ラムの大通り

愛猫フォーンを相手に映画のお話。
主に劇場公開前の新作映画についておしゃべりしています。

『顔のないヒトラーたち』

2015-09-03 22:08:33 | 新作映画

(原題:Im Labyrinth des Schweigens)

「今、この国が求めているのは、体裁のよさだけなんだ。真実は二の次さ」。
ドキッとした。
1958年。多くのドイツ人がアウシュビッツで何があったかを知らなかったという。
自国で自国を裁くフランクフルト・アウシュビッツ裁判。
この有無こそがドイツと日本の違いだな。


----あっ、これって
ドイツ映画の『顔のないヒトラーたち』
Twitterでの反応がスゴかったよね。
でも、ドイツと日本の違いって?
「今年は、
第二次世界大戦が終わって70年。
日本でも安倍首相が
どんな談話を出すかが注目されていた。
結果、右にも左にも配慮した談話に。
ところがそれとよく比較されるのが
あの戦争で日本と同じ陣営だったドイツのメルケル首相の談話。
『顔のないきヒトラーたち』のプレスには、
その一部が載っている」


「私たちドイツ人は、恥の気持ちでいっぱいです。
何百万人もの人々を殺害した犯罪を見て見ぬふりをしたのはドイツ人自身だったからです。
私たちドイツ人は過去を忘れてはならない。
数百万人の犠牲者のために、過去を記憶していく責任があります」。


----ニャるほど。
日本とは違って、
戦争責任を国のトップが
はっきりと認め、
しかも謝罪しているわけだニャ。

「そうなんだ。
日本では南京大虐殺とか
慰安婦問題とかが
犠牲者の数や事実の有無をめぐって
議論を呼んでいる。
一方、ドイツではユダヤ人虐殺を
はっきりと認め謝罪しているわけだ」

----それって
戦後ずっとそうだったのかニャ?
「いや。
ドイツのほとんどの人は
そのことを知らされていなかったようだ。
少なくとも1958年まではね。
この映画でも主人公の検察官ヨハン(アレクサンダー・フェーリング)は、
当初、アウシュビッツについて何も知らない。
ある一人の訴えから、
強制収容所にいたナチスの親衛隊員が、
規約に違反して教師をしている事実を知る。
それをきっかけとして、
彼は、かつてナチスでありながら
いまは何もなかったように市民生活に溶け込んでいる人たちを
さまざまな圧力を受けながらも告発していく。
と、こういう話なんだ」

----ニャるほど。
でもその“圧力”って?
「当時はナチスに刃向かうことは許されなかった。
いや、むしろ国あげてナチスに心酔。
それが全体主義だからね。
つまりそのことを暴きだすというのは、
大変な事態を引き起こすことになる。
国民全員を告発するようなものだからね。
映画の中に次のようなセリフが出てくる。
『ドイツのすべての息子たちに
自分の父親が殺人者だったかもしれないと疑わせることが本当に重要なことなのか?』

----ニャるほど。
それが最初に話してくれた
「今、この国が求めているのは、体裁のよさだけなんだ。真実は二の次さ」。
これに繋がってくるわけだニャ。
「そうなんだ。
戦後、日本に関しては東京裁判、
ドイツに関してニュールンベルグ裁判が
それぞれ戦勝国側のさばきとして行われたけど、
自国を裁く裁判はドイツと違って行われていない。
果たして、
日本が世界から信用を取り戻す日はいつくるのか?
それを考えずにはいられない映画だったね」



フォーンの一言「『ハンナ・アーレント』という映画もあったのニャ」身を乗り出す

『ハンナ・アーレント』が描くのは“悪の凡庸さ”。
戦争犯罪は何も特別な一部の軍人だけが引き起こすのではない。
なにも疑問を持たず長いものに巻かれていった大衆社会にもその責任はあるのではないか?
あの映画はそう問いかけている度


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