ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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あの鄭泳文さんが文学賞三冠王 ②唯一翻訳されている短編を読んでみる

2012-11-07 23:53:54 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 私ヌルボ、高2の頃授業中の半分は寝ていました。聞いていた授業は倫理社会だけ。残りの起きていた時間に「カラマーゾフの兄弟」を読破しました。さすがに受験を前にした高3では居眠りはやめましたが、授業はやはり現代国語しか聞かず。中村光夫の「風俗小説論」や平野謙の評論等をネタ本に私小説論を展開してくれたのがおもしろくて・・・。他の授業中は必死で内職。そして読んだ小説がサルトルの「嘔吐」
 ボリュームでいえば「カラマーゾフの兄弟」>「嘔吐」ですが、難解さでいえば「嘔吐」>「カラマーゾフの兄弟」です。
 あ、難解さと、つまらなさと、名作度はそれぞれ別の尺度ですね。「カラマーゾフの兄弟」は難解でも、おもしろかった。そして名作、いや傑作、大傑作。
 一方「嘔吐」は難解で、しかもタイクツでした。(でも授業よりはるかにマシ。) この作品を読み終えたことは、私ヌルボにとって青春の勲章というか若気の至りというか・・・。その頃に比べると、脳力・体力・忍耐力の衰えは無残なものです。

 そして大学に進学した頃は、実存主義に加えて、さらにワケのわからんヌーヴォー・ロマンとかアンチ・ロマンとかいう文学が話題になったりしていました。
 「「私は」や「彼は」じゃなくて、「あなたは」なんて二人称で語られているんだぜ」とか、「物語性が排除されているんだ」のような「???」といった刺戟的な(?)ウワサを聞いて、学生ヌルボもビュトールだかロブ・グリエの本を書店でちょいとめくってみました。で、感想は、「自分には、合わない」。同じ頃ベケットの「ゴドーを待ちながら」は「ベケット戯曲全集」だったかでフツーに読みましたが、やはり拒否感まではいかないもののピンと来ず。
 概してジャンルを問わず雑多な本を読むヌルボではありますが、上記のようなヌーヴォー・ロマンっぽい雰囲気のあるもの(金井美恵子とか・・・)は以後もずっと敬遠してきました。

 ところが、鄭泳文さんにとってはベケットは特別な存在のようですね。
 「朝鮮日報」のインタビューで、「あなたに世界を眺める新たなレンズを与えた最初の作家は?」と問われて次のように答えています。

 ベケット。ふつうは彼の代表作の戯曲「ゴドーを待ちながら」を思い浮かべるが、彼の核心であり本領は小説である。 언어를 통해 사유의 극단까지 밀어붙인 글쓰기.言語を通じて事由の極限までつきつめた書き方。特に彼の末期の作品は無数の単語と文章で構成されているが、何の意味も発生しない。その作品を通じてベケットが語ろうとしたのは生の究極的な無意味だった。"

 ソウル大卒業後フランスに留学に行った鄭泳文さんは、「適性に合わないような勉強は喜んで断念」して1年近く図書館で小説を読んで時間を過ごしましたが、前衛的な小説家たちの作品をたくさん読んだ中で最も魅了された作家がやはりベケットだったそうです。「彼の文体をまねて文章を書き始めたし、彼からユーモアを学んだ」と語っています。

 毎度の長すぎる前置きはここまでにして、彼の作品を読んでみます。・・・といっても、日本語に訳されているのは安宇植(編訳)「いま、私たちの隣に誰がいるのか」(作品社)という韓国作家の短編集に納められている「微笑」「蝸牛」の短編2作のみです。(タイトル中の「唯一」は誤りですね。)

 まず、「微笑」について。この作品紹介は簡単に書けそう。
 刑務所を出所した男が歩き、バスに乗り、市場に行き、猿を使いながら薬を売る商人の商売にたまたま関わり、自殺を企てて夜の道に寝そべってトラックに轢かれる直前までを淡々とした一人称で叙述した作品。

 このテの小説の主人公は、概して無気力なんだな。三島賞作家の中原昌也もそうなの? 読んでないけど・・・。わざわざ轢かれやすそうな路上に横になるんだねー・・・。車に轢かれる短編だったら、筒井康隆の「お助け」が圧倒的におもしろいし、ヌルボには合ってます。

 2つ目の「蝸牛」は、雨の日の午後、男がうたた寝をして、木の幹を這い上がってゆく蝸牛の夢を見る、その男の独白です。
 本文を少し紹介します。

 なおも蝸牛は、木とぼくの意識の木目に沿って移動していた。ぼくはやつがいることになる場所、いやいまはまだ不在だがそれが存在することになる場所、すなわちやつ自身の存在に、その不可能なパラドックスに近づきつつあるということを、それからやつの存在が一個の消失の場をなしているこということを、労せずして知ることができた。自分が出発したそれが自分に迫っていこうとするけれど、飽くまでも到達することのできない、その間隔の無限の隣接性の困惑から、ぼくはぼくたちの同一の苦痛を感じた。

 目覚めた彼は、窓の外に木の幹を這い上がってゆく蝸牛を見る。・・・ふーむ、ちょっとあの「胡蝶の夢」を連想しました。のろい蝸牛の動きをさらに微分的に叙述した、わずか日本語で4000字ほどの短編ながら、密度の濃い作品です。われながら、意外に好感を持って読み終えました。しかし、この文体で長編となると、到底無理。

 ところで、韓国で今なんでこの種の小説が書かれ、また文学賞を受賞するほど注目されるのでしょうね?
 日本ではこの数十年(?)忘れられているようなタイプの文学ではないでしょうか? 他の文化ジャンル(音楽・映画等)と同様に、90年代以降一度に「なんでもあり!」状況になった中でひょいと出てきたのか・・・。
 ・・・などと考えつつ、いくつか関係ありそうなブログを見ていたら、<哲学するサラリーマン>というブログの「ヌーヴォー・ロマン、ベストテン」という記事の中に次のような記述がありました。

 誕生から半世紀以上が経過して、時代はようやくヌーヴォー・ロマンの描いた世界に追いついたと言えるだろう。以前のような単なる知的流行としてではなく、現代を先取りした作品として、ヌーヴォー・ロマンはもっと注目されるべきだ。

 なるほどねー。以前本ブログで、柴崎友香とか江國香織とかの作品が「ストーリー性が排除されていておもしろくない」と書きました(→コチラ)が、そういうこととも関係があるんでしょうかねー・・・。

 しかし、ヌルボ思うに、韓国でもそのうち「物語の復権」なんてことが言われるようになるのでは?
もしかして、すでに言われているかも、と思ってハングルで検索してみたら、「復権」が「福券(宝くじ)」と同じ(복권)だもんで、わけがわからなくなってしまった(笑)。

 元に戻って、鄭泳文さんの文学賞3賞受賞作「ある作為」の内容も少し紹介するつもりでしたが、出版元の<文学と知性社>のサイト中の紹介記事(→コチラ)及びその自動翻訳(→コチラ)とリンクを張るにとどめておきます。もう十分アタマを使いすぎたので。

 と言いつつ、ついでにもう1つ。
 <innolife>の通販の本(韓国書)のリスト中に、彼の小説「月に魅せられた役者(クァンデ.広大)」がありました。その内容紹介文をそのまま載せます。

 チョン・ヨンムンの「月に魅せられた役者」は我々に錬金術の恍惚の境を経験させる小説だ。「月に魅せられた役者」はただ、絶え間無く、つぶやく。そうやってつぶやくだけなのに、このつぶやきを聞いたら、ある一瞬にして現存在の担った真理は非本来的な価値として転換し、現存在の真理に向けた実践は騷音と騷乱に伝導される。そして代わりに'月に魅せられた役者'のような現存在から捨てられたものなどと沈黙を強要されたものなどが、刹那的に事由の中心に浮び上がる。
 しかしその光と光のもたらす驚異はただちに消え、その驚異の去った場所は不安と倦怠と冷笑に満たされる。「月に魅せられた役者」はこのように何ら化学的変化もなしに光が闇で、闇が光で転化する魔法でいっぱいの小説だが、こういう部分から我々は真の意味の解体小説に出会うこととなった。


 この文章だけでも疲れるなー・・・、ふー。
コメント (2)
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