何が正しいか、間違っているか。
正しいと信じて行動したことが、結果的に、意図とは違ってしまって、都合の悪いことになったとすれば、それは間違いであったと言わざるをえないこともあるだろうし、反対に、間違っていることを、自分では、自覚していながら、それが、後になって、怪我の功名で、うまく事が運んだとすれば、それは、正しかったということにもなるだろう。
精神衛生的には、自分の利益は後回しにして、正に、奉仕の精神で行動する、というのが、古来日本的な行動精神ではなかったろうか。そのように行動することが、正しく、潔いとしたものである。
今では、自分の利益を、とことん追求することが、全体にとってもいいのだ、という自分にとっても、都合のいい考え方で、しかも、全体のためでもあるというなら、何ら悩むこともない。そして、こういう考え方は、アメリカ流の思考方法として、かなり、日本にも、浸透しているようにもみえる。
解りやすく、自分のことは、自分でする。結果は、自分が責任を負う。こんな考え方は、ドライで、勝つか負けるか、であって、自然の動物の世界の成り立ちに、沿っているようにもみえる。
だが、これでは、自分以外は、極端にいえば、全部敵であって、自分の利益になるモノだけが、味方であり、協力すべき相手となる。これは、随分と、厳しく、また寂しい世界である。
これで、人類社会は、いいとは思えない。では、どうするのか。これが、今後の課題である。すでに、実行に移されている方法もある。しかし、全体として、仕組み、システムが完成しているとは言い難い。これからの、人類の課題として、あげておくことから始めよう。
正しいと信じて行動したことが、結果的に、意図とは違ってしまって、都合の悪いことになったとすれば、それは間違いであったと言わざるをえないこともあるだろうし、反対に、間違っていることを、自分では、自覚していながら、それが、後になって、怪我の功名で、うまく事が運んだとすれば、それは、正しかったということにもなるだろう。
精神衛生的には、自分の利益は後回しにして、正に、奉仕の精神で行動する、というのが、古来日本的な行動精神ではなかったろうか。そのように行動することが、正しく、潔いとしたものである。
今では、自分の利益を、とことん追求することが、全体にとってもいいのだ、という自分にとっても、都合のいい考え方で、しかも、全体のためでもあるというなら、何ら悩むこともない。そして、こういう考え方は、アメリカ流の思考方法として、かなり、日本にも、浸透しているようにもみえる。
解りやすく、自分のことは、自分でする。結果は、自分が責任を負う。こんな考え方は、ドライで、勝つか負けるか、であって、自然の動物の世界の成り立ちに、沿っているようにもみえる。
だが、これでは、自分以外は、極端にいえば、全部敵であって、自分の利益になるモノだけが、味方であり、協力すべき相手となる。これは、随分と、厳しく、また寂しい世界である。
これで、人類社会は、いいとは思えない。では、どうするのか。これが、今後の課題である。すでに、実行に移されている方法もある。しかし、全体として、仕組み、システムが完成しているとは言い難い。これからの、人類の課題として、あげておくことから始めよう。