの活動からは阻害者とみなされることもあり、
時には自分自身、孤立感や奈落の底に落ちてゆく気持ちにもつながるだろう。
 橋本画伯や新坂姉妹、きみ子さんを考えれば、
その孤立の極と思われる生き方の底の底に栗原さんのいう「存在の深み」が現れつつあった。
幾世代にわたる不在の他者と草木、水、石ころも含めた異なる他者によって現在のこの地域があることが見えてきた。
 頑固で妥協をよしとしないということもまた、異なる他者が共に生きる上での欠かせない要素なのだ。
ひとつの太い根ではなく、細かいひげ根を無数に、しかし確実に張ってゆくことが、

やがて「ガバッとひっくり返す」
(栗原さんの表現)準備作業になるだろう。

 長くなったので、以下は稿を改めて報告しよう。
by山下浩志


「一緒に生きる」を学ぶ

2017-02-03 | 共生社会のデザイン

共に生きる福祉講座 
「ひとびとの精神史の水系から     
―どこへ行く「埼玉流」(自立生活と共生)」
  お話:栗原彬さん(立教大学名誉教授・政治社会学)..
日時: 2月4日( 土)13:30~ 
会場:岩槻駅東口コミュニティセンター8多目的ルームC(5階)
さいたま市岩槻区本町3-1-1
  参加費:500円(資料代)

主催:埼玉障害者市民ネットワーク  (代表・野島久美子) 
共催:(一社)埼玉障害者自立生活協会 (理事長・坂本)
  問合せ:大坂 090-4938-8689 
写真:埼玉障害者市民ネットワークの総合県交渉2016に向けたちんどんパレードに参加した栗原さん
 
「郊外の分解者たち―わらじの会と埼玉障害者市民ネットワーク」という文章(著者・猪瀬浩平さん)が
おさめられた「ひとびとの精神史 第9巻―震災前後2000年以降」(岩波書店、2016年)の編者が栗原彬さん。

この本には、ほかに原発被災者,反貧困、沖縄・反戦、若者たちの民主主義、農ある街づくりなど、
時代を拓く多くの試みが横並びに語られています。

冒頭の文章は、性的マイノリティ、水俣、日常編集と束に。
栗原さんは「プロローグ」として、これらの「細流」が伏流水となり、連係し合う瀬をつくって、
やがて人類史の海に流れ入るイメージを描いています。
 私たちの運動は、「遅れた埼玉」を逆手に取り、「自立生活」、「分けない(共生)」、
「反差別」の諸活動が同じ土俵でせめぎあいつつ、自治体をよきケンカ友達としてやってきました。
しかし、近年の市場化の大波により、土俵が拡散し、自治体の独自性もゆらぐ中、

あらためて私たちの現在地点を計測し、進路を見定めることが問われています。 
ここ数年、総合県交渉の前のちんどんパレードに参加していただいている栗原さんをガイドに、
ひとびとの水系を共にたどり、共に考えましょう。


12月18日「共に働いて地域を耕す」シンポジウム

2016-12-19 | 共生社会のデザイン

 

やまぼうし理事長・伊藤勲さんから、
東京の日野、八王子での40年にわたる歩みの報告をいただいた。
入所施設から街へ出て地域で生きるために街道沿いに開いた自然食の店。
そこを拠点とした手探りの24時間支援体制。

その2年後にわらじの会でも越谷に
重度障害者職業自立協会の店・吐夢亭を開いたことを思い出しつつ聞
いた。
 その後の制度利用や今世紀に入っての法人化そして障害福祉サービスの利用も、
両者は二本の縄をなうように、地
域で共に生き抜くためのやむを得ない策だった。

 


「共に働いて地域を耕す」シンポジウム

共に生きるとはさまざまに異なる他者と格闘するリングを維持する営みとも言える。
「埼玉流」と自称するアプロー
チは幼いころからの「共に学ぶ」に始まり、
「職場参加」
へと展開してきた。さまざまな支援制度が人を分け隔て続ける中で、
流れに掉さしつつあちこちで出会いぶつかる。
その「職場参加」の取り組みの現在は、町工場や地元事業所に加え、
ここ数年つきあいを重ねてきたワーカーズコレ
クティブやワーカーズコープ、
そして生協等の市民事業が
徐々に焦点となりつつある状況

 ]
恒例の自治体への提言案読み上げを、
でくらしセンターべしみにも通所しつつ、
入れて独り暮らししている友野さんが。

三井絹子さんからのメッセージ。

指で書いた文字を介助者がメモし読み上げる。
「『共に働く街を創るつどい2016-共に働いて地域を耕す』
とてもすばらしいと思います。
10数年前、
この志で長崎で障害者と共に生きることをやってた園長先生がいました。
また2,3年たってその人を訪ねていきました。
しかしその場所には一人も姿はいなく、建物もなくなってしまってました。
周りの人にたずねると、園長さんが年を取って畑も出来なくなり、
障害者もみんな施設や病院に入ってしまってました。
私は聞いたとき愕然としました。
地域で生きることをどこまでできる
か挑戦してください。死ぬまで逃げないで。」


「障害のないあなたへ」知事応接室を占拠した人々

2016-09-04 | 共生社会のデザイン

 毎日新聞・奥山はるな記者の連載「障害のないあなたへ
 知事応接室を占拠した人々」全5回が、今日で完結。
 この連載の底流には、津久井やまゆり園の事件がある。
記者は「差別や偏見の問題、『障害者が生きづらさを感じない社会の在り方』が改めて問われている。」と書いている。

 第1回は、
その前日に行われた埼玉障害者市民ネットワー...ク主催・総合県交渉のシーンから始まる。
その現在から、初めての県交渉が行われた28年前に遡り、
知的障害のある生徒の高校入学を求めて県知事応接室占拠が行われた事実を掘り起こしてゆく。
  
第2回は、
養護学校義務化の説明付きで、義務化以前に就学を拒否され家の奥で大人になった障害者達と、
義務化によって特別な場に囲い込まれることを拒否してきた親子、それぞれの生活が合流し、
「占拠」に凝縮していったことが語られる。

第3回は、
「そもそも『障害者が街に出て生きる』とは、
どういうことなのか。」という問いから始まる。
就学を拒否され家の奥で育ち、時々パニックになり暴れていた橋本克己さん。
共倒れになるよりはと家族は施設入所を申請しその決定が来たが、
街に出始め変わりつつあった関係に希望を託し拒否した。
あれから38年。迷惑をかけどつかれたりしながら、
無名の有名人となり暮らしのノウハウを編み出しているようすを密着取材した
0000
 第4回は、
「総合県交渉によって実現したこともある」として、県庁内福祉の店・アンテナショップかっぽ。
世間の風にさらされ、赤字を抱えながら、障害者団体が日替わりで派遣する障害者達が庁舎内を闊歩する姿。
「時にはぐっすり昼寝してしまうような姿が県庁の風景の一部となり」という専従の言葉も。
 
第5回は、
あの知事応接室占拠の現場に、高校入学を求める知的障害の兄、
両親とともに居合わせた小学3年生・猪瀬浩平さんのその後。
大学3年の頃、あの体験をとらえ返し「従来と違う問題意識」を探るべく研究者の道へ。
また、父が兄と共働く場として開いた見沼田んぼ福祉農園にも関わり、家族の歴史と向き合う。
その彼が准教授を務める大学の学生が農園で語る。
「『面白い人がいる場所』だから農園に来ている」。
最後に、「施設入所や特別支援教育という分けるシステムはなくならない。
それでも『障害のある人もない人も共に』という理想は、
今も静かに裾野を広げている。」という文章で連載は終わる。
 津久井やまゆり園の事件については、さまざまな論評がなされてきたが、容疑者の特性や施設の在り方、
ヘイトクライム、あるいは障害者も同じ人間だといった一面にとどまるものが多い中、
この「障害のないあなたへ」というタイトルと「占拠」に示される、普通の人々の生活と闘いの掘り起こしは重要だ。

奥山さん、ありがとう。by山下浩志


  


補助金アップを求めない交渉30年を振り返る

2016-09-04 | 共生社会のデザイン

 埼玉障害者市民ネットワーク主催・総合県交渉が、
8月30,31日の二日間にわたり、県庁講堂で開催された。
 私たちは補助金アップや特別な支援の拡大を求めてはいない。
さまざまな障害者本人が地域の他の人々と直接出会いながら一緒に生きている、
その実態を共有してほしいと考えている。
とくに障害者向けではない一般の施策の枠組みを見直す中で、
障害者が共に生きられる施策として位置づけさせてゆきたい。
 そして、埼玉障害者市民ネットワークが他の「障害者関係団体」と異なるのは、
さまざまな障害者自身がみずからの言葉で周りの人々と一緒に生きている日常の生活や思いを語り、
県職員に一緒に考えてほしいと発信すること。今回も、たくさんの障害者が語りかけた。






 ただ、これでもう30年近く総合県交渉を重ねてきて、障害者たちのことばが職員に及ぼすインパクトが、
しだいに弱まってきたなと感じる。
たぶん、それは私たちが「地域の施設化」と称している分け隔てられた地域の日常と関連しているだろう。
かって、大部分の障害者には支援施策がなく、
少数の重度障害者に対する保護・隔離の施策だけがあった時代の総合県交渉とは、様相が一変している。
 今年の総合県交渉の特徴は、
「さべつ」、「くらし」、「街づくり」、「はたらく」、「まなぶ」の5分野にわたる計62の項目のうち、
数を超す33項目を、初日の教育局と障害者支援課だけで回答してしまったこと。
そして、ここで3分の2の時間を費やしてしまったことだ。
そして、教育局の応答の多くを、特別支援教育課が代表してしまっていた。
30年近く前に総合県交渉を始めたとき、
「障害者は特殊教育と福祉によって生きるにあらず」と訴えたことが想い起される。
 その中で、「基本は通常学級で共に学ぶこと」との義務教育指導課の言葉や、
「特別支援学校を管轄する特別支援教育課とは別に、
インクルーシブ教育課を」との提案を前向きに受け止めた高校教育指導課、
さらに障害者支援課の全身性障害者介護人派遣事業や入院時の介助に関する積極的姿勢は、
小さな仄灯りといえる。
 教育局と障害者支援課にほとんどの回答が委ねられてしまった結果、労働、人事、住宅都市。
防災をはじめとする重要な部課からの回答が、ごく一部となり、質疑応答の時間も限られてしまった。
県職員採用や県庁内実習、県営住宅他の、総合県交渉で積み重ねてきたテーマがさらっと終わってしまった。
 ただ、私たちにとっては積み重ねだが、数年で異動する県職員たちにとってはそうではない。
県が自らの支援計画に掲げてきた施策すら内容がわからなくなっていることにも驚いた。
 そんな状況の中でも障害者をはじめみんながあきらめることなく、次々と語りかけたことは、
希望のかけらだ。そのいくつかを紹介。
 「居酒屋で、皆がとりあえずビールというように、とりあえず通常学級と言えないのか。」
 「前に並んでいる一人一人の県職員の言葉を聞きたい。」
 「私も告訴をがまんして胸に秘めていることがある。」
 「就労B型に一生いろと言われたが退所して、新聞広告を見て面接を受け採用してもらった。」
 「専従的に働いてもらっている介助者が精神科病院に入院し、親は高齢なので自分が面会に行ったが、
家族でないからと面会させてくれなかった。」
 「地域の暮らしの場は県の回答のようにグループホームだけじゃない。公営住宅を活用すべき」


県庁に「店」20年目 成長もたらす居場所、存続願う

2016-09-04 | 共生社会のデザイン

知事応接室の「占拠」が起きた1988年から続く「総合県交渉」によって、実現したこともある。
その一つが1997年、県庁第2庁舎の1階に障害者団体のアンテナショップ「かっぽ」がオープンしたことだ。
「スタッフの障害者は気後れすることなく、庁内を堂々と歩けばよい」。
そんな意味を込めて名付けられた。
 スタッフは、複数の障害者団体が日替わりで派遣する障害者が務める。
お茶などの飲料や弁当、県内各地の名産品を取り扱い、庁内の各課に配達もしている。
 店舗は、県庁の玄関口という恵まれた位置にあるが、その運営は「世間の風」と無縁ではない。
オープンから11年後には1階下のフロアにコンビニエンスストアが開店したことで、売り上げが激減。
当初は障害者らが台車に商品を乗せ、「いかがですかー」と庁舎内を巡り歩いていたが、
職員から「会議中なのにうるさい」と苦情を寄せられ、廊下などでの定点販売に切り替えた。
ここ数年は赤字が続き、存続に向けて寄付を募ろうと検討している。]

 今年は開店から20年目。
店には当初、主に障害者が施設や作業所でつくったパンやクッキーなどの「授産品」を置いていたが、
各団体が地元で販路を開拓したため、現在はお茶などの飲料が売り上げの中心となっている。
 それでも、福祉団体の職員をしながら7年前から専従の店番を務める板倉真紀さん(36)=越谷市=は、
「かっぽ」が存続する意義を感じている。
さまざまな障害がありながらも、仕事を通じて変わってゆくスタッフの姿を見てきたからだという。
 例えば、ある発達障害の男性の場合、知り合った10年ほど前は、あいさつしても反応してもらえなかった。
店舗に一緒にいると、不意に髪の毛を引っ張られることもあった。
だが、板倉さんが休みを取っていた日の日誌には、自分に見せたことのない姿が記されていることがあった。
 「ぶんちゃかぶんちゃか言いながら、ジュースを飲んでいた」「ソファで昼寝して一日が終わった」。
普通なら「不真面目」で片付けられてしまうことだが、板倉さんは「人間味あふれる人柄」に興味をそそられた。
 周囲との関わりによって、男性も徐々に率先して準備や片付けをするようになった。
そして、帰りには「さようなら」とあいさつするようになった。
 スタッフの魅力にひかれるのは、板倉さんだけではない。
店を訪れる県職員もしばしば「久しぶり」「今日は張り切ってるね」などと話しかけてくれる。
板倉さんは「自由気ままに、時にはぐっすり昼寝してしまうような姿が県庁の風景の一部となり、
いつしか周りの人を和ませていた」と話す。
 「すぐに仕事を覚えて『かっぽ』から巣立ち、社会に出て行く人もいるけれど、長年かけて変わっていく人もいる。
それは生産性や効率性が重視される組織の中では、そもそも認められていないこと。
でも、そこに大切なことがあるような気がする」。板倉さんは、「かっぽ」の存続を切に願っている。
【奥山はるな】=つづく


街の「衝撃」絵日記に 車いすで車道「克己渋滞」 /埼玉

2016-09-02 | 共生社会のデザイン

そもそも「障害者が街に出て生きる」とは、どういうことなのか。
その困難さと可能性を体現してきたのが、弱視や難聴、下半身まひの障害を持ちながら自宅で暮らし、
「県交渉」などの活動にも参加し続ける橋本克己(かつみ)さん(58)=越谷市。

「渋滞」と「絵日記」でその存在を街に知らしめた人だ。
橋本さんは、重度の障害で小学校を「就学免除」にされ、長屋の一室に閉じこもって暮らしていた。
葉でのコミュニケーションができず、毎日、自室に並べたミニカーを指や虫眼鏡で点検し、
わずかな傷を見つけてはパニックになって暴れ出す。
窓を割り、家具をひっくり返すほどの暴力に疲れ果てた家族は、施設入所を決断しようとしていた。
ちょうどその頃、1978年に障害者や支援者で設立したばかりの「わらじの会」のメンバーが訪れ、
橋本さんは初めて街に出た。
19歳だった。電車やバスに乗り、道行く人とすれ違うだけで、自室では感じ得なかった刺激を受けた。
この「衝撃」を周りの人に伝えようと、駅やバス停の看板から字を覚え、
手話を習い始め、イラストを描くようになった。
パニックも次第に治まった。
 世界を広げた橋本さんは1人でも街に出るようになる。
しかし当時、車いすで通ることができるのは車道しかなかった。
しかも雨水を排水するため、道の中央を高くして両端は斜めに傾けてある。
端が危険なため、結果的に車いすで真ん中を走ることになった。
かくして、橋本さんの自宅近くにある国道4号バイパスでは「克己渋滞」が発生した。
クラクションが鳴り響いても、難聴の克己さんには届かない。
タクシーの無線で「車いすのあんちゃん出現、迂回(うかい)せよ」という連絡が回った。
車にはねられるなど何度となく交通事故に遭い、いら立ったドライバーに殴られる日もあったが、
過酷な経験をもイラストにして「武勇伝」に変えた。 
橋本さんは37歳を迎えた95年、イラスト集「克己絵日記」を出版する。

その帯に、わらじの会メンバーとして橋本さんを見守ってきた山下浩志さん(73)=春日部市=は、
こう寄せた。
<彼は決して「障害を克服」した美談の主ではない。
交通渋滞の元凶であり、あたりかまわず手を借りて街を行く迷惑物体そのものであるかもしれない。
しかし、そんな彼だからこそ、いないと困る。
彼がいるから「みんながありのままに生きる」という社会がイメージできる> 
近年、橋本さんは弱視が進み、イラストもおぼろげに輪郭をとったものになった。
それでも週2、3回、ヘルパーの車に乗って、コンビニエンスストアに買い物に行く。
棚の位置は頭に入っているので手探りで商品を選び、レジに財布のコインを全部出し、
店員さんに必要な金額を取ってもらう。
時間をかけ、店側と一緒に築いてきたスタイルだ。
 今、楽しみにしているのは来年の越谷花火大会。
今年は床ずれで入院して見られなかった。
手話で「7・2・9」と来年の開催日を予想し、指折り数えて待っている。
目に見えるのはぼんやりとした影かもしれないが、空気を揺るがす振動や火薬のにおいが、
大輪の花のイメージを結ぶ。【奥山はるな】=つづく


サバイバルキャンプ今年も開催

2016-08-08 | 共生社会のデザイン

サバイバルキャンプ成功に乾杯。

見沼・風の学校の恒例行事サバイバルキャンプを、
見沼田んぼ福祉農園で開催しています。

2002年からはじめた夏の一週間のこのキャンプも、
今年で15年目となりました。

今年は、派手さのないキャンプとなりますが、
日々の積み重ねの中に大事なものを見出すことが必要なのだと、
昨今の世相を見つつ思います。

是非この時期農園へ。


5月21日共同連マラソントーク「地域で働いて、地域を変える」IN埼玉

2016-05-22 | 共生社会のデザイン

5月21日(土)、共同連マラソントーク「地域で働いて、地域を変える」IN埼玉に参加。
 司会は大阪・箕面市の「ちまちま工房」代表・永田さん。
いただいたおしゃれな名刺には「カケラをあつめてカタチをつくる」とある。
DTP事業、企画事業、共働事業を行っているというから、この名刺も自社製のよう。
企画事業には会議ファシリテーター等とあるから、今日も業務の一環なんだろうか。
共働事業としては、「おとうふ工房ちまちま」。
昔からのお豆腐屋さんに修業に入り、事業の後を継いだと書かれている。
アンテナショップかっぽと関わりのある秩父の梅干し屋さん・山叶本舗のケースと似ている。

 開会挨拶は、埼玉障害者市民ネットワーク野島代表。
1987年に埼玉で共同連大会を開いたことに触れた。
あの時は、その大会のために仮設事務所を開き、共同連から専従職員のTさんが来て泊まり込み、
実行委員会を20回も開いて準備した。
会場の一角にお化け屋敷を作るなど、前代未聞の大会だったんだろうなあ。

 冒頭、熊本地震における仲間たちの状況と題して、共同連・斎藤事務局長より特別報告。
共同連の仲間であるく「まもと障害者労働センター」の理事長・花田さんの自宅も倒壊する中で、
花田さんの職場である熊本学園大学で多数の障害者を受け止めていることや、
被災地障害者支援センターくまもとが立ち上がり、
障害者労働センターの倉田代表と以前内閣府の障害者制度改革推進室長を務めた
東さんが共同代表になったことなどが報告された。
 直接現地に行ってきたわっぱの会・羽田さんから補足。
花田さんが熊本学園大学で「ここは福祉避難所ではなくインクルーシブの避難所」と言っていたことや、
全国的な障害者団体が自分のネットワークに所属する障害者にはしっかりと支援している半面で、
そのネットワークに所属しない障害者、
手帳もサービスも受けたことのない障害者等が切り捨てられてしまうことも踏まえ、
被災地障害者センターとして毎日10名ほどのボランティアが巡回訪問等を行っているという。

 各地からの報告トップは「新座市・キャベツの会の運動」:木村さん。同じ埼玉にいながら、久しぶりの再会。
「職場参加」の取り組みは、「共に学ぶ」の延長にあることを、キャベツの会や地域活動センターふらっと、
新座市障がい者就労支援センター、教育の欠格条項をなくす会などの経緯を報告しながら述べていた。
「共に働く」を、障害者とその周囲の関係にとどめることは、
「同等な権利」を追求しつつ結果として「分ける」ことを容認することにつながらないか
そこから地域の職場に入って行こうと「職場参加」に取り組んできた。
だが、その「地域」自体、さまざまな困難を抱えた人々の生活・労働から成っており、
若い頃から障害者と分け隔てられて生きてきた人々は高齢になり障害者になるとどう生きてよいかわからなくなっている。
「少子高齢化社会」が問題視されるのも分け隔てられてきた結果だと語る。

 続いて、「あしたや共働企画の取り組み」:長尾さん。昨年11月に職場参加をすすめる会のワンデイツアーで
あしたやを訪問した。あしたやとすぐ近くのあしたやみどりで買い物し、
その並びにある多摩ニュータウンまちづくり専門家会議のすくらんぶるルームにも立ち寄り、
すぐ近くに障害者が働くパン屋さんもある風景の中に立って思った。「ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ」と。
 長尾さんは、「多摩の地域性」と言う。それが「共に働く」のスタートの土壌だと。
発足は「たこの木クラブ」のだれもが地域の中で「共に遊び」「共に学び」「共に暮らす」活動から。
共同購入品の配達から公民館の売店、そして団地商店街へ。
地域が年輪を重ねる,その流れに沿って遷移してきた感じ。

 そして、わが職場参加をすすめる会から日吉さんが登壇。
彼女の話も、もう一つの「ミネルバの梟」。
職場参加をすすめる会は、
新座の木村さんが語った「職場参加」を、2004年以降、新座が一定の頓挫に見舞われた後も、
継承して取り組んできた。市就労支援センターという公的な窓を開くことにより、
「就労」のハードルをどこまで下げられるか、
それでもクリアーできない人の職場への参加をどのように進めるか試行錯誤してきた。
その受託が昨年5月末で終わり、
就労・職場参加していった人々の相互交流と地域の他の人々との出会いをベースに、
職場・地域を共に生きる場に変えてゆくための広場づくりに取り組んでゆこうとしている。

 続いて、地域活動支援センターパタパタ施設長・吉田さん。
そもそもは何も制度がない中、
家の奥から出てきた重度障害者達が地域の他の人々とかかわり合うために、
団地内に露店を出したことがはじまり。
そこから地域の中から介助を作るためのケアシステムわら細工やリサイクルショップぶあくを立ち上げたが、
初心に戻りそれらが合体してNPO法人共に生きる街づくりセンターかがし座を立ち上げた。
その日々は予定調和の世界ではなく、
この会場に来ているOくんが先日道端の自動販売機を壊して金を奪い、
警察に留置されるといった事態も生んだ。
吉田さん自身、電動車いす使用の障害者で他人の介助を受けて一人暮らししているが、
自立支援法で分断された日中活動、居宅介護、生活支援、
そして就労・雇用といった多次元にされた暮らしの営みが重なり合うことで、
不協和音の世界の中でごちゃごちゃと生きている報告。

 最後の報告は、ワーカーズコープ・埼玉西部地域福祉事業所の須賀さんと駒村さん
前に(一社)埼玉障害者自立生活協会で、所沢の森の102工房の報告を聞いたことがあるが、
二人はそこから新たに誕生した森のとうふ屋さんの手作り菓子工房という
就労B型施設の所長と利用者のペアらしい。
駒村さんは、道が覚えられない、計算ができないというハンディがあるが、
お客さんに計算してもらうなどして引き売りをしており、
その姿を地域の人が見て応援してくれている。
店の場所はシャッター商店街であり、開店してくれてよかったという声をもらっている。
とはいえ、採算の面からは引き売りをやめたほうがという意見も強い。
また、協同労働という皆が出資して労働者であるとともに経営者でもあるという関係の中で、
就労継続B型という職員と利用者がはっきり分かれた制度活用をどう考えたらよいか悩んでいると須賀さん。

 以上で報告を終わり、企業組合根っこの輪・代表理事の白杉さんがコーディネーターで討論。
白杉さんの切り口はシンプルで、なんだかんだいっても、
障害者は出来高払いの工賃で障害のない者は生活を前提とした給料という構造をどう考えるのかという一点。
 共同連の原点であり、埼玉の運動でも常にこの提起を念頭に考えてきた。
その上で、そこに徹しきれない要素が多く浮上する中、
職場参加として地域総体に問題提起してゆくことにシフトしてきた歴史がある。
あしたやでは、自立支援法の就労継続B型になった時、
それまでの同一賃金(時給)をひき継いだうえで、
制度に合わせて「職員」には手当を加算する形をとり、初心を刻みこんだ。
 日吉さんからバトンを受け、私も少し話す。

「財布を一つに」との合言葉で始まった共同連の運動は今も必要なインパクトである。
だが、共に働く場での問題だけでなく、障害者雇用、就労A型が拡大し、
「多様な就労」の名の下で地域・職場に参加することを通し、分断・孤立させられてゆく状況がある。
共同連の社会的事業所づくりは生活困窮者を含めた協同組合を認知させてゆく運動だが、
そのように組織化されていない人々が地域でつながってゆくことの重要性に触れる。

 静岡の薩川さんは、共同連の理念を掲げながらも、
現実には一般の就労継続B型と同様下請けの下請けの下請けといった作業を行い、
職員と利用者は明確な差があると述べつつ、
職員たちには通所の現状を固定化せず一般就労への支援を強めるよう指示していると語る。
視覚障害者の薩川さんは初対面だが、
どうやら97年の共同連埼玉大会の時のTさんや市議を務めた野崎さんとトリオで、
70年代にひまわり労働センターを立ち上げた人物らしい。

 最後に堀代表がまとめ。私の話にも少しふれ、
「多様な就労」という形で社会参加を通して分断・孤立させられてゆく状況に対して、
地域の側から困窮者等を含めた共に働く動きを作ってゆく、
社会的事業所法制化の必要などが述べられた。
 そんなごちゃごちゃした話ができたことが、
共同連のいまの懐の深さであり、そこが大事なんだと、
終了後の懇親会で長尾さんらと語り合う。この懇親会がなおさらに面白かった。by山下浩志


アンテナショップかっぽ 19周年

2016-05-19 | 共生社会のデザイン


アンテナショップかっぽ 19周年!!

県庁に福祉の店ができたのは、福祉施設や在宅の障害者たちも、
地域の職場に出て行って、そこで働いている人たちと出会い、
お互いに共に生きる街を模索してゆこうという趣旨で、
私たち障害者団体と県の合意がなったからでした。
あれから19年。制度は拡充しましたが、
それだけ多様な世界に人々が分け隔られてきた状況の下、
かっぽの存在意義はますます重要になっています。

上田知事も来店。

アンテナショップ「かっぽ=(闊歩)」と名付けたのは初代店長だった。
障害があっても元気に街を闊歩してほしいとの願いを込められた名前だ。