ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

北朝鮮の文芸誌・月刊「朝鮮文学」に抱いたささやかな疑念・・・

2010-05-31 22:34:23 | 北朝鮮のもろもろ
    

 韓国語の研究や韓国文学の紹介等のさきがけとなった「朝鮮文学」全12冊(1970~74年)について書こうと思いつつ、その前に横浜市立図書館で関係資料はないか見てみたら、検索機にヒットしたのが北朝鮮の文芸雑誌「조선문학(朝鮮文学)」。北朝鮮の文学芸術出版社発行(←北朝鮮では<발행(発行)>ではなく<낸 곳(出した所)>なんですね)、印刷は平壌綜合印刷工場。
 月刊で、주체(主体)99(2010)年の4月号で累計750号(!)になります。
あ、<주체.チュチェ>というのは金日成生誕の1912年を元年とした年号です。

 で、今年の1~3月号をパラパラと2割程度読んでみました。
 全体的にみて、やっぱり「かなしい本」でした。
 紙が白くないのも「かなしい」ですが(すべすべしている点は、外国向け高級紙ということかも・・・)、何よりも「かなしい」のは権力への迎合のオン・パレードという点。

 「何をいまさら」と思われるでしょうが、一応具体例をあげてみますね。
 各号の表紙をめくると現れるのが下のページ。
 上の字は「偉大なる首領金日成同志の革命思想で徹底して武装しよう!」
花束に掛かっているリボンの字、右は「偉大なる首領金日成同志は」左は「永遠にわれわれとともにいらっしゃいます」

    


 「労働新聞」等々すべてそうですが、金日成父子の名前と、その<お言葉>は太字になっています。(下参照)

    

 下は2月号の表紙裏の詩。題は「白い雪におおわれた故郷の家」。
 いなかの雪景色を描いた詩かなとチラと思いましたが、やっぱり・・・です。

    

(訳)
はるかなる密林は 雪におおわれ
空と土 その果てまで まばゆい荒野
ああ 白い雪の中に
春の光を抱いた 故郷の家よ

花々は咲いて 雪の中にほほえみ
星々も下りきて 夢を守った家
ああ 朝鮮の春を
あたたかく育てた 故郷の家よ

崇厳な正日峰の 気を抱いて
吹き荒れる吹雪を鎮める家
ああ 千古の密林に
白頭が建てた 太陽の家よ

ああ 金正日同志
世紀を照らした 故郷の家よ


 「なさけないなー」と思いつつ読み進んで、「アレ?」とちょっと引っかかったのが各号の最後の方に収められている<資料>のページ。

 たとえば1月号にはハン・チョロク(한철옥)という人が「解放前進歩的童話文学での特性」という一文を寄せています。
 彼は1920~30年代のクォン・ハン(권한)、リ・ビョンホ(리병호)、ハン・チュン(한충)、パン・ジョンファン(방정환.方定煥)等の童話作家の作品を紹介しています。(方定煥は有名ですが、ほかの作家はちょっと調べてもわかりませんでした。)
 たとえば、ヨム・ボギン(염복인)の「トラ峠(호랑이 고개)」という童話は、次々とトラに呑みこまれた3人の友だち同士がトラの腹の中でマッチで火を点けてトラの肉を食ったり、力を合わせて中からトラの肉を割いて出たという話です。
 これらの童話は擬人化や誇張の手法によって、たとえば「搾取者たちを懲らし人民の念願を反映する幻想世界を創造した」というわけです。

 さらに2月号の資料ページにはキム・ミョンチョルという人が「高麗時代の農民生活を反映した新文学の思想情緒的特性」と題して高麗時代の詩人の作品を紹介しています。

 字数の関係で、ユン・ヨヒョン(尹汝衡.윤여형)の「ドングリの歌(도톨밤 노래.橡實歌.상률가)だけ見てみましょう。
※出典は、1478年成宗の命で徐居正(서거정)等を中心として編纂された朝鮮歴代の詩文選集「東文選」
※全文が、→<古典を網羅したすごい韓国のブログ>に載っていました。
 この36行中最後の6行がキム・ミョンチョル氏の文に引用されていました。

(訳)
あなたは見なかったか? 高官の家で一日食べるものが一万銭分
美味しいご馳走が星のように食膳に並び 五つの釜に溢れんばかりに盛られ
馬を使う下人まで酒に酔って 錦の敷物の上に吐き
肥えた馬は穀物を嫌って金の檻でいななき
彼ら誰が知ろうか 並べられたそのご馳走が
すべてみな村の年寄りの 眼の底の血だということを


 ・・・・うーん、いかがなものでしょうか?
 何のことかというと、この詩句はそのまま今の北朝鮮の支配者層への批判になってはいないか、ということなんですが・・・。それから、もしかしたら先の文も童話を語りながら、何か今の体制に対する見方がこめられているようでもあり・・・。

 まともな目を持っていたら、封建時代の支配者たちと今の彼らと変わらないじゃないか、と思わないですかねー・・・。
 とするともしかして、①ひそかにそんな本心を高麗時代の詩に仮託して表わした、か、②体制が変わった時に備えてアリバイ的にそうとも読める文にした、か・・・
 それとも③そんな反体制的なことは何も考えず、ただ現在の体制のタテマエをそのまま信じて書いた、か・・・。

 1938年、石川淳の「マルスの歌」が発禁処分をくらったように、ある程度わかりやすいフィクションで批判しようとすると、権力は即座に見抜いちゃうからねー。(誰にもわからないと意味ないし・・・、圧政下でマトモな精神を持っている作家は大変です。(あー、もろ他人事になってますねー・・・。)

 ・・・ちょっと深読みしすぎ、考えすぎ、ですかねー・・・。
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韓国オタクの佐賀旅行③ 唐津駅→名護屋城は遠い!

2010-05-30 23:55:26 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 5月22日の記事「韓国オタクの佐賀旅行②」で記録もれの「白いツツジを韓国語で何というか?」という件について昨日ちょいと韓国の方から取材したので書き足しておきました。気になる方はご確認ください。

 さて、佐賀旅行3日目は唐津です。行ってみたい所はいろいろたくさん。旅の定石でまず遠い所からと考え、呼子港経由で名護屋城跡にまず行くことにしました。
 ふつうの人なら、車でなければバスを利用するところでしょうが、たまたまJR九州のサイトを見たら唐津駅で電動自転車を1日900円で借りられるということで、こっちの方が自由にいろんな所に行けるだろうと思い、朝9時に窓口が開いたすぐに借りに行きました。
 電動自転車は初めてでしたが、ちょっと期待が大きすぎましたねー(笑)。たしかに上り坂はかなりラクに上れましたが、スピードがイマイチ。

 しかし、電動自転車に対する過信よりも、唐津駅前から呼子、さらに名護屋城までの距離があんなに長いとは・・・。約20キロくらいですかねー。やっぱり電動自転車であの道のりを行くのは一苦労以上だったですね。海沿いの道も以外に起伏が多かったし・・・。

 で、9時20分頃スタートして呼子港には10時50分着。
 朝市はずいぶんにぎわっていました。店先に並んでるいろんな海産物の中で、ヌルボの目を引いたのは「皮クジラ 250」。掌に乗るくらいの厚さ4~5センチほどのブロックがこのお値段。
 あとでさるサイトで知ったところでは、呼子は「江戸時代から昭和30年ころまで捕鯨の町として栄えました」とのことで、鯨組主旧中尾家住宅(市重要文化財)も残っているのだそうです。
 当地の木屋という店は<黒皮くじら>等の通販もやってます。

     

     【呼子の朝市のにぎわい】                        【黒皮くじら

     
  【唐津市内の寿司屋のメニューにはくじらの刺身がある。

 もっと時間があれば、遊覧船イカ丸(←安易な命名)に乗って<神秘の洞窟>七ツ釜の探検に行くとか、海中展望船ジーラ(←クジラだから)で海中散歩もしてみたいところでしたが、時間の関係でまた自転車にまたがって道の駅桃山天下市へ向かいました。

  
     【向こうに見える遊覧船、その名もイカ丸。

 呼子港→桃山天下市も自転車で約25分。意外に時間がかかりました。ここで「いか活き造り定食」2,835を食べた! ・・・というのは前5月4日の記事で書きました。

  
  【足がピクピク、目玉がギロギロのイカの活き造り

 名護屋城跡は桃山天下市からすぐ。
 第一印象は、いやー広い広い!
 それにしても、こんな日本のはずれに(←東京・横浜の方が<はずれ>かも・・・)、当時は大坂城に次ぐという広壮な城をよくもまあ築き、また日本国中から大勢の軍隊を集めたものです。
 唐津の町から来るだけでも一苦労なのに、さらに海を渡って朝鮮まで行き、その上殺し合ったりしながら半島の奥深くまで攻め入るとは、オドロキ! 
 当時の豊臣秀吉以下雑兵に至るまで、彼らをそこまで突き動かした動機とか情熱(?)とは一体なんだったんだろう、と深~く考えざるをえません
 単に秀吉個人の征服欲だけでは説明がつかないと思います。
 俗説もいろいろある中で、一応ホントらしい説では、天下統一後、使い道のなくなった兵士・武将の働きの場の提供。平和が到来しても過剰な軍隊・兵員を急速に削減することはできないので、適度な(?)仕事(戦争)を与えたというわけです。豊臣秀吉は「刀狩りによる軍縮・兵農分離」と「公共事業的な海外遠征(朝鮮出兵)」によって、国内の軍事的秩序と治安状況を調整したという仮説もあるそうです。合わせて、「秀吉個人の中国大陸(明)征服への野心」があったと考えられるとのことです。
 そんなもんですかねー。そういえば、現代でもアメリカが全世界的に展開している軍事活動は「公共事業的な海外遠征」であると十分言えそうですが・・・。
 あるサイトによれば、渡海した日本軍が見積もった朝鮮八道の総石高は1192万4406石。やっぱり物欲は多くの人を動かす原動力なんですかねー。

 続いて、名護屋城博物館へ。
 先史時代からの日朝間の歴史について、いろんな展示物があった中で、目を奪われたのが「朝鮮軍陣図屏風」(下参照。鍋島報效会所蔵の写)。

  
    【どんな絵師だか、よくこんな絵が描けたものです。

 加藤清正軍が立てこもる蔚山城を8万人の朝鮮と明の軍が取り囲む。加藤清正は水も食料もないまま13日間飢えに苦しみながら戦ったとのことで、それにしてもこんなにたくさんの兵をよく描いたものです。
 「日本史合戦の隠された真実」という本によると、この屏風の原本は明治初期に焼失し、現存するものは模写が三隻とのこと。

 もう1つは、文禄慶長の役(壬辰倭乱)の時の日本の船。李舜臣の亀甲船は有名ですが、日本の軍船は安宅船(あたけぶね)というんですね。
 家屋がそのまんま船の上に乗っかっているようで・・・。これで実戦的だったんでしょうかねー?

  
     【安宅船。船の上にお屋敷が・・・。

 帰途は海岸沿いの道ではなく、峠道を一気に上がって下るルートにしたところ、1時間ほどで唐津市街へ。まだ自転車の返却時間の17時まで2時間あったので、末盧館と名付けられた菜畑遺跡に立ち寄りました。板付遺跡とともに、縄文晩期の、つまり日本で最初に水稲耕作がおこなわれた遺跡です。

  
     【菜畑遺跡の復元水田

 あー、それにしても、前日に続いて疲れたけどいろんな収穫のあった1日でした。
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詩人アン・ドヒョンのエッセイ集「小さく、低く、ゆっくりと」を読む

2010-05-28 23:31:15 | 韓国の小説・詩・エッセイ
      

 横浜市立図書館で、現代韓国を代表する詩人の一人安度眩(アン・ドヒョン.안도현)のエッセイ集「小さく、低く、ゆっくりと」(書肆侃侃房.2005)を読みました。「西日本新聞」に2002年10月〜03年9月連載した随筆をまとめた本です。

 ※数ページ分読めます。→アマゾンの「クリックなか身!検索」

 韓国の詩人を一人二人でも知っている日本人は多くはないでしょう。
 それなりに知っている人は、たとえば権力に対して熱く力の籠った詩で闘ったり、民族の魂とか伝統的な恨の心を詠ったりした詩人を思い浮かべるのではないでしょうか?
 しかしアン・ドヒョンはそんな韓国の旧世代の詩人とは全然違って、平易な言葉、穏やかな表現を特徴としています。このような詩人が多くの人に受け容れられるのも、1990年代以降の時代の空気を反映しているといえるのでないでしょうか。

 このエッセイ集も、彼の詩と同様とても読みやすく、それでいて心に残るエッセイがいくつも収められています。
 その中からいくつか、読書メモのような形で紹介します。

○日本を見る目
 アン・ドヒョンの母方の祖父と祖母は日本で労働者として働いていて、解放後に帰国した人である。彼らは「倭のやつ(※ウェノム.왜놈でしょう)」と呼んでばかりで、アン・ドヒョンは一度も「日本人」と呼ぶのを聞いたことがない。しかし日本人は「とても礼儀正しく原理原則を重視する人たち」で、ときどき「解放前に日本で暮らしていたころの方が良かった」という愚痴をはきすてるように言った、という。
 ・・・「反日」「親日」等の言葉では捉えられない複雑な感情。それは祖父母の世代ばかりではないでしょう。

○母親と妻の違い
 アン・ドヒョンは1961年慶尚北道生まれ。奥さんは全羅道出身。昔から慶尚道と全羅道の対立感情はよく知られているとおり。母親は年配の親戚に奥さんを紹介する時に、「嫁の故郷はソウルで・・・」と嘘を言っていたとのことである。

○民衆と人民
 アン・ドヒョンは若い頃中学校の国語教師をしていた。その当時<左傾意識化教師>と誤解されたことがあった。授業で「松よ、青い松よ(솔아 솔아 푸르른솔아...)」という歌の歌詞を教えたため、校長室によばれたのである。(※運動圏のフォークグループ<ノチャサ>の歌) 「民衆の魂が主人になる真の世界」とは何だ、民衆とは人民のことではないのか? と校長が問いつめるのである。本来はそんな意味の言葉ではないのに・・・。(※この本では記されていませんが、yes24のサイトで彼の経歴を見ると「全教組活動で解職され、5年後復職」とあります。)

○赤いTシャツ
 ワールドカップの韓国チームは赤いユニフォームで活躍、「赤い悪魔」とよばれた。しかし、子どもの頃から反共教育を受けてきたアン・ドヒョンの世代にとって、<赤>といえば共産主義の色。「赤い悪魔」以外でも、「赤い力を集めましょう」という献血のポスターを見ても「共産主義者を集めましょう」・・・とつい思ってしまう・・・。
※これは私ヌルボも初めて「赤い悪魔」と聞いた時、同様の疑問をもちました。反共のはずの韓国が自ら「赤い~」などと称するとは! ・・・と驚いたものです。
 
○俳句と詩調
 アン・ドヒョンは俳句に関心を寄せています。同じ韓国の人気詩人リュ・シファによる俳句翻訳書「一行でも長すぎる」を手掛かりに、その魅力を記しています。芭蕉の「閑さや岩にしみ入る 蝉の声」もあげていますが、彼がとくに共感しているのが次の句。
 「この炭も 雪被さりし 梢なり 多田友」
 今は炭となっているが、以前は木の枝で、そこに雪が積もったこともあって、という炭の歴史が短い字数に凝縮されている、というわけです。
 ヌルボもなるほどと思いましたが、今まで知らなかった俳句で、作者も初耳。ネットで探してみましたがわからずじまいです。

 ほかにも、安東に暮らしている童話作家の長老・権正生(クォン・ジョンセン)を訪ねたところ、その清貧さに自ら恥ずかしさを覚えた話等々、紹介したい部分はありますが、長くなりすぎてもよくないのでここまでにしておきます。
※権正生の作品はいくつか読んだことがありますが、1937年東京の貧民街で生まれたことは初めて知りました。

付記①:本書で彼自身が記しているところによると、この時まで彼は7冊の詩集を刊行し、「合算して40万部売れた」とのことです。彼は韓国がそれだけ詩文学が広く受け入れられている国だと言っているわけですが、その中でも彼は本がよく売れる詩人です。

 ひとつだけ、よく知られた彼の短い詩を紹介します。

   너에게 묻는다
연탄재 함부로 발로 차지 마라
너는
누구에게 한번이라도 뜨거운 사람이었느냐

   おまえに尋ねる
 煉炭の灰を
 むやみに足で蹴るな
 おまえは
 だれかにとって 一度でも熱い人だったのか


付記②:本ブログ4月10日の記事で、アン・ドヒョンが「鮭」同様<大人のための童話>として「蒸気機関車 ミカ」という本を出していることを紹介しました。「鮭」は1996年刊行以来100万部に達するロングセラーで、日本では「幸せのねむる川」の題で出ていました。

付記③:たまたま昨日の「ハンギョレ新聞」のサイトで、6月2日の統一地方選挙に向けて、アン・ドヒョンが若者に投票をよびかける記事が掲載されていました。
 <左寄り>の「ハンギョレ新聞」だけでなく、<右寄り>を代表する「朝鮮日報」にも以前「アン・ドヒョンのラブレター」が200回連載されたことがありました。今も「朝鮮日報」のサイトで見ることができます。

付記④:「オー!マイニュース」のサイト中に、「アン・ドヒョンの詩は軽いか?」という見出しで彼の詩の魅力を分析した記事がありました。

付記⑤:5月13日の記事でチョウセントラについて書きましたが、この本によると「1922年、慶尚北道の大匿まで虎の雄が一頭、射殺された。野生のトラは韓国の地から完全に姿を消してしまった。したがって虎による災い、すなわち「虎患(ホファン.호환)」という言葉も韓国から次第に消えていった」とあります。

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韓国内の映画 Daumの人気順位 と 週末の興行成績[5月21日(金)~23日(日)]

2010-05-25 22:35:24 | 韓国内の映画の人気ランク&興行成績
 1週間前の5月18日は光州事件30周年だったんですが、素通りしてしまいましたねー・・・。いろいろニュースとか、それについて考えることもあったんですが・・・。近いうちに記事にします。

 さてカンヌ国際映画祭。昨日のニュースによれば、最高賞のパルムドールはタイのアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の「ブンミおじさん」が受賞。腎不全で死期の近いブンミおじさんの家に、死んだはずの妻と、長い間家を留守にしていた息子が猿人になって戻るという、輪廻の世界に現実が絡まった奇妙なストーリー。審査委員長のティム・バートン監督は「この手の作品は好きだ」との感想、彼ならそうでしょ・・・。
 韓国映画関係ではイ・チャンドン(李滄東)監督の「詩」(ポエトリー)が脚本賞。非コンペ部門の<ある視点>部門に招待されたホン・サンス監督の「夏夏夏(ハハハ)」は<ある視点>大賞を獲得した。主演女優賞可能性が高いいわれた「詩」の主演、ユン・ジョンヒは受賞を逃し、残念。

   ★★★ Daumの人気順位(5月25日現在上映中映画) ★★★

【ネチズンによる順位】

①ヒックとドラゴン  9.5(186)
②トイ・ストーリー3D版  9.3(67)
③しあわせの隠れ場所  9.3(559)
④境界都市2(韓国)  9.3(68)
⑤Desert Flower  9.2(43)
⑥トイ・ストーリー2 3D版  9.1(57)
⑦僕のヤクザみたいな恋人(韓国)  9.1(158)
⑧信念の勝負  9.1(46)
⑨実家の母(韓国)  9.0(325)
⑩回復(韓国)  8.9(112)

 ①と⑦が初登場。ともに後述。

【専門家による順位】

①詩(韓国)  8.7(8)
②境界都市2(韓国)  8.2(8)
③ハート・ロッカー  8.1(9)
④パリ20区、僕たちのクラス  8.0(7)
⑤ハハハ[夏夏夏](韓国)  7.7 (10)
⑥マイレージ、マイライフ  7.7 (4)
⑦ヒックとドラゴン  7.6 (9)
⑧ディア・ドクター(日本)  7.5(4)
⑨大いなる静寂  7.5 (2)
⑩僕のヤクザみたいな恋人(韓国)  7.3(3)

 ここでも⑦と⑩が新しくベスト10入り。①はネチズンの評点は8.9。どちらも高いです。

   ★★★ 韓国内の映画 週末の興行成績[5月21日(金)~23日(日)] ★★★
         「下女」はトップ陥落。しかし10位内に韓国映画が6作品
順位・・・・題名・・・・・・・・・・・・・封切り日・・・週末観客動員数累計・・・・観客動員数・・・・上映館数

1・・ヒックとドラゴン・・・・・・・・・・・05/20・・・・・・・・・782,296・・・・・・・・・・・・・・・・897,441・・・・・・・585
2・・下女(韓)・・・・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・494,442・・・・・・・・・・・・・・1,735,442・・・・・・・529
3・・ロビンフッド ・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・472,494・・・・・・・・・・・・・・1,243,861・・・・・・・499
4・・アイアンマン2 ・・・・・・・・・・・・04/29・・・・・・・・・248,345・・・・・・・・・・・・・・4,322,727・・・・・・・326
5・・僕のヤクザみたいな恋人(韓)・・05/20・・・・・・235,654・・・・・・・・・・・・・・・・279,622・・・・・・・252
6・・エルム街の悪夢 ・・・・・・・・・・05/20・・・・・・・・・・47,921・・・・・・・・・・・・・・・・・56,820・・・・・・・114
7・・大韓民国1%(韓)・・・・・・・・・・05/06・・・・・・・・・・40,724・・・・・・・・・・・・・・・・378,813・・・・・・・113
8・・詩(韓)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・・31,897・・・・・・・・・・・・・・・・・96,671・・・・・・・148
9・・雲から抜けた月のように(韓) ・・04/29・・・・・・・・30,889・・・・・・・・・・・・・・1,359,657・・・・・・・147
10・・ベストセラー(韓) ・・・・・・・・・・04/15・・・・・・・・・・10,676・・・・・・・・・・・・・・1,090,452・・・・・・・・39


 「下女」は1週でトップ陥落。
 かわって1位はアメリカの3Dアニメのファンタジー・コメディ。クレシッダ・コーウェルによる同名児童小説を映画化。ちょっと弱虫のバイキングの少年ヒックは、わがままな小ドラゴンと力を合わせて巨大な凶悪ドラゴンと戦う、という物語だそうで、日本公開はやっぱり未定かな?韓国題は「드래곤 길들이기(竜の飼いならし)」。
 5位、アパートの半地下部屋で暮らす3流ヤクザ(パク・チュンフン)の隣りに、彼を恐れもしない熱血女(チョン・ユミ)が越してきて・・・。この映画について<韓国映画スタッフブログ>の記事をみると、チョン・ユミに対して以前から「すごい女優が誕生する!!」と注目していて、今回は「ついに、主役です」と興奮気味。そこまでいわれると見たくなりますね。あ、「家族の誕生」で見てるか。(え? 「甘い人生」にも出てたの?) また半地下部屋に個人的な(つらかった)思い出があって、いろいろ詳しく書いてます。別のあるサイトでは「度胸ないやくざと度胸だけ強い女が指輪下方隣りで会って・・・」などと意味不明な記事がありました。韓国語学習者なら、「반・지하방(半・地下房)」を自動翻訳が「반지・하방(斑指・下方)」と区切る所を間違えたな、とわかるはず。
 6位は1984年の同名ホラー映画のリメイク。日本では6月26日公開。
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高層マンションの間取りにも韓屋の伝統が継承されている (「図説 ソウルの歴史」より)

2010-05-24 21:05:26 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 5月20日の記事で紹介した砂本文彦「図説 ソウルの歴史」(河出書房新社)。私ヌルボが興味をもった箇所は他にもいろいろあるので、かいつまんで紹介します。

マダン(마당.マダン)という言葉には催し等を行う場という意味と、韓屋の中央の、四方を建物に囲まれた中庭をさす場合があります。
 後者のマダンは、祭祀(チェサ)や宴会、あるいはキムチ漬けの場で、「各部屋をつなぐ廊下というものがない」韓屋にあって「各部屋の相互を跨ぐ中心の場」という役割を担っているとのことです。

 砂本先生によれば、「こうした両班(ヤンバン)住宅の平面構成は、ソウルの街角のあちこちにある現代的住宅の最先端、超高層マンションの住宅平面にも影響を与えているといわれる」とのことです。
 つまり、マダンがそのまま居室化し、その居間から個室に扉一枚で直結する「居間中心型住宅」になっているというわけです。
 「居間から子どもたちにひと声かけると、いっせいに全員が顔をのぞかせる。母はキムチをつけながら娘をたしなめる。・・・」
 こんな韓国ドラマの基本の光景が、現代では高層マンションの居間で展開し、歴史物ではマダンでくり広げられる、「同じ類のものだ」とのことです。

 私ヌルボ、マンション(韓国ではアパート)暮らしの韓国人家庭を訪れたことはほんの数回しかありませんが、言われてみればたしかにそうかも・・・。
 ちょっと韓国サイトでアパートの間取り図(下参照)を見てみたら、これまたな~るほど、でした。

    


※[2011年4月14日の追記] 2010年9月、ソウル近郊の新都市のマンションにお住いの韓国人家庭を訪ねたら、廊下がありました。ダイニングからトイレや子ども部屋に行くには、廊下を通って行くという造りになっていました。

19世紀末まで、漢城の路上にはバラックが立ち並んでいた。
 国王の行幸(コドゥン.거둥)に際しては、その1週間前の予行演習の時に南大門通りのバラック建ての商店はすべて撤去される。しかし行幸の後は一夜で店は元通りに・・・。
 このことはイザベラ・バード「朝鮮紀行」にも記されていました。
 このバラック建ての商店を<仮家(가가.カガ)>といって、辞書を引くとこれが<가게(カゲ.店)>の語源だとか・・・。な~るほど、ですねー。
 当時の写真(下参照)を見ると、たしかに並んでますね。藁ぶきのバラック(초가집.チョガチプ)、「朝鮮紀行」でいうところの<屋台店>が・・・。

   
     【この写真は本書にも「朝鮮紀行」にも掲載されています。

 砂本先生による次のようなコメントも少しおどろきました。
 「元来、漢城では敷地という概念が希薄で、土地に対し建築があるのではなく、建築に対し土地が付属している感じだった。・・・・道路境界線についても似たような感覚があり、・・・・商人の思うままに道路にまで商店建築が「浸食」していくのである。・・・・また、選挙した「道路」を私有地の如く転売することもあったという。」

 ・・・こうした仮家の建築が禁止されたのは1890年代半ばで、それによる都市景観の変化については「朝鮮紀行」にも記されています。

終戦後、南山の朝鮮神宮は朝鮮人により破壊されたのではなく、日本人神官が<昇神の儀>を行って神を抜いた後、9月から解体を初めて、10月8日神官自らが奉焼した。・・・これについては、「秘録 大東亜戦史 朝鮮篇」で森田芳夫という人が少し書いてましたね。

鍾路の交差点にある普信閣について詳しく書かれています。1399年現在の仁寺洞の入口付近に建てられて以来何度も焼失・再建を繰り返し、現在のものは前の普信閣が朝鮮戦争で焼失した後1979年再建したもの。
 朝鮮時代後期は夜8時にここの鐘が鳴るのを境に男たちは家に引きこもり、反対に昼間は家にこもっていた女性が家から出て遊んだり友人を訪ねたりしたということです。
 ・・・これはイザベラ・バード「朝鮮紀行」に書かれていることで、この本でもそのまま引用されています。このように男女の外出時間を分けたのは、儒教の教えによって男女がむやみに顔をあわせないようにした、ということです。

    
 【本書にも掲載されている「かつての普信閣」ですが、いつ頃のものなのか不明。】

 「図説 ソウルの歴史」については、他にもいろいろ注目した記事があるのですが、もう十分すぎる字数になってしまったのでここまでにしておきます。
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[韓国の囲碁] 棋士たち、アジア大会代表チーム入りをめざして熱い戦い

2010-05-24 18:23:56 | 韓国の文化・芸能・スポーツ関係の情報
 いやー、「西原理恵子の人生画力対決①」(小学館)、すっごくおもしろいなー、なんて読みふけっていた結果、昨日upするつもりだった記事が今日にずれ込んでしまいました。

 韓国では、今高校野球大会中で最も歴史のある第65回青竜旗大会の真っ最中。主催する「朝鮮日報」のサイトによると今日と明日が準々決勝。

 よく拝読している「犬鍋のヨロナラ漫談」の記事等々にもあるように、韓国で野球部のある学校は全国で53校。4000校以上の日本と比べると2ケタ違います。(張本さんが以前TVで嘆いてました。) しかし8つの全国大会が乱立。ほとんど野球オンリーの、プロ選手志向の選手たちといえどもキツイでしょうねー。

 ・・・とここまで入力しておきながら、実はこれからが本題。
 高校野球と逆に、韓国の方が日本に比べて裾野が2ケタ広い(?)が囲碁の世界。
 以前「韓国語ジャーナル」23号で洪マルグンセムさんが語ってましたが、あ、日本で活躍しているアマ棋士ですが、(えっ最近プロになったの? えっっ4月に洪清泉に改名したの? えっっ11歳でプロ棋士になった故・藤沢周行名誉棋聖の孫娘・藤沢里菜さん洪道場出身なの?)
 彼によると韓国の囲碁道場(碁会所・囲碁教室)の多さはたしか(不確か)日本と2ケタ違うそうです。とくに少年が多いようですよ。

 そんな裾野の広がりを反映して、ウィキの国際団体棋戦の優勝国一覧をみると、2000年以降の韓国優勝回数は中国と同数の21回。わずか2回の日本を圧倒的に凌駕しています。
 個人戦の方は、やはり2000年以降で韓国は37回で中国の17回を圧倒しています。中でも李世乭(イ・セドル.이세돌)の13回、李昌鎬(イ・チャンホ.이창호)の8回は抜きんでています。ちなみに日本は4回だけで、その顔ぶれも王立誠趙治勲張栩(2回)と、これで日本代表って・・・。

 囲碁といえば、今年11月中国・広州で開かれるアジア大会(아시안게임)、囲碁が初めて正式種目となりました。「え?え?え?」という感じですが、<囲碁は頭脳のスポーツ>という認識が広まっているそうです。チェスは前回のドーハ大会から採用で、今回は囲碁とともに中国将棋も採用されました。
囲碁は団体戦の男子(5人制)と女子(3人制)、男女が交互に打つ混合ダブルスの3種目が行われるとのことです。

 アジア大会は、プロ棋戦のように巨額の賞金が出るわけでもなく、日程もハードですが、「朝鮮日報」の記事によれば韓国の棋士たちは非常に強い意欲をみせているとか・・・。
 その大きな理由としてあげられているのが兵役免除。2年前から条件が厳しくなって、今はアジア大会金メダルで免除特例が受けられます。(オリンピックは銅メダル以上。) 2年間の空白はプロ棋士にとって大きく、兵役を済ませていない(←미필.未畢という)多くの棋士は何とかチーム入りして金メダルをめざしたいところ。※兵役を終えたことは군필(軍畢)

 代表の選考は、プロ棋士240余人の5月のランキング20位が対象。13~20位が1次予選から、7~12位が2次予選から、3~6位が最終予選から出場して代表の座4つを争います。で、ランキング1・2位の李世乭・李昌鎬は予選なしで最初から代表入り確定。

 ところが、李世乭・李昌鎬を含め20人中9人はすでに兵役免除が確定しているのですが、彼らの大部分が兵役未畢者よりやる気になってるとか・・・。
 その理由というのが「国家代表になること自体が名誉!」というもの。ここらへんがやっぱり韓国らしいところですね。昨年の大ヒット映画、タイトルからして「国家代表」は冬季オリンピックのジャンプ競技チームの話だし、「私たちの生涯最高の瞬間」はアテネ五輪の女子ハンドボールチームの話だし、「田舎少女を金メダリストに育てた重量挙げコーチと、女子中重量挙げ部の奇跡の神話が始まる!」という「キングコングを持ち上げる」は・・・、少し違いますか? まあいいですか?

 というわけで、韓国棋士たちの意気込みが記事から伝わってきます。「朝鮮日報」自体もかなり熱くなっていて、別の記事をみると2014年の仁川でのアジア大会の種目に「囲碁はないのか!」と声を荒げています。

 ・・・で、日本チームの方はいかがあいなっているのでしょうね?
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韓国オタクの佐賀旅行② <出会い>に恵まれた有田陶器市

2010-05-22 23:58:06 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 4泊5日の佐賀旅行からもう3週間。記録の方は初日の吉野ヶ里歴史公園から進んでいません。
 で、今回がやっと2日目の有田です。

 李参平が祖という有田焼、韓国オタクとしては当然すぎる見学地です。

 佐賀駅からGW中の有田陶器市に合わせた臨時列車・快速有田陶器市号に乗ると、押し合うほどではないにしろ込んでまして、ちょっとしんどいなー、と思っていたら韓国語がすぐ近くから聞こえてくるではありませんか!
 見ると、7・8人ほどの若い女性グループですよ。で、私ヌルボ、「韓国からいらっしゃったのですか?」(←韓国語)と問うと「はい」。「観光ですか?」→「いえ、留学生です」→「どちらの学校ですか?」→「ここです。佐賀の短期大学です」・・・とのことで、ヌルボ、きょろっと見回すと、引率の先生がいらっしゃいました。

 挨拶&自己紹介を交わすと、佐賀女子短大の長沢雅春先生とのこと。
 いやー、今回の旅行で何がラッキーだったといって、連日の好天にもましてこの長沢先生と出会ったことが一番の僥倖でしたね。
 朝鮮総督府統治下のいろんな文化を研究されていて、韓国の大学に勤務されていたこともあり、当時の書籍等の資料をご自身多数収集したり、また韓国の図書館にある関係資料のデータベース化も進めていらっしゃるとか。

※帰宅後「近代日本と韓国・朝鮮半島」というサイトを拝見すると、その研究の一端や、先生のプロフィールが載せられていました。また、総督府は朝鮮人に「教育を施した」か「教育を低水準に抑えようとした」のか、<嫌韓>と<反日>の間の議論のネタにもなっている教育政策に関して、普通学校制度についての論考もネット上に公開されていました。

 私ヌルボ、有田の町や有田焼について予習をほとんどしてなかったこともあり、東有田で下りて、学生のみなさんといっしょに長沢先生にご案内していただくことにしちゃいました。

    
 有田陶器市はなかなかの賑わいでした。(上写真)
 建物自体風格のある店がいくつもあり、主だった店を長沢先生に教わって入ってみました。深川製磁ですごく気に入ったティーカップがあったのですが、52,500円という値札を見て、今回は見送ることにしました。香蘭社でも、心の中で「うぉ~っ」と叫んだ洒落た花瓶だかがあったのですが、これも367,500円だったので悩むことなく今回は見送りました。

     
       【 深川製磁の風格ある建物 

 陶山神社。えっ、ホントは「すえやま」なんですか? 「とうざん」も通称とあるから間違いではないんでしょうが・・・。
 祭神が、応神天皇・鍋島直茂・李参平。朝鮮人技術者が、天皇とともに祀られるというのは、今の韓国の人からはどのように見られるかな、と思いました。
 以前何かで、「朝鮮の側からみたら彼は裏切り者である」と読んだか聞いたかしたことがあったような・・・。しかし今いくつか韓国のサイトをのぞいてみるとそうでもないようです。
 その中の1つ、「TOMO’s Travelog」というブログを読んでみると、以下のような記述がありました。

 「伝えられるところでは、李参平は壬辰倭乱の後朝鮮に帰れる機会があったにもかかわらず日本に留まったという。士農工商の階級によって技術者がさげすまれるわが国に比して、日本に残るのが待遇が良いためだ。代々技術者をさげすむわが国の風潮が今日の陶磁器先進国の座を日本に譲った理由ではないかと、残念に思うばかりである。」

      

 「陶祖李参平碑」(上写真)はこれまで写真で見たとおり。(大きくも小さくもなく、という意味。)
 記念写真を撮る時、学生の皆さん歌なんか歌っちゃって楽しそう。ノリのよさそうな歌、何という歌かたずねると、ギャグマンのパク・ミョンスの「ネンミョン(冷麺)」とか。
 ※これも帰ってから探ってみると、昨夏MBCの「無限挑戦」でパク・ミョンスと少女時代のジェシカが歌ってヒットした曲で、「中央日報」のコラム「噴水台」にもとりあげたりしてました。
 「冷麺」の歌、とりあえず聴いてみたい方は→コチラ

 学生さんに「チンダルレ(진달래.ツツジ)がきれいですねー」なんて話したら、「赤い花のものしかチンダルレといわない」とのこと。シロツツジのことは、えーと、何とかおっしゃってましたが、ちゃんとメモとってなくて、わかりません。「흰진달래(シロツツジ)」でネット検索するとちゃんとヒットするんですけどねー・・・。

 陶山神社の社殿に行くと、鳥居から狛犬から欄干に説明板等々、ぜーんぶ陶器製。いやー、ハッハッハ。このこだわりは見上げたものです。(下写真)

        

※長沢先生は、「日本社会文学会」という学会の理事とのことです。そのサイト中の「機関誌「社会文学」総目次」を見ると、韓国・朝鮮関係の投稿も多く、それ以外にも惹かれるタイトルがいくつもあって、これまでおよそ学会などとは無縁に生きてきたヌルボも少なからず興味を覚えた次第です。

 有田駅前で長沢先生と別れ、佐賀県立九州陶磁文化館へ。ここではとくに<柴田夫妻コレクション>に注目。江戸時代初期から幕末までの有田焼を時代順に並べていて、その変遷がよくわかりました。

     
タコの足を図案化した蛸唐草は1750~80年代。いったい誰がこんなユニークな文様を考えだしたんでしょうね?

 いやー、暑い中、でかいバッグを抱えてずいぶん歩きましたが、実にみのりの多い1日でした。有田15:50発の松浦鉄道(やっぱり第3セクターね)に乗って伊万里でJR筑肥線に乗り換えて17:12に唐津着。時間的にもちょうどよかったですね。

★5月30日の付記
 白いツツジの件、昨日韓国人女性と話す機会があったので聞いてみました。
 すると「チョルチュク(철쭉)」という花の名が出てきました。さっそく電子辞書を引くと「クロフネツツジ」とあります。
 また「ヨンサンホン(연산홍)」というのもあるそうです。
 帰宅後ウィキペディア等で探ってみたら、クロフネツツジは薄桃色の大輪の花で、「ツツジの女王と呼ばれることもある」とのことですね。
 ヨンサンホンは辞書になし。「燕山紅」かな、と見当をつけて韓国のサイトを見ると、本来は연ではなく영で、漢字は映だか霊だか暎だか迎だかいろいろあってわからず。
 またチョルチュクとヨンサンホンの違いも、韓国人の間でもよくわからないようです。そういえば、日本人でもツツジサツキ、そしてシャクナゲの違いがちゃんとわかる人がどれほどいるか・・・。
     
              クロフネツツジ(チョルチュク)
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都市・建築史の観点からの斬新な叙述 「図説 ソウルの歴史」

2010-05-20 23:12:38 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 「ドラマ「英雄時代」を読み解く」、「イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む」、「佐賀旅行記」等々、別に催促されているわけでもないですが、連載記事の重圧(?)から逃避するような気持ちで、なんとなくツンドクになっていた砂本文彦「図説 ソウルの歴史」(河出書房新社)を読み始めたらとてもおもしろく(←ボキャ貧の典型)、イッキ読みしてしまいました。

 著者は現在広島国際大学工学部准教授で、専攻は都市・建築史。つまりふつうの(?)歴史学の先生が書いた本じゃない、というのがこの本を特徴づけています。

     

 あとがきで砂本先生は次のように記しています。
 「ソウルというまちは本当に不思議なまちで、訪れるものを惹きつけるか、もうダメと思わせるかの二つに一つである。・・・・市場でのショッピング、韓国料理、雑踏、政治や歴史、そして韓国人(韓流スターも)。どれかにひっかかれば深みにはまるが、そうでないと拒絶反応を示してしまう。本書はこのうちソウルの都市や建築の歴史についてその見かたの幅とともに解説し、三つ目の反応が起こることをねがっている」。

 <三つ目の反応>、読んでみて、なるほどと思いました。
 とくに近現代の部分。

 私ヌルボの思うに、概して、日本の植民地時代を叙述した歴史書の多くは、<朝鮮総督府による苛酷な植民地統治>と、それに対する、三一独立運動をはじめとする<抵抗運動、民族文化を守る運動>を基軸にすえています。近年はそれに対し、植民地時代のインフラ整備等々、近代化によるプラス面を強調する本、さらには植民地支配自体を肯定的に評価する本もいろいろ刊行されています。

 歴史学者の先生方には、そうした自らの史観自体が歴史的な産物であることをもっときっちり自覚してほしいものだとヌルボは僭越ながら思うわけですが、その点砂本先生の叙述は、むしろ理科系の研究者ならではの先入観を排したアプローチで、共感を覚えました。

 たとえばヌルボも何かで読んだことのある、朝鮮総督府と京城府庁舎の形が「日」と「本」の字になっているという説について。これらは「日帝が朝鮮民族の精気を圧殺し、植民地統治永久化をはかったもの」といわれたりしています。いかにも俗説っぽい話ですが、砂本先生は「こうした言説が生まれた時代背景にこそ着目するべきである」と述べています。すなわち、その背景には1980年代に生まれはじめた<ポストモダン建築>があるとのことです。
 文字を建築デザインにまで取り込むようになっていたポストモダン建築の視点から、「日帝」に対する猜疑心を増幅させつつ見た結果、こうした読み違えの新解釈を生んだ、というわです。
 さらに砂田先生は「建築平面が文字をかたどったのだという言説が容易に受け入れられてきた社会の素地にも着目すべきだろう。歴史とは、「今」がつくりあげていくものなのだ」と結んでいます。
 上記の<俗説>に対し、声高に否定・非難するばかりの<嫌韓派>の皆さんには、ここらへん、じっくりと読んでほしいものです。

 <思い込み>先行の歴史解釈批判の例を本書からもうひとつ。京城の都市計画について。
 日本の統治下で進められた京城の都市計画は、「オスマンにより行われたパリの大改造がモデルだった」と孫禎睦「日本統治下朝鮮都市計画史研究」(柏書房)にあるとのことです。

 「パリ・コミューンの際、コミューン軍の人民が曲がりくねった路地にバリケードをつくり、政府軍の進撃が遮断されたことを教訓にして、オスマンは街路の拡張と直線化をはかった。
 朝鮮総督府も、独立運動を恐れて京城市区改正計画をたてた。」

 ・・・というのが孫禎睦氏の結論です。
 これに対し、砂本先生はいくつもの具体的史実をあげてその説を否定した上で次のように記しています。
 「これらのことを鑑みると、「独立運動が起こって「パリ・コミューン」時の前轍を踏むこと」は、事業施行中にはほとんど意識されなかったと考えられ、孫の推論は、朝鮮総督府ならばやったであろう圧政の典型を、あえて市区改正に見出だそうとした「過剰な期待」である。

 上記の他にも、これまでの朝鮮近代史の本には載っていなかったさまざまな事実が満載されていて、写真も19世紀の街のようすから、著者の専門の各種建築物等々、実に豊富。ホントに収穫の多い本でした。

※<民族資本による建築>の高麗大学校や中央高校(「冬ソナ」のロケ地として有名)をはじめ、学校だけでもたくさん写真が掲載されています。
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海外派遣労働者による外貨稼ぎ、昔の韓国と今の北朝鮮の違い 

2010-05-19 01:34:36 | 韓国の時事関係(政治・経済・社会等)
 韓国の保守言論の代表格「朝鮮日報」については、いろいろ批判もありますが、読んでみたくなる記事が多いのも否定しがたく、私ヌルボもエンタメコリア月額313円を支払って過去記事を読んだりもしています。

 最近では、5月11日イジンソク記者が「北朝鮮の人夫と韓国の鉱夫の違い」というタイトルで書いた記事を興味深く読みました。
原文
→日本語訳(上)(下)

 このブログでも昨年12月4日12月24日、今年3月14日の記事で北朝鮮の外貨稼ぎのための海外派遣労働者のことを書きましたが、上記「朝鮮日報」の記事によると、今北朝鮮の海外派遣労働者の職種は4つに大別されます。

 それは①建設②縫製③飲食④貿易で、彼らが稼ぎだす外貨は3~4000万ドル、レストラン経営の収入は1300万ドルにのぼるとか・・・。1万数千人にのぼる彼ら北朝鮮労働者は、賃金の半額程度を<忠誠資>」の名目で当局に差し出しているそうです。

 実は韓国でも、朴正煕大統領時代の1960~70年代、外国の炭鉱に労働者や看護婦を、外貨稼ぎを目的として派遣していたとのことです。(知らなかった・・・。)

 イ・ジンソク記者は「北朝鮮も30~40年前の韓国のように海外に人材を派遣し、ドル資金を稼いでいる。しかし、北朝鮮の経済が一向に改善しないのはなぜか」と問題を提起し、記事を続けます。

 ある時西ドイツを訪れた朴正煕大統領夫妻は、坑道(←갱도なんですね)や霊安室で働く鉱山労働者や看護婦のもとに赴きます。彼らの歌う愛国歌(国歌)は涙のため最後まで歌えなかったそうです。すると、彼らを派遣した貧しい国の大統領夫妻も彼らとともに泣いたといいます。

 1963年から77年まで、西ドイツに派遣された鉱山労働者7万9000人、看護師1万人。彼らが稼いだお金を担保に韓国政府は担保に借款を確保しました。そして産業発展に投資を行い、造船所や製鉄所を建設しました。

 一方、金正日総書記はというと、周知のように最近中国を訪問しましたが、最高級のベンツに乗り、面積750平方メートルの高級ホテルのスイートに泊まったそうです。そして数年前のロシア訪問の時もそうでしたが、今回も金総書記が中国やロシアで必死に外貨を稼ぐ北朝鮮の労働者に会いに行ったという話はありません。

 イ・ジンソク記者は、最後に、朴大統領とは対照的に、「金総書記と党幹部は労働者が汗水流して稼いだ外貨を独占し、北朝鮮の住民はそのカネがどこに使われているのかも知らない。これこそが南北の違いだ」と結んでいます。

 なるほどなー。1960年代の日本では朴正煕は武力で人民を抑圧する軍事政権の親玉という印象で、金日成&北朝鮮は反米・反帝のプラスイメージが広範にありましたが、今では・・・。

 今の韓国で朴正煕大統領を評価する人たちが大勢いるのも上の記事のような話があるからでしょうね。もちろんそれで民主勢力に対する非道な弾圧等が相殺されるというものでもありませんが・・・。

 ところでところが、同じ「朝鮮日報」の2008年の過去記事の中で、「ドイツ派遣鉱夫らの賃金担保に借款説は事実無根」というのを見つけまして、レレレのレーとなってしまいました。

 調査にあたった過去史整理委員会が借款を提供したドイツ債権銀行に確認したら、「借款提供は派遣鉱夫や看護士とはまったく関係ない」との回答を得たとのことなんですよ。
 さらに、「鉱夫・看護士の賃金担保借款導入説」は90年代、朴正煕政権の一部関係者が「鉱夫5000人と看護士2000人を派遣し、彼らの給与を3年間、ドイツのコメルツ銀行に強制的に預け入れる方式で借款を導入した」という主張により明らかになった、とあります。
 記事によると、過去史整理委員会は「しかし、ドイツに派遣された鉱夫や看護士らが韓国の経済発展に寄与したことは事実」だとしているそうです。

 朴大統領が西ドイツの炭鉱を訪れた時のエピソードは(誇張や脚色があるにしろ)事実でしょうし、関連の美談が場合によっては意図的に作られ、それが受け入れられていくのも、朴大統領の<力量>といったものかもしれません。
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韓国内の映画 Daumの人気順位 と 週末の興行成績[5月14日(金)~16日(日)]

2010-05-18 23:06:16 | 韓国内の映画の人気ランク&興行成績
 現在カンヌ国際映画祭の真っ最中。登場人物が悪者ばかりという北野武監督の新作「アウトレイジ」もコンペ部門に参加ということですが、「プレス上映では暴力描写に耐えきれず、席を立つ記者もいた」との報道もありました。韓国からも後述の2作品が参加。23日の受賞作品発表が楽しみです。

   ★★★ Daumの人気順位(5月18日現在上映中映画) ★★★

【ネチズンによる順位】

①しあわせの隠れ場所  9.3(547)
②トイ・ストーリー3D版  9.3(63)
③境界都市2(韓国)  9.3(68)
④Desert Flower  9.2(43)
⑤信念の勝負  9.2(39)
⑥義兄弟(韓国)  9.1(2098)
⑦トイ・ストーリー2 3D版  9.1(56)
⑧アバター  9.1(4914)
⑨ミルク  9.0(62)
⑩実家の母(韓国)  9.1(319)

 順位の上下が多少あっただけで、10作品の顔ぶれに変化なし。

【専門家による順位】

①アバター  9.3(8)
②詩(韓国)  8.8(8)
③預言者(A Prophet)   8.3(9)
④境界都市2(韓国)  8.2(8)
⑤ハート・ロッカー  8.1(9)
⑥パリ20区、僕たちのクラス  8.0(7)
⑦シリアス・マン  8.0(6)
⑧ハハハ[夏夏夏](韓国)  7.7 (10)
⑨マイレージ、マイライフ  7.7 (4)
⑩ディア・ドクター(日本)  7.5(4)
 
 ②が新登場で、以下は順位が一つずつ下にずれました。②については後述。

   ★★★ 韓国内の映画 週末の興行成績[5月14日(金)~16日(日)] ★★★
         話題の韓国映画「下女」がトップですが・・・・

順位・・・・題名・・・・・・・・・・・・・封切り日・・・週末観客動員数累計・・・・観客動員数・・・・上映館数

1・・下女(韓)・・・・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・662,677・・・・・・・・・・・・・・・・822,151・・・・・・・677
2・・ロビンフッド・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・477,748・・・・・・・・・・・・・・・・552,028・・・・・・・644
3・・アイアンマン2・・・・・・・・・・・・04/29・・・・・・・・・328,506・・・・・・・・・・・・・・3,970,275・・・・・・・600
4・・雲から抜けた月のように(韓) ・・04/29・・・・・・・98,286・・・・・・・・・・・・・・1,286,199・・・・・・・337
5・・大韓民国1%(韓)・・・・・・・・・05/06・・・・・・・・・・35,206・・・・・・・・・・・・・・・・308,167・・・・・・・241
6・・ベストセラー(韓)・・・・・・・・・・04/15・・・・・・・・・・34,676・・・・・・・・・・・・・・1,068,200・・・・・・・164
7・・詩(韓)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・05/13・・・・・・・・・・29,205・・・・・・・・・・・・・・・・・37,534・・・・・・・192
8・・実家の母(韓)・・・・・・・・・・・・・04/22・・・・・・・・・・13,412・・・・・・・・・・・・・・・・460,091・・・・・・・114
9・・ケロロ軍曹 誕生!・・・・・・・04/29・・・・・・・・・・・7,316・・・・・・・・・・・・・・・・113,081・・・・・・・・83
    究極ケロロ 奇跡の時空島であります!!(日)
10・・しあわせの隠れ場所・・・・・04/15・・・・・・・・・・・7,129・・・・・・・・・・・・・・・・345,383・・・・・・・・43

 カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に参加した韓国の2作品「下女」「詩」がそれぞれ1位と7位に初登場。2位も新顔です。
 2007年「シークレット・サンシャイン」で同映画祭主演女優賞を受賞したチョン・ドヨンが、今回の「下女」の主演。故キム・ギヨン監督の同名作品(1960年)イム・サンス監督がリメークしたもので、家政婦と関係を持った男が破滅していく姿を描く。チョン・ドヨン、ドラマ「星に願いを」(1996年)では主役のチェ・ジンシルの同郷の友人というダサい役柄を演じていましたが、今や押しも押されもせぬ大女優ですねー。ただ、今回は話題性でもってトップにはなりましたが、評価をみると専門家が6.8、ネチズンに至っては5.1という低さですから、いつまで続くか疑問。
 7位の「詩」の方が「シークレット・サンシャイン」のイ・チャンドン監督の作品。娘が預けた孫と暮らす生活保護者の祖母が、文学講座を受け、生まれて初めて詩を書くことになるというストーリーだそうで、設定だけで判断するとコチラの方が一般のウケはよさそう。祖母役のユン・ジョンヒ(1944年生)は15年前「マンムバン(만무방.漢字不明)」という作品に出演して大鐘賞の女優主演賞を獲得していますが、それ以来の映画出演ということで話題になっています。
 2位、ラッセル・クロウ、ケイト・ブランシェット等々の豪華キャストによるおなじみの物語。日本だけなぜか秋頃公開予定というのはなんでなの??
 6位、主演のオム・ジョンファ、歌にドラマに映画に、活躍してますねー。先日5月6日、「中央日報」が2面にわたって彼女を特集してました。それによると、かつてMBCのコーラス団員だった彼女がチェ・ジンシルのショー番組に出た時にチェ・ジンシルのマネージャーの目にとまって芸能界入りしたとか。そんな縁でオム・ジョンファはチェ・ジンシルとはずっと<절친(チョルチン.切親>=とても親しい間柄だったそうです。オム・ジョンファらついてもっと詳しく知りたい&韓国語の勉強をしたい方は「中央日報」のサイトでご覧下さい。
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「毎日新聞」の「日韓併合100年 忘れ得ぬ人々 第3部」は樺太残留の朝鮮人の話

2010-05-17 22:01:06 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 5月14~16日、「毎日新聞」のシリーズ「日韓併合100年 忘れ得ぬ人々」は、第3部として、終戦後樺太に取り残された朝鮮人の中で、韓国に帰国した人たちの現在を伝えています。
 上~下の各内容はおよそ次の通りです。

「日韓併合100年 忘れ得ぬ人々 第3部」 上 「「樺太」の3800人、韓国へ」
 ・・・・日本の敗戦後、残留を余儀なくされた樺太の朝鮮半島出身者。やっと90年代になって日韓両国政府の協力で韓国への永住帰国が始まり、今までに約3800人が帰国している。ソウル近郊の安山市の団地「故郷の村」には帰国者約800人が暮らすが、高齢で言葉や就職の壁は高く、サハリンの子や孫とは別れて住んでいるため孤独の影も漂う・・・。

「日韓併合100年 忘れ得ぬ人々 第3部」 中 「戦時中の貯金を返して」
 ・・・・かつてサハリンの炭鉱などで働いていた朝鮮半島出身者(とその遺族)11人が郵便貯金などの払い戻しを求めた裁判で、東京地裁で今年中にも判決がでる見通し。なお、11人が現在住んでいる所はサハリン、韓国、日本に分かれる。

「日韓併合100年 忘れ得ぬ人々 第3部」 下 「3世、半島は「留学先」
 ・・・・釜山の東西大で学んでいるサハリン生まれの韓国系ロシア人3世たちは、思い入れの深い祖父母たちの世代と違い、歴史の重みも感じず、前向きな考え方。

※「かつて樺太と呼ばれたロシア極東の島、サハリン」と「上」の冒頭にありますが、今も日本人の多くは樺太と呼んでいるんじゃないですか? <朝鮮人>ではなく<朝鮮半島出身者>と表記している点は、一般紙としては妥当でしょうね。

 このシリーズの第1部については2月12日の記事、第2部については3月26日の記事でコメントしました。
 後の方の記事で、第3部以降では誰をとりあげるのか予測してみましたが、みごとにはずれ。今回ははじめて無名の人たちへの直接取材が中心で、これでは当たらないのも無理はないでしょう。
 ただ、「戦前~戦後という時代、日本と朝鮮・韓国という時代と国の間で翻弄された人生を歩まざるをえなかった人物である」という条件に照らせば、まさにぴったりあてはまります。

 たまたま私ヌルボ、昨日ドラマ「英雄時代」の第17話をDVDを見ていました。時代は1944(昭和19)年です。戦況の悪化を背景に、朝鮮人の徴用も増えて行き、主人公のテサン等のところにも徴用令状が届きます。徴用をめぐる彼らの噂話の中で、「サハリンとかいう所へ行った人は皆死んで帰るとか・・・」という話も出てきました。

 上記の「毎日新聞」の記事には「数万人の朝鮮半島出身者が炭鉱などで働いた」とありますが、ウィキの「在樺(ざいか)コリアン」の項目にあるように、数万人が南樺太へ出稼ぎや徴用により移住していたのです。
 ところが、第二次世界大戦で日本が敗戦するとソ連が南樺太を占領し、米ソ引揚協定により樺太からの引き揚げ対象者は日本人に限定され、引揚者の選択もソ連当局が行うこととされて、樺太の日本人は日本に引き揚げていったのに対し、朝鮮人は帰国できず、現地に留まることとなったのです。
 朝鮮人も帰国を希望していたにもかかわらず、ソ連としては、この朝鮮人の労働力が石炭、パルプ、水産業に重要な役目を果たしていたため、彼らの帰国を認めなかった、ということです。

 樺太といえばもうひとつ。これもたまたま今読んでいる本が西牟田靖「僕の見た「大日本帝国」」(情報センター出版局.2005)。かなり話題になった本ですが、内容はというと、樺太・南北朝鮮・旧満州・台湾・かつて日本が統治した南洋諸島に、神社など往時の日本の建物を訪ねたり、昔を知る人と話をしたり、というもの。

     
  【考察等があまり深くない分、イッキに読めます。

 著者がこのテーマを設定したきっかけが、2000年夏のサハリン旅行。当初は原付バイクで島を縦断するのが旅の目的だったが、現地で日本語や韓国語を話す人が多くいることに驚き、彼らと話し、また山の中腹にとり残されている鳥居を見る・・・、その体験が彼を旧大日本帝国へ向かわせたということです。

   
      【樺太に今もとり残されている鳥居。

 アマゾンのレビュー等では「もっと勉強しろ!」等々厳しい評価もありますが、1970年生まれのフツーの日本人ということを思えば、その旺盛な行動力はマイナス分を補ってあまりある、とヌルボは思います。
 この本については、いずれ改めて記事にするつもりです。

 もとに戻ってこの「毎日新聞」のシリーズ第3部について。若い世代の多くが知らない歴史事実、それも日本やソ連という国に翻弄された人々(まさに<棄民>ですね)をとりあげた点で、いい記事だと思います。
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韓国では記念日が続く5月、横浜でまったりとデプコンのラップを聴いて・・・

2010-05-16 22:26:47 | 韓国の音楽
 韓国は5月は祝祭日・記念日が続く月。5日の子どもの日は日韓共通ですが、韓国ではその後8日には両親の日(어버이날)と続きます。
 5月21日(金)は旧暦4月8日、つまり釈迦生誕日(석가탄신일.釈迦誕辰日)で公休日ですが、14日(金)、市街にはもう提灯が飾られたりしています。

   
   【世宗路にも提灯がたくさん飾られていました。(2007年4月29日ヌルボ撮影)

 昨日15日は<先生の日(스승의 날)>。以前GWに韓国に行った時は、いろんなところで<先生の贈り物>のセールをやっていました。(→「朝鮮日報」の関連記事)

   
    【龍山駅ビルで。「先生の日 贈り物セット」「お早めにご準備を」とあります。(2007年4月30日ヌルボ撮影)

 また5月第3月曜日、つまり明日17日は休日にはなりませんが<成年の日(성인의 닐)>
(→<コネスト>の関連記事)

 はてさて、増える一方のネタの整理がつかないまま、韓国ドラマを観たり、「ちょっと食べ比べてみるか」と韓国風カップ麵&カップスープをいくつか食べてみたり、K-Popを聴いたり、図書館に行って韓国紙を読んだりなんかして、ますますもって収拾がつかない状態になってしまいました。(汗笑)

 はてさてはてさて、今流行っているK-Popの中では、デプコン(데프콘)というラッパー自身の作詞・作曲の「ラッパーたちが別れる方法(래퍼들이 헤어지는 방법)」に注目。フィーチャリングで参加しているレーシングモデルのク・チソンがクールに、なかなかいい雰囲気で歌っています。まあ、→YouTubeで聴いてみてください。

 ラップだけあって、韓国語の聴き取りはヌルボの語学レベルではほとんど無理。一応歌詞を下に載せておきます。同レベルの学習者の皆さんは参考にしてください。

그 사람이 나를 떠나요 눈물이 마르질 않죠
불안한 이별이 또 시작된건지
사랑이 나를 떠나요 언젠간 돌아오겠죠
I can not live without you love no more

Yeah it your boy D-conn
this song is (another 두근두근 레이싱)
break ups to make up make ups to break up
break ups to make up make ups to break up

I never 사랑만 남겨두고 떠나버린 너
난 또다시 그 상처를 안겠지
가질수 없는게 그 사람이라면
I can not live without you love no more

hey 미안 이렇게 되버렸어 난 역시 안돼 내버려둬
I will make it feel another woman
딴 사람에게 꽂혔어 나 그건
잔인한 짓이라고는 생각해도
내 감정을 속일수는 없는법
같이 걷는것 밥 먹는것 이제 그만해라 말 놓는것
일주일 뒤에는 번호가 바뀔꺼야
어차피 모르는 번호로 바뀔꺼야
억지로 술 마시거나 하지는 마라
사랑해보면 아무것도 아냐
니 남자친구는 래퍼라서
말을 요딴식으로 밖에는 못해
야속해 더는 맘 속에 손해
보는 일은 하지마 그게 더 독해

I never 사랑만 남겨두고 떠나버린 너
난 또다시 그 상처를 안겠지
가질수 없는게 그 사람이라면
I can not live without you love no more

친구들이 많이 위로 위로 해주겠지
남자들은 많아 믿어 믿어 해주겠지
얼른 잊어버리고는 딴 사람 찾아
더이상은 바보같이 딴따라딴딴
한꺼번에 많은걸 다 줘버린 여자야
착해 너는 그것밖에 없잖아
신비롭지 않은 그런 연애방식
질려 지겨워 안해 절대 다시는
아쉽고 안 아쉽고가 무슨 소용이냐 싶고
이별을 준비하는 네 자세가 서툴어서 싫고
니 남자친구는 래퍼라서
말을 요딴식으로 밖에는 못해
야속해 더는 맘 속에 손해
보는 일은 하지마 그게 더 독해

I never 사랑만 남겨두고 떠나버린 너
난 또다시 그 상처를 안겠지
가질수 없는게 그 사람이라면
I can not live without you love no more

한번만 나를 두고 고민을 해줬으면
우리의 사랑이 이렇게 끝나는게 난 너무 싫어

그 사람이 나를 떠나요 눈물이 마르질 않죠
불안한 이별이 또 시작된건지
사랑이 나를 떠나요 언젠간 돌아오겠죠
I can not live without you love no more

사랑만 남겨두고 떠나버린 너
난 또다시 그 상처를 안겠지
가질수 없는게 그 사람이라면
I can not live without you love no more


 デプコンとは何なんだ?と思ったら、英語のdefcon。Defense Conditionの略で、防御(戦闘)準備体制のことなんだそうです。
 芸名もさることながら、なかなかの悪ラツそうな(?)面がまえで、経歴等探りを入れてみたら、案の定(??)、ちょっと前に「彼女は堕胎中(그녀는 낙태중)」という曲で論議をひきおこしたこともあるとか・・・。タイトルも歌詞も過激で、特定のインターネットTVの女性ジョッキーをターゲットにしたような歌なんだそうです。

 歌詞を知りたい方は→コチラのサイトを参照されたし。

 概して、韓国の方が日本よりラップの占める比重が日本より大きいように思われますが、日本のラップ事情についてはよくわからないのではっきりしたことは言えません。
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韓国オタクの佐賀紀行① 吉野ケ里遺跡の鳥竿(ソッテ)

2010-05-14 23:13:09 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 5月5日の記事で黄金週間の佐賀旅行の旅程を紹介しました。

 仕入れたネタはたくさんあって、すでに虹の松原のゴミの話とか、羊羹の話とか、変化球的なネタはupしましたが、今後は一応オーソドックスな形でまとめてみますね。

 5月2日、佐賀旅行最初の見学地は吉野ヶ里遺跡です。
 JR吉野ヶ里歴史公園駅に降り立つと、横浜から前泊地博多を経て来た私ヌルボにはとても広々とした感じの風景。公園まで徒歩15分はちょっと遠いな、と前夜ガイドブックを見て思いましたが、朝市ということで道の両側に軽トラックがずらっと並んで食料品等々いろんな物を売っていて、眺めながら歩くうちに着いていました。

 朝食抜きで来たので、まずは腹ごしらえと、食堂に入って食べたのがやよいおぼろ膳980円(写真)。豆腐は大好きだし、健康にもよさそうですが、レタスやトマトは弥生どころか江戸時代だってなかったぞ、とツッコミを入れたくなります。タマゴの食用も明治からでしょ。キュウリは6世紀頃中国から伝来、ですか。こんにゃくとか豆腐の歴史は・・・等々考えたらゆったりと食べていられまへんがな。しかし、正真正銘の弥生時代食なんて出すとなると、かえってテマヒマがかかるかもねー。

   
 【やよいおぼろ膳」と銘打ってるから、ついつい考えてしまいました。

 さて肝心の吉野ヶ里遺跡ですが、やっぱり広い。ひろ~~~いです。

   
  【櫓(やぐら)の上から見ると、はるか彼方にも復元住居が見えます。

 歴史の本とかで見た環濠もしっかり確認してきました。

   
     【急なV字形の、深い環濠です。

 そして韓国オタクとして私ヌルボがまず着目したのが、各エリアの入り口の上部の木製の鳥です。吉野ヶ里遺跡からこれが出土しているとは知りませんでしたねー。
   
   【単なる装飾じゃなくて・・・。説明は見ませんでした。どこかにあったのかな?】

 北内郭主祭殿の屋根にもありました。

 
  【このように復元したのには、確固とした根拠があるのでしょうか?

 この<鳥竿(とりざお)>、韓国語で<솟대(ソッテ)>という木製の鳥について知ったのは、土俗の乱声(1991年)という東アジア各地に共通する習俗を扱った見応えのあるドキュメント映画でかなり詳しく紹介されていたからです。

 日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。
 Innolifeのサイト中にも<村を守る民間信仰物、ソッテ(鳥竿)>という記事がありました。
 その記事には「ソッテはその起源が青銅器時代に溯るほどとても長い歴史性を帯びており、またその分布も満州、モンゴル、シベリア、日本に至る広範囲な地域に及んでいる。これはソッテが北アジアシャーマニズムの文化圏で、悠久の歴史を帯びた信仰対象物であることを傍証してくれるものである」とあり、また韓国各地のソッテや、その関連の行事等を紹介しています。

 そういえば、私ヌルボか以前仁川の市街地で下の写真のような造形物を目にしました。これもやっぱりソッテのバリエーションですね。

   
   【とても大きく、重量感があります。

 また、ヌルボは行ったことのないソウル市内の有名な観光スポット三清閣にもソッテがあるみたいですよ。

   
  【いつかは三清閣に行って、最高級の韓定食でもいただいて・・・と、思うだけ。

 吉野ヶ里遺跡については、土器等々、他にもいろいろありそうですが、思い切って今回の記事はここまでっ。

付記:萩原秀三郎「稲と鳥と太陽の道」という本がここらへんにまつわる信仰・民俗を詳述しているそうですが、何よりも、この本を紹介している当代の大読書人・松岡正剛さんのサイト「千冊千夜」の記事だけで十分以上にすごい、です・・・。
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イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(2) 朝鮮半島のトラ

2010-05-13 22:19:23 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む (予告編)
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(1) 虐殺される8ヵ月前の閔妃と会見。 

 今日は朝からさわやかな晴天。私ヌルボは横浜市立野毛山動物園に行ってきました。
 目的は、サルでも見て優越感に浸り自信を取り戻そう、というのではなくて(優越感というより親近感?)、「アムールトラを見に行く」です。

 朝鮮では昔から(文字通り「トラがタバコを吸っていた頃(호랑이 담배 먹을 적.昔々)」から)昔話や伝説によく出てくるおなじみの動物で、ソウル五輪の時にもホドリ(호도리)という名のトラがマスコットになってましたね。
    
   【ソウル五輪のマスコット<ホドリ>。もう22年経ったんですねー。】

 トラを大別すると東南アジア方面にいるベンガルトラとロシア極東のアムール川、ウスリー川方面のタイガ(森林)1に棲息するアムールトラ。シベリアトラ等ともいわれます。
 そして古来朝鮮半島にいたチョウセントラ(한국호랑이)も、そのアムールトラに含まれるのだそうです。

このチョウセントラ、今の韓国にはもちろん野生のものがふつうにいるわけではありません。ところがイザベラ・バード「朝鮮紀行」を読むと、彼女自身が襲われたり目撃したりしたわけではないですが、けっこういたようなんですねー。
 ・・・ということで、今回のテーマ。

[オドロキその2]19世紀末、朝鮮半島にはトラがたくさん(?)いた。

 イザベラ・バードが朝鮮を訪れた頃、つまり日清戦争前後で、トラといえば思い起こされる人物が与謝野鉄幹
 彼は当時朝鮮に行き、「閔妃暗殺事件にも関与した」という説が韓国側から主張されたりもしています。
 事件後、広島検察庁での裁定では事件当日のアリバイありということで彼は免訴になっています。
 しかし1896(明治29)年刊行の歌集「東西南北」所収の「僑居偶題」という詩には「去年の夏のこのごろよ、われ韓山に官を得て、謀るところも多かりし、それも今更夢なれや、・・・」という一節もあったりして「何なんだ、この<謀るところ>というのは?」との疑念も起こらないでもないですが・・・。

 その「東西南北」に、朝鮮の千仏山で詠んだ「尾上には、いたくも虎の、吼ゆるかな、夕は風に、ならむとすらむ。」のようにトラが詠み込まれている歌が収められています。(「尾上」は山の頂。)

 「東西南北」と、翌年の「天地玄黄」で彼の<虎剣調>は世に知られるわけですが、私ヌルボは与謝野鉄幹の大言壮語癖、虚勢を張りたがる人となりからして、「夜トラの吼える声を聞く」なんてのもホラ話のように受け止めていました。
 ところが「朝鮮紀行」を読むと、たとえば以下のような記述が・・・。

 まず序章には、
 「トラとヒョウはおびただしく棲息し、・・・(ビーバー、カワウソ、アナグマ、オオヤマネコ等々もあげられている)」
と記されています。

 さらに各地をバード自身踏査する中では、次のような記述があります。
 「漢江沿いの山々には、・・・傑出したけものはここでもやはり朝鮮全国の例にもれず、トラである」。
 最初は彼女も懐疑的でしたが、たえず耳に入るうわさ話、数ヵ所で実際人や家畜がいなくなっている事実、人々の怖がりようを見聞きしたり、「元山のこぎれいな地域においてさえ、わたしの到着する前の日に少年と幼児がさらわれ、町を見下ろす山の斜面で食べられてしまったことから、わたしも信じざるをえなくなった」。

 「たいへんな量の旅をする」という朝鮮人も「トラと鬼神がこわいので夜間は出歩かないが、・・・どうしても夜間に旅をしなければならない場合は、旅人たちが集まってちょうちんを揺らし、たいまつを振り、鉦(かね)をたたいて大声をあげながら道を行く。トラに対する恐怖はあまりに広く浸透し、中国のことわざが「朝鮮人は年の半分トラを狩り、あとの半分はトラが朝鮮人を狩る」と請け合うほどである」。
 その他、高価なトラの毛皮を得るために、ワナを仕掛けて捕獲したトラは毒殺させるか餓死させる話とか、泊めてもらった宿で、トラが入らないように戸締りをしっかりしろと注意されたこと等々、トラに関する記述が随所にあります。

 さて、ことほどさように100年ばかり前にはたくさんいたトラが今では(ほとんど?)いなくなったのはなぜでしょうか?
 韓国版ウィキの「シベリアトラ」をみると、「日本の植民地時代の狩りと、朝鮮戦争による棲息地破壊によってトラやヒョウがほとんどいなくなった」とあります。

 そして、「現在は北朝鮮の一部地域で、棲息していると発表された」とか、「1998年江原道でトラの足跡が発見され家畜が殺されていた」と、トラが生存しているという主張が提起された」ということです。

 野毛山動物園に貼ってあったアムールトラの説明によると、野生のアムールトラは400~500頭くらいで、絶滅危惧種に指定されているとか。

 最近のニュースでは、昨2009年、韓国政府はロシアから野生のトラをつかまえてきて、DMZ(非武装地帯)に放す(!)という計画を検討しているとのことでした。
 また、韓国野生トラ・ヒョウ保護保存研究所というのがあって、<韓国トラを探して・・・>というリッパなウェブサイトも運営しているし、今も韓国人のトラに対する思い入れは熱いものがあるようです。

     
韓国野生トラ・ヒョウ保護保存研究所のメンバーは植民地時代の日本人のトラ狩りに対する抗議行動もしてます。2006年3月日本大使館前。

 さて、野毛山動物園のアムールトラですが、隣りのオリのライオンが来園の幼稚園児等の目の前に堂々たる姿を現していたのに対して、トラの方は寝所で体を丸くして惰眠をむさぼり続けるばかり。
 私ヌルボも、大した写真は撮ることができませんでした。
 たしかに東南アジアのトラに比べて毛色が白っぽく、寒さに対応して毛が長いというのは確認しましたが・・・。

   
   【オリの奥で惰眠をむさぼるアムールトラのメイメイ。

   
    【アムールトラの説明。世界でいちばん大きいトラです。


   
    【メイメイからは想像もつかないチョウセントラの雄姿。

 → 関連記事<チョウセントラの過去と現在> ①
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イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(1) 虐殺される8ヵ月前の閔妃と会見。 

2010-05-12 23:25:12 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 4月28日の記事で<イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(予告編)>を書いてから2週間も経ってしまいました。

 読書メモが散逸しないうちに本論に入らなければ・・・、ということで、初回はこの本の中で、近頃年のせいか滅多なことには驚かなくなってる私ヌルボが「さうだつたのか!」と吃驚した箇所をいくつか挙げてみましょう。

[オドロキその1]イザベラ・バードは閔妃と4度も会見し、その最後の会見の8ヵ月後閔妃は殺害された。

 1895年1~2月、イザベラ・バードは2度目の朝鮮訪問をしています。
 時代は日清戦争中で、朝鮮の王室・政府にとって非常に厳しい時局の真っ只中ですが、その短い間、彼女は閔妃からの内々の招きを受けて景福宮に行き、閔妃と高宗、皇太子と会ってるんですねー。さらにその後3週間の間にさらに3度も。「三度目は正式なレセプションで、四度目は厳密に内々の面会で一時間を超えた」とあります。

       
   【イザベラ・バードの写真。閔妃に会った時は63歳でした。(この写真は何歳の時のものか不明)
 
 「心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなり」、「気骨と目的意識に欠けていた」国王高宗の質問事項も興味深いです。(国と王室の財政が未文化だったようだし、立憲君主制の説明等は不可能とか・・・。)
 また閔妃の溺愛を受けていた一人息子の皇太子は「だれの目にも完全に身体障害者であるという印象をあたえていた。・・・謁見中の大部分を母と息子は手をとり合ってすわっていた」

 閔妃については次のように描写されています。

「どのときもわたしは王妃の優雅さと魅力的なものごしや配慮のこもったやさしさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。」

       
閔妃の肖像(?)[石版画]。歴史書や日本史の教科書によく載っていた写真は実は宮女という説も・・・。

 当時、閔妃は当時43歳。「国王の父の大院君をはじめとする敵に囲まれていた」とのことで、「毎日が闘いの日々」だったといいます。大院君が閔妃の実弟宅に時限爆弾入りの箱を送り、彼女の母、弟、甥等が殺害されたとのことです。(国の危機に、何をやっているのか・・・。)

 最後の謁見の際に、閔妃が当時のイギリスのヴィクトリア女王について語った言葉が印象的です。

 「あの方は望みのものをすべてお持ちです。偉大さも富も権力も。ご子息とお孫さんは王なり皇帝におなりだし、お嬢さまは女帝におなりです。栄光のなかにいらっしゃる女王陛下に哀れな朝鮮のことをお思いくださいとお願いするのはむりでしょうね。女王陛下は世のためになることをいっぱいなさっています。立派な人生を送っていらっしゃいます。女王陛下のご長命とご繁栄をお祈りします」。

 イザベラ・バードは、この言葉について「かの古い歴史を持ちながらもぐらついている玉座の占有者からこのようなことばを述べられては、まさしく心に熱いものを覚えずにはいられなかった」と記しています。

 2月5日にソウルを発った彼女は、その後中国(清)の南部・中央部を何ヵ月間か旅行し、夏には日本へ渡ります。10月長崎で閔妃暗殺のうわさを聞いて、彼女はソウルに直行します。
 まさに激動の時代。またその中でイザベラ・バードのなんと行動的なことか。

 およそ王室とかに対する思い入れは皆無といっても過言ではなく、また閔妃についてもかなり厳しい見解をもっている私ヌルボではありますが、上記の閔妃の本心を吐露したような言葉には涙が出そうになりましたねー。8ヵ月後の事件のことを思うとなおのこと・・・。

 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(2) 朝鮮半島のトラ
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(3) この本は韓国で・・・
 → イザベラ・バード「朝鮮紀行」を読む(4) 断髪令が命取りとなった開化派政権
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