ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑨5日目午前:瀋陽(平頂山・撫順戦犯管理所等)

2016-02-17 21:53:37 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004))=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎5日目:8月5日(木)
 ~8:50
 グロリアホテル  
・6:30起床。12Fの部屋。外を見ると瀋陽北駅(下左写真)。下右写真は北站路を見下ろした眺め。後で調べると筋向いの格林大飯店の玄関口。([地]市街には昔ながらの造りの瀋陽駅もある。東京駅・ソウル駅とともに<赤レンガ三姉妹>。地元の人は<北站><南站>とよんでいる。) 空気は汚れてる感じ。
  
 朝食バイキングはなかなか豪華。お土産ショップにドラえもんしんちゃんの人形があった。両替1万円→725元。
 8:05~9:20
 (バス)
・「撫順までは40㎞くらい。瀋陽では通勤の7割以上が自転車バスが3割。市内人口506万人で自転車は300万台。タクシー3万台を含め車合計10万台。朝のラッシュは7~8時だがこの頃は10時頃までに延びている。夕方は17~18時。」
・沿道にフォルクスワーゲン、ニッサン、ホンダ等の販売店が並ぶ。
・以下紫色は呂さんの説明部分。「子供の頃の楽しみはまず旧正月。そしてお客さんが来ることごちそうが食べられたから。毛沢東時代、庶民の楽しみは自転車。当時は1台150元くらい。とくに上海製の自転車。そしてミシン。1978年以降小平さんの時代から、黒でも白でもネズミを取るのがいいネコということで、食べる物の心配がなくなった。今は健康への関心が高まって、魚・野菜・大豆を食べるようになってきた。ブタを飼う農家はもうからない。むしろミルクの需要増で乳牛の方がいい。主食は昔はコーリャンやトウモロコシだったが今は白米や小麦の饅頭。退勤時にギョーザを買って帰るなどしている。80年代の楽しみは冷蔵庫・テレビ・エアコン。2000年代は車・マンション・海外旅行。行く先は台湾・西安・韓国・ヨーロッパ等。60年代に女性が結婚相手に求めたのは①月収60元ならOK②おとなしい人。今は①ウサギのようにやさしく②ニワトリのように早起きして③ブタのようによく食べ④牛のように働き⑤イヌのように忠実。
 ・「土地は依然として国有。1980年代は結婚したら国から家をもらったが、90年代以降は自分で。」
・瀋陽→撫順は車用の広い道路。「道の50m以内には木を植えるようになっている」とのこと。
・8:47撫順市に入る。「撫順は遼寧省4番目の都市。車のナンバーで遼Aは瀋陽、Bは大連、Cは鞍山、Dは撫順。
・<女子減肥中心>の看板。<減肥>というのをけっこうみかけるがダイエット関係か。
・工業都市とあって、工場群が見えるが、やはりここでも石炭は斜陽産業なので、転職者が多いとか。
 9:20~9:23
 西露天鉱
・社会科の教科書等でよく見た露天掘り炭鉱。「深さ300m、南北2㎞×東西6.6㎞。埋蔵量、あと20年はOK。
 9:23~9:30
 (バス)

 9:30~10:23
 平頂山惨案遺址紀念館
1932年抗日ゲリラ鎮圧の名目で日本軍がこの地の村人約2~3千人(?)虐殺。うち約800体の遺骨が1970年に掘り出され現場に遺骨館が建てられたとのことである。
・入口には<撫順市博物館>とある。修学旅行(遠足?)で遼陽の中学校の生徒たちがバス4台で来ていた。
・慰霊塔から階段を下りたところに紀念館。入ったすぐに1932年当時の村の模型。館員の説明を呂さんが通訳。模型は生き残った人の記憶で作ったとのこと。500世帯で約3000人が南北に長い集落に居住。床屋・風呂屋等がある田舎の村。虐殺現場は120mほど離れた所。1932年9月15日に抗日ゲリラが日本人商店・事務所を襲撃、炭鉱の機械を破壊。16日朝190人くらいの警察・憲兵がトラック4台で来て村を包囲。各家庭をまわり「記念写真を撮る」と言って家から追い出す。家に火をつける。1時間ほどで虐殺。生き残った人が逃げようとしたら、再び日本人が車から下りて撃ち、2度目の虐殺となった。結局生き残ったのは40人くらい。遺体はガソリンをまいて焼き、山の土で埋めた。遺体はほとんど口を開けている。老人や女性が多い。頭に刀の跡があるもの、2体並んでいるもの等々。処々に「子供の死体」等々の小さな説明板。日本語・中国語が表裏に書いてある。入口でわれわれへの説明間待っていた中学生たちは先生の説明を聞きながら見学。(中国語ができれば何か話したいところ。)
・パンフレットを購入。5元。
・添乗員氏の話では、沈さんからの連絡によると延吉空港で結局私の財布は見つからなかったとのこと。やっぱりね。
    

 10:23~10:46
 (バス)
・将軍橋を渡り市の中心部にさしかかる辺り、路傍に座っている人たちがいる。「アルバイトさがしの人たちです。」
・<延吉路>という名の道があった。中国には北京に<長安街>があったり上海に南京路があったり・・・。
 10:46~11:27
 撫順戦犯管理所
・[地]1950年から1300余人を収監。

・1936年日本が支配していた頃の撫順典獄に始まる。<日本戦犯><欺満><蔣介石集団>の再教育施設。溥儀も。紅青もここに3年間収容されていた。文革の時には館長が吊るし上げにあったとのこと。
・日本軍が殺害した人民の数が949,814人とあったが・・・。
<改造末代皇帝陳列室>は溥儀関係のものを陳列。結婚当時の皇后婉容17歳の写真は以前見た。たしかに美人。(溥儀は候補4人中妃となった文繍に印をつけたそうだが、フーム。)
・古海忠之という元<満州国>高級官僚。最近「獄中の人間学」という本を出している。
・BC級戦犯で死刑に処した数はアメリカ140・イギリス・223・オーストラリア153・オランダ(荷兰と書くのか)226・中国国民政府149・フランス63・フィリピン27・計971。で中国は0。
・日本人戦犯、1956年判決、64年釈放も。釈放は1957~64年
<中归联>(中国帰還者連絡会(正統))という組織あり。帰国後ホームページを見る。1965年文革をめぐる対立から日中友好協会と同様代々木・反代々木で分裂、後者は(正統)をつけた、とある。(極東書店から反代々木が分裂して東方書店ができたのも同様。)
・<祝新編「三光」出版記念集会>という記念写真あり。
・露天舞台や理髪室等あり。
・パンフレット2冊。計75元。
 11:27~12:54~12:59
 (バス)
 (徒歩)
・車窓から看板を見る。<少儿英语・文学・数学>という看板は塾かな? <Mr.Leeの牛肉麺大王>というのは帰国後の調べではそれなりに知られているチェーン店のようだ。食堂のメニュー、粥1元から。
・12:10~12:20事故?だかで渋滞。
・瀋陽の中心部へ。中街は清代からの繁華街とか。肯徳基(ケンタッキー)吉野家もある。東順城路→朝陽路。
・バスを降りて少し歩く。途中中国工商銀行瀋陽支行は元は1905年設立の東三省官銀号で、これは東三省最大の地方銀行だったと碑文にある。回転寿司の店もある。6人くらい客がいた。
 12:59~13:50
 老边饺子館(昼食)
・[地]1829年創業の餃子の老舗。
・日本にも店があるとのこと。そういえば以前行った新宿西口か。帰国後調べるとその通り。南口にも支店があるのか。
・明るく清潔な雰囲気で、ずいぶん繁盛しているよう す。
・<御龍鍋>は小餃子をキクラゲやクコ等々と煮込んだ鍋。ホンタイジが大好きだったとのこと。


【11年半後の付記】
・このシリーズの前の記事(→コチラ)から1年以上空いてしまいました。この旅行の大きな目的だった延辺朝鮮族自治州に足を踏み入れ、長白山(白頭山)に登り、図們大橋から対岸の北朝鮮を眺め・・・というところまで終えて、気が抜けてしまったかも・・・。文章自体は2004年に打ち込んだものをコピペすればほとんどOKなのですが、HTMLで表作成という作業が知識ゼロのレベルから始めていまだに試行錯誤の連続で、けっこう時間がかかってしますのです(泣)。
・私ヌルボ、旅行する時にいつもこんな分刻みの記録を取っているわけではありません。実はちょっとムキになる「事情」があったわけで、それは最後に<旅行の総括>の中で書きました。いずれ公開します。いや、公開しないままだと後悔する・・・って、今再確認したら、1万字以上あるぞ。それだけでも2~3回分になってしまいそう・・・。
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑧4日目午後:延吉市内・図們大橋

2014-12-28 22:03:13 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004))=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎4日目:8月4日(水)
 13:35~14:20 (バス)>※以下緑色現地ガイド沈さんの話。
・「延吉はレストラン、カラオケ、タクシーが多い。タクシーは上海に次ぐ。」
・街にノレパンや全州ピビンパ屋(ハングル表記)が見える。沐浴湯=銭湯も。
・「延辺大学には5つの学部がある」
 ・「犬は口の長いのがおいしい。」

・中国石油のスタンドで給油。はリットル、単价は単価のようだ。
・「朝鮮族の家屋は前の方が白い。白いものが好き。」
・図們への高速道路に入る。
・「北朝鮮は山に兵を配備していて越境しようとする人を撃ってくる。韓国のパスポートは5000元くらい。」
・図們の中心部へ。信号がないぞ。
 14:20~15:02 図們大橋・豆満江を挟んで対岸が北朝鮮。こちら側はもう観光ポイントといってよい。韓国人観光客が多い。皆記念撮影してる。

・橋の長さは200mくらいか? しかし川の流れの幅は50mもないかも・・・。両岸の間に日常的に通交がある方がむしろ自然な距離といえよう。

・おばあさんが近寄ってきて、なんと日本語で言うには「84歳になるが身寄りがなく生活が苦しい。お金を・・・。」(下の写真右端の木の下に座っている人がそのおばあさん。) また12歳くらいの少年も物乞い。もしかして脱北者の人たち?


・[満]によると「中国側の国境ゲートは1991年江沢民来訪記念に建てられたもの。」
ゲートの上は展望台。中央に高く中国国旗を掲揚。望遠鏡(無料)が備えてある。覗いて北側を見ると人の姿も見える。<キムジョンイル将軍・・・>とかハングル文字で書かれた横断幕?も見えた。川を小さな快速艇が行き来している。[地]によるとコースにより30元と20元。川の中央より向こうにはみ出したりしてるぞ。[地]には<竹のイカダ>というのもあるが・・・。
    


・ゲート上には売店もあって、北朝鮮の切手、例のバッジ、タバコ等を売っている。私もタバコ2種購入。1箱20元。
・中国側に目を移すと、すぐ近くに道奉大厦というホテル。ホテル名の前に<韓国独資企業>とあり、玄関前に韓日中あと不明2計5カ国の国旗が掲揚されている。その前の道を[地]にも写真が載ってる三輪リキシャが行く。
・付近の店になるほどの有料トイレ。1元。
・沈さん「渡日前に父は他界。母は今韓国。」 
 15:02~15:48 (バス)・「新疆の少数民族の子供はしつこく観光客にからむ。」
・「図們のホテルは1泊120~150元くらい。」(安いなあ。来るまでが大変だが・・・。)
 15:48~16:10 延吉の市場・市街の中心部にある生鮮食料品主体の市場。入ると<すごい濃ゆ~い感じ>。独特の臭いが漂う。肉売り場は牛肉・鶏肉等の表示と並び犬肉も。その下で3.5匹の犬が腹を上に並べられていた。う~む。表の通りも含め惣菜もいろいろ売られている。
 

・市場入口前の売店でハングルの新聞を2種購入した。「종합신문(綜合新聞)」と「생활안내(生活案内)」。
・表通りに<韓国人との結婚相談>という表示のあるボックスを見かける。
 16:10~16:23 (バス)・「少し前までは延辺でも4と9は死と苦に通じるので避けた。」
・「朝鮮族はで小学校は朝鮮語で教わる。中学校から中国語を学ぶ。」
・韓国では町でよく당구(タング=撞球。玉突き。)の店をみかけたが、この地にも多いようだ。ただし中国語の表記は台球となっている。
 16:23~16:48 クマ公園・基本的には熊の胆を採るための施設。多くのクマを年齢ごとに分けて飼っている。子グマの耳には黄色い札。われわれの後に続く韓国人の団体のガイドは「皆さんの住民登録証のようなもの」と説明しているのはなるほどネ。
・われわれ一行は一室に集められ説明を聞く。政府機関で1800頭のクマがいるとか。別の本でも読んだが、殺さずに注射器で胆汁を採取するらしい。「視力回復によい」という。「酒と混ぜて飲むとよい」ということで盃1杯分試飲。なかなかに強烈な味と香り。お値段は150ドルと100ドル。※このあたりでカメラがバッテリー切れのため画像がなく残念!
 16:48~17:00 (バス)・延吉の街にも自転車用の信号あり。また赤信号があと何秒続くかの数字も表示される。
 17:00~18:15 夕食(店名不明)
 (店⑨)
・ビル3F。1Fはショップ。空港近くの外国人観光客専用店。前部にステージがある広いフロアだが、じき韓国人客で一杯になる。100人以上になる。朝鮮料理。のりまき、キムチ、トーフ等々。スープにはニンニクがいっぱい。
・2Fは改装中?だがマツタケを売ってた。3Fから下りる時「ソンポソッ・・・」とか声をかけられた。すると別の従業員が「マツタケというんだ」と教えていた。
・1F売店で沈さんにこの付近と思われる抗日戦争の戦跡青山里はどの辺か尋ねる。「長白山に行く途中の安図県のほう」だが、とくに遺物・施設等はないとのこと。彼が青山里を知ったのはガイドになってからのことというのも意外だった。韓国では歴史教科書にあるから、韓国人観光客が多く来るようになって対応したということか。また沈さんの言によると、「抗日軍の組織規模からみれば洪範図の方が金佐鎮より上だが、彼は共産党の側の人間なので韓国人の間では金佐鎮の方が評価が高い」とのことだった。洪範図らが戦った봉오동(鳳梧洞)戦跡は沈さんから教わった。(私も以前何かで読んだはずだが記憶になかった。) ※帰国後、韓国のサイトで調べると、現地は図們市内で、「鳳梧洞反日戦跡地」という表題以下1920年6月7日の戦闘の経緯について記された記念碑(1993年6月7日建立)があるとのこと。また延辺大学構内に<抗日無名英雄記念碑>があり、また延辺歴史記念館という立派な施設もあるではないか。歴史館の前には<革命烈士記念塔>もある。胸像の写真の<허성숙烈士><왕덕태烈士>とはどういう人? 現地ガイド氏、この話題で何も語らなかったのは配慮?
・買い物。扇子2つで3000ウォン。たまたま財布にあった昨夏のソウル旅行の時の5000ウォン札で支払った。
 18:15~18:20 (バス)
 18:20~21:50 延吉空港・空港内へは水を持って入れないということで、全然飲んでないボトルの水(昨日長白山に行く時にもらった)を半分飲んで残りを捨てる。
・えっ、飛行機が遅れる!? それも21時までは待つ!? ということで理由不明のまま延々と待つ。3人で2Fのコーヒー店へ。お茶のメニューが豊富(10数種はあった)で、よくわからないのでジャスミン茶に。<1壺(ポット)>で注文。
・20:00経過を聞くため集合。しかし見通し立たずとのことで2Fの別のコーヒー店へ。<チョイス・コーヒー>(10元)と、またジャスミン茶。先の店は文字通り壺だったが、ここは日本でも見かけるガラス製の物。しかしデカい。ポットのお湯は適宜足しに来る。
・20:20集合。列に並ぶ。タバコ2箱購入。<玉溪>(30元)と<长白山>(20元)、前者は雲南のタバコ。
・20:50~<安检>(安全検査)は人大勢で長い列。所持品&ボディ・チェックの女性係官は全然愛想なく、私のポケットのボールペンを「これは何?」とクルクル回してみたり、携帯ラジオにも好奇心を示したりで、こんなに遅れている上行列が滞っているにもかかわらずジツに念の入った仕事ぶり。いや、これも遅れの一因かも・・・。21:26やっと関門通過、21:37やっと機上の人となる。離陸は21:50。予定では19:20発だったのに・・・。
 21:50~22:50 (空路)・飛びはじめてまもなく、ズボンのポケットの財布がないのに気づいた! それも日本国内用と今回の旅行用の2つ。前者にはカードいろいろに免許証、家とバイクのカギも入っている。現金もすべて。あっというまに一文無し。添乗員氏に告げると慣れてるようす?で冷静に対応してくれた。こんな時団体旅行は心強い。パスポートは身に着けていたのが不幸中の幸い。
 22:50~23:10 瀋陽空港・予定では20:30着のはずが・・・。(実は2時間ばかりの遅れで驚いてはいけないということを、この後わかってくる。)
 23:10~23:53 (バス)・やや大きめのキレイそうなバス。
・現地ガイドは呂さん。以下紫色は呂さんの説明部分。
・「瀋陽は朝夕の温度差が大きい。今は19℃くらい。空港は2001年11月に新空港ができた。瀋陽は遼寧省の省都で東北三省の中心。人口は2年前で720万人。35民族が居住している。漢民族が9割以上で、モンゴル族・朝鮮族・回族・女真族と続く。四季の変化が大きい。夏7月には32~35℃になるが、冬は氷の世界で-30℃になる。4~6月と9~10月がさわやかで観光シーズン。」
 ・「皆さんお金があったらここで会社を作ってください。3年間無税です。」

・[歴]17世紀初め後金(清が建国、1625年瀋陽を国都とし、やがて盛京と改称した。1644年北京に遷都した後も陪都とされる。1657年奉天と改称。はじめは漢族の入植を許さなかったが清朝後期に制禁を緩め、漢族が進出、市街地が形成される。19世紀初め鉄道敷設で東北の中心都市に。1907年奉天省設置、1929年遼寧省に改称。
・「遼寧省テレビ塔は高さ305.5m。中国で4番目、世界で10番目。1位は上海の468m。瀋陽の雪花ビールは青島ビールに次いで有名。1930年代に麒麟麦酒の技術を導入。
・夜12時過ぎで交通量は少ないが、自転車の男女相乗りがいるよ。
・「朝6~8時この公園(?)で大勢太極拳をしています。市役所から音楽が流される。」
・「幼い頃朝鮮人と暮らしていた。それでキムチや冷麺、犬肉も好き。」
 ・「この町も工事が多い。しばらく前は平屋だったが今は高層。」
 23:53~ 瀋陽・グロリアホテル・<凯莱大酒店>と書いてグロリアプラザホテル。さっそく添乗員氏に電話してもらって財布中にあったカード止める。


【10年後の付記】
・図們大橋の横で向こう岸の北朝鮮を眺めている時近寄ってきたおばあさんのことを今も時おり思い出します。どんな人生を送ってきたのか? 団体旅行でなければいろいろ話を聞きたかった・・・。さる情報通の人によると、やはり日本がらみの脱北者だった可能性が高そう。
・文章でも、また画像や動画でも伝えられないのが嗅覚の思い出。延吉の市場の臭いは、食欲をそそるどころか、正直なところとても耐えがたかったです。
韓国は21世紀に入ってどんどんキムチ臭さ・ニンニク臭さ等が薄れてきています。飛行機内・地下鉄内も、以前はもっと独特の臭いがあったようです。現代化が進んで食文化のみならずいろんな面にわたって洗練されてきたということでしょう。もしかして延吉方面もその後ずいぶん変わってきているのではないでしょうか?
 今年7月に延吉を訪れた方の旅行記(→①図們大橋 →②延吉市内 →③長白山)を見ると、犬食文化などは依然として(韓国よりも)堂々たるもののようです。
 ※1つ前の記事で載せ忘れましたが、21日(日)ソウルの弘大・駐車場通りでは犬猫食用反対の署名運動をやっている人(団体?)がいました。

・10年経っても変わらないのが北朝鮮の体制。韓国や中国の「観光客」を、彼らに「見られる対象」の北朝鮮の人々はどう見ているのでしょうか?
・それにしても、空港での所持品チェックの際サイフを失くしたのは大失敗。団体旅行だったため予備のお金を回してもらえたのは不幸中の幸い。サイフその他、金属類はすべてトレーに載ったりしていたのがその原因。バッグに入れておけばいい、ということを教わったのは最近のこと。なんで皆早く抜けられるのか長いことわかりませんでした。(恥笑^^;)
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑦4日目午前:長白山(白頭山)・延吉市内

2014-12-04 23:46:33 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎4日目:8月4日(水)

 長白山・国際観光酒店・6:30起床。雨。昨日晴れて良かった。朝食、昨日の北の服務員たちが皿を運ぶ。
・KBSのモーニングワイドは幼児期に米・蘭・ノルウェー等に養子に出された20~30代の韓国人の親探しの特集。帰国後ハングルサークルの先生に聞いたところでは、韓国は生活苦その他の理由により<入養>はかなり多いらしい。

【国際観光酒店の正面。】
・ホテルの隣は랭면관(冷麺館)。看板の字。北朝鮮では냉면(ネンミョン)ではなく랭면(レンミョン)と発音・表記。他に불고기(プルゴギ)・장국(すまし汁)、そして개고기(犬肉)の文字が・・・・。うーむ。
 8:00~9:13 (バス)・現地ガイド沈さん「チョウン アッチム(よい朝)」と挨拶。(「グッドモーニング」の直訳韓国語) ※以下沈さんの言葉は緑色
・「図們の北朝鮮国境でビデオはダメ。以前韓国人がそれを編集してドラマに使ったのを北が抗議した。」
・「昨晩のサッカーは中国がイランに、日本がバーレーンに勝った。」
・「韓国は日本に20年遅れ、中国は韓国に30年遅れ、北は韓国に50年遅れていると言われる。」

・対向車にパトカー。ゆっくり走るパトカーの後続車がたまっているのはいずこも同じ。
・(北京からのガイド)申さんの先祖は慶尚北道の尚州。祖父の代までは牛革の族譜があった。沈さんの家の族譜は文革でなくなった。持ってる人は反動とされた。
・「法輪功の事件は大変だった。」
・「ホテルで韓国のテレビは観られても一般家庭では外国放送は観られない。」
・「朝鮮族は教育熱心で大学進学率も高い。」
・「日本でデートの時彼女の分を払おうとしたらキモチ悪いと言われた。また寿司屋で皿を洗ってたら社長が入ってきて君はやらなくてよろしいって・・・。コチラの社長はそんなことしない。」
 ・「インターネットの普及率は5%くらい。1時間3元のPC房がある。ケータイの値段は1000~6000元。」

・沿道に新装の「銀星歌広場」がある。カラオケね。「虹鱒魚場」も。
・このバスの運転手氏は経験13年。外国人客の場合は経験10年以上とされている。
 9:13~9:22 蜂蜜直売所(休憩)
 (店⑦)
・途中で雨はあがった。サービスの蜂蜜を飲む。付近に養蜂箱が並ぶ。以前みた北朝鮮のものとは大分形が違う。
   
・休憩場所に1辺2.5mほどの大きな石造りの将棋盤。
 9:22~11:10 (バス)・「胡錦濤、江沢民も長白山に来たが、天気が悪かった。小平が来た時には晴れて天池が見られた。」
・「チベットでは3人の息子が持てる。兄が亡くなると妻は弟がもらう。雲南のダイ族は正月3日間は浮気OK。朝鮮族は酒と歌と踊りが好きというイメージ。北京の人は熱いお茶を飲みながら新聞を読む。」
・「3月8日は女性の祭り。(国際婦人デー)男性は50元くらい出し、女性は100元くらいもらう。また女性が欲しいという物を食べる。6月1日は子供の日。9月3日は延辺独自の成立記念日。」
・「3年前初めて北朝鮮に行った。税関でボールペンやタバコをやると2度目からはフリーパス。北ではお金があっても買い物できない。」
・「延辺観光の弱点はトイレ。政府が整備していない。ふつうのホテルでもトイレにペーパーがない。」
 ・「皿洗いの時水を使ってたら「なぜ湯を使わないのか?」といわれた。中国はで湯は高いのです
 11:10~11:30 福満山珍城(休憩)
 (店⑧)
・これまでと大差ない特産品かな? 延吉の地図購入。5元。
・ここの前庭にもあの「世界人類が平和でありますように」が!
  
・店員の読みさしか、「牧野武侠作品集2」という本が売り場内に置いてあった。
 11:30~13:00 (バス)・11: 45頃明月湖ダム横通過。11:49仁坪料金所。(この道は有料道路。)その先、集落にやはり薬屋はある。中国語だと药店。石門鎮を過ぎる。道の表示に<長春至琿春公路>とある。
・12:08五虎峰トンネル。
・12:54プルハートン川の橋を渡る。

・延吉の市街へ。規模は大きくない町だが、車は昨日朝より多くにぎやか。
 13:00~13:35 延吉・冷麺王
 (昼食)
・店は延吉の中心街にある。
・ここの冷麺、思ったよりマイルドな味。
   


【店の前の道。ここでも建設中のビルが見える。】


【インターネット関係の店か? 店名は「跨时代」とある。】


【10年後の付記】
・長白山・国際観光酒店の外観の写真は撮ってなかったと思ったら、朝1枚撮っていました。
 朝だけ少し雨が降っていましたが、昼には晴れていていて、天候にはとても恵まれた旅行でした。

・今読み直すと、現地ガイドの沈さんが「韓国は日本に20年遅れ、中国は韓国に30年遅れ、北は韓国に50年遅れていると言われる」と言っていたんですね。
 実は私ヌルボ、2010年に本ブログで「<飲み屋談義> 日韓を分ける24年差の歴史」という記事(→コチラ)と、その続編の「<日韓を分ける24年差の歴史>の淵源」という記事(→コチラ)を書きました。自分なりに歴史の本等を調べてまとめた記事のつもりでいたのですが、もしかしたらこの沈さんの言葉もひとつのきっかけになっていたのかもしれません。

・この日のメインは何といっても午後。中朝国境の図們大橋に行ったり等々。今回の午前中の記事はそんなに長くありませんが、午後がかなりの分量なので、とりあえず昼食までで切りました。
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑥3日目午後:長白山(白頭山)山頂・長白瀑布

2014-11-22 17:43:51 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎3日目:8月3日(火)
 13:00~14:00 (バス)・13:35入山ゲートの手前でいったん下車、ゲートを越えてすぐ乗車。沈さんが延吉で買ったというCD「日本三巨星(?)・・・」、カーステレオで聴く。キロロ「未来へ」等。アレレ、韓国の歌があるぞ。
・あっ、こんな所にも警官の人形が立ってる!
 14:00~14:30 運動員村停車場・四駆への乗り換え場所。ここで標高約900m。トイレ。韓国人グループ多い! 50人くらい?待ってる。で、すぐには乗れず。しばしの間待つ。
 14:30~14:55 (ランクル)・マイクロバスからランクルに乗り換える。3台に分乗。1人20元ずつチップ。運転手氏はこれが今日の12往復目。最高は1日16回とか。このシーズンで1年分かせぐ。途中何箇所かで工事中。日本のような旗振り交互通行はしないから、その都度申さんが下りて走りゴーストップやってくれる。観光も工事も3ヵ月の期間内ということか。
  【右の写真は下っていく車。】
 14:55~15:30 天文峰駐車場~天文峰・下車すると、歩いて上るのはほんの数分。滑りやすいが。頂上はまさに絶景! 天池は絵葉書のごとし。天気に恵まれホントに良かった!

【山頂にはこんなにたくさんの人が・・・。】
・天文峰は標高2670m。峰の内側は崖状でこわい。われわれの他はほとんど韓国人、数十人。100人越えるかも。北朝鮮の側(湖に向かって左側)には人見えず。

【振り返ると眼下に駐車場。その彼方に広大な裾野と、空。】
・ゴミ汚染は以前何かで読んだほどではない。が大きなゴミ箱は満杯。持ち帰りの発想はないのか?
   
・駐車場に<コーヒー屋>とハングル表記の小屋あり。
 15:30~15:50 (ランクル)・高山植物で、ピンクのキクのような花・黄色の花等が目につく。はるか彼方まで裾野が広がっている。バスで何時間もかかるわけだ。
 15:50~15:58 (バス)・滝入口の停車場(右写真)には、マイクロバスが何台も並んでいる。売店のハングル表示を見ると、冷コーヒー・弁当・のり巻き等の飲食物の他、「韓国電話」「民泊」の文字も。
 15:58~16:50 滝入口の停車場
 ~長白瀑布
・滝入口16:10。15元とるのか。橋を渡り山道みたいな道を歩いて16:14にようやく観瀑亭到着。
・途中温泉玉子の店あり。ウォンでも買える。
・添乗員O氏は年間3分の2は海外とか。長白山は初めて。日本では長白山の知名度が低く、パックツアーにしても客が集まらないだろう、とのこと。

【滝の間近まで行く道が右手にあり、歩いている人の姿も見えるがわれわれはここまで。】
 16:50~16:53 (バス)・込んでるから、ガイドの申さん・沈さんと運転手氏は同じホテルに泊まれないとのこと。
 16:53~ 長白山・国際観光酒店・支配人が挨拶。前橋の在日の方。年5ヵ月はコチラで7ヵ月は日本。
・北朝鮮から6人の従業員兼音楽演奏で来ている。
・部屋のテレビはCCTVの他に韓国のKBS。KBSを観ると「1科目あたり200万ウォンの不法課外(家庭教師)」「親日反民族特別法施行・・・」等のニュースをやっていた。
・18:30~夕食。ビールは冰川啤酒(ピンチョンビール)。例の北朝鮮女性Gの歌と演奏。
・曲目は次の通り。
 ①パンガプスムニダ(お目にかかれてうれしいです)
 ②民謡トラジ
  ③不明。メロディーをハーモニカ用楽譜で記す。1・763|4544-|5・764|3---|1・763|4544-|2・433|6---
 ④故郷の春
 ⑤アコーディオンで「我等の願いは統一」等
  ⑥統一の虹

 ※楽器はカシオのキーボード、ベース、ドラム、ヴァイオリン。2度目では①②③⑤は同じ。その他に○??工乙女 ○口笛 ○また会いましょう

・上記の北の服務員に「月1万5000円払ってる」とのことだが、以前テレビで観たシベリアで働く北の労働者や、週刊誌に載ってたチェコだかの女性労働者はいずれも北の当局がまとめて給料を受け取りピンハネするシステムになってるようで、ここの場合は果たして・・・・。
  【右の写真。後ろに「平壌服務員 芸術演出」と記されている。】
・CCTVを観るとアジア・サッカーは中国-イラン戦。顔に国旗ペインティングしてる中国人サポーターも。あと見合い番組のようなものがあった。
・徳島の兄にケータイで℡。音声明瞭。便利なもんです。大雨の安否を問う。無事とのこと。
・夜、雨。ガイドさんと飲みに行った人たちも。後で聞いたところでは、申さんが月収15万円ということを「ついに聞き出した」そうだ。


【10年後の付記】
 ・長白山の山頂は、私ヌルボがこれまで目にした風景の中で一番美しく、雄大なものでした。もっとも、この旅以外では日本と南北朝鮮しか行っていませんが・・・。
 ついでに、オリジナルの報告書には載せなかったヌルボのドヤ顔の写真も載っけておきます。(^^;)

・この日の心残りは、ホテルで温泉に入らなかったこと。入る気が起こらないほど疲れていた、のかな? ホテルの正面写真や部屋の写真を撮ってなかったのも残念。それに、今にして思えば北朝鮮のおねーさんたちと直接話をすべきだったな。

・そのおねーさんたちが歌っていた歌の中で「口笛(フィパラム)」はヌルボが1991年北朝鮮に行った時に当地で流行していて、歌詞も教わった歌です。→コチラで聴くことができます。(歌はオリジナルのチョン・ヘヨン)。あ、「我等の願いは統一」も教わったな。南北双方で歌われている歌です。(この歌を聴くたびに、北と南の人たちに「アンタら、だまされとるんや!」と叫びたくなります。もし南北双方の住民が本気で統一を叫び、休戦ラインの撤廃をめざして行動を起こしたら、それに待ったをかけるのは双方の政府・軍隊ではないでしょうか?)

・北朝鮮が外国に労働者を派遣して給料の大半をピンハネしている状況は10年経った今でも変わっていません。11月13日の「朝鮮日報」は<外貨稼ぐ「現代版奴隷」、海外で働く北朝鮮労働者が急増>という記事を掲載しています。(→コチラ.無料会員制。)
 それによると、2800人もの北朝鮮労働者がカタールの建設現場で働いているが、月給の9割は党の指導部に差し出さなくてはならない」とか。しかし、「家族は人質同然だが「白いご飯が食べられる」と海外労働は高い人気」なのだそうです。
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ⑤3日目午前:延吉・長白山(白頭山)へ

2014-11-09 23:53:02 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎3日目:8月3日(火)
 6:00~7:36 白山大厦・6:00前起床。6:30朝食。バイキングだが、いかにも朝鮮料理という料理多し。蒸しパン。ミルクは昔懐かし脱脂粉乳のような・・・。BGMは、これも聴いたような・・・、あ、20年前の欽ちゃんの番組でやってたわらべの「もしも明日が・・・」ではないか。
・テレビはNHKはなかったが韓国のSBSが視られる。
・フロントの女性2人のうち1人はチマチョゴリだった。


【表通りから見た白山大厦】

【ホテル玄関の白山大厦の字は江沢民の書とある。】

【ホテル前の道路。やはり自転車の人が目につく。】

【道路を挟んでホテルの真向かいは延辺朝鮮族自治州委員会。】

・上のような古い建物(とくに官公署等)は旧満洲国の日本風建築の特徴である屋根付きの煉瓦造。
 また、この地の看板は、どれも中国語と朝鮮語が各1枚か、あるいは1枚に併記されている。(右のマイクロバスの表示も同様。)
 7:36~8:37 (バス)※以下緑字の「 」は現地ガイド沈さん、緑字は沈さん、青字は北京からのガイド申さんの話。
・「長白山の一番高い峰は2749mだが、これは北朝鮮側。天池を囲む山の3分の2は北朝鮮の側。中国側の最高峰は2670m。2500m以上の峰は北朝鮮側に7つ、中国側に6つある。長白瀑布は落差68m。」
・沈さんは以前東京水道橋の経理専門学校に留学。高円寺に住み吉祥寺の寿司屋で皿洗いのアルバイト。日本で学んだのは「信用は命」ということ。
・朝の延吉はそれなりに多く車が走る。市街地を出ると後は信号なし。相当飛ばすが対向車もけっこう多く、少し怖い。
・琿春行きのバスとすれ違う。
・「5年前は観光バスにエアコンはなかった。」
・途中の店(右写真)で沈さんが購入した水をもらう。
・「延辺の農業は立体的。下は水田、その上はトウモロコシやマメ、一番上は果樹園。特産はリンゴとナシをミックスした사과배(サグァ・ペー)。」 沿道で地元民がモモを直売している所が続くが、儲けになるのだろうか?
・途中何度か鉄道線路を横切る。
 8:37~8:47 (五虎峰トンネル手前の休憩所)
 (店⑤)
・トイレ休憩だが、う~む、というトイレ。赤レンガに白ペンキで<男 남>と書いてある。
  
・朝鮮人参等を売っている。
 8:47~10:00 (バス)・「東京のトイレはきれいな上に無料だからいい。コチラではキレイなのは有料で1回1元。」
 ・「北朝鮮の人はボールペン等を欲しがる。食糧難は制度がよくないのと、土がよくないため。」

・9:07頃明月湖ダム横を通る。
  
・「安図県。朝鮮族自治州から出るとハングル表記がなくなる。」
・「金持ちか否かがわかるのはケータイとタバコ。」
・「ここの酒は朝陽が有名。」
・「1970年から火葬になった。」
 ・「延辺では3人目の子供にはボーナスが支給される。少数民族は一人っ子政策の例外。」

・こんなイナカに<基督教会>があった。途中アヒルの行列の道路横断でバス止まる。時おり放牧の牛が目に入る。
 10:00~10:33 万景台展示館(休憩所)
 (店⑥)
・付近の観光用地図看板には、<長白山の稀少な薬用植物育成基地>というようなことが中国語で書かれていた。
・この休憩所は万景台展示館>、つまり金日成の生地を看板にしているので当然北朝鮮系。ハングルで大きく<各国から来られた同胞の皆様を熱烈に歓迎致します>と掲げている。やはり薬草主体に販売。桑黄キノコというのがあった。帰国後調べると相当に高価なモノ。「あのアガリクスをしのぐ注目のキノコ」なんだそうな。鹿胎膏というのは女性用。
・申さん「北朝鮮では100ウォン札を折ると金日成の肖像が折れるからよくない。」
 10:33~11:48 (バス)・沈さん、北朝鮮の制度批判。「援助米の行方が・・・。中国は米1㎏が高くても5元。以前は延辺より北朝鮮の方が暮らしやすかったが今は逆。小平の時代から変わった。」
・「天池に5年前100匹くらい魚を放したが2回失敗した。」
 ・「この辺の人の生活は牛や羊を飼うとか蜂蜜。」

・申さんの話。「高校の頃電気や?で魚を取った。動物も人も北に行くほど背が高い。後ろから見るとお嬢さんだが実はおばさん、ということも。」
 ・「さっきの売店の北朝鮮女性は3ヵ月延辺で働いたら帰る、と言っていた。」

・沈さんは延吉在住。「新居を15万元で買いました。96㎡。」とのこと。
・11:10頃高木がなくなり高原らしくなってくる。トウモロコシ畑は相変わらず。沿道の集落の食堂には客の行列も。
・敦化行きのバスとすれ違う。
 11:48~13:00 蘭興休閑山荘
 (昼食)
・<兰兴>休閑山荘というのは読めないぞ。(帰国後調べたら<蘭興>だった。)
・意外とキレイな店。女性従業員のユニフォームは雲南(?)のものと言っていたそうだが、そーかしら?
・キューリその他大きな生ヤサイ。トーモロコシ+肉。蒸しパン。キノコ。トマト+玉子+香菜のスープ等。
  
【最初でかい野菜がそのまま出てきた(左)ので少しあせる。】
・トイレが、大き目の個室(?)内に便器が2つ。申さんの話では「<連れション>どころか<大>もつきあうことで友情が深まるとか。


【10年後の付記】
 私ヌルボ、けっこうメモ魔ではありますが、こんな分刻みの旅行記録(報告書)はこの時だけです。明確な理由あってのことですが、その件についてはこのシリーズの最後に書くことになると思います。

 オリジナルの報告書は、ページ数の関係で写真は少なくせざるをえませんでした。今回は(とくに延辺自治州内)は写真を増やしました。文章はほとんどそのままです。

 ホテルの真向かいの延辺朝鮮族自治州委員会の建物の来歴を今になって探ってみたところ、鄭銀淑「中国東北部の「昭和」を歩く」(2011.東洋経済新報社)に次のような記述がありました。
 間島省公署が置かれた場所は、今の延辺州庁舎の隣りで、正門を入って正面である。1939 年に完成した 3 階建ての間島省公署は、延辺朝鮮族自治州が成立した後、 2006 年7月まで延辺州政府庁舎として使われていた。2006年9月、隣りに新しく建てられた今の延辺州庁舎に自らの役割を譲り、歴史の中に消えていった。すなわち撤去されたのだ。延辺大学歴史学部のイ・ホンソク教授によると、延吉は「開発・再開発ラッシュ」のまっただ中にあり、新しいビルが次々と建てられて、近代の建築物は消えつつあるという。氏の勤務先である延辺大学の敷地内にも満州時代の建物があったが、それも数年前に撤去された。その際、建物があまりに頑丈だったため壊すのに苦労したという噂が流れたという。
 えっ、ということは、写真の建物は元は間島省公署で、2006 年7月まで延辺州政府庁舎だったのが、新庁舎ができて撤去されちゃったということか! なんか残念だなー。

 最後の写真の「2連便器」については→コチラの過去記事で書きました。
 次回はいよいよ長白山登頂です。
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ④2日目午後:北京(故宮)・延吉

2014-11-03 02:37:35 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎2日目:8月2日(月)
 12:15~13:50 故宮>・ガイドの申さんは1968年ハルビン生まれ。ハルビンの人は伊藤博文が安重根に殺された地であることを知っている。北京大学出身。言葉は得意な順に「朝鮮語・日本語・中国語」とのこと。
・「故宮はまず建物を見て下さい。宝物等を見たかったら台湾へ。故宮には9999の部屋がある。1万は天の神しか使えないのでその1つ下にした。全部入って見学すると3ヵ月かかる。」
・出てきた家族連れの子がおもちゃの薙刀のようなものを持っていた。日本の子供なら刀というところ。 
・[歴]紫禁城(故宮博物院)は明・清時代の皇帝の居所。宮殿の建設は1417年に開始、1420年に完成。全体は大きく2つに分かれる。<○○殿>という宮殿群は公的な場所である外朝で、その後方に<○○宮>とよばれる宮殿群の内庭があり、ここは皇帝の起居する所である。
・南側の午門から入る。「太和門に向かって右側は文官、左側は武官が並んだ所。太和門手前の一対の獅子は、右の玉を押さえている方が雄。左の雌は足の下に仰向けになった子に中指から出る乳をやっている。」
・「死刑について。2ヵ月前までは銃殺だったが、今は毒剤の注射になった。昔は斬首。北京南部に薬市や庶民の死刑の場があった。ナイフで3千回肉を削ぐという死刑があった。3千回の前に死なないようにさせた。執行の前に袋に罪人を入れ逆さに落として意識を失わせた。」
・「西太后は14歳に入内(?)し21歳で西太后となった。頤和園は彼女個人の避暑地で、広さは293万㎡、紫禁城の7倍もある。その3分の2は人造湖。」
 ・「紫禁城全体で13844の竜を装飾に用いている。」

・太和殿前の広場には一面に黒っぽいレンガが敷きつめられている。いちばん上は下図のようにヨコに並べられているが、 「その下はタテ、その下はまたヨコと、全部で15層になっている。これはかつて刺客が地下に穴を掘って潜んでいたことがあったため。」
・太和殿前に鶴と亀をあしらった香炉がある。「儀式の際香炉から出る煙が皇帝を包み、それを雲とみなした。」 太和殿横には高さ1.2mほどの金属製防火用水入れがある。「表面の傷は義和団の乱の時金かと思った日本兵が表面を刀で削った痕とのこと。
・「保和殿では3年に1度科挙の最終試験(殿試)をやる。科挙はまず村の<童試>を通ると<秀才>といわれる。次に県の試験の<郷試>、それで300人にしぼって<会試>。この合格者10人が<殿試>に臨む。うち3人が合格。合格者は紫禁城を出て右に曲がる。60歳の合格者もいたが、彼はお金をもらって仕事は免除となった。」
・保和殿裏側の階段中央部は大きな石の一枚板に装飾が施されている。皇帝(の輿)専用通路のこの石板は深さ2m重さ200t長さ17m幅3m。 燕山から運んだ石。40㎞の距離だがまっすぐの道を作り、凍らせ、丸太を置いて滑らせて運んだ。50mごとに井戸を80作らせた。30万人が1年間労働した。」
・「12月31日には皇帝が各少数民族の王を集めて忘年会を開き、お年玉をやった。モンゴル王には最多の額を与えた。」
・各宮殿の前に掲げた宮殿名の額には漢字とモンゴル文字が併記されている。申さんに尋ねると「懐柔のため」とのこと。
・「西太后は大の京劇好きだった。愛犬にも見せた。犬1匹に宦官を10人つけた。」(以前観た中国映画「西洋鏡」は中国でこの時代に始まった映画の話で、西太后にも見せた(が事故った)というものだった。)
・[歴]坤寧宮は皇后の正殿。皇帝の大婚にはここで3日間儀式が行われた。「結婚後1週間はここから出られない」とか。
・坤寧宮を出て少し行くと御景亭。帰国後調べると、御景亭を含めてこの庭園を<御花園>という。園内の花壇・芝生には「花木心有 攀折无情」の札あり。 御景亭は小高い岩(?)の上。「月見の場。葡萄酒を飲みながら月餅を食べます。」
 13:50~14:10 愛新覚羅溥傑の(?)
 (店②?)
・故宮北辺の長い一棟の平屋の一室に案内される。書画がいっぱい掲げられている。郭沫若の書もあった。お茶を飲みつつ話を聞くと、そこに居る愛新覚羅義明さんは溥傑の甥とかで74歳、書道家協会の副主席とのこと。客の望む字をその場で書く。促されて拍手。買えばいくらだったか? 帰国後調べると、不明・疑問な点もある、との情報も。
 14:10~14:25 (景山公園前まで歩く)・故宮北門を出て歩く。処々工事中。「オリンピックに向けてのもの。」バス停の辺りで少しマイクロバスが来るのを待つ。
 14:25~14:50 (バス)
 14:50~15:37 全国農業展覧館
 (店③)
・展覧館の建物には入らず、敷地内の茶と茶器の店に。「国営の茶室」という。説明しながらお茶をふるまう。まず①ウーロン茶の新茶。「家庭では2gで十分。中国では一番茶は飲まないで捨てます。茶葉の温度の問題。三番茶・四番茶と、七番茶がおいしい。」・・・と言いつつ、急須の外側に湯をぶっかけるところから。昨夜同様これが中国の淹れ方。小ぶりで細めの湯呑に盃様の湯呑をかぶせる。飲む前にひっくり返し、まず細めの方で香りを愉しむ。([北]によると<聞香杯>というそうだ。)②ジャスミン茶。「淹れた後広がった花を目の周りに貼ると目に良い。」③バラの蕾。④野生一葉茶。長さ10㎝ほどの1本の黒くて棒状の茶葉。1ℓの湯に漬ける。「便秘に良い。1杯目は苦いが2杯目から→アマイ→ウマイと感じる。2000円。」 M氏によると「京都のダラニスケという漢方薬のようだ。」
⑤金露茶。噛むと少し海苔のような・・・。「鼻と気管に良い。」⑥ライチ紅茶と、ナツメ+バラ。
・茶器(急須・湯呑)は昨夜見た木魚石。その他に湯を淹れると黒い絵柄が赤く変わるという湯呑。初めて見た。購入。
・茶盤の値段をO氏が訊ねたら×万円とか言ってたようだ。[北]によるとこの著者は北京のお茶市場でセット一式1500円ほどで購入したが、同じものが王府井では1万円だったとか。

 15:37~15:50 (バス)・「北京の星巴克(スターバックス)は30元だから日本と変わらないでしょう?」
・三得利(サントリー)の烏龍茶の大きな看板発見。本場にブーメラン販売か。
 15:50~16:40 中国大飯店・国貿商城
 (店④)
・5つ星ホテル地下の、チャイナワールドショッピングモールと銘打った高級店街。ブランドに疎い私にはどーも・・・。同所にあったスーパーに入る。鉄火巻7.6元、太巻(4つ)6元というのもある。トマト4個5元、バナナ3本約6元。韓国の缶飲料シッケ5.6元の他、韓国の菓子等も。リポビタンDは<力保健>5.8元か。買った物は子供向き小型読み物12.80元、マグカップ7.30元、干しぶどう9.80元。
 16:40~16:50 (バス)・車窓から見たもの=電動自転車、<网上银行>という電子銀行の看板。
 16:50~18:00 東海明珠
 (夕食)
・飲茶の店。<国家特級酒家>とある。営業時間は11:00~14:30と17:00~22:00。飲茶だがお粥・チャーハン等も。赤いカボチャを焼いたものは和菓子風で気に入った。
・食事の終わる頃合いに扇子やパジャマ、楊枝入れ(4つ\1000)の説明販売。
・生簀に貝・蟹等。<扇貝・文蛤・青蛤・花蛤・深水螺>等々。
 18:00~18:25 (バス)
 18:25~21:24 北京空港・予定では北京20:00発。まだまだ時間的余裕がある。表示を見ると19~20時にここから国内各地へ38便ある。複数あるのは上海3便、瀋陽・広州・ハルビンが2便。
・待合室のテレビを観ていると、ここでも「猟奇的彼女」の紹介。今度は「我的野蛮女友」、なるほど。政府のCM(?)で「居住改変中国」というのをやっていた。今後さらに昔ながらの路地=胡同は消えてゆくのだろう。
延吉行きはやはりほとんど韓国人客。「漢字がわからないとなあ・・・」などと話をしている。
・19:40に飛行機に乗り込む時、大粒の雨。機内、少し臭うかな? 急な雷雨のため離陸はおあずけ。その間の機内、ジャズ風のBGM。よく聴くと山下達郎ではないか。(国際化!)
・何度も肩透かしをくらってやっと21:24離陸。
 21:24~23:10 (空路)・22:00に機内食。パンとソーセージ2個。小トマト5個。コーヒーはインスタント風で甘いぞ。
・機内のハエ1匹も長旅。
 23:10~23:25 延吉空港・21:40着のはずが90分遅れ。夜遅く、それも地方空港ということで、閑散とした感じ。各表示等がハングル併記であることを確認。「ついにここまで来たぞ!」という感懐。
 23:25~23:37 (バス)・マイクロバスは北京のよりやや大きめ。現地ガイドは沈さん。※以下、緑字の「 」は沈さんの話。
・「延辺朝鮮族自治州は4万2710㎢。人口218万人中朝鮮族が88万人。」
・人も車も時間のせいか少なく、暗い。
 23:37~ 延吉・白山大厦・ホテルはそこそこ。1FにBarがあり、その看板は<추억 만들기>(思い出つくり)とハングル表記。
・一度部屋に入った後、O氏が知人の紹介という当地在住韓国人と待ち合わせて外に飲みに行くのに同行させてもらう。
 0:30頃~1:30頃? (外出)・当の韓国人H氏が妹連れでホテルに来る。彼の車(Audi)でブルハートン河にかかる延吉橋を渡ってすぐのビル10F(?)の<??銀座街>という、入ると意外に品のある店へ。
 1:30頃 白山大厦


【10年後の付記】
  故宮は、最初の写真のように入口一帯から工事中。ここだけでなく、北京オリンピックに向けて北京が大きく変貌しつつあるさなかでした。東京五輪やソウル五輪の前といろんなことが重なります。
 それにしても、天安門広場も故宮も敷地が広い。(なんとありきたりの感想なんだ・・・。) 時間的制約もあり、約1時間半、ただ通り過ぎるだけ。めぼしいものは周知の通り蒋介石が台湾に持って行っちゃったので、今度は台湾に行かなければとその時思い、その後10年まだ行ってないとは・・・。

 2日目の夜遅く、やっと延吉にたどりついた時はホントにうれしかったです。そしていよいよ翌日は白頭山だぞ、ふっふっふ。これだけ大きな期待感を持って旅行したことが他にあったかなあ?

 この時の旅行でとくに印象に残っているのは、中国国内での飛行機の発着時間の大幅な遅れ。延吉空港着が「90分遅れ」とありますが、後になって思えばそれでもまだマシ(!)だったのでした(^^;)。その後オリンピックの時は改善されたのかな?
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ③2日目午前:北京(盧溝橋、天安門広場)

2014-10-22 22:19:08 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎2日目:8月2日(月)午前
 5:30~
 7:10
 京倫飯店5:30起床。盧溝橋までの距離と朝のラッシュ等を考慮すると早く出ざるをえないとのこと。
・朝食バイキング。メニューは豊富。同卓のO氏の話では、昨晩知人と食事に出かけたら子供の乞食がいたとか。
 7:10~
 8:00
 (バス)・車窓から見るとけっこう自転車通勤が多い。背広・ネクタイ姿は皆無といってよい。
・「朝鮮戦争に際して、150万人の人民解放軍が参戦した。司令官は澎徳懐。80万人が戦死した。毛沢東の子も。澎徳懐は文革で失脚した。」
 ・「文革の時紅衛兵は自分たちが正しいと思っていた。朝食の前に「毛沢東万歳」と3回唱えた。」

・申さんはハルビン生まれの朝鮮族。おじいさんは釜山。日中戦争の頃ハルビンへ。
・「中国には56の少数民族がいる。94%が漢民族。全人口は15億(公称14億)。朝鮮族は約200万人。」
・「中国では中1で中国の歴史、中2で世界の歴史を教わる。中3では復習。」
 ・「親が金がなければ子供は学校に行けない。地方の勉強しなかった子は北京に来て労働者になる。」
・「北京大学を出ても就職できない人もいる。昔は国が強制して就職先を振りあてた。1983年小平が「黒猫でも白猫でもネズミを取るのがいい猫だ」と言って資本主義的社会主義をとってから変わった。」
 ・「中国が有人衛星打上げに成功したのは大きな出来事だった。」

・「麦当劳」はマクドナルド。「火鍋」はしゃぶしゃぶ。しゃぶしゃぶはふつう羊肉で、1904年に初めて中国に入ってきた。
・盧溝橋近くになり、たしかに申さんの言葉通り低所得者層の居住区。街路がそのまま青空市場になっている。
  
 8:00~
 8:47
 中国人民抗日紀念館・昔の城門(宛平県城の順治門)をくぐって少し先、抗日紀念館で下車。8時開館まで外で少し待つ。柵越しに見ると職員が朝礼中。国旗掲揚等。
・[歴]抗日紀念館は1987年、橋の東の宛平県城(1640年創建のものを修復)の城内に盧溝橋事件50周年記念事業として設立。
・8:05入館。前庭に「民族正氣 浩然長存」と刻まれた亀上の石碑あり。館内ホールの左の壁に義勇軍進行曲(中国国歌)、右に八路軍進行曲。楽譜付き。
・館内を右から順次一周(順路は逆?)。
<抗日英烈館>は14枚のパネルに各20人ほどの抗日英雄の名を列記。<人民戦争館>の資料では犠牲者数<日军520463><为军490130>とある。<为军>は偽軍、すなわち国民政府軍である。
・次の<日军暴行館>は残虐な写真等の資料が数多く展示されていた。実物資料としては50㎝ほどの毒剤砲弾、マスタード、ルイサイト毒剤砲弾等。<侵華日軍科学戦示意図>という地図によると、多くの地で日本軍が化学兵器等を扱っていたことが示されている。731部隊による最近試験後の山積死体の惨い写真もある。生体解剖の場面を蝋人形で再現したものは隙間から覗くようになっている。解剖台の向こうに2人の医者、背広の日本人、脇に軍人が立っている。<日军暴行館>ではさらに<焚焼><制道無人区><実施細菌戦><屠(?)殺労工><設立慰安所><摧残婦孩><南京大屠杀><轟炸>等のテーマごとに多くの写真・資料を展示している。展示されている地図には<中国労工在日本服苦役示意図><侵華日軍細菌戦示意図><日軍在中国設置慰安所図>等があった。<南京大屠杀>ではやはり犠牲者30万余人とされていた。中国側将兵約2000人が殺害された1933年の熱河承徳の戦いについては初めて知った。(これも無残な写真資料があった。)
・<総合館一~三>では15年戦争~終戦の歴史を共産党の動きを軸に展示。中に、1944年「衡陽防衛戦で日本軍に殺害された中国軍将兵の死骸」という累々たる人骨の写真があったのは驚いた。帰国後調べてみると、これは「戦死者の遺骨を集めたもの」ということで、「それをさも<不当な虐殺>と思わせる表現はよくない」との見方があることを知った。
・売店で資料書籍「中国抗日戦争写真集」等購入。紙袋に「让战争成为历史 让和平书写未来」とあった。申さんに訊くと「戦争は歴史となってほしい。平和は未来の本に書いてほしい」という意味とのこと。
 8:47~
 8:54
 (バス)・紀念館から西に約500m、宛平県城の威厳門を過ぎるとすぐ永定河にかかる盧溝橋に着く。
  
【宛平県城の威厳門。右は盧溝橋からの眺め。】
 8:54~
 9:15
 盧溝橋・[歴]盧溝橋は金代の1192年に完成。清の康熙年間に洪水のため破壊されたが、その後修繕を重ねた。マルコ・ポーロがこの橋を賛美している。
・「古い盧溝橋は史跡保護のため現在車は通れない。自転車はOK。新しく造られた盧溝橋は車が通れる。」
・盧溝橋は中国人の観光客もけっこう多いようだ。地元の人たちも通っている。しかし付近の家々を見てもわかるように低所得者層の居住地域にあるということで、橋の両側のみやげ物屋など侘びしい雰囲気も漂う。橋の欄干上の獅子像([歴]全498体。)はどれも形態が異なる。
・申さんによると、中国人もこの橋を歴史遺物であるとともに中日戦争勃発の地として記憶に留めているということだ。
  
【子どもをだっこした母親、ネギをカゴに入れて自転車をこぐ人等地元住民も多い。】
 9:15~
 10:00
 (バス)・川と城壁に沿った道を行くと、城壁沿いの草むら中に高さ60㎝ほどの俵形の石がいくつも置かれていて、それぞれ文字が刻まれていた。写真を撮って後で確認すると、日中戦争についての証言を記しているらしい。
  
 10:00~
 10:30
 天安門広場・[歴]天安門を背に南向きに広場に立つと右に人民大会堂、左に中国歴史博物館と革命博物館、正面に人民英雄紀念碑、その向こうに毛主席紀念堂、正陽門がある。この雄大な光景は中華人民共和国の成立後のもので、清朝崩壊後は雑草の茂るがままの状態だった。天安門は明朝の1417年。清朝の1651年に現在のような城門城楼が再建された。1949年10月1日毛沢東が立って新中国の建国を宣言した楼閣は1988年から一般開放されている。人民英雄紀念碑は中国一高い石碑。アヘン戦争以来の英雄のレリーフがある。
・[歴]中国では時代区分は次の通り。原始=170万年前(元謀猿人)~4000年前、奴隷制社会=前21世紀(夏王朝)~前476年(春秋時代)、封建社会=前476年(戦国時代)~1840年(アヘン戦争前夜)、近代(旧民主主義革命期)=1840年~1921年(中国共産党創設)、現代=1921年~
・「天安門広場は44万㎡あり世界一広い広場。毛沢東の写真のすぐ下の入口は皇帝だけ通れる。皇后は1度だけ。中国国旗の赤い色は人民(の血?)、黄色い大きな星は共産党を表す。小さい4つの星は知識人・資産家(商人?)・工人・農民。人民英雄紀念碑はアヘン戦争以来の英雄を称える。毛主席紀念堂で見られるのは実は蝋人形で、その下にミイラがある。」
・私としては12年ぶりの天安門広場。あまり記憶が残っていないが、人と車はずいぶん増えたようだ。ちょうど国旗掲揚塔に詰めている(じっと立っている)衛兵の交代の時間で、多くの人々が見物していた。広場で目についたのはお上りさん観光客たちの家族記念写真撮影。凧揚げを楽しんでる人も相当数いる。大人も。連凧もある。トンボがたくさん飛んでいる。
 10:30~
 10:45
 (バス)・人でいっぱいの地下道を通ってバスまで歩く。広場近くに警察署があり、若い警官たちが拳法だかをやっていた。
・王府井に屋台が並んでいる。「営業は夕方から。サソリやヒトデのカラアゲもある」とのこと。
 10:45~
 12:10
 香港美食城
 (昼食)
・帰国後調べると、王府井にある広東料理で、ガイドブックにもある店。


【10年後の付記】
  2日目を丸ごと載せようと思ったらボリュームがありすぎで、やむなく午前と午後の2回に分けることにしました。こんなことではなかなかメインの延吉・長白山(白頭山)にたどりつきません。

 少し前に書いた自分のブログ記事でさえ他人の書いた文章に思えるほどの記憶力なので、10年前の旅行記録となると実に新鮮な気持ちで読めます(笑)。
 過日一緒にソウルに行った友人はカメラ不所持。「記憶に残らないものは記憶に値するほどの価値がないから残らないのだ」と言っていました。しかし、私ヌルボは自分の記憶力を全然信用していません。仕事関係等日常生活でも忘れてはいけないことを忘れてしまったことはたくさんあります。
 今こうして記憶にはほとんど残っていない過去の自分の記録を見ても、具体的には言えないにしても何らかの意味はあるのでは、と思います。

 この旅行中400枚以上の写真を撮りましたが、中国人民抗日紀念館の展示物の写真は撮っていません。館内撮影禁止だったのかな? しかし他のブログ、ホームページを見ると載っているものもあります。→コチラや→コチラや→コチラ等。
 また最初のホームページにある宛平県城の威厳門の写真(2009年)を見ると、われわれが行った時に行われていた修築工事が終わって周辺の道とともにきれいに整えられたようすがわかります。なお、→コチラの記事によると、北京市内は過去このような城壁が数多くあったのだが、1960年代に入って交通の妨げになるという理由でほとんどとり壊してしまったのだそうです。

 中国(そして韓国)の歴史認識問題であいかわらず「30万人」等々の数字が取り沙汰されたりしています。被害者側が被害を水増し・誇張したり、加害者側が犠牲者数を極力少なく見積もったり、事件自体をなかったものとみようとするのは同じ穴のムジナのように思えます。すでに半世紀をはるかに越え、どちらも子供どころか孫の代になっているのに・・・。どの国や民族を問わず、そんな被害者あるい加害者にならないようにするにはどうすべきか?ということを考えるべきでは?
 ※「世襲的犠牲者意識」をめぐる問題については、→コチラの過去記事や→コチラのレポート参照。
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ②1日目:北京(天壇公園、街のようす等々)

2014-10-17 10:40:46 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
※参考図書からの引用は、次のような略号で記した。
 「中国歴史散歩 1」(山川出版社.1993)=[歴]
 「地球の歩き方03~04 大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社.2002)=[地]
 谷崎光「北京の愉しみ」(角川春樹事務所.2004)=[北]
 岡田和裕「満州辺境紀行」(光人社.2003)=[満]

◎1日目:8月1日(日)
 8:30集合
 日本時間
 10:35発
 成田空港(発)・晴。7:30頃第2ターミナル着。3Fに行くとかなり混んでいる。若干の買い物の後、7:50両替の列に並んだ。あまり長い列でもなかったが、なかなか進まず、8:25までかかってしまった。\15,000が100元札9枚と、日本円のおつり少々。
・8:30の集合時間直前に待合場所D46カウンターへ。私を含め11名の参加者と添乗員K氏予定通り集合。

 (空路)・ANAのNH905便。34G席は右窓側。途中高速道路が目立つ都市の上空にさしかかる。まもなく干潟らしき海岸線が見えたので韓国の仁川付近と推定。この辺りから海に出た。
 現地時間
 13:40着
 北京空港(着)・北京空港到着とともに時計を1時間遅らせる。入国審査の列をみると外国人は中国人の10倍はありそう。早く消えた中国人用の方に並び替えてOKだった。中国人小学生の団体が目についた。荷物の受取り場所の表示は「大件行李提取」とある。
 14:20~
 15:10
 (バス)・空港ビルから出てマイクロバスに直行。北京の暑さも日本とあまり変わらない。現地ガイドは北京の旅行社の申さんという男性。日本語がよどみなく、達者。もう1人女性のガイドのタマゴ嬢。バス最後部の席はクーラーの機械音がうるさい感じ。
※以下、青字の「 」は申さんの話。 
 ・「北京空港は2000年1月1日から新空港になった。北京市は人口1450万の首都だが、経済の中心は上海で人口1800万。人口第一の都市は重慶で3000万。(都市人口をどういう基準で算定しているのだろうか?)
 ・「今北京は古い建物をどんどん潰している。(車窓から建築工事の多さが確認できる。) 車が多いが、明日月曜日はすごく混む。車が安くなり、頭金があれば買えるので自家用が増えた。いちばん多い車種はフォルクスワーゲン。日本車はトヨタ・ニッサン・ホンダ・三菱の順に多い。国産車では紅旗がある。毛沢東が乗った紅旗はナンバーなしだった。北京では1日交通事故が500件ある。担当の警官は事故後10分以内に解決しないとクビになる。

・「空港から市街までは18㎞。高速道路に沿って白樺並木。中国では車も人も自転車も右側通行。こちらのドライバーは運転が乱暴で、クラクションをよく鳴らす。北京には故宮を中心に環状高速道路が6つある。信号がないので時速200キロで走る車もある。内側から3番目の環状道路までが市内。その同心円を東西に走る道路(長安街)は広い所で幅108m、狭い所でも55mある。」
 ・「タクシーは初乗り3㎞までが10元で、あと1㎞ごとに1元。ガソリンは1ℓ3元。中国の人はタクシーに乗ると前(運転手の横)に座る。理由は前が見えることとクーラーがあるから。」
 ・「重慶は自転車が多く、ビルの上から見下ろすと人の頭しか見えないくらい。」

・「北京のバスは2種類。クーラーなしはどこまでも1元。クーラーありは最初2元で距離によって値段が上がる。トロリー式のバスは電線の下だと電線から電気を取ることもできる。」
 ・「北京の東部は金持ちが住む所。南は貧しい人たち。昔死刑場があった所。北には北京大や清華大がある。」
 ・「北京の平均給料はサラリーマンで1万5千円ほど。大卒は2万円。郊外は1万円。北京のレストランの皿洗いは1万円。少ないが貯めて暮れに実家に持って帰る。」
・「2002年、日中国交開始から30周年で日本から1万2千人が来た。日本側代表が日中友好協会会長の橋本竜太郎氏。」
 ・「アパートではベランダで洗濯物を干すのは禁止。(見るとベランダ風の部屋という造作になっていて、そこに干してある。)
・「<飯店><酒店><大厦>とあるのは3F以上の場合はホテル。」
 ・「犬・猫はあまり見ないが、家の中で飼う。犬・猫の戸籍を得るのに3千~5千元かかるので、飼うのは金持ち。」
 ・「北京の人の朝食はほとんど外食。2元くらいで揚げパン(ユジョウか?)を買う。20~30代の女性は自分の家で食事を作らない。
・「今の中国は男女平等じゃないでしょう。女性が上です。」
 ・「北京の273ヵ所にマクドナルドがある。値段は日本と同じ。紫禁城などにはスターバックスがある。」

・(バス、光明路を通る。)
 15:10~
 16:00
 天壇公園・[歴]1420年に建設された中国最大(270万平方km)の壇廟。北京城の南東に位置し、明・清の皇帝が毎年豊作を祈った場所である。1998年世界遺産に指定された。
・国内観光客非常に多い。団体目立つ。韓国人も。地元のオジサンたちがトランプをやってたり・・・。通路の手すりの上に寝転がってる人もいる。
・「祈年殿は冬至の日に皇帝が翌年の豊年を願う所。中国一大きな木造建築で、釘を1本も使っていない。赤色の柱4本は四季を表す。竜を刻んでいる。4本の柱の周りにさらに12本の柱がある。」
 ・「ここは1900年義和団の乱の時8ヵ国連合軍の司令部となった。また北京五輪が決まった後、国務員(=議員)が集まって祝った。」
 ・「瓦の紫色は神の色を示す。」

・(申さん、七福神の話もするが詳細不明。)
・祈年殿を間近に見ようと階段を上るが他の大勢の観光客が押してくる。身体的接触をなるべく避ける日本人とは感覚が違うようだ。
・[歴]天壇は1889年に落雷で焼失。その後再建され、1970年に修復し現在に至るとのこと。また元代から帝室用の瑠璃瓦を焼く窯場があった瑠璃厰という街路がある。清の康煕帝の頃に窯場は移転した。
・黄色いTシャツの団体が目につく。彼らが記念写真撮影の時に掲げた旗には「遼寧花蕾」とある。青年団体か?
トイレの入口に4つ星があり、一行の笑いを誘う。
 16:00~
 16:05
 (バス)・「車の増加とともに駐車場が課題に。ちゃんとした駐車場は1時間10元くらい。」
・「露天の散髪は3元くらい。店で頭のマッサージなど入れて15~30元くらい。」[谷崎光「北京の愉しみ」によれば男性向きのヤバいサービスをやるような店もあるようだ。(韓国にもあるが。)]
・「窓から見える国家体育総局は給料中程度=5万円くらい。」
 16:05~
 16:55
 百年工坊
 (店①)
・「全中国から106人の伝統工芸職人を集めた。お薦めはまず七宝焼。」・七宝の他、切り絵、絵文字、人形等々。七宝をあしらった爪切りとクジラ(?)の置物購入。
 16:55~
 17:08
 (バス)「マンションは1㎡で18万円くらい。100㎡だと1800万円。」
 ・「ケータイ使用料は月200~300元。」
 17:08~
 18:10
 京倫飯店・建国門大街のホテル。4つ星だそうで、なかなか豪華。
 18:10~
 18:30
 (バス)・「中国の代表紙「人民日報」の題字は毛沢東の書。」
・夕涼みの人々や、公園でバドミントンに興じる父娘等。
 18:30~
 20:00
 全聚徳
 (夕食)
・メインは北京ダック。[北」によると北京ダックは「全然高い料理じゃないんです。大学の食堂にもあるぐらいで、・・・安いところだと、一匹二十五元でもある。・・・有名どころの「全聚徳」でも確か百元あまりだったと思う。」・・・ふーむ、<有名どころ>なのか、ここは・・・。(帰国後調べると有名なチェーン店。本店ではなかったようだ。)
・北京ダックの他には、豆腐に香菜の料理等。
・山東省特産の木魚石製の茶器というのを実演販売にやってくる。\12,000を\10,000にまけると最初言っていたが、最後には1つ\1,000の盃が4つで\1000とか(?)、なるほどねーの中国風商売。木魚石はずっしりと重たいし、お値段も今後の旅の中で要検討ということで・・・。
 20:00~
 20:15
 (バス)・車窓からTOYOTA、Cannon等の広告が見える。RICOHは理光。(理研光学だからそのまんまか。)
・「朝鮮料理の店も増えたが、冷麺1000円という高いのがあった。」
・バスの漢字は<巴士>。信号に、人マーク入りの歩行者用の他、自転車マーク入りの自転車用があるのを発見。
 20:15~
 20:50
 京倫飯店・同室のM氏等何人かは申さんの誘いで足のマッサージへ。20元。
 20:50~
 21:50
 (散歩)・ホテルの前の建国門大街を西へ歩く。車はぎっしりではないが多い。歩いている人、自転車の人、バスを待つ人等々、人出も時間のわりに多い。新聞の掲示板が随所にある。
道行く人が何人も読んでいた。中国の多くの(?)人たちにとって、新聞は街で読むものなのだろうか? 「北京现代商报」という新聞に「北京停车场五年后缺口44万个」とあったのは駐車場不足問題だろう。各地の気温が載っている。最高気温が高い順に武漢37℃、重慶と上海が36℃、台北がさりげなく入っていて35℃。広州31℃、天津29℃。西安と香港は28℃。「文艺周刊(文芸週刊)」の記事も興味深かったが、http://www.beijingdaily.com.cnというURL(网址という)に帰国後アクセスしてみよう。
・ゴミ箱は3種に分別。いや、側面に小さく電池回収箱も付いている。
  
10代の女の子2人が何やら話しかけてくる。どうも何か奢ってくれということらしいがパス。ホテル近辺にもマクドナルド(麦当劳)にスターバックス(星巴克)にケンタッキー(肯徳基)がある。他の店もそれなりにあるが・・・。
  
・北京の地下鉄は1969年に完成した1号線が最初。地下鉄は現在3路線(?)しかないが、北京五輪に向けて新路線がいくつかつくられるようである。階段を下って建国門駅を見てみると、人影はまばら。自動改札ではない。(帰国後調べると一部で自動改札が導入されたとのことだ。)
・地下通路に韓国映画「猟奇的彼女」のポスターがあった。こちらでは「野蛮师姐」となっている。
  
 
 21:50~ 京倫飯店・ホテルのTVで視られる局数は多い。国営のCCTVは1、2、5、9とある。その他も含め中国語放送は8局、CNN等の英語放送が6局。日本語放送はNHK衛星第1と第2。時間差はあるがNHKのサンデースポーツや「週刊ブックレビュー」が見られラッキー。
・CCTVのスポーツニュースではサッカー(足球)・バスケット(篮球)・バレー(排球)の他、オートレース・上海の競艇(?)のようなものもやっていた。
・CCTVではドラマ等の他、賞品付きのクイズ番組をやっていた。スタジオ参加者を集め、若い司会者が雰囲気を盛り上げていた。「エッフェル塔はセーヌ川の南岸か北岸か?」等なかなかハイレベル。
・天気予報?の表中、各<城市名称>ごとに<汚染指数>の数値と<主要汚染物>が表示されている。

【10年後の付記】
 中国に初めて行ったのは1991年8月。それから13年ぶりの北京でした。
 1991年に行った時は北朝鮮からの帰路に立ち寄ったこともあって、街の人たちの姿や表情に活気が感じられました。同じ(?)社会主義でも、生気が感じられなかった北朝鮮とこんなにも違うかと驚いたものです。ただ、そうした感想も、具体的にいえば品物を山のようにリヤカーに積んで自転車を漕いで引っ張っているオジサンとか、街中で上半身ハダカで縁台将棋に興じたり夕涼みしていたりするオジサンといった、今の年配の日本人にはどこか懐かしい光景から感じられたものでした。
 2004年の北京は、とくに4年後のオリンピックをひかえてということもあり、高級ホテル等の高層建築、地下鉄、新しいきれいな高級スーパー、そして日本でもおなじみのファーストフード・チェーン店等々、時代の先端を行くような施設や店が目につきました。
 一方、この時すでにゴミの分別収集も行われているし、またTVでは<汚染指数>や<主要汚染物>等も報じられていたのですね。(すっかり記憶から消えていました。) それにしては、その後も空気や食物等の汚染が相次いでいるのはなぜなんでしょうね?

 今読み返して思うのは、現地ガイドの申さんの説明内容の細かさです。ただ車窓から見えるものや見学地の説明だけでなく、中国の社会や人々の生活まで具体的に説明してくれました。とくにさまざまなものの値段。今にして思えば、ガイドとしての説明のためというよりも、ご本人が(or中国人一般が)給料の額や物価について日頃からとくに関心をもっているということなのでしょうか?

 中国語はほとんどダメな私ヌルボですが、わずか数日間とはいえ、車窓越しに見える簡体字の看板をなんとなく見ていくうちに、その本字がかなりわかるようになってきました。それを土台に、中国語学習を始めるぞ! ・・・と思ったものの、結局思っただけで終わってしまったのはナサケナイことでした。夜の街で高校生らしき2人の女の子に何やら話しかけられた時も、ここで中国語で話せたら・・・と切に思ったんですけどねー(笑)。しかしどういう素性(←古い言葉?)の女の子だったんだろ?

 ・記録中の雑誌「文艺周刊(文芸週刊)」は今確認するも不明。beijingdailyとあるので「北京日報」系の新聞?
 ・木魚石なんてのも脳内から消えていましたが(ソモソモ入っていなかった?)、今検索してみるといろいろあるようで・・・。
 ・そーか、私ヌルボが韓国映画「猟奇的な彼女」を観てカンドーしたのが2003年だったんだなー。それで一挙に注目されたチョン・ジヒョンが最近またドラマ「星から来たあなた」で人気が復活しているようですね。この6~8月には東大門デザインプラザ(DDP)で特別展もやってたし・・・。韓国では「별에서 온 그대(ピョレソ オン クデ)」を略して「별그대(ピョルクデ)」といってるとか・・・。中国でも「来自星星的你」というタイトルで放映しているそうですが、「朝鮮日報」の記事(→コチラ)によると、このような韓流コンテンツの輸出では中国ばかりがもうけていて、韓国は主人にもうけさせるために芸をしているサーカスのクマみたいなものですと。この10年で、東アジアの政治・経済・文化等々、ホントに大きな変動があったな、と思います。(誰もが言うことか。)
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2004年8月1~6日 「中国東北部と中朝国境の旅」全記録 ①日程の概要

2014-10-16 22:18:39 | 2004年8月・中国東北部と中朝国境の旅
完結しないままの続き物の記事が2ケタあり、それも増え続けていることを承知で新たに8回くらい続くと思われる(?)シリーズを始めます。

 表題にあるように、ちょうど10年前、2004年の「中国東北部と中朝国境の旅」の記録です。
 さる団体主催のスタディツアーに参加したもので、費用は5泊6日で約20万円!
 4~5回韓国旅行ができそうなけっこうなお値段ですが、私ヌルボがなんで参加を決心したのかというと、
  白頭山(中国名:長白山)に行ける!
   ②延吉に宿泊し、市内観光の他、豆満江の対岸の北朝鮮を見ることができる!
   ③北京郊外の盧溝橋や、瀋陽・柳条湖の9.18記念館等々を見学できる!
 ・・・といった点に「おおっ!」ととびつきました。
 1人で行くとすると、かなりのテマヒマがかかるルートをこの日数で周れる機会はめったにないだろうと思って迷うことなく申し込みました。

 そして、期待通りいろいろたくさんの収穫があった旅でした。
 実はその旅行中分刻み(!)の細かな記録を書き残しました。ガイドさんの話をほぼもれなくノートにメモし、写真もたくさんとりました。
 帰国後、WORDに整理してまとめ、さる所(って実は県)に報告書として提出しましたが、10年経った今、そのまま埋もれさせてしまうにはどうも心残りなので、ここに載せることにしました。本ブログは韓国・朝鮮関係がメインなので延吉に着いてから発つまでの部分に絞るかなとも考えましたが、全体のまとまりのことも考慮して1日目から最後まで省略しないことにしました。
 現地で見聞きしたことの記録の後に、旅の前後に調べたことや考えたこと等も書きました。それに加えて、10年経った今再読して思ったことも書き添えておきます。
 なお、今回ブログに掲載するにあたっては、10余人のツアー参加者の皆さんや関係団体等についてはご迷惑のかからないように仔細にチェックしたつもりです。

 初回なので、まず旅行日程の概要を掲げておきます。

 1日目 8月1日(日) 成田空港(発)
 北京空港(着)
 北京市内
北京空港→天壇公園→京倫飯店(ホテル)→全聚徳(ペキンダックの夕食)→京倫飯店(泊)
 2日目 8月2日(月) 北京市内&郊外
 北京空港(発)
 延吉空港(着)
抗日戦争記念館・盧溝橋天安門広場故宮→東海明珠(夕食)→北京空港→延吉空港→白山大厦(泊)
 3日目 8月3日(火) 延吉市内
 長白山(白頭山)
長白山(白頭山)への終点(頂上近く)でマイクロバスから四駆に乗り換え。下車後少し歩いて長白山頂上へ。→長白山・国際観光酒店(ホテル)(泊)
 4日目 8月4日(水) 延吉市内
 延吉空港(発)
 瀋陽空港(着)
延吉市内の観光。冷麵店で昼食→図們大橋(対岸は北朝鮮)→延吉の市場クマ公園→延吉空港近くの食堂で夕食→延吉空港→瀋陽空港→グロリアプラザホテル(泊)
 5日目 8月5日(木) 瀋陽市内&郊外
 瀋陽空港(発)
 大連空港(着)
瀋陽市内&郊外の観光。西露天鉱(露天掘りで有名な炭鉱)→平頂山惨案遺址紀念館撫順戦犯管理所→老边饺子館(昼食)→9.18歴史博物館北陵公園→海外風味酒店(東北料理の夕食)→瀋陽空港(発)→大連空港(着)→大連ラマダホテル(泊)
 6日目 8月6日(金) 大連市内
 大連空港(発)
 成田空港(着)
大連市内半日観光。星海公園老虎灘中山広場旧満鉄本社→大連空港(発)→成田空港(着)
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