「浜」を「破魔」とかけた地蔵尊。
そのお姿は、何と木彫りの地蔵尊でした。
石の地蔵と違って傷みやすいので
こんなに頑丈そうなお堂の中に
祀られているんですかね。
それでも、海に近く雨風も強く当たるだろうに、
考えたら少なくともdoironが走り始めた
25年以上前からある木像だとしたら
状態はいい方なのかもしれません。
一体、誰が彫ったんでしょうねえ。
そんな破魔地蔵からさらに南下していきますと、
doiron家の墓もある
春日町市営墓地にさしかかります。
この墓地の北西の角あたりにあるのが、
泉大津の旧跡を語るときに必ず登場する
ロシア兵墓地
明治37年に勃発した日露戦争で
捕虜となったロシア兵たちの墓89基が
ずらっと並ぶ異国情緒漂う墓地です。
写真ではバックにアルザタワーを配してみました。
ロシア兵たちはもうここにこうして
100年以上も眠っています。
周りの景色もずいぶんと変わりました。
今も地元の人たちが丁寧に管理をされているそうです。
現在、泉大津は毛布のまちとして
知られていますが、
そんな産業を支えたのは
意外にも、日清、日露の両戦争でした。
極寒の地での争いに毛布は欠かせず
生産が追い付かないほどの需要があったそうです。
価格も高騰し、泉大津市の糸偏産業は
かなりの好景気であったことが
容易に予想されます。
戦争という、悲劇の陰に
こんな出来事があったんですねえ。
そんな往時をしのびつつ
オジチャリは先に進みます。
ロシア兵墓地のすぐ西側、
消防署の北側にあるのが
飯田家墓所
ここは墓を意味する「三昧」をつけて
「淡輪三昧」といわれています。
泉南の淡輪を本拠地としていた
飯田氏の徹斎と呼ばれる人が
根来・雑賀の争いをさけて
この地に移り住んだんだといわれています。
写真の一番右の五輪塔がその徹斎の墓と推定されるそうです。
合掌をして次の道標を目指し、
市内の南端を東西に流れる大津川に向かいます。
オジチャリなので、できるだけ車では通れないところを
選んで走っていきます。
こういうことをしていますと、
道端なんかに立っている石にとっても敏感になります。
路地の奥にそれらしい石が見えたら、
そちらへ引き寄せられるように進んで行ってしまいます。
そうして古い家が密集している地域で頻繁に見かけたのがこれ。
個人の所有地であることを表す石標ですね。
人が多く住んでいますと、
何かと摩擦も多いんでしょうかね。
ありがたく通らせてもらいました。
やがてオジチャリ号は大津川に出ました。
ここは今年の9月22日に、
ランニング仲間たちが開催する
「第2回大津川さわやか三時間走」の舞台となるところです。
まだまだ参加者を募集しているそうですから
走ってみようと思われる方は
ぜひ、連絡してください。
アットホームないい大会ですよ。
ささやかながら、doironもお手伝いを
させていただきます。
それにしても川は広々してていいですね、暑いけど・・・。
堤防を走っていて、川の中で水遊びをする子供たちの近くで、
こんな看板を見つけました。
どひゃー、河童も溺れるんですね。
よい子の皆さんは気をつけましょう。
この川の上流に目的の道標がある板原の墓地があります。
堤防をチリンチリンと走って行ってみると、
そこで墓掃除をしている人がいたので、
「道標があると聞いたのですが」と聞いてみました。
すると、「どうひょうって何ですか?」と逆に聞かれちゃいました。
どうひょう、じゃなくて、どひゃあと驚いてしまいました。
そうかあ、世間の人の関心はこんなもんなんですね~。
簡単に道標の説明をし、
墓の中をウロウロすることをわかっていただいて、
探すことにしました。
言っておかないと墓泥棒やと思われてもね。
ここには3つの道標があると、
資料には書かれてありました。
で、汗を拭き拭き探し回って、
ようやく見つけたのがこの2基でした。
最初のものには「右 岸和田 左 高月」と書かれてあります。
高月というのは忠岡市内の町名ですね。
以前、このブログに書いた
狛犬がお尻を持ち上げて、
逆立ちをしている天神社のあるところですね。
そこでふと思いました。
逆立ちしている狛犬には、
もしかしたら「尻上がり」という
おめでたい意味があるのかもしれませんね。
ふたつ目には「左 わけ道」としか書かれてありません。
「わけ」とは和泉市の町名で、
室町時代の多宝塔や五輪塔のある妙泉寺というお寺があるところです。
この「わけ(和気と書く)」は、
道標には結構登場する地名です。
妙泉寺がよほど有名だったのか
あるいは交通の要衝だったんでしょう。
和気には熊野街道も通っています。
そしてその道標の崩れてしまっている右側には、
資料によりますと、実は
「右 久米田道」と書かれてあったそうです。
実際、平成20年にはまだ崩れずに読み取れたようです。
資料には写真も残っていました。
このあたりの道標は、
和泉砂岩という加工しやすいが
崩れやすい石材でできているので、
保存が課題となっているそうです。
さらに崩れそうな亀裂も入っていました。
課題って、もう遅いかも・・・。
ともあれこれで
市内にある7基の道標のうち4基を確認しました。
残るはこの板原の見つけられなかった1基と
豊中にある2基です。
その豊中の2基に向かって
オジチャリは今度は北へと進んで行きます。
ブラリ、オジチャリ6に続きます。
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