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ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

在日コリアンのさまざまな人間関係と葛藤を描いた深沢潮の小説を読む

2017-08-14 23:58:33 | 在日の作家と作品
        

 深沢潮(ふかざわ うしお)の小説を続けて3冊、1週間で読了しました「ハンサラン 愛する人びと」(その後「縁を結う人」と改題して新潮文庫から刊行)、「緑と赤」「ひとかどの父」の3冊です。
 深沢潮は日本名の作家ですが、両親は在日韓国人で、自身は結婚・妊娠を機に日本国籍を取得したという女性です。
 以下は、主に「ハンサラン」についの記事ですが、私ヌルボの感想は、アマゾンの「縁を結う人」の(現在のところ)お二方のレビュー(→コチラ)とほとんど同感の★5つで、それらより良い文章は書けそうもないので、ちょっと視点を変えて書いてみます。

 この「ハンサラン 愛する人びと」は6つの短編で構成されています。
 その最初が「金江のおばさん」で、この作品は2012年第11回R-18文学新人賞を受賞しました。
 主人公の<金江のおばさん>は70歳くらいの在日2世。総連の婦人会の人脈を生かして30年来手広く在日の間の結婚を仲介してきた<お見合いおばさん>で、この1編だけでも見合いする男女や、見合い以前の破断、あるいは日本人との結婚の事例等々、実に多様な在日の諸家庭や個人の事例が描かれています
 本文は27ページと短いものの、登場人物がなんと21人!(かな?) この短編だけでも独立性はあるので上記の賞を受賞したということでしょう。

 2つ目の短編は「四柱八字」。四柱推命のことを韓国ではこういうそうです。
 主人公のミスクは20年ほど前に来日して在日男性と見合い結婚したニューカマー女性、45歳。新大久保で<風水>占い専門のチジョンハルモニの下で四柱推命の占い師として働いています。
 ところが、後の方でチジョンの知り合いということで紹介された客が上述の<金江のおばさん>の夫。病気の娘のこと、北朝鮮に行った息子のこと、孫の進学のこと等々の相談を受けます・・・。

 3つ目以降の各短編にも、前に出てきた人物が少しずつ登場します。
 要するに、この「ハンサラン」は短編集のように見えて、実は6つがすべて連関しているのですね。最初の「金江のおばさん」の登場人物21人中、10人(?)が後の5つの中でも出てきます。つまり、連作短編集というのでしょうか。
 先に名前がちょっと書かれている程度の<端役>が後の方で主人公になっていたりもしています。(その主人公もおばあさんから中学生までと幅があります。)

 つまり、これだけの全体的な構想を立てた上で書かれた小説だったのですね。当然のことながら、冒頭にも書いたようにさまざまな在日の諸家庭や個人が描かれています。
 それぞれの家庭の違い(「北」か「南」か? 日本人・日本社会との<距離>、チェサ(法事)等の伝統を守るか?等々)や、世代の差異が多くの葛藤を生みます。
 おそらく、作者自身の体験・経験がこの小説の随所にちりばめられているのではと思います。
 そして日本人も。韓国人と結婚した日本人、露骨な差別者、「気にしない」と言う者、「韓流」ファン等々。

 「緑と赤」でも、ヘイトスピーチや、若い在日世代の<民族アイデンティティ>のゆらぎといった問題を、登場人物の主人公を「ハンサラン」と同様に移行させる手法で、多角的に浮かび上がらせています。

 私ヌルボがこれまで読んだ在日作家の作品は、自分の体験が生(なま)に近い形で書かれたものがほとんどでした。(李良枝「由煕」とか、最近では崔実「ジニのパズル」とか・・・。)
 しかし、深沢潮の場合は、上記のように巨視的視点と微視的視点の双方から、客観・主観の間を行き来しつつ叙述することで、自分自身にも当然あっただろう種々の葛藤を冷静に見つめ、昇華しているのではと思います。それは本人の資質ゆえか、年の功ゆえか(?)・・・。
 その分、読者としても悩み苦しむ主人公とともに重苦しい気分に沈むこともなく、文体自体も軽めなのでエンタメ小説のような読まれ方もありえると思います。
 (そしてまた、強い「思い込み」や「押しつけがましさ」がないのは、今の時代の雰囲気を反映しているのか、もしかしたら(良くも悪くも)日本人っぽい感性になりきっているのか(??)そこらへんはよくわかりませんが・・・。)

 「ハンサラン」が2012年で、1970年代の日韓間の問題等を扱った「ひとかどの父へ」と現在のヘイトスピーチ問題を取り上げた「緑と赤」が2015年刊行。作者が自身のツイッター(→コチラ)で「2012年に受賞してから、自分のなかに堆積していたものをもとに小説を描いていたことが多かったけれど、特にここ最近からは、取材をして物語を構築していくのが増えたし、そのプロセスがとても好き。」と書いているのはこれらの作品のようです。
 アマゾンの読者レビューも多くは高評価ですが、「ひとかどの父へ」のレビュー(→コチラ)の中で(日本国籍の取得を)「私は同化というふうには思わない。韓国籍のままそこで闘うという姿勢ではなくて、日本のメンバーになって在日のために何ができるのかという思いはすごくある」という著者の発言に対して「はい。わかりました。要するにスパイする為に帰化したと。。」と★1つの最低評価を下しているものがありました。
 すると、日本在住の外国人や、日本国籍を取得した外国人も共に住みやすい社会を志向する日本人は「裏切り者」とよばれてしまうのか・・・?
 「深沢潮」で検索すると、同様の記事や動画がいくつもヒットします。
 日本国籍を取得しようがしまいが、「朝鮮人の血が流れている」ということだけで忌避する人たちは、「度量の広さが日本人の美徳」とは思わないのでしょうか? 近年よく使われる「残念な人たち」とはこういう人たちを指すのかな? やれやれ。

[追記] 在日社会について私ヌルボが知らなかったことを知ったのも大きな収穫でした。チェサ(祭祀.法事)の時に作るチヂミジョンは違うものなのですか? (そう書かれていたけど。) ヌルボの理解では、家庭でふつうチヂミと言ってるものを店ではジョンというとたしか教わり、そう思ってきましたが、今ネット検索するといろいろあるようですね。

        


[関連過去記事] →<在日コリアンの8割は韓国語(朝鮮語)ができない。民族意識が強くない人も多数(推定)>(2017年2月)
 主として福岡安則「在日韓国朝鮮人」(中公新書.1993)の内容を紹介したものです。在日コリアンの意識・生活が多様化している状況がアンケート調査結果から読み取れる本で、私ヌルボ自身興味深く読みました。
 ただ、刊行されたのが1993年。以後20年以上も経ってしまいました。その後、同じような内容の本は目にしていません。一方、その間在日社会もさらに変わってきました。
 いまや2~4世(+5世の子ども)がふつうになった在日コリアン中(レベルにもよりますが)「韓国語(朝鮮語)ができない」人は8割どころか9割に達しているかもしれません。
 この新書本では<在日の多様化>のおおよその趨勢はわかっても、その変化に起因する部分も多いさまざまな在日社会内部あるいは日本人との間の対立・葛藤についてはもちろん書かれていません。それをきちんと見せてくれたのが深沢潮の小説でした。
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芥川賞候補・崔実「ジニのパズル」(や、金城一紀「GO」)と、在日の現況とアイデンティティ等々

2016-07-19 20:33:34 | 在日の作家と作品
 今午後6時半。1時間30分前から芥川賞の選考会議が始まっています。
 この記事も同時進行で作成中です。

 今回の候補作は今村夏子「あひる」・高橋弘希「短冊流し」・崔実「ジニのパズル」・村田沙耶香「コンビニ人間」・山崎ナオコーラ「美しい距離」の5作品。
 この中で私ヌルボが読んだのは崔実(チェ・シル)という在日3世の女性が書いた「ジニのパズル」だけなので、受賞作予想については何も言えません。
 ただ、作者が在日ということと、群像新人賞の選評で「超新人(ドラゴン)の出現!」と!マーク付きで大絶賛の辻原登をはじめ5人が満場一致で受賞作に決まったとのことで、発行の少し後「群像6月号」掲載のこの作品を読んでみました。(候補作中これだけが7月初めに単行本化されてるということは、それだけ話題性があり注目度が高いということか?)
 私ヌルボの感想等は後回しにすることにして、2ちゃんねるの<芥川賞・直木賞 文学賞受賞作予想スレ16>(→コチラ)を見てみると「芥川賞取りそうな順で言うと ナオコーラ>村田沙耶香>崔実 の順かね?」といった感じ。本命とはいえないまでも、有力候補なのだそうです。
 強く推す声もあります。
 「ジニのパズル」に作者の井戸の深さを感じる。又吉に授賞なら崔実は文句なしだろう。作品の完成度よりも作者の才能を第一の物差しにするべき。(村上龍が受賞したように)「ジニのパズル」は翻訳すれば世界に通用する。芥川賞をやりそこねたら、村上春樹や吉本ばななに授賞しそこねたのと同じことになってしまう。」とか。
 また、<芥川賞・直木賞 文学賞受賞作予想スレ15>(→コチラ)の「確かに題材勝ちで、このようなテーマを持ってこられると、今の日本人は太刀打ちできないジニwというカキコミには、以前ある在日韓国人(朝鮮人?)に友人(日本人)が「在日の人生には物語があってうらやましい」と語ったという内容の記事をよんだことをなんとなく思い出しました。これはかなり前からの芥川賞だけではない日本の近年の純文学のあり方の問題かも。私ヌルボ、きのう宋基淑「光州の五月」という小説をイッキ読みしましたが、こういう社会的なテーマ(光州事件とその後)を扱った純文学は近年の(・・・って、この30~40年?)日本ではホントに少ないからなー・・・。
 そこいくと、なるほど「ジニのパズル」は<社会的な問題>もたしかに含まれてはいます。主人公のジニは在日の女の子で、日本人が通う小学校で差別を受け、中学からは朝鮮学校に通うが・・・、という設定。しかし、差別とか民族学校のことはあくまでも素材。崔実さん自身も「朝日新聞」のインタビュー(→コチラ)で語っているように、差別や暴力への憤りや悲しみが色濃くにじむ物語になったが「何かを社会に訴えるために書いたわけじゃない」とのこと。たしかにそのとおり・・・。むしろ在日としてのアイデンティティ(←ベンリ&安易な言葉)といった内面的な問題に取り組んでいます。その点は同じ在日の高校生を描いた金城一紀「GO」(2000年)とは対照的。「GO」の方は直木賞受賞作だけあって明確なエンタ。主人公杉原はケンカも強いし恋愛もあったりして楽しめます。彼女に在日であることを打ち明けられないといった悩みも描かれていますが・・・。(読書に楽しさを求める方には「ジニ~」よりゼッタイこちらがオススメ。)  翌2001年にさっそく映画化された(窪塚洋介&柴咲コウ主演)のもむべなるかな、です。
 ※「GO」の方は小・中学が民族学校で高校から一般の日本の私学。「GO」も「ジニのパズル」も、主人公の小学校~高校の経歴は作者とおおよそダブっています。(参照→金城一紀ロングインタビュー)

 さて、この「ジニのパズル」の受賞を明らかに望んでいないのが朝鮮学校と朝鮮総聯でしょう。
 「GO」の杉原少年のような痛快な(?)暴力とは全然違うものの、ジニが朝鮮学校でしでかしたことも、もしかしたらそれ以上に「過激」なことです。それは、その学校社会の中での黙契(「約束事」)を打ち破る行為。具体的には、最高尊厳の御真影を毀損し、その虚構に対し抗議すること・・・というと、およそ見当がつきますよね。
 この「事件」の結果学校にはいられなくなってアメリカへ・・・。で、この作品はそのアメリカの場面から始まっています。(∴最初はわかりにくい。)
 ・・・私ヌルボ、ちょっと考えたのは、もしこれが受賞して(しなくても)映画化でもされたら「そのシーン」はどう撮るのか?ということ。
 昔はすごかった(?)朝鮮総聯の威光も今は見る影もないからどう撮ってもOK?
 日本人のアナタ(って、ヌルボも日本人ですが)にお聞きしますが、映画の中で「国民統合の象徴」の写真が毀損されるシーンはありえますか? 戦前・戦中ならもちろんダメですよね。では現代では? 外国の国王や元首だったら?
 いずれにしろ、この小説について今朝鮮学校の側(&支援者)がコメントすることがあるとしたら、「遺憾な内容を含んでおり、これに関連して学校や生徒たちに対する非難や差別があってはならない」といったあたりでしょうか。
 もっと強気なら(受賞した場合)「このような作品を受賞作とすることに強く抗議する」と言いたいところでしょうが・・・。(弱気なら「これは個人的な作品であり異議を唱えるものないが・・・」。)
 ヌルボは北朝鮮政府や朝鮮総聯については総体的に批判している立場ですが、ヘイトスピーチはもちろん反対。しかしこの作品はヘイトに結びつく要素はないのでは?と思います。
 それよりも、日頃思うのは、在日の現況についてあまりよく知られていないのでは?ということ。
 たとえば、在日の何割くらいが韓国語を話せるか?とか、在日の多くは韓国(朝鮮)・日本にどれだけ愛着を持っているか?とか、在日の何割くらいが「差別を受けている」という認識をもっているか等々。一言で言えば、「一言では言えない」ということなんですけどね。(笑) 韓国・朝鮮人の血を引く人たちにも国籍は朝鮮(←「北朝鮮」ではない)・韓国・日本とさまざまだし、また国籍や民族に自身のアイデンティティを置いている人もいれば「関係ない」と思っている人もいるし・・・。
 したがって、限られた小説や映画に登場している在日韓国・朝鮮人だけで在日全体を判断しないことです。

 この記事の見出しで「在日の現況とアイデンティティ」などと書きましたが、そこまで書くと長くなりすぎるし、「ジニのパズル」とはどんどん離れてしまうので、それらはまた別記事に回すことにし、ここまでで一区切りつけることにします。

 あっこの記事を仕上げる前に<芥川賞に村田沙耶香氏の「コンビニ人間」>というニュースが!
 むむっ、遅れをとってしまったか!
 (まあ朝鮮学校関係者はホッとしてる、かな?)  

[2016年12月14日の追記]
 在日作家の作品ではありませんが、やはり在日のアイデンティティを扱った小説に藤代泉「ボーダー&レス」があります。日本人の側から、日本人としての問題意識を掘り下げている点が注目される作品です。2009年第46回文藝賞受賞作で、同年の第142回芥川龍之介賞候補作です。
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2005年毎日新聞・萩尾信也記者が連載記事「人の証し」で金夏日さんの軌跡を記す

2013-02-03 23:15:14 | 在日の作家と作品

 東日本大震災の直後から、毎日新聞の萩尾信也記者が被災地現場で取材して書いた「三陸物語」は注目され、2012年度の日本記者クラブ賞も受賞しました。
 私ヌルボが萩尾記者の名を知ったのは、2002~03年毎日新聞連載の「生きる者の記録」からでした。同じ社会部の先輩で、末期がんで余命1年と宣告された佐藤健記者の最期の日々を綴ったドキュメントです。
 最初の秋田県玉川温泉の湯治場の記事(→参考)には大きな衝撃を受けました。この企画は佐藤健記者自身が提起したのですが、その「誰か三途の川の途中まで同行するやつはいないのか」という話を聞いて、「僕が看取りをやります」と局長に電話したのが萩尾記者でした。(「ジャーナリズムの方法」(早稲田大学出版部) 佐藤、萩尾両記者とも、なんという記者魂でしょうか・・・。

 その萩尾記者が2005年に<戦後60年の原点>というタイトルの特集企画で7回連続の囲み記事で取り上げたのが金夏日(キム・ハイル)さんのことでした。

 彼の人生の軌跡を辿るというミクロの視点が<戦後60年の原点>を探ることにつながるという萩尾記者のねらいは、通読してみて納得されました。
 金夏日さんは1939年13歳の時慶尚北道の村から家族で夜逃げして日本に渡り、東京で尋常小学校夜間部に通いながら製菓工場で働きはじめて3年後、「らい」を発症して警察を通じて多磨全生園に送られます。
 しかし45年春、家計を支えようと無断で園を出て防空壕掘りの仕事で稼ぎますが、5月25日の山の手空襲で焼け出されます。焼夷弾の雨が降る火炎地獄の中で「どうせ無用の命だ。殺せ!」と開き直った彼に聞こえたのは「ハイル!」と呼ぶ父の、そして母の声・・・。
 戦後は闇市に店を出したりもしましたが、病状が悪化し、群馬県草津の栗生楽泉園に入って以後そこで長く暮らすことになります。

           
     【「毎日新聞」2005年11月24~26日、12月1~4日掲載に掲載されました。これはその第1回の一部。】

 この7回の連載では現在(05年当時79歳)までを辿っています。記者として当然とはいえ、金夏日さんの歌集や手記すべてに目を通し、さまざまにわたって聞き取り取材をしたことがうかがわれます。客観的な記録文でもなく、作家風の随筆でもなく、なんというんでしょうね、「三陸物語」のように取材相手に対する思いが感じられる印象的な文章です。

 記事中で紹介されている金夏日さんの短歌作品は次の三首です。

  われ思う突き放されて得たるもの失せしものよりはるかに多し
  ひたぶるに眼科に通い癒えざりし視力にて仰ぐ桜は白し
   遠くより鴉(からす)の声が時をりに聞こえてをりて山は静けし

 3首目は故郷の墓地に建立された歌碑に、日本語とハングルで刻まれた歌です。
 (前の記事の、徐京植教授の選び方と比べると、それぞれ選んだ人のなにがしかを表しています。)

 前回、「あと1回続きを書きます」と書きましたが、予定変更。たぶんあと2回分追加します。


[韓国とハンセン病関連記事]






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ハンセン病の元患者、歌人・金夏日さんと、舌読と、ハングル点字のこと

2013-01-31 23:35:37 | 在日の作家と作品
 
 暮れの12月26日、偶然見た写真に、大きな衝撃を受けました。場所は国立ハンセン病資料館です。板のような物を顔にくっつけるようにして持っている男性を背後から撮った写真です。「舌読」というその題の文字を見てはじめて、彼が何をしているところかわかりました。

 ハンセン病資料館に行ったのは初めてです。「北條民雄展をやっているから行かないか」という友人の誘いに乗ったのは、「いのちの初夜」で知られる北條民雄が朝鮮生まれであり、私ヌルボと同じ徳島県出身ということが記憶の片隅にあったからです。

高山文彦「火花 北條民雄の生涯」によると、彼は1914年9月22日京城府漢江通十一番地で生まれた。父は陸軍経理部の一等計手だった。しかし母が翌1915年7月に急性肺炎で死亡し、民雄は3つ上の異母兄とともに現・阿南市の母方の祖父母の家に預けられた。

 当日、友人の運転する車は資料館正面入口ではなく敷地が隣接する多磨全生園の入口の方から入ってしまいましたが、園内の佇まいを見ると、鎖された共同体といったかつての相貌が今も窺えるようでした。

 目当ての北條民雄展は、私ヌルボの思っていたものと違って、彼自身についての展示というよりも彼が全生園にいた1934~37年当時の園についての展示で、あらためて展示のタイトルを見るとたしかに「癩院記録―北條民雄が書いた絶対隔離下の療養所」となっていました。まあ、これはこれでためにはなりましたが・・・。

 むしろこの資料館では、常設展示がなかなか充実していると思いました。その多様な展示内容は、資料館のサイト(→コチラ)でおおよそわかります。
 海外のハンセン病の現況も展示されていて、韓国については、以前読んだ李清俊の小説「あなたたちの天国」の舞台となった韓国のハンセン病療養所・小鹿島更生園(現国立小鹿島病院)のことや、定着村事業のこと等の展示物がありました。
※李清俊「あなたたちの天国」については、本ブログの過去記事で少しふれました。(→コチラ。)
定着村とは、ハンセン病快復者が自立した生活を目指して、集団である土地に入植し、農業や畜産で生計を立てていこうとするもの。1960年代から各地に作られていった。(ハンセン病については<モグネット>というすごいサイトがあって、そこに韓国のハンセン病の歴史と現状等についても詳細に記されています。(→コチラ。)

 さて、冒頭に書いた「舌読」ですが、これは目が見えない上、指の感覚を失ったり、指自体がなくなった人が、点字を舌で舐めて読むことです。
 それにしても、読むこと、生きることへの意志のなんと強靭なことか・・・。

 その後調べてみて、舌読ができる人は何人もいることを知りました。
 たとえば、多磨全生園の自治会長として、らい予防法の廃絶運動に早くから取り組んだ松本馨さん。
 彼自身の書いた舌読の記録は→コチラで読むことができます。
 半年くらい練習したもののダメだったが「最後に、舌の裏に発見した。舌先は麻痺しているが、奥になるほど知覚は鮮明である」とあります。

 そして、群馬県の栗生楽泉園で終戦直後から長く暮らしている金夏日(キム・ハイル)さん。
 彼については、徐京植東京経済大教授が「ディアスポラ紀行」(岩波新書.2005年)の最後に近い所で書いています。→コチラのブログ記事に、その部分が全文引用されています。
※→コチラの韓国ブログに、同じ部分のハングル版があります。

 この金夏日さんは1926年韓国の慶尚北道(南道?)の農家に生まれ、39年に先に渡日した父を訪ねて母や姉たちと日本に来ましたが、その2年後(41年)にハンセン病を発病、多磨全生園に入りました。一時退園しましたが、終戦後病状が悪化し、46年に栗生楽泉園に入りました。
 彼が失明したのが1949年。そして52年に点字の舌読を始めます。
 彼の著書「点字とともに」(皓星社.2003年)によると、「指に麻痺がきていて、点字を読むことができない」と(群馬県盲人会の)高橋多氏に訴えると、高橋氏が「指がだめなら唇で、唇がだめなら舌先で点字を読み取る稽古をしたらどうか」と言って「私たちを励ましてくれた」とあります。(これを「励まし」と取れるのか~、とヌルボ。)
 そして翌日から笹川佐之さん、浅井あいさんと3人で舌読の稽古に取り組みます。「二ヵ月かかってやっと五十音が読めるように」なり、3人はほぼ同時に舌読を習得。その間の「血の滲むような」努力は次のとおりです。(座談会の記録)

 「・・・じっとやっていると肩はこるし、目は真っ赤に充血するし、涙はぽろぽろ出るし、唾液は出るし、すぐに紙がべたべたになってしまい、・・・そのうちに、角が立ってきて穴があくんだね。それでもこうやっていると(舌を出して首を振るしぐさをする)濡れてぬらぬらしてくる。いつものように、唾だろう、と思ってまだやっていると、晴眼者が見て、わあ、おい血が出たぞと言われてね。舌の先から血がでているんだね。・・・」

 金夏日さんについて驚くべきことは、日本語点字の舌読習得後、さらにハングル点字を習い始めたことです。彼が日本に来たのは12、3歳の頃ですが、それまで学校に通っていなかったためハングルを知らず、点字以前にまずハングルの勉強から始めたとか・・・。そんな苦労を重ねて朝鮮語の聖書も読めるようになったとは、すごいと言うしかありません。

 金夏日さんは失明した49年から短歌を学び始め、これまでに歌集を5冊刊行しています。横浜市立図書館に第四歌集「機を織る音」と第五歌集「一族の墓」があったので読んでみました。長く「アララギ」とともに歩んできた歌人らしく、自身の生活(いろんな病気のこと等)や韓国・朝鮮関係のニュースにふれて思ったこと等が詠まれています。また、彼が家族愛に恵まれていたこと(今も韓国の親族との暖かい交流がある)もわかります。
 2003年に「朝日新聞」の記事になったことも詠まれていましたが、これは縮刷版を探しても見つかりませんでした。
 05年には韓国の故郷への墓参に毎日新聞の萩尾信也記者が同行しています。(その記事は明日読まなければ・・・。) 2006年には「週刊朝日」にも舌読の大きな写真が載ったそうです。

 湯船の中われを抱きいれ背を洗い頭も洗いてくれたり記者が
 お墓にも墓のめぐりにも自生せる紫桔梗いま盛りなり


 上掲の「ディアスポラ紀行」では、次の二首を紹介していますが、この選択はいかにも徐京植教授だなあと思わざるをえませんね。

 指紋押す指の無ければ外国人登録証にわが指紋なし
 点訳のわが朝鮮の民族史今日も舌先のほてるまで読みぬ


 たまたま声をかけられて国立ハンセン病資料館に行ったのがきっかけで「ハンセン病文学全集」(皓星社.全10巻)というすごい全集があることを知り、また森田進「詩とハンセン病」(土曜美術社)等を読んだりして、ハンセン病と在日(に限らないが)韓国・朝鮮人との深い関わりについていろいろ知ることとなりました。
 たぶん、あと1回続きを書きます。

[韓国とハンセン病関連記事]

 → <2005年毎日新聞・萩尾信也記者が連載記事「人の証し」で金夏日さんの軌跡を記す>

 → <ハングル点字のしくみを見て思ったこと>

 → <韓国の「ピョンシンチュム(病身舞)」のこと等>

 → <韓国のタルチュム(仮面舞)とハンセン病者のこと>

 → <ハンセン病と韓国文学①>

 → <ハンセン病と韓国文学② 高銀・韓何雲・徐廷柱・・・、韓国の著名詩人とハンセン病のこと>
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詩人・許南麒(ホ・ナムギ)の確固たる人生 [後編]ふと漏らした呟きの底に・・・・

2012-08-05 07:44:36 | 在日の作家と作品
 →前の記事の最後に、李恢成「地上生活者 第4部」(講談社)を読んでいて、「アラッ」と驚いた件(くだり)があったのが許南麒をとりあげたきっかけだと書きました。

 この李恢成の自伝的小説は、主人公の名こそ趙愚哲としているものの、実在の人物がたとえば慎錫範(金石範)、雁雨植(安宇植)、金鶴翔(金鶴泳)、林時鐘(金時鐘)等々、すぐ察しのつく変名で数多く登場します。
 そして許南麟とあるのがもちろん許南麒。(こんな変名にする意味がどこにあるんでしょうね? 虚構の部分があるということ?)

       
    【在日作家たちの間の人間関係、考え方の違い等が読み取れます。】

 李恢成は1961年早稲田大を卒業後、朝鮮総連そして朝鮮新報社に勤務します。
 小説では、趙愚哲が民族新聞社(朝鮮新報)の報道部にいた時、総連の「統一評論」誌に載せた小説に許南麟が目をとめ、「わざわざ報道部に立ち寄ってくれた」と記しています。「在日朝鮮人文学者の間では金達鎮と双璧の人物」で文芸同の委員長。「眼鏡の奥のちいさな目と広くて平べったいひたいをもつ彼は相手をじっと見つめ、やわらかい口調で話す人であった」。
 ・・・と、この当時の李恢成は、まだ「社会主義建設の記事を読者につたえるのが歓びだった」(「死者と生者の市」より)という頃だったので、こういう書き方になっていますが、その後李恢成も67年1月1日に新聞社を辞めることになります。
金時鐘「わが生と詩」(岩波書店)に金時鐘と梁石日の対談が収められていますが、同様の内容を→コチラで見ることができます。これによると梁石日は許南麒を批判した文を書いたために組織を出ることになったとか・・・。金時鐘も早く(1950年代)から組織批判、許南麒の作品批判を正面切って行っています。(朴鉄民(編)「在日を生きる思想」(東方出版.2004)所収の金石範との対談等)

 1966年、許南麒は総聯中央常任委員会副議長に就任し、総連内のトップレベルの地位に上りつめます。

 「地上生活者 第4部」を読み進むと、「冬季オリンピックが終って二週間ばかり経っていた」というと1972年2月。「ぼく愚哲」は学生時代以来の友人の宋東奎と「新宿西口の高速バスターミナル近くの「海辺のように大きい」喫茶店」で北朝鮮のことや組織のことを語り合います。

 (宋東奎)「トンム(=愚哲=李恢成)は林勝(=徐勝)がまだ高校生のときに中央教育部にいて、京都での合宿でコーチしたことがあったといっていたが。首相(=金日成)は林勝を義理の息子として遇している。・・・」
 ・・・などという甚だ興味深い記述もありますが、それはそれとして、許南麒のことに絞ると・・・。

 (宋東奎)「トンムは『金日成伝』を読んだかい。上質のカバーをもつ大部の本だが」
 (ぼく愚哲)「三年前・・・・六九年だかに出たやつだろう。ぼくは詩人・許南麟(=許南麒)がああいうのを翻訳しているのをみると悲しくなる。この人がはたしてあのすぐれたプロレタリア詩『火縄銃のうた』とかハイネの長詩に似せた『朝鮮冬物語』を書いた人物と同じ人物なのだろうか、と。前歴に泥を塗るようなものでしかない。なんで韓議長の詩の手直しかなんかでお茶を濁しているんだろう。自分本来の詩を発表して、なんなら副議長職を袖にするくらいの度胸があの人にあればいいんだが。惜しい人だよ」
「うむ」と宋東奎が呻った。 
 ぼく愚哲はそのときふとおもいうかんだことがあった。
 「いつだったか、あんたとぼくがタクシーで富士見町(=朝鮮総聯)まで許南麟先生を送ったときのことだ。彼が車を降りしなに洩らした言葉がいまだに忘れられない。『さあ、これから嘘をつきにいくか』。ぼくはどきっとしたがね。これが文芸同中央委員長の本心なのか。やはり抵抗詩人の片鱗はもっているんだと複雑な心境だったが・・・・」


 ・・・この文中の許南麟の洩らしたという『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉。愚哲が「どきっとした」だけでなく、私ヌルボが「アラッ」と思ったのもこの言葉です。

 在日の多くの作家や学者が組織を離れる中で、組織に残り高位に就いた彼。北朝鮮では独裁者の英雄化・偶像崇拝と異端の排除が強まり、日本の組織でも教条主義と統制が進む中、かつての「抵抗詩人」の心の内はどうだったか?

 わりと知られていると思われるヒトラー・ジョークに、
 <「知的である」「誠実である」「ナチである」という3つの命題の全てを満足することはない>
・・・というものがあります。(一部で「ヤスパースのパラドックス」とよばれているようですが、根拠不明。)
 この「ナチ」を「金日成主義者」に置きかえても命題は成り立つでしょう。
 多くの在日知識人たちは「知的」であり、「誠実」であろうとしたゆえに組織を離れるしかなかった。許南麒の場合は、早くから理念的にも社会主義の理想に浸り、組織のメンバーとして活動していたがために、祖国とその指導者の実像を見抜くに足る「知」を十分に持ちえなかったのか、とも思いましたが、上記の『さあ、これから嘘をつきにいくか』という言葉が虚構のものでなければ、彼は本心を偽っていたということになります。

 小説では、「ぼく愚哲」がそんな思い出を打ち明けると、宋東奎は次のような話をします。

 「トンムはひとに幻想を持たない方がいいよ。純真すぎるんだ。あるものをそのままの姿で見つめるべきだろうね。私はつねにそう心懸けているが。たしかにこの私もあの先生の『朝鮮冬物語』とか『朝鮮詩選』には心を躍らされた。中・高時代には朝鮮の詩や詩調(ママ)をまなんでいるからね。金素月とか詠み人知らずの『春香伝』や『沈清伝』とか。そりゃ、みごとなものだ。しかし、それは過去の話だ。いまの許南麟にはかつての抵抗詩人の面影はない。残念ながらいまの許南麟は共和国の『白峯』-どんなやつらが集団創作したか、みえみえだがね-そいつの翻訳で暇つぶしをしている牙を抜かれた人間でしかない」 
 「たしかに『白峯』著のこの読み物はいろんな点で感心しない」
 「なにのんきなことをいってる。個人崇拝のきわまれる産物じゃないか」 彼は嘲笑するようにいった。


 この小説の場面と同じ1972年、金日成主席誕生60周年に際して許南麒は金日成勲章を授与されます。
彼の伝記「鶏は鳴かずにはいられない」(孫志遠.朝鮮青年社.1993)には、その3年後彼が作った「偉大な主席に捧げる詩」(1975)が掲載されています。
 末尾6行は次の通りです。

 ああ、民族の太陽よ! 
 革命の偉大な首領
 キム・イルソン元帥よ!
 在日六〇万同胞の
 父なる
 キム・イルソン元帥よ!


 かつて彼が書いた抵抗詩と引き比べると、実に無残な思いにとらわれざるをえません。

 川村湊先生は「生まれたらそこがふるさと」(平凡社.1999)で、彼は本質的に日本語詩人にほかならなったと規定しています。自らの内なる「囚われた言葉」=日本語を駆使して「抵抗詩」を書き続けた彼が朝鮮語で書いた詩は、緊張感をすっかり喪失した、見るも無残なプロパガンダ詩にしかなっていないことがそれを例証している、というわけです。
 しかし私ヌルボは、「現実の彼の置かれた地位や立場といったものが、彼をして朝鮮語でプロパガンダ詩を書かせた」と単純に理解しています。たとえば金時鐘のような詩を彼が書くことは許されることではなかった、ということです。
 そんな現実的制約の中で生きざるをえなかった彼の「正体」が、はからずも『これから嘘をつきにいくか』と口をついて出てしまうことがあったにせよ・・・。

 その後許南麒は1977年朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議代議員に当選します。そして1988年70歳で世を去り、平壌郊外の愛国烈士陵に葬られます。その碑文に、
 「祖国の解放と社会主義建設、統一偉業のためにたたかい犠牲になった愛国烈士たちの偉勲は永遠に輝くであろう」
と記されているそうです。(「鶏は鳴かずにはいられない」による。)
 石碑を建てるのであれば、川口朝聯学園の跡地に「これがおれたちの学校だ」の詩碑を建てる方が本来の彼のためでもあり、(ついでながら)朝鮮学校無償化を求める運動の理念に沿うことになるともヌルボは本気で思うのですが・・・。

 前出の「在日を生きる思想」の中で、李恢成は英雄主義について次のように語っています。

 「在日の体制的文学者は、しばしば権力擁護のための美しい文章を書くでしょう。頌歌(オード)をね。実は忠誠を示すというより、自分の利益導入のためにやられてるんだけど。
 『冗談』や『不滅』を書いたミラン・クンデラは、スターリン時代のチェコについてこう言っているんだ。「私は『恐怖政治』の時代に抒情的迷妄が果たす傑出した役割を理解した」「それは私にとって、『詩人が死刑執行人とともに支配した時期』だった」って。これは他山の石とすべき言葉じゃないかな。」


       
  【この伝記がこんな読まれ方をされちゃったとはねー・・・・。】
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詩人・許南麒(ホ・ナムギ)の確固たる人生 [前編]ストレートな抗日詩の力強さ

2012-08-03 23:27:04 | 在日の作家と作品
 この数ヵ月、在日の小説家・詩人・学者等が書いた本や、彼らについて書かれた本をいろいろ読んでいます。最初は、今年4月亡くなった歴史学者・李進熙の自伝「海峡 ある在日史学者の半生」(青丘文化社.2000)。これについては6月1日の記事で少し書きました。
 この本には、李進熙の朝鮮大学校教員当時の同僚朴慶植(1922~98)や、朝鮮大学校を辞めた後に共に「季刊三千里」の編集者として名を列ねた金達寿(1919~97)・金石範(1925~)・姜在彦(1926~)等のことが書かれています。

 彼らをはじめ、戦後の主だった在日の小説家・詩人・学者等は、例外なく左翼人士だったと言っても過言ではありません。しかし、だからといって十把一からげに「反日左翼文化人」とレッテルを貼って全否定してしまうのは、乱暴に過ぎます。
 たとえば、上にあげたような人々が書いた自分史や、自分史的な随筆、あるいは対談等を読むと、彼らの間の関係性、より具体的には、盟友関係や相剋といったものが見えてきます。
 それも、各々が数十年の時間軸の中で生き方(拠って立つ理念、思想的政治的立場や主張等)が変わってきたりもしているわけで、3時限的に見ていくと、なかなか興味深いものがあります。

 彼らの間の対立の原因となったのは、具体的には組織(朝鮮総聯)との関係、国籍の問題(朝鮮籍のままか、韓国籍を取得するか?)、(軍政下の)韓国に行くことの是非があげられます。

 その中で組織の問題について言えば、1960年代までは在日の8割は朝鮮総聯に所属していました。当時総聯は互助的な組織として在日の人々の間に広く浸透し、また知識人にとっては社会主義が理念的に美しく正しいものに見え、金日成は抗日運動の英雄として、また新生朝鮮の若き指導者として輝ける存在に見えた時代だから総聯を選ぶのは至極当然だったわけです。

 ところがその後組織内の教条主義、金日成に対する個人崇拝等が進む中で、上掲の人々は左翼的な考え方は残しつつも、次々に組織を離れてゆきます。そして人により穏やかな脱退やケンカ別れ等の違いはありながらも、結局は全員が総聯を脱退します。

 朴憲永をはじめとする政敵、というより政敵予備軍を次々と粛清してスターリン型(&天皇制型&儒教型)独裁体制を固め、社会主義の理想を裏切っていった金日成の北朝鮮と、その出先機関の朝鮮総聯から、彼ら知識人たちが離れていったのもまた至極当然でしょう。

 しかし、組織に残ったどころか、その重要ポストにまで就いた詩人がいました。
 許南麒(ホ・ナムギ)です。
 
 私ヌルボが許南麒の詩を読んだのは、ずっと以前(70年代頃?)たぶんどこかの古書店で、青木文庫の火縄銃のうたを見つけて買ったのが最初ではなかったかと思います。
 東学の闘い、万歳事件(三一独立運動)、抗日独立闘争という3代にわたる闘争の歴史を力強く謳った叙事詩で、諸書で指摘されているように、槇村浩「間島パルチザンの歌」(1932)(→コチラ参照)と内容も形式も重なり合う部分が多いので、なんとなく日本の統治期の作品の作品かと思いましたが、彼の日本語の詩作の多くは戦後間もない頃から朝鮮戦争期に集中しています。その代表作が朝鮮冬物語であり「火縄銃のうた」です。
※「火縄銃のうた」の冒頭部分は→コチラ、説明は→コチラ参照。

 戦後しばらくの間、許南麒は川口市の朝聯学校の校長等として民族教育に携わりました。
 その頃の「これがおれたちの学校だ」等々の子どもたちに呼びかける内容の作品は、今も訴える力を失っていないと、私ヌルボは思います。

 その後1955年朝鮮総聯結成され、翌56年朝鮮大学校が創立されて、彼はその講師となり、また総聯の機関紙創刊にも参加します。さらに1959年結成の在日本朝鮮文学芸術家同盟(文芸同)委員長に就任します。
 この頃から、日本語での執筆はほとんどなくなります。
 詩想の涸渇、ではなくて、朝鮮総聯の綱領第四項で
 「われわれは在日朝鮮同胞子弟に母国の言葉と文化で民主民族教育を実施し、一般成人のなかにのこっている、植民地奴隷思想と封建遺習を打破して、文盲を退治し、民族文化の発展のため努力する」・・・とあったからなんですね。

 許南麒の経歴を見ると、1918年6月現在は釜山広域市に含まれる慶尚南道東莱郡の亀浦で生まれ、39年に東京へ。日大芸術学部映画科の学生の頃、朝鮮人学生たちで演劇団体・形象座を発足させたが、治安維持法違反で7人が検挙され、劇団は解散。彼も停学処分。40年からは中央大法学部等で学ぶ。44年からは徴用で立川の飛行機工場でプロペラ作り。
 終戦直後の45年10月からは在日朝鮮人聯盟で朝鮮語教科書編纂。映画ニュース製作等々、早くから在日組織のメンバーとして活動を始めます。

 ・・・ということで、当然朝鮮語はふつうに話せるし、学生時代から強い民族意識を持ってきているわけで、上記の母国語(朝鮮語)を基軸とする総聯の方針をそのまま受け入れ、先導していく役割も大きな葛藤や負担もなく担っていったということでしょう。
 在日の下の世代にとって、言葉の問題がはるかに重くのしかかったことを、許南麒はどれほど理解できたでしょうか? 

 その後、前述のように多くの在日作家たちは総聯から離れていきます。終戦直後は、1946年金達寿が編集長の「民主朝鮮」にも共に作品を載せていたことが、その後の2人の人生の軌跡を知ると、逆に信じられないようにも思えます。(※川村湊「生まれたらそこがふるさと」参照)
 金達寿は岩波新書「朝鮮――民族・歴史・文化」(1958)を批判されるなどで総聯を離れ、一方許南麒は逆に組織の階段を上がっていきます。

 一般に、在日の文学史、あるいは抵抗詩について書かれた本で、許南麒の名前が出てくるのは「朝鮮冬物語」や「火縄銃のうた」とともに登場するのは、1988年70歳で世を去った彼の人生のほぼ前半部分だけ、つまり総聯の組織人として重要なポストに就く以前の、詩人としての彼です。

 しかし、私ヌルボは、青年時代に「あのような」作品を書いた人物がどのような後半生を送ったか、以前から興味を持っていました。

 それがたまたま最近読んだ李恢成の自伝的小説地上生活者 第4部」(講談社)の中に、彼に関して読んでいて、「アラッ」と驚いた件(くだり)があったのです。
 それがこの記事を書くことになったきっかけです。

 ・・・という導入だけでもう3600字。例によって長過ぎですね。
 本論は[後編]で、ということにします。

 → <詩人・許南麒(ホ・ナムギ)の確固たる人生 [後編]ふと漏らした呟きの底に・・・・>
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40年前の芥川賞候補作=(故)鄭承博の「裸の捕虜」は自身の強制労働体験を描いた小説

2012-03-02 18:25:10 | 在日の作家と作品
 今回の芥川賞作家田中慎弥氏といい、1年前の西村賢太氏といい、作品外の話題がむしろいろいろ取り沙汰されています。それだけ芥川賞は注目度が高いということです。

 もし1972年上半期芥川賞候補になった鄭承博(チョン・スンバク)が受賞していれば、知名度ははるかに上がっていたでしょう。
 その前回の1971年下半期「砧をうつ女」で受賞作した李恢成の小説は、私ヌルボ、受賞作のほか、1973年に講談社文庫から出た「われら青春の途上にて」も、同文庫全5巻の「見果てぬ夢」も読みました。

 しかし、その当時は鄭承博のことを知りませんでした。いや、知ったのはごく最近です。集英社の全集「戦争×文学」の1月配本の第14巻は『女性たちの戦争』。この中に彼の裸の捕虜がありました。先述の1972年の芥川賞候補作です。

 全集「戦争×文学」については、2011年8月6日の記事でこの全集中の朝鮮関係の作品について紹介し、第19巻所収の金在南「暗やみの夕顔」の感想等を記しました。また11月3日の記事では、同全集第6巻中の木村毅「兎と妓生と」について記しました。
 全20巻(別巻1)。1冊分もボリュームのある大部な全集ので、ここまでの全部を読み切ったわけではないですが、とても充実した内容で、各巻3780円という定価がむしろ安く思われるほどです。
 何十年も前に購入した「明治文学全集」(筑摩書房)全100巻、「土とふるさとの文学全集」(家の光協会.1976~77)全15巻等とともに、私ヌルボが購入して心から良かったと思える全集になりそうです。
※集英社の全集「戦争×文学」刊行リスト一覧

 「裸の捕虜」は1972年の第15回農民文学賞受賞作で、上記「土とふるさとの文学全集」にも収められていた作品ですが、たくさんの作品を収録していて、私ヌルボ、読んだ記憶もはっきりせず、今回は初めて読むような感覚で読みました。

 時代は昭和18年(1943年)。朝鮮人なので兵として前線に送られることは免れている主人公は徴用工として入社した大阪の金属工場で食料調達係を命じられます。ところが買い出しの取締りに引っかかり、徴用から逃亡したみなされて検挙されます。そして送り込まれた所が信州。中国の八路軍の捕虜たちが強制労働されている大堰堤工事現場で、鍛冶工として働かされることになりますが、結局そこから危険を冒して脱走します。

 ・・・ネット内に<鄭承博記念館>というサイトがあり、そこに略年譜があります。「在日文学全集 第9巻」にはさらに詳細な年譜が載せられていますが(←陳腐な形容ではずかしいがすごくドラマチックな人生!)、それを読むと、この小説は彼自身の体験が主人公「鄭承徳」に仮託されていることがわかります。
 この小説では、ラストの脱出の場面では、夜は寒さで凍った共同便所の糞溜めの上を歩いてくぐり、汲取り口から外に出るというものですが、それも自身の実体験なのかもしれません。
 ところが驚くのは、このような苛烈な体験が、驚くほど淡々と叙述されていること。音声にたとえると、感情的に声を高めて熱く語るのではなく、どんなに切迫した場面でも、常人なら怒りや悲嘆に声を荒げるような場面でも、変わらずにおだやかに語り進める感じです。(それがこの作家の資質によるのか、意図的な書き方なのかはヌルボにはわかりません。)
 この点は、何人かの評者が共通して指摘していることでもあり、またそれを「難点」として見る見方もあるようです。
 
 もうひとつ。この小説からは、朝鮮人としての民族意識、あるいは日本という国や日本人に対する反抗の意識が全然といってよいほど感じられません。このような在日作家の作品は過去読んだことがありませんでした。

 「在日文学全集 第9巻」所収の年譜と林浩治氏の解説によると、1923年慶尚北道安東郡に生まれた鄭承博が和歌山県田辺市で飯場頭をしていた叔父を頼って単身日本に渡航したのは1933年、わずか9歳の時。「以後、飯場を転々とし、ほとんど教育を受けることもなく、ついには農家の作男として売られた」とか。
 13歳の時に運動の指導者栗須七郎と出会い、以後5年彼の家に住み込んで熱心に勉強し、小学校にも通うことになります。1942年には東京の日本高等無線学校に入学しますが、翌年朝鮮人への無線技術習得禁止を理由に放校処分となります。そして、この小説に描かれた大阪の軍需工場への入社となるわけです。
 要するに、彼は「在日する朝鮮人社会よりも、日本人社会における差別構造の中に身を置いた」(林浩治)のです。

 「在日文学全集 第9巻」に彼とともに作品が収録されている金泰生(キム・テセン)は鄭承博の1年後の1924年に済州島で生まれ、5歳の時に両親と生き別れて親戚に連れられて渡日しました。しかし彼は日本に来てからも同胞の集団の中で生活し、母国語の世界で過ごして、戦後は金達寿等の在日知識人たちとの広いつながりがあり、その中で「高い政治性と母国語に対するこだわり」を持ち続けました。

 「それが「在日朝鮮文学」の典型的姿」であるのに対し、鄭承博は戦後も南北朝鮮の政治には関心を示さず、「朝鮮語を忘れてしまった」と率直に語ったりもしていたそうです。
 彼は戦後も日本人社会の中で生き抜くのに必死で、さまざまな職業を転々とし、生活が安定し始めたのは1958年淡路島でバーを開店したからのことといいます。
 この間とくに在日社会との結びつきはなく、在日の知識人との交流や、自身の母国への関心はこの小説が評価を受けることによって始まったといえるようです。

 このように、民族主義的な要素、「反日的」な要素がないところから、彼の作品は多くの日本人読者の情緒的な抵抗感(?)のようなものは感じないで読めると思います。

 しかし、上述のように淡々とした筆致ではあっても、この小説の主人公、そして彼自身の受けた労苦は、日本の「下層社会」に暮らしたという点だけではなく、彼自身の朝鮮人という出自に由来することは明瞭に読みとれるし、決して看過してはならないことです。

 たまたま全集「戦争×文学」の中にあった在日作家の作品ということで読みましたが、このような作家の存在を知ることになって、よかったと思います。
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朴婉緒さんとか、選抜高校野球とか、金石範「死者は地上に」とか・・・

2011-01-29 23:56:02 | 在日の作家と作品
 寒いと眠たくなります。クマの気持ちがわかります。(冬眠は気持ちの問題じゃないか・・・。) アタマの働きも一段と鈍くなるようです。

 この1週間、韓国関連でいろんなネタがありました。
 李秀賢さん、例の新大久保駅での事故からもう10年も経ったのですね。
 小説家朴婉緒さんが22日に亡くなったのは意外でした。昨年もエッセイ集「行ったことない道が美しい」がベストセラー上位に入ったりして、80歳直前でも現役作家として活躍していたのに・・・。あ、昨年8月教保文庫でのサイン会&インタビューの時の動画(約6分)→コチラで視聴できます。ハングルの字幕付きなので聴き取りが苦手の人も大丈夫! 彼女のことをご存知なかった方もぜひ見てみてください。とても感じのいいおばあ様ですよ。日本語訳の動画もあります。(自動翻訳なので開城個性になってる等々かなりヘン。)
 それから、サッカーの日韓戦もありましたね。

 個人的には、一気に読了した本が「趙容弼 釜山港へ帰れ」(三修社)。1984年刊行の自伝です。これも古本の本田靖春「私のなかの朝鮮人」(1972.文春文庫)は読みかけ。
 その他、ドラマ「19歳の純情」関係で、延辺方言等についても少し調べてみました。

 ・・・が、上記のようにアタマの血のめぐりが鈍っていてブログの記事としてはどれもいっこうにまとまらず。ま、近いうちにポツポツ記事にしますけどね、たぶん。

 そして昨日。韓国・朝鮮とは全然関係ないのですが、私ヌルボが注目していたのが、選抜高校野球の選抜校発表。予想していた通り、今日私ヌルボの出身高校の徳島県立城南高校が選抜高校野球に21世紀枠で選抜されました。\(^o^)/ヤター!!
 学校は1875年創立(旧制徳島中)。野球部は1898年に県内で初めて創部で、やっと悲願の甲子園初出場です。ネット上では(OBの)仙谷由人が官房機密費でウラ工作したのでは等の冗談(?)も流布されてますが、秋の県大会で優勝してるし、まあ順当でしょう。
 同じく21世紀枠で初出場となったのが佐渡高校と秋田の大館鳳鳴高校なんですが、(ここからいつもの韓国・朝鮮モード) たまたま今読んでる本のひとつが金石範「死者は地上に」(岩波書店)。 まさにこの小説の重要モチーフが1964年1月の大館鳳鳴高校生の岩木山遭難事件なんですね。

     

 作中ではP県とかO市、蓬莱高校とか蓬莱山などと固有名詞がぼかされているものの、明らかに秋田県大館市で、その遭難事件については知らなかったのですが、たぶん事実に基づいているのだろうと思って探ってみたら、かなりよく知られた遭難事件だったようで、「空と山のあいだ」という本にもなったり、2001年にはNHKでドラマ化されたりもしています。この遭難について詳しく記されたブログもみつかりました。

 しかし「死者は地上に」では、それらには描かれていない事実(?)、「唯一人生き残った生徒が在日朝鮮人で・・・」という重たい裏話を、主人公の作家たちが現地取材するところから物語は始まります。そして戦争末期の花岡鉱山での中国人労働者の蜂起事件等がからみます。小説では「花菱鉱山」で、中国人たちが集まった場所「獅子ヶ森」も「虎ヶ森」になっています。第二部は(なんと)1980年代の民主化闘争のさなかのソウルが舞台で、第三部で現代に戻る、という構成。
 ミステリアスな要素もあって、引き込まれます。なんとなくおもしろそうな感じがしたので店頭で衝動買いした本ですが、アタリだったようです。金石範さん、「世界」にも「過去からの行進」を連載しているし、85歳になるのに、なんとも旺盛な創作意欲です。
 代表作の「火山島」、ヌルボは10数年前に読みました。貴重な読書体験でした。未読の方、すごい大部ですが、ぜひ読んでみてください。
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