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「小栗上野介」展を見て・・・思う事 ・ その二

昨日に続いて・・・
「小栗」が見つけてきた日本人、いや世界が見た日本人を「小栗展」で知りました
日米通商条約は日本にとって屈辱的条約であった事はうなづけます
しかしある意味では、外国からの侵略を武力ではなく条約という形でなせた事は、損失も大きいものがあったかもしれませんが、開国し近代国家化を目指すきっかけになったと考えれば、幸いしたと見ることも出来そうです
遣米使節団が見聞した欧米の諸技術、諸生活はこれではいかんと思わせるものが充分あったと思えます
更に幸いした事は、どうやらアメリカ人が日本人の持つ気質の素晴らしさを理解(?)し、好意を持って迎えてくれたということです
このことは日本人が隷属させる民族でなく、文化のある友好民族足り得ると認められたものと思えます


遣米使節団の毎日の様子は新聞によって報道されており、上の写真はその折の記事・風刺画の一部です
これの題名は「何でもメモする日本人」です
そしてこの事で、当時のアメリカ人は日本人の勤勉さと、向上心を知ったと思えます


「小栗上野介」が帰国してから、横須賀に製鉄所を造りました
その時使われたレンガが展示されていました・・・溶鉱炉に使われたのでしょうか!?
製鉄所を造るという事は、即ち国家の基盤を造ることに関連します
いわゆる産業の米つくりになるからです・・・( 鉄 = 近代化産業の米 )
鉄鉱石を高熱で溶かし製錬する為には、簡単には出来ません
インフラも含め様々な技術力がなければ大量の鉄は作れません
勿論レンガも高温に耐えるレンガが沢山なければ駄目な訳ですから、展示されたレンガを眺めて往時の苦労を想像し、感心しきりでした


「小栗上野介」が遣米使節として、渡米し戻った翌年(1861年2月)、ロシア軍艦による対馬居直り占領事件が起こっています
「小栗」は外国奉行として対処に当りましたが、交渉難航し、イギリスの援助を受けました
この事が製鉄所の建設、造船所の建設の必要性を痛感したようです
ところで昨今の尖閣問題、ロシア大統領の北方4島訪問問題等が、対馬事件当時とダブって見えました
毅然とした態度が出来ないのはどうしてでしょう
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