ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

奥さんの細道3

2009年05月21日 22時35分33秒 | 最近の出来事

「早稲の香や 分入右は 有磯海」

昨日紹介した芭蕉が奥の細道で富山湾を詠んだ句です。

5月中旬、
まだまだ大阪では
田植えも行われていませんが、
このあたりの水田には
ほぼ苗が植えられており、
風にざわざわ揺れ、
水の中で蛙がゲコゲコ鳴いていました。

昨夜のあれしきの酒で、
二日酔い気味のわしに、
「下戸、下戸」といってるみたいでしたな。

大阪よりはかなり早く田植えも済んでいて、
このあたりでは
7月くらいには早稲が実るようです。

芭蕉がこのあたりを通過したのは
7月13日~14日。
梅雨末期の蒸し暑い頃で、
早稲の香も
むせるような香りだったかもしれません。

そんな香りを感じながら、
芭蕉は有磯海を右に見ながら
通過したようですが、
「奥さんの細道」は逆行しているため、
左に有磯海、
右に立山連峰を見ながら、
宇奈月へと向かいました。

早稲の香はもちろん季節が早くてありません。
宇奈月からは、
トロッコ電車に乗ります。



乗られた人もいるかもしれませんが、
このトロッコ電車が走る路線は、
黒部峡谷鉄道といいます。
総延長は20.1km。
ハーフマラソンより短い距離ですね。
その「宇奈月」と
終点「欅平」の間に
駅はそれら二つをいれて全部で10あります。

中には出口のない駅もあります。
今回の目的地は

「黒薙」

ここには出口がひとつありますが、
その出口は温泉に通じています。

「黒薙温泉」

宇奈月の温泉街の
源泉となっている温泉で、
切り立った渓谷の
わずかな緩地にへばりつくように作
られた温泉宿が1軒だけあります。

ここへ行くのには、
今は黒薙駅から山中を
20分ほど歩いていくしか方法がありません。


写真は、その温泉へと続く山道にて。
岩をくりぬいた道でした。


今は、というのは
10年前には別のルートがあったんです。

黒薙駅のすぐ横にある大きなトンネルに入り
しばらく歩くと、
トンネルの壁にひとりがやっと通れるくらいの
小さなトンネルが掘ってあって、
その入り口に

「ようこそ黒薙温泉へ」

という看板がつけられていました。
その小さなトンネルは
下方に向かってかなり長く続いており、
まるで地獄へ下っていくような
感じだったのを覚えています。

出口を出たらそこは
天国のような温泉だったけどね。

まるでモグラの巣のような
トンネルの中に掘られた
細い枝のようなトンネル。
まさに「奥の細道」ではありませんか。

今回もその経路をたどっていこうと
ヘッドランプまで用意していたのですが、
3~4年前に通行禁止になったとのこと。

残念!



これが大きなトンネルの入り口
この先の右の壁に、温泉への
小さなトンネルがありました。
(黒薙駅から撮影しました)



そして、これが黒薙温泉側の
小さなトンネルの出口
(温泉から撮影しました)。

温泉には数人の客がいました。
温泉の建物前の小さなテーブルに陣取り、
先日の雨で轟音をとどろかせている
渓流の音を聞きながら、
自前の食事を作りました。
もちろん、食後のコーヒー付です。



迫力のある渓流沿いに作られた
露天風呂にも入り、
たっぷり遊んで温泉をあとにしました。

駅にもどって、
まず駅員に
「帰りのトロッコには乗れそうですかね」
と聞いてみました。

というのも、宇奈月で往復切符を買う際に、
「帰りのトロッコが満員の場合は乗れませんよ」
と駅員が言ってたのです。

「ま、だいじょぶでしょう」という
駅員の言葉どおりに
やがて、やってきたトロッコには
結構空席もあり、無事に乗車することができました。
やれやれ。


さて、無事に黒部の旅も終えて、
ここからは、
まっしぐらに帰省です。
金沢によって旧友を訪ねようと
思っていたのですが、
温泉で遊びすぎて
余裕がなくなってしまいました。

声だけ聞こうと、
電話をすると、
昔の学生の頃の友人の一人が
亡くなったことを知りました。

奥の細道でも、
芭蕉は金沢に住んでいた
「一笑」という愛弟子に会おうと
思って訪ねたら
半年前に亡くなっていたことを知り、
こんな句を読んでいます。

「塚も動け 我泣声は 秋の風」
(つかもうごけ わがなくこえは あきのかぜ)

芭蕉の生涯で
最も感情むき出しの一句だと言われています。

長い間音信不通の友人だったので、
塚を動かすほどの泣き声はでませんでしたが、
たくさんの月日の流れを
しみじみ感じた出来事でした。


奥さんの細道は、
このあと敦賀まで同じ道をたどってゆきますが、
高速道路でさっと通過しただけでした。

旅の終わりは、
なんとなく心急くもんですが、
琵琶湖あたりから
高速道路の集中工事で大渋滞に会い、
へとへとになって帰宅したのは
午後10時すぎでした。

あ~、疲れた。

でも
150日の芭蕉の苦労に比べたら、
へのようなものですね。

「奥の細道」が世に発表された当時、
俳人たちはこぞって
この道に出かけて入ったそうです。
それは現在に至るまで連綿と続いています。

昔の人が歩いた道をたどって旅する
という懐古趣味はありませんが、
自分の旅を少し重ねてみるだけで、
味わい深い旅になったな
と思った
doironでした。

「奥さんの細道」

これにて

    完


奥さんの細道2

2009年05月20日 22時05分30秒 | 最近の出来事
奥さんの細道は、
奥の細道の経路を離れて少し北へ。
能登半島の付け根、
富山湾沿いの氷見で
宿をとることになっていました。
氷見といえば

「寒ブリ」

魚のおいしいところです。
だから宿もネットで料理民宿で
しかも温泉付という条件で
検索し見つけたところでした。

富山湾沿いの道に面したところで、
立山連峰が富山湾越しに
一望できるともあり、
即決定し、申し込みました。

「わせの香や 分入右は 有磯海」
(わせのかや わけいるみぎは ありそうみ)

と芭蕉が詠んだ「有磯海」とは、
「荒磯海」からきており、
その荒磯海こそが、
今で言う富山湾なんです。

今も北陸自動車道には
「有磯海」というサービスエリアがあり、
名残を留めています。
ていうか、
奥の細道を意識した
ネーミングなのかもしれません。



今はそんな富山湾といえば思い浮かぶのが、

「しんきろう」



「ホタルイカ」

これがちょうど今が旬なんです。

富山湾の蜃気楼は
4月~6月に、
立山の冷たい雪解け水が
富山湾に大量に注がれることも
一因となって起こるもので、
空気の特殊な温度分布により
光が屈折して、
遠方の景色が水面より
浮き上がって見える現象です。

砂漠で、
水が飲みたい一心で歩いていると、
有るはずの無い
満々と水を湛えた湖が
見えてくるのとは違いますね。
それは幻覚というものです。

普通は氷見の対岸、
魚津あたりから見えるのが
有名なんですが、
ここ氷見でもたまに
見えることがあると、
旅館の女将が申しておりました。

またホタルイカは、
普通深海に生息するイカなんですが、
春先から初夏にかけて
産卵のため浮上してくるので、
今頃が漁の盛んな時期らしいです。

しかし、
一日降り続いた雨は
強い風を伴って夜になってもやまず、
しんきろうどころか
ホタルイカ漁もままならない状態でした。

そんな天気だったので
宿に入ってからは、
浴衣で下駄を履いて
カラコロと外出することもなく、
しっかりと温泉につかりました。

今日は、貸切でしたので
温泉でも恒例のタイマー撮影を敢行。



透明で塩辛い湯の温泉でした。

この宿は、部屋の名前も変わっていて、
わしらが泊まった部屋は

「えびちゃん」


ほかにも
「さざえちゃん」や「わかめちゃん」などもあって、
一番豪華な部屋はやはり氷見名物

「ぶりちゃん」


でした。

温泉の後は、
お待ちかねの食事です。

「きときと」なるものを味わいたくて
選んだ宿ですからね。



まずこれらは、
突き出しですね。
そしてお腹の張るビールは一杯だけにして、
あとはこのお酒にしました。



銘酒「立山」。

きときと魚と
氷見牛
新鮮野菜も食して
過酷な胃トレ、
肝トレとなりました。

奥の細道は、
ここからまだ日本海沿いを南下し、
敦賀から琵琶湖沿いを通って、
岐阜の大垣で大団円を迎えます。

しかし、
芭蕉と同行した曾良は
最後まで一緒にいたわけではありません。
越中から金沢に入るあたりから、
曾良は腹を病んで、
療養のため金沢の先で一足早く
三重の長島へと向かったのでした。

これは、めちゃめちゃ私見なのですが、
曾良は富山湾沿いで
おいしい魚を食べすぎたか、
もしくはひどい寄生虫がいるという
ホタルイカを生で食したのではないだろうか。

そのために起こした胃痛が、
同行二人を引き裂いたのではないだろうかと
わしは思うのじゃがどうだろうか。
ホタルイカの寄生虫の存在が
一般に知られるようになったのは、
もう少し後の世のことでした。

さてこちら
「奥さんのほそ道」は、
同行者(つまり、わし)も明らかに
飲みすぎ、食べすぎで
胃袋を弱らせたわけですが、
翌朝はちゃんと起きて
富山湾沿いを早朝ランしましたし、
次の目的地、
宇奈月まで
「奥の細道」を少しだけ逆行し、
芭蕉の歩いた
「くろべ四十八が瀬」を南下して
トロッコ電車に乗りに行きました。



その話はまた
「奥さんの細道3」へと続きます。

奥さんの細道

2009年05月19日 22時40分30秒 | 最近の出来事

生涯を旅にすごした

松尾芭蕉

彼の旅の内、
最大の旅である「奥の細道」は
150日を費やして
約2400キロを踏破しました。
この旅の途上で詠んだ数々の歌は
彼の代表作となっています。

そしてその旅を行く芭蕉に
随行した者がいました。

「曾良」(そら)です。

彼は芭蕉と一緒に旅しながら、
克明に気候などを記した日記を残しています。
芭蕉本人の紀行と比較すると、
辻褄が合わないことが多いのですが、
それは彼が間違っているのではなく、
芭蕉が旅の事実に虚構を交えて、
創作活動をしたからだといわれています。

今回のわしの旅は、
2日で約1000キロを走破する旅でした。
芭蕉の実に30倍の速度で移動したわけで、
日頃の奥さんの苦労を
癒してあげようと、
すべてわしが企画し、
運転も独りでやりましたから

「奥さんの細道」

ともいえる旅行でした。

虚構は入れずに綴ります。


「旅に病で 夢は枯野を 駆け廻る」

え?奥の細道の句じゃないんじゃないのって?
たしか芭蕉の生前最後の句ですね。
ま、固いことはいいっこなしってことで。


わし自身が病んでいるわけではなく、
世間が病んでいます。
新型インフルエンザが猛威を振るい、
大阪でも多くの患者の発生が
報告された17日に
今回の旅は始まりました。

雨の中、
まずは長野県内にある
息子の就職内定先の会社を訪問。
訪問といっても、中に入って
社長に面会してきたわけではない。
外から見ただけですが。

その会社は山に囲まれた盆地の中にあり、
自然に恵まれた静かなところでした。
ここで、これから息子の人生が
始まるんだと思うと、
さすがに
胸にぐっとくるものがありましたねえ。

しばらくは二人とも黙って、
街の様子を記憶に刻み込んできました。


後ろ髪をひかれるような思いで
(ひかれるほど無いけど・・・
その後、進路をさらに北にとり
日本海へ向かいました。

昼食はその道が日本海に
当たった所
「上越」で店に入りました。



これは、

「のっぺい」

全国各地でいろんな呼び名があると
いわれている料理で、
長野の
「のっぺい汁」と
新潟の「のっぺ」は異なる料理
といわれています。
しかし、
その地理的中間点のこのあたりは
「のっぺい汁」
でも
「のっぺ」
でもなく「のっぺい」と呼ばれていました。
そういうわけなんですかねえ。

ま、うまけりゃそれでいいんですが。

それと特筆すべきは、
やはりこのあたりは米どころ。
白いご飯がキラキラしていて、
それだけでも食べられるほど、
味があったのには、驚きでした。

普段食べてるご飯は何やったん?

って思ってしまいましたわ。

食後はしばらく散策。

その食堂の脇で見かけたのが、
錦鯉の袋売りでした。



大きな袋の中に
でっかいのが1匹入れられています。

さすがにあの上越地震で
有名になった山古志村の近くですね。
こんな光景は初めて見ました。

おいしいご飯をいただいたことで、
息子の就職先で感じたしみじみ感は
すっかりどこへやら、
もう頭は今夜の宿
「氷見」の料理旅館への
期待でいっぱいになっていました。

人間て食べてたら幸せなんやなあ。
健康な証拠です。

そこからは日本海に沿って南へ
「奥さんの細道」は
「奥の細道」と同じルートをたどります。

そんなことを考えながら、
まだまだ降り続く雨の中、
一路今夜の宿場へと車を走らせているときです。

携帯に某新聞社から
電話がかかってきました。
大阪で大量の
新型インフルエンザの患者が確認されたので、
我が社で動きがあれば教えてほしい
とのこと。

それ以後は、関係者に電話をしたり
してもらったり
ラジバンダリ!

失礼しました。

つまり電話の嵐です。

たまりかねて、
親不知の道の駅に飛び込んで、
車をとめて
連絡しまくりでした。
砺波のチューリップは
その時点であきらめています。
ま、それは時期も少し過ぎていたしね。

小一時間で、用件は終息。
仕事しいのdoironです。

このことを芭蕉風に詠めば

「菌に病んで 電波は越後を かけ廻り」

てところでしょうかね。

寄ったついでに時間もあったので
ついでにその道の駅で、
おさかなセンターに寄り、
お買い物をすることにした。

ちょうどほしかった、
ワタ入りの干しイカや
赤ガレイの干物が
売られていたので迷わず購入。

カレイは、
そこでこんな風に干されていました。



扇風機の浜風一夜干し。
ま、うまけりゃいいのよ。

そこではお店の人が、
いろいろ親切にしてくれたので、
他のお土産も購入することにした。

ところで芭蕉は、この親不知の近く、
市振で宿を取り、
遊女と同じ宿に泊まり、
こんな句を詠んでいます。

「一家に 遊女も寝たり 萩と月」
(ひとつやに ゆうじょもねたり はぎとつき)


さて、遊女というには、
年をくっていますが、
「奥さんの細道」はいよいよ
この先から「奥の細道」を少しはずれて
氷見にある
お楽しみの料理民宿へと
向かっていくのであった。

続く。


旅に出ます

2009年05月16日 18時28分48秒 | 最近の出来事

スーちゃんの介護を
分担しつつも
近所に両親が引っ越してきた奥さん。

4月には人事異動もあり、
バタバタ過ごしてきたので
ここらで骨休めにと
1泊2日ですが
旅行に連れて行くことにした。
スーちゃんはその間
施設でショートステイを
初体験するわけだが、
前日からかなり
どきどきしていたようで
いささか、言動があやしかったなあ

車に乗せられて
今朝、施設に旅立った。
こちらも2泊3日の小旅行だ。

家に残る親父も
自分の好きに時間を過ごしてもらうことにした。
さっそく、予定を入れているようだ。

さて、こちらの旅行はというと

日曜早朝より家を出て
1000円高速を活用し、
名神から中央道、長野道を経て
まずチビのところへ。
それから、チビの就職内定先の
会社とその周辺を観察した後、
さらに北に車を走らせて
砺波のチューリップを見に行く。

そしてその夜は、氷見の民宿をおさえてある。

魚のおいしいことで有名な氷見。
中でも、料理民宿として名高い温泉宿
宿泊先とした。
シェフdoironとしては
是非、味を盗んでこようと思っている。

って、無理無理

イカあるかなあ。
特別料理を注文しておけばよかったかな。

で、翌日は、宇奈月から
トロッコ電車に乗りに行く。
目的は

黒薙温泉


素掘りのトンネルを抜けて
歩いてしかいけない源泉で、
黒部の渓谷沿いに設けられた
露天風呂が素晴らしいところだ。

今から、10年以上前に
一度山の帰りに
独りで行ったことがあるのだが
あの頃とは変わっていないだろうか。

天気にもよるが
できれば、
温泉に浸かって来たいと思っている。

その後は、時間を見て
金沢に行き、知り合いがやってる
喫茶店にも遊びに行ければと思っている。
欲張りすぎかなあ。

さあて、どんな旅になりますことやら。
向こうで、携帯から投稿してみまあす。


平和のバラ2輪

2009年05月15日 22時52分19秒 | 自然
ようやく咲きました。
職場には、平和にちなんだ
バラが2種類あります。

ひとつは、先日つぼみの姿を紹介した

「愛吉・すずのバラ」



繰り返しになるけど
ビキニ環礁の水爆実験で
被爆した第5福竜丸に乗っていた
久保山愛吉が愛してやまなかったバラだ



そしてもうひとつが

「アンネのバラ」

「アンネの日記」で
お馴染みの
アンネ・フランクを偲び
父親が育てたバラの子孫です。



花の色は
つぼみのときは赤く
開いたら黄色で
やがてオレンジに
移り変わっていくと言うバラ。

これらはいずれも
平和への祈りを込めて
命を受け継いできたバラだ。

職場の片隅にひっそりと咲く
これらのバラを知る人は少ない。

ずっと、その存在がクローズアップされないほど
平和な世の中であってくれたらいいな

縁は異なもの

2009年05月14日 22時18分30秒 | 最近の出来事

先日、トレビアンの整理に使う
三段ボックスを
臨海のK-ナンに買いに行ったときの事だ。

海が気持ちよさそうだったので、
買い物の前に、
少し癒されようとデッキに下りていくと、
釣竿を手に、向こうの方からこちらに向かって
手を上げている男がいた。

誰?

と思って近づいていくと、
なんとY田パパ
(わかなパパとも言う)
が釣りをしていたのだった。

「晩御飯のおかず釣りでっかあ?」
と聞くと例の大きな声で

「坊主やあ」

と叫んでいる。それはあんたや。

そんでそんなやかましくしてたら
釣れるもんも釣れまへんわな。

それにしてもこんなところで意外な人に会って、
こりゃ縁起が悪い・・・
いやいや
不吉な予感が・・・
ちゃうちゃう
なんとなく虫の知らせが・・・
と思いながら、
話を早々に切り上げ、
目的のK-ナンに向かったのであった。

そしたら予感が見事に的中だ。
レジでお金を払って、
お釣りをもらうときに、
レジ係の人と目が合ってビックリ!
普通はそんなに目をあわせたり
しないもんね。

「あ~~」

とお互い声を上げて、
指を指しあいました。

エイのチイママの娘が
働いていたのだ。
スーパーで働いていると聞いていたのに、
こんなとこで会うなんて。
ま、こちらはそんなに不吉でもなんでもないのですが・・・。
偶然て重なるんやねえ、
なんて思いながら家に帰り、
今日エイに行ってその話をしてきた。

よくよく考えたら、
エイは日常生活から切り離されたところにあるから、
外でエイ関連の出来事があっても、
どれも偶然と言えば偶然なんやけどね。
でも、
そんなことを差し引いても
エイでは因縁とも言うべき不思議な「縁」に
これまで数多く
めぐり合ってきた。

そもそものご縁は、
ママさんが昔働いていた店に
なんとわしの親父が
しょっちゅう通っていたことがわかったのが、
わしがエイに通い始めて
10年くらい経った頃だったのは
有名な話だ(どこで有名やねん)。
それが判明したときは
エイのママもメチャ感激してたけど
わしも、椅子から滑り落ちて
こぼした土手焼きで
お尻を汚しそうなほど驚いたもんだ。

また、
ルネで一人で走っていて、
わしが声をかけてルネRCに入り、
最近は夏合宿まで企画してくれるようになった
H後さんが、
エイのチイママの隣に住んでる人だった
というのも驚きの偶然だし、
プールに障害者の子供連れで来ていて、
頑張っていたおっさん
(どこかの社長らしい)
にばったり会ったりしたこともある。
近所のスナックへ飲みに行く前に、
よくエイで腹ごしらえしていくらしい。
しかもその人の家は、
同じ市内といっても、
かなり南のはずれで
エイからは3km以上も離れたところに住んでいて
プール以外で顔を合わすことなど
全然ないのに、
よくぞこんな小さな居酒屋で
偶然出会ったりしたものだ。

ま、これだけなら、
類は友を呼ぶ、
酒は友を呼ぶてなもんだが、
最近まためちゃ驚くような”縁”が
ひとつあった。
この春の人事異動で
わしの部下となった
女性のだんなさんが、
なんとエイの常連さんだったのだ。
店には、いいちこの一升瓶のキープまで置いてあった。
ずぇ~ったい、
何度も店で顔をあわせている筈だ。
この人の家は堺市北部。
職場がエイの近くということで、
常連さんとなっているわけだ。
まったく世の中何が起こるかわからんが、
こんな小さな店でそんな出来事が相次ぐと、
驚きを超えて、
不思議な気持ちになってくるってもんだ。
常連といっても100人もいないだろうに、
あまりにも偶然が重なりすぎているよなあ。
この世の中、全く知らない人でも、
もしかしたらどこかで接点があるのかも知れませんな。
そう考えたら、
人生は面白い。

いつもおいしい料理を提供してくれるエイ。

“「縁」は異なもの味なもの”

という言葉がありますが、

“「エイ」”は異なものそして味なお店”
ってとこですかね。

座布団イチ一枚~


花の写真

2009年05月13日 22時15分53秒 | 自然
学生の頃は盛んに山登りをしており、
社会人になってからもその趣味は続いていた。

昭和53年の夏は、
8月ひと月のうち
25日は山に入っていたなあ。

北アルプスと呼ばれる山は
ほとんどすべて登頂し、
これまで登った100名山は
合計45座。

山に登っているうちに、
足元にあるさまざまな植物が気になり始め、
やがて野草を求めて
各地の山を歩き回る日々が
10年ほど続いたことがある。

ある日、山登りをしているときに、
昔ほど無理がきかなくなっている
自分の身体に気づき、
トレーニングでも始めてみようと思って
走り始めたのが運の尽きだ。

それから20年以上、
トレーニングのランニングが主な趣味となり、
トライアスロンにまでたどり着いてしまっている。

つまり、
わしのランニングの原点は
山登りだったわけである。
だから、今も自分の中に
自然志向はしっかり残っている。

あるときはナチュラリスト、
あるときはランナー(ジョガーかな?)
そしてまたあるときは
介護ヘルパーのdoironなのである。

それはさておき、
そんな野草の写真を撮り続けたときに
貯めた写真が20000枚近く残っており、
押入れの隅っこに箱に入って眠っている。

今は取り出すのも怖いくらい
ほこりを被っているが、
お気に入りだけは
ちゃんとアルバムに整理をし、
本棚の一角に鎮座ましましている。

こうして、
かなりのスペースを占拠している
これら20000枚の写真を、
もし、デジタル化することができれば、
1枚100KBとして
合計2GBあればいいとなる。

これは小さなメモリースティックひとつに
十分治まる大きさだ。
マイクロSDにいたっては
指先の爪ぐらいにまで小さくなってしまう。

10年間の日々の記録が、
爪ひとつ分というのも
なんとなく悲しくなってしまうよなあ。

ま、人間が一生に体験する
客観的な出来事は、その程度のものだろう。
山より大きな愛情や海より深い悲しみは、
また別のものだ。

そんな貯め込んだ写真をスキャナーを活用して
デジタル化するとすれば
膨大な時間と労力を要する作業となるだろう。
だから、
それはライフワークのひとつとして
定年後の楽しみに取っておくことにしよう
と思っている。