ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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内灘へ 私的現代史の旅

2020-03-23 23:12:13 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係)
 もう9ヵ月も経ってしまったが、昨年6月所用で金沢に行った折、時間があったので内灘に行ってきた。
 しかし、今「内灘」と聞いて「ああ、あの・・・」とわかる人は地元の人以外でどれほどいるだろう?
 私の大雑把な見当では、かなり具体的な記憶がある人は80歳代半ば以上の一部、「聞いたことはある」「本で読んだ」等の記憶がある人もほぼ70歳以上ではないだろうか?
 つまり、〈内灘闘争〉の内灘なのだが・・・。

 内灘駅は、金沢駅から北陸鉄道浅野川線で20分あまり。金沢に近いが同市内ではなく、河北郡内灘町というベッドタウンだ。南北約9キロに伸びる内灘海岸に沿った幅約2キロの細長い町で、内灘駅はそのほとんど最南部に位置する。(※記事末尾の地図参照)

    
【石川県内灘町は日本海に面した町。(左) 金沢駅から北北西に伸びる北陸鉄道浅野川線の終点が内灘駅。】

 朝の天気は雨混じりの強風で、予定変更して映画館に行ったが、出た頃には好天になっていたので金沢駅から電車に乗り込んだ。もう午後2時だ。
 内灘駅近辺を見回すと、人も商店も少ない、穏やかそうな街だ。とりあえずの目的地、〈道の駅 内灘サンセットパーク〉は駅から約3キロ。酔狂なことに歩いて行った。

 道の駅の眼前の、河北潟放水路に架かる内灘大橋は、〈サンセットブリッジ内灘〉という愛称にふさわしい美しい姿で、町が観光スポットにしているのもうなずける。

   
【〈サンセットブリッジ内灘〉(左)と〈内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館〉】

 〈内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館〉は、その橋を渡ってすぐの所にある。
 ここの展示のテーマは3つだ。凧と、粟崎遊園と、内灘闘争である。
 粟崎遊園は初めて知った。1925年に地元の資産家がこの地に開設した広大な娯楽施設で、大劇場では宝塚に倣って少女歌劇団の公演もあったとか。また、この浅野川線自体遊園地用に敷設された鉄道だという。
 凧についても知らなかったが、展示されている凧の数々のユニークさにはたしかに引きつけられる。
 そして1952~53年頃の内灘闘争については、展示だけでなく往時の映像資料も見せてくれた。ただ、私は当時は幼児だったので記憶はなく、受験生時代日本史で内灘闘争という言葉を憶えたかどうかもさだかではない。
 その少し後の砂川闘争(1955~57年)の頃は小学生で、児童用の学習年鑑に載っていた記憶が残っている。

【説明版には「15サンチ榴弾砲を射つ」(左)、「試射場正門前の座り込み小屋」(右)とある。】

 その砂川闘争が米軍の立川基地拡張に対する規模の大きな反基地闘争だった。一方内灘闘争は、朝鮮戦争を背景に日本のメーカーからアメリカ軍に納入されることになった砲弾の性能を検査するための試射場として内灘砂丘が指定されたことに対する反対闘争である。53年3月に始まった試射は4月末で終わったが、6月に入って政府が試射場の再使用強行を決定すると、反対運動は地元住民だけでなく金沢大学の学生など支援者も増えてゆき、さらには私鉄総連や全学連といった全国組織の関与・支援も始まった。7月19日の金沢で開かれた日教組主催の集会には1万人が集まったという。
 闘争は、結局は住民間の対立や民有地の買収等で終息してゆくのだが、戦後の一連の米軍基地反対運動の最初の闘争として位置づけられている。

 ここまでは「80歳代半ば以上の一部」の人たちが体験したり新聞等の報道で知っていることである。以下は「本で読んだ等の記憶がある、ほぼ70歳以上」の一人である私自身の学生時代のことだ。
 その本とは、五木寛之の小説「内灘夫人」である。
 この小説は1968年8月~69年5月まで東京新聞夕刊に連載され、69年10月に単行本が刊行された。まさに全国的に大学闘争が沸騰していた時期に書かれたのだ。
 冒頭は、活動家学生の一人、森田克巳が新宿駅東口広場で米軍野戦病院撤去のための署名運動をしている場面である。そこで彼に声をかけた30代の美人が沢木霧子。それを契機に、克巳とは深い関わりを持つようになる。表面的には金持ちの奥様の誘惑ということだが・・・。後で克巳がなぜ自分に声をかけたのか問うと、霧子はその場で答えず彼を空路小松空港へ、そしてタクシーで内灘に連れてゆく。若い頃内灘闘争に関わった自分たちと、今の克巳が重なって見えたからという。
 霧子と夫の良平は、その内灘闘争に参加し結ばれた夫婦である。当時闘争に積極的だったのは良平の方だったが、今の良平は広告会社の社長で、運転手付きの黒塗りのベンツに乗っている身分だ。
 かつて良平に誘われて内灘に出かけ、デモに加わり、抗議の座り込みにも参加した霧子は、今そんな良平との間の溝を感じている。
 「おれは汚れてきたんじゃなくて、視野が広くなり、物の考え方に柔軟性が増しただけだ。内灘時代のおれたちは狭い世界のなかで甘ったれた感傷にひたっていただけなんだ」と言う良平に対し、霧子は「あの内灘時代は独りよがりの青臭いヒューマニズムに陶酔してた気恥ずかしい存在だったかもしれない。でもあそこには大事な物、美しいもの、一片の真実のようなものがあったと思うの」と言う・・・。
 五木寛之は、その1953年当時はちょうど20歳で、早稲田大の学生だった。彼がその頃内灘闘争に関わりがあったかどうかはわからないが、68~69年の学生運動に全面的な支持というものではないにしても、シンパシーを感じていたことはこの作品から読み取れ、それは自身の青春時代が底流にあるのかもしれない。
 この小説の最後で、霧子は新たな出発を決意する。それは、どのような仕事であれ、自分の力で仕事をはじめること。その出発にあたって霧子は、内灘闘争の時代を「青春」と呼び、それと決別するのである。このラストは、当時(今も)よくあった年配者による上から目線の若者評とは違っていて、納得できるものだった。
 (余談だが、私も大学1年だった68年、新宿東口広場である署名運動に立ったことがあったが、霧子のような奥様から声がかかるようなことはあろうはずもなかった。)

 内灘闘争関係の〈遺跡〉は今も多くはないが残っている。そのひとつが着弾地観測所跡だ。
 地図を見ると歴史民俗資料館から2キロと離れていない。すぐ行き着けると思ったのだが、甘かった。霧子たちが座り込んだという権現森の砂丘にあるものと思っていたが、今は起伏のある雑木林だ。結局1時間ほどもかかり、たどりついた時はもう5時だった。
 説明がないと着弾地観測所跡だとかは全然わからない。トーチカのようなもので、外のようすを見る隙間が開いているコンクリート製の建造物である。
   
【周囲の草木が時の流れを感じさせる着弾地観測所跡。入口の反対側。細いすき間から砲弾の的中率や爆発のようすを確認する。】

 そこから権現森海水浴場に下りようとしたが、これまた難儀をした。湘南海岸などでは松林のあたりから海岸まではすぐだが、ここは雑木林からまっすぐに下りる道がないのだ。結局直線距離で100メートルの所まで30分かかった。だが日が長い時期でよかった。6時を過ぎてもまだ明るい。
 内灘の海岸は広かった。鎌倉~藤沢あたりの見慣れた海岸だと、海自体がなんとなく観光用のように見えてしまう。しかし内灘で見た海岸と日本海ははるかにスケールが大きく、自然の荒々しさを垣間見たように思った。
 海岸には案の定韓国からの漂着物がすぐ見つかる。以前唐津の海岸を歩いた時もそうだった。日本海側の海岸ではむしろふつうのことだ。中国語のラベルがついたペットボトルもあった。

    


 海を越えて来るものはゴミの類ばかりではない。
 歴史民俗資料館の展示物の中に町指定文化財の〈室青塚(むろあおつか)〉の写真があった。「高句麗・渤海国使節らが室に漂着し、彼らの死去により築かれた塚であると古くから伝承され、江戸時代には青塚として地名になっていた」と説明にある。

 ここからはまさに現在の話である。
 近年北朝鮮の木造船が多数日本海側各地に漂着している。2013年の時点で年間の漂流・漂着数は80件あった。17年には漂流・漂着数104件で、遺体35体、確認された生存者は42人。そして18年は漂流・漂着数は225件に急増する。遺体は12体発見された。
 報道によると北朝鮮が外貨獲得のため中国に漁業権を売ったことが背景にあるらしい。そこで能登半島沖合の好漁場である大和堆にイカ釣り漁船が押し寄せてくるのだそうだ。ところがその木造船というのが日本の漁師に言わせれば「百年前の船」という無謀な出漁で、同情の声も出ているという・・・。
 石川県にはもちろん木造船の漂着は多く、この内灘町だけでも18~19年に計3件あり、また18年には砂浜上で遺体が発見されたそうだ。
 しかし、ネット上には工作船ではないかと疑ったり、警戒する主張は多い。日本人と比べて、あるいは外国人の中でも国籍や民族によって命や人権の軽重が極端に異なることに疑問を感じない人がそんなにも多いのだろうか?

 逆に海を越えて行った人で想起されるのは北朝鮮拉致被害者の人たちである。政府認定の拉致事件は1977年久米裕さんが拉致された宇出津(うしつ)事件だが、その宇出津は能登半島北部だ。しかし、そのずっと以前から北陸地方では時折不審者を見かけることがあり、ある記事によると「70年代まで、福井から能登、富山にかけての日本海側の浜辺には、地元警察署の不審者注意の看板がいたるところで目についた」という。
 そして私にも関わるのは高校時代同学年だったS君のことである。非常に弁の立つ、しっかりした生徒会長だった。将来どんな政治家になるか期待していたのは私だけではなかっただろう。その彼が大学3年だった1970年2月行方不明になった。金沢市のユースホステルを出発して能登半島に向かい、輪島市で宿泊。その後また金沢市のユースホステルに戻って再度宿泊し、10日の朝出発したが以後消息不明となった。北朝鮮の拉致事件の一部が明るみに出てから彼の名は〈特定失踪者〉のリストに入っている。「拉致の可能性を完全には排除できない失踪者」のことだ。拉致問題関係のチラシやポスターには、今も昔のままの彼の写真が載っている。S君がいなくなってちょうど50年になる。高校時代、仲間の誰も彼にこのような将来が待っていたとは思いも及ばなかった違いない。

 高校・大学時代から約半世紀。かつての友人たちにもいろんなことがあった。
 冒頭に「所用で金沢に行った」と書いた。その所用とは、故郷の金沢で独居していた大学時代の学友が亡くなり、当時の仲間たちと墓参に行ったのである。いつも何事かに熱心に取り組む人だったが、富や栄達には生涯無縁だった。今にして思えば、彼も私も、そして共に墓参をした仲間たちも、〈全共闘世代〉のずっと後列で同じ時代に足掻いていた同志と言えるかもしれない。その時だけでなく、もしかしたら今に至るまでも・・・。

 歴史・社会の一般的なことと個人的なこと、あるいは70年前・50年前・現在のことを織り交ぜて書き始めたら、さまざまなことが交錯してほとんど収拾がつかなくなってしまった。しかし、そんなもろもろの中心に今の私がいるのだということをあらためて実感することになった旅だった。


 地図の横(南南西~北北東)は約9キロ、縦は3キロ弱。内灘駅 道の駅 内灘サンセットパーク 内灘町歴史民俗資料館 風と砂の館 着弾地観測所跡 権現森海水浴場 ※室青塚は⑤からさらに2キロほど右手の方なので行くことができなかった。
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「希望」と「善意」が彼らを死地に追いやった

2020-01-05 23:55:36 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係)
  「希望」と「善意」が彼らを死地に追いやった

   今振り返る 北朝鮮帰国事業の開始から六〇年


 一九九一年八月。
 三池淵(サムジヨン)号の船内で二泊し、三日目に元山(ウォンサン)に入港した。
 船が着岸する前から岸壁からブラスバンドの音楽が聞こえる。歓迎の人たちも集まっている。
甲板に出て元山の町を眺めると、目につくのは低い山々の赤い地肌だ。そして市街地は・・・。いや、市街地と呼べるような景物があっただろうか? 殺風景というより、荒涼とした感じだ。
 「ここは時間が半世紀以上前で止まっている」。それが最初に訪れた外国の第一印象だった。
 ブラスバンド曲のメロディーは今も憶えている。その演奏の虚しいまでの無表情ゆえだ。曲名が『4号歓迎曲』ということは最近知った。

 われわれ約百人の旅行団は前々日新潟港の中央埠頭を出発した。
 一九五九年十二月在日朝鮮人と日本人妻たちが北朝鮮に「帰国」した帰国事業の第1次船が出港して以来、八四年まで九万三千人を超える人々が北朝鮮に渡った。その出発点がこの港だった。
 今、帰国者たちを待っていた「地上の楽園」の実態がどのようなものだったかは多くの人の知るところだ。彼らの中でその後脱北し、日本に戻って生活している人は約二百人ほどいるという。(韓国には二百人弱) 彼らの書いた手記を読むと、ほとんどの人が(元山よりずっと北の)清津(チョンジン)に入港した瞬間に「だまされた」という衝撃に襲われている。日本から持参した弁当は「捨てろ」と言われて捨てたが、代わりに与えられた食事は残飯のようなものだったりお菓子だったりしてとても食べられない。そして清津の町や人々を初めて見た時感じたことは私と同じだ。ただ決定的に違うのは、彼らの場合はほとんど自分の人生がその時点で終わってしまった、致命的に選択を誤ってしまったという絶望感に苛まれたことだ。
 私自身の「追体験」でさえも衝撃的だったが、多くの帰国者たちの衝撃に比べれば微々たるものに過ぎないことは言うまでもない。
 「衝撃」といえば、清津港で初めて彼らを迎えた北朝鮮の人々も驚いたという。在日同胞は差別と貧困の中で苦労してきたので乞食同然の姿で来ると思っていたら、自分たちよりずっといい服を着ているし、血色も良かったので。(彼ら北朝鮮住民のことも北朝鮮の人権をめぐる問題として同じように視野に入れるべきだと思う。)

 先週十二月十四日は、第1次帰国船が出港した日からちょうど六十年目の日だった。
 この日私は拓殖大学文京キャンパスで開かれていた<北朝鮮に自由を! 人権映画祭>で「キューポラのある街」(一九六二)と「未成年 続・キューポラのある街」(一九六五)を観てきた。前者はもちろん当時十八歳の吉永小百合主演の名作で、キューポラのある街=川口を舞台に、吉永小百合の演じる中3のジュンが困難な家庭環境の中で希望を失わず成長してゆく姿を描いた感動的な作品だ。この中でジュンや小学生の弟タカユキと親しい在日姉弟の一家が北朝鮮に行くという話が盛り込まれている。
 作家早船ちよが原作小説を刊行したのが映画公開の前年の一九六一年。当時は北朝鮮という国が輝いて見えた時代だった。半島の南では李承晩政権が一九六〇年四月の学生革命でやっと倒れたと思ったら、約一年後に朴正熙がクーデターで政権を奪取し、独裁を進めるという状況とは比べるまでもない。宮島義勇監督が北朝鮮を長期取材して作った『千里馬』を、高1だった私も徳島の映画館で観たのは一九六四年だったと思う。実際、六〇年代の経済水準は北朝鮮が韓国を上回っていたということだ。この時期、北朝鮮を美化して描いたことを今の誰が責められるだろうか?

 ところが、帰国運動のピークは最初の三年で終わる。つまり五九~六一までに七万人以上(全帰国者の8割以上)が北朝鮮に渡り、六二年になるともう激減するのだ。最初から日本に残るという人だけでなく、北朝鮮の実情がわかって渡航をやめた人もいたようだ。先に帰国する家族と事前に手紙の符丁等を決めておいて、たとえば「来るな」の意味で縦書きでなく横書きにしたり、「こちらの家は日本の〇〇のように良い所です」と貧民街や刑務所の地名を書いたり・・・。
 手紙は当然のように検閲されるし、思っていることを言うだけで場合によっては家族ともども命とりになってしまう、そんな体制だった。北朝鮮に着いて最初の頃につい「本音をもらして」収容所送りになった人も大勢いたようだ。ある脱北者は、父親から「口は本当のことを外にもらさないシャッターのようなものだ」と忠告されたことを語っていた。

 「未成年 続・キューポラのある街」は今回初めて観た。いや、この作品は存在さえ知らなかった。内容も前作の三年後で、主人公のジュンは定時制高校に通いながら工場で働いている。しかし厳しい社会の現実を前に悩む場面が目につき、その分希望の光も少し陰ってきた印象を受けた。帰国運動関係では、サンキチの家族でひとり残っていたサンキチ母(菅井きん)=日本人妻のもとにサンキチ父が病に倒れたとの知らせがあり、やはり自分も北朝鮮に行くべきかと悩むのだが、ジュンは彼女に北朝鮮に行くことを強く勧めるのである。そしてサンキチ母は「二度と帰って来れないかもしれない・・・。私はやっぱり日本に住んでいたいんだよ・・・」と泣きながらも北朝鮮行きを決意する。
 この時点で、当初朝鮮総聯などが言っていた「三年経ったら里帰りできる」という言葉は反故にされている。サンキチ母はジュンに「私のことを思い出しておくれね」と言い残して別れる。映画では、この会話の後のジュンの表情になにか不安が兆しているように思えたが、それは六五年の時代状況をふまえた野村孝監督の演出か、私の後知恵に基づく主観に過ぎないのか、よくわからない。

 北朝鮮に「帰国」した在日朝鮮人のほとんどは元はと言えば韓国の南部や済州島出身者だ。それなのになぜ大勢の人たちが故郷というには無理がありそうな北に渡ったのか?
 日本社会での差別と貧困からの脱出ももちろんあっただろう。が、しかし・・・。何と言っても一番責任があるのは金日成をはじめとする北朝鮮政府と朝鮮総聯だ。在日朝鮮人への生活保護費負担とともに治安対策の問題の解消がねらいだったという日本政府も責任を免れないだろう。そして大きな(マイナスの)役割を果たしてしまったのが新聞等のメディアだ。確実な裏付けのないまま希望を持たせるような記事を大量に流してしまった。確かなことと不確かなことを見極めて伝えるという基本を踏み外してしまったのは、ジャーナリストたち自身も「見たかったこと」が「見えてしまった」のだろうか? さらに、60年代後半以降も後追い記事をずっと書き続けるべきだった。実態がわかった後、一般の人たちや、帰国者の家族の中にさえも「自分の意思で行ったんだから」と突き放す人がいるのはあまりに酷というものだ。
 とくに重い責任のある者たちや組織から反省や謝罪の言葉が聞かれたことはない。そればかりか北朝鮮と朝鮮総聯は「罪の上塗り」をしている。帰国者に限らず、戦後社会主義の理想を信じて「北」を選んだ多くの在日を含む朝鮮人たちがいた。北朝鮮建国当初のそんな理想は一体どこに行ってしまったのか、北朝鮮の指導者や総聯の関係者は自問することはあるのだろうか?

 今思うことは、考えてみればそんな不確かな情報しかないのに信じたい「希望」があれば人は死地への道を選択してしまうということだ。そして身近に信頼できる知人が「善意」で後押しをしてくれれば迷っていても決断してしまったりもするのである。
 「続・キューポラのある街」のさらに続きの物語のことを考えてみる。今、ジュンはサンキチ母との最後のやりとりをどう思い返しているのだろうか?

 帰国船の発着地・新潟港中央埠頭近くにボトナム通りという道がある。第1次帰国船出港の前月に帰国者たちが街路樹として寄贈したヤナギ三百五本が約二キロメートルにわたって植えられた道で、これに当時の県知事が「柳」の朝鮮語を通りの名としたとのことだ。(ポドゥナムと表記した方がより原音に近いが。なお平壌は「柳京(ユギョン)」ともよばれるほど柳で有名である。)
 六〇年経った今、ボトナム通りのヤナギはずいぶんまばらになってしまったようだ。

 ところが、始まりは六〇年前でも、この帰国事業の問題は今も続いていることを忘れてはならない。日本の国籍を持つ人は六七三〇人が北に渡り、亡くなった人も多いが、数百人(?)が彼の地で暮らしているという。しかし、拉致被害者に対する関心に比べると、政治家はもちろん日本人の多くも関心を寄せていないのではないだろうか?
 脱北して日本に戻った人の話を聞く機会が何度かあった。その中で、大きなマスクをしたりサングラスをかけたりして素顔を隠している人は何人もいる。北朝鮮側の人間の危険な接触をさけるためだ。日常的にも十分な公的支援もなくひっそりと暮らしているという。

 一方、朝鮮中央通信が伝えた最新のニュースによると、平壌で12月15日、在日朝鮮人の帰国実現を記念する報告会が行われた。
 報告会には朝鮮総聯のK顧問を団長とする在日本朝鮮人感謝団や、北朝鮮に滞在中の在日朝鮮人が参加する中で「在日同胞の社会主義祖国への帰国を実現して在日朝鮮人運動の全盛期をもたらし、海外同胞運動の世界史的模範を創造した金日成主席と金正日総書記の不滅の業績は祖国の歴史とともに子孫万代に末永く輝くであろう」といった内容の報告があったという。
 帰国者たちの生命や人生をふみにじったことへの憤りはもちろんだが、彼らがそれぞれに信じていた「希望」のことを思うといたたまれない気持ちにかられる。このような体制がここまで存続している現実を、われわれは直視しなければならない。

※三池淵(サムジヨン)号は、比較的知られている万景峰(マンギョンボン)号の姉妹船。ただし初期の帰国船はソ連船クリリオン号、トボリスク号が使われた。
※『4号歓迎曲』は→YouTubeで聴くことができる。
※いわゆる日本人妻の里帰りができないことは、北朝鮮住民が自由に国外に行けないこと等とも通底している。拉致問題も当然合わせて北朝鮮の人権問題中の重要な案件として取り組むべきだろう。
コメント (8)
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木を見て、森を想う

2019-07-13 15:20:42 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係)
  木を見て、森を想う

   ~韓国・朝鮮オタク、2つの旅の会話の記憶から


■ピョンヤン、1991

 「日本の印象はどうだったですか?」
 訊いた直後、「しまった!」と思った。
 場所はピョンヤン。相手は北朝鮮の女性案内員Kさん。ピョンヤン外国語大学卒で流暢な日本語を話す女性案内員だ。
 北朝鮮を訪れた外国人観光客には必ず案内員(アンネウォン)が付くが、それは単なるガイドではない。観光客の「逸脱行動」がないように監視し、常について回るのだ。むしろそれが主任務といってよいだろう。案内員が2人1組なのは相互監視のためで、これは外交や商業活動等のため外国に勤務する場合も同様だ。
 そんな「事情」を承知していた私たちは、Kさんを困らせるようなロコツな質問はしない配慮をしていた、と思う。
 ところが、その彼女がちょっとした時間の隙間に、小さめの声で私に語りかけたのである。
 「私は日本に行ったことがあります」
 これに対して私が発したのが冒頭の質問だった。
 近くに、もうひとりの先輩案内員(男性)もいる。いつ・どういう理由で・どこに行ったかを訊くのは避けた方が無難、とは考えた。だが、印象や感想といった漠然とした質問にも答えにくいだろう。
 日本を賛美したり、「共和国」(と北朝鮮は自称し、観光客もそう呼ぶ)を批判してはいけないのだから。もちろん日本人観光客(つまり私)に対して日本を過度におとしめてはいけない。
 何秒かの後、Kさんは答えた。
 「車が道を走るにもお金を払うのには驚きました」。
 なるほど。上記の条件にも適った賢明な返答だ。きっとKさん自身の偽らざる感想でもあったのだろう。私は内心ホッとした。もしかしたら、Kさんもホッとしていたかもしれない。
 「有料道路ですね。考えてみればおかしいですね」と答えて、この話題はそのまま終わった。
 その後、来日した韓国人と話す機会が何度もあった。同じように日本の印象を尋ねたりもした。「日本の道路が平らなことに驚いた」といったような興味深い答えも返ってきたが、どれも自然な会話の一部にすぎない。
 あれから28年。その間Kさんは自身が抱いた日本の印象を何の制約もなく語ったことがあっただろうか? あるいはこれからも・・・。

 ※初の海外旅行、それも北朝鮮とあって、相当に用心深くなっていたかもしれないとは思う。この一文について友人何人かに話すと、「ほとんどアナタの思い込み」という人もいた。私自身懸念していたことでもある。Kさんは心の通じ合いそうな、「韓国や日本のような社会だったら、いろんな活躍の場があっただろうな。はるかに自分を生かせたのに」と思わせる・・・という根拠に乏しい印象に依拠するのみで、反論できそうにない。「アンタが怪しいから探りを入れられていたのだ」と解釈する人もいた。
 以後再訪の機会はないが、北朝鮮についての知識、朝鮮語のスキル、そして厚かましさや狡猾さ等も多少なりとも身につけた今ならもっと多くのことを聞き出せるような気もする。


■プサン 1992

 北朝鮮旅行のちょうど1年後、初めての韓国旅行に出かけた。一人旅だ。早くて安く行ける空路ではなく、あえて関釜連絡船を利用したのは、「古代からの日朝間の表玄関」を体感したいという(高校の日本史教員らしい?)思いがあったからである。
 朝釜山港に降り立ち、観光客が1度は訪れるという龍頭山(ヨンドゥサン)公園に登ると、巨大な李舜臣像が日本をにらみつけるように立っている。
 そこで30代ほどの男性が巧みな日本語で話しかけてきた。日本人観光客をカモにしている詐欺師のたぐいではと、当然警戒心を抱いた。しかしそのI氏、話を聞くと対馬領主宗義智のことや角田房子「閔妃暗殺」(1988刊)のこと等々歴史にもくわしく、悪い人でもなさそうである。
 いろいろ話が進むうち、私は前年の夏のことを打ち明けた。
 「私は昨年北韓に行ってきたんですよ」
 当時の韓国は今よりずっと北朝鮮のスパイに対する警戒心が強かったと思う。間諜らしき人間を見たら電話113番にと呼びかける掲示物も緊張感を誘った、そんな時代だ。うかつに話すと「申告(シンゴ)」(=通報)されないまでも、驚くかもしれないと思いつつ、あえて話してみたのだが、彼の反応は予想外だった。
 「北韓もふつうの人が暮らしているということですよ」
 表情も変えることなく、淡々と語るのである。
 少し拍子抜けしてしまった。いや、それよりも、この返答はピントがずれてるゾ、というのがその時感じたことだった。
 しかし、なぜか心に引っかかっていた彼の言葉の意味を理解したのは、何年か経った後のことだ。
 李承晩~朴正熙時代、<反共>は国是にも等しく、<反共 防諜>の標語が街と学校のところどころに貼られ、国民学校(現:初等学校)では徹底した反共教育が進められていた。80年代に入り軟化はしたものの、全斗煥政権下でも反共教育は続けられた。それが1987年の6月民主抗争を契機に大きく変わった。「運動圏」つまり学生運動の中では北朝鮮を肯定的に受容するグループが勢力を伸ばした。反共教育は盧泰愚政権以降形骸化が進み、93年成立の金泳三政権からは統一教育に変わった。
 こうしてみると、私と話したI氏は明らかに子どもの頃からずっと反共教育をたたき込まれた世代である。「北傀(プッケ)」あるいは「パルゲンイ(アカ)」といえば頭にツノが生えているトッケビ(鬼)のように教えられ、そう思っていたという話は、その世代からはよく聞かれるようだ。
 その世代にとって、80年代後半以降の「北韓にも人が暮らしている」ということは、驚きを伴った新しい北朝鮮認識だったのだ。92年夏の時点で聞いたI氏の言葉も、そんな彼自身の体験に根ざした実感だったのである。
 当時の私がそんな知識を持っていれば、彼の受けてきた反共教育のこと、北朝鮮認識が180度変わった契機などをくわしく訊けたのに、と言っても無理な話だが。
 それからさらに7、8年は経っただろうか。「北韓にも人が暮らしているね」という言葉が、韓国の代表的な小説家の一人黄晳暎(ファン・ソギョン)の「北韓にも人が暮らしていたね」という言葉によるものだと知った。
 彼が国禁を破って1989年訪朝した後、ベルリンで執筆して韓国に送り、雑誌『新東亜』『創作と批評』に掲載された。その北朝鮮訪問記のタイトルがまさにこの言葉だったのである。また単行本が刊行されたのはI氏と話をした翌93年のことだ。
 そして現在の韓国。昨2018年4月の南北首脳会談直後の世論調査によると、金正恩を「信頼できる」と評価した韓国人が8割近くにも達したという。一般の日本人には驚くほどの数字だ。
 今、そんな金正恩や北朝鮮の政治・社会に対して肯定的な見方をしているジン・チョングというジャーナリストがいる。進歩系新聞の代表格ハンギョレ出身の彼は南北会談の3ヵ月後の7月『ピョンヤンの時間はソウルと共に流れる』という北朝鮮取材記を刊行した。その本の紹介記事をネットで読んだ。
 「核武装と経済建設の並行という国家戦略を捨てて人民の経済建設に集中しようとする北韓指導者たちの実践的努力がうかがい見られる」とか。また著者は「玉流館で冷麺を食べ、携帯電話で通話し、タクシーに乗ってデパートに行ってショッピングをする生活。ここはソウルではなくピョンヤンだ」と語る。
 そして次の一文。
 「彼らはトッケビではなくツノもトッケビ棒もない。ピョンヤンの人たちはわれわれと同じ人の顔をしていて、ソウルの人と同じに日常生活を営んでいる。まさしく黄晳暎の言葉のままに「人が暮らしているね」だった」。
 「ふつう」の人が暮らしていても、そこの政治・社会等が韓国人や日本人の考える「ふつう」とは全然言えないのに・・・と、その甘さに驚くが、そんなジン・チョング氏の、そしておそらく相当数の韓国人の今に及ぶ北朝鮮認識の端緒となったのも、この「北韓にも人が暮らしている」という言葉だったかもしれない。

 ※北朝鮮の呼称について・・・・反共軍事政権の頃は「北傀」がふつうに用いられていたが、金大中政権頃からそれに代わって「北韓」が定着した。しかし、現在韓国と北朝鮮の対等の統一を志向する民族主義左派には「北韓」の呼称も否定して「北側」「南側」という言い方をする人も多い。
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