新柳瀬橋の釣り人に別れを告げ、
42号線に再び合流し、
またすぐに旧道に入っていきます。
用水路沿いの味わい深い道でした。
近世以降の熊野街道は
その道が広川に突き当たったところで
広川を渡っていたそうです。
そして渡ってすぐのところに
「井関王子」があったらしいのですが、
残念ながら今は跡形もないそうです。
中世の熊野街道はもう少し東側を通っていたそうで、
そこには「津兼王子」がありました。
その津兼王子が今はなんと
阪和道(湯浅御坊道路)の
インターチェンジ内の道路と道路の間に
残っているというので行ってみました。
高速道路への誘導路の歩道や
側道をトンネルをくぐりながら
くねくねと複雑に歩き
ようやくたどり着いたのがここ。
「広川出入口」のゲート横の広場です。
その広場の横に、
ひっそりと建っているのが
「津兼王子跡」の碑です。
高速道路の道路と道路の間に立っている王子は
ここだけだそうです。
広場にはあの熊野ブルーの看板も
建てられてありました。
インターチェンジを出てすぐのところに
駐車場とともにトイレも整備されているその施設は、
いわば現代の車社会の王子
と言えなくもないですね。
その王子を出てまた道路下のトンネルをくぐるのですが、
これがとても小さく
高さが180cmほどしかありません
doironも思わずかがんで歩きました。
トンネルを抜けるとすぐに42号に出ます。
しばらくその歩道を歩き、
井関の交差点からまた静かな旧道に入っていきます。
井関というこのあたりは、
熊野詣の宿場町でした。
今は単なる静かな田舎の町ですが、
昔はずいぶんと賑わったそうです。
ここに宿を取り、翌日に越える
紀伊路の難所のひとつである
「鹿ヶ瀬峠」に備えて
英気を養い、情報を仕入れながら
いろいろと算段をしたのでしょう。
道路沿いの擁壁には
当時の賑わいを描いた絵もかかっていましたし、
ところどころの家の壁には
当時の旅籠名が書かれた
プレートも貼り付けられています。
こ、これは地図にない王子跡か?
よく見ると犬小屋でした。
おお、熊野ブルーの郵便受けです。
写真を撮ってたら家の人が出てきて
笑っておりました。
このあたりでぼつぼつ引き返そうかと、
そこにあったバス停で
次のバスの時刻を確認すると、
この先の河瀬王子に行って帰ってくるのに
十分な時間がありましたので、
歩行続行です。
村のはずれにこんなスポットがありました。
伏見稲荷大社の分祠です。
この中には、合祀された王子の石碑や
跡の消滅した王子社の石碑も建てられています。
村を出て河瀬橋を渡るとそこにあったのが、
1837年の飢饉により餓死した人達の供養塔です。
ここまでに見たあの
「石仏48」の親玉のようなものです。
この供養塔は道標も兼ねており、
「右く満の道(熊野道)」
と刻まれている通り、
右に行くとすぐに
本日三つ目の王子
「河瀬(ごのせ)王子跡」
がありました。
ここはスタンプポイントです。
あの紀州材でつくられたスタンプ台で
ハンコを押していると、
一人の男性が近づいてきて
「まだスタンプ帳あるかよ」
と聞いてきたので
「もうあれへんなあ」と答えたあと、
どこから来たとか、
どんなふうに歩いているのかと
聞かれるままにしばし話をし、
「ちょっと待っときや」といって
しばらくするとまた先ほどの男性が
「にいちゃんこれ小さいけど甘いで」
といいつつ、みかんを持ってきてくれました。
おお~これはまたまたうれしい
四国遍路のような「お・も・て・な・し」です。
さすがはミカンの里、
ありがたいですねえ。
その人とお別れしてから、
そこで昼食タイムです。
今日はこれ。
手造りおにぎりとカップワンタンです。
毎度ほぼワンパターンですが、
このごちそうはたまりませんな。
昼食後にいただいたみかんをパクッ。
めちゃめちゃ甘いみかんでした。
ふと横を見ると石に何か書かれてあります。
「右はきみの 大水には左」
と刻まれてあります。
道標と共に洪水、津波の際の
逃げ道が刻まれてあるんだそうです。
そうしているうちに時間が来たので、
先ほどのバス停まで戻り、
やってきたバスで
湯浅まで引き返して今回の歩行は終了です。
ほぼ7キロくらい二時間半の旅でした。
このあと湯浅の街を歩きましたので、
番外編でもう少し続きます。
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