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ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

尹健次神奈川大名誉教授が「心血を注いだ」労作 「「在日」の精神史」は今年一番感銘を受けた本

2016-11-04 23:55:06 | 韓国・朝鮮に関係のある本

 いやあ、これは私ヌルボが今年これまで読んだ中で一番読み応えがあった本ですね。
 神奈川大学名誉教授尹健次(ユン・コォンチャ)先生の著書はこれまで何冊か読み、共感を覚えることが多くありましが、昨年末発行のこの全3冊本はそれを超えて感銘を受けました。
 2012年、尹健次先生は→コチラの記事でこの「「在日」の精神史」に取り組み始めた動機を記しています。
 執筆に際して「在日朝鮮人がどんなふうに生きてきたのかを通常言うところの歴史としてだけでなく、生活史や精神史の側面を重視して書き残しておきたい」と構想を記しつつ、「実際に書くとなると、本当に身心ともに疲れ果てることは間違いないはずだけど・・・・・」とも・・・。そして昨年11月、ご自身のブログ記事(→コチラ)で「この5,6年間、心血を注いできた」本書完結の感懐を記しています。

 今本書を通読して、尹健次先生がこの本にかけた労力と「思い」が実感できます。
 1910年の韓国併合から現代に至るまでの在日朝鮮人の歴史を実に多角的に取り扱った内容で、個々の事柄に対する見方等については私ヌルボとしては首肯できない点もあるのですが、それよりもまず研究者としての、いやそれ以前に1人の在日の生活者としての誠実さに心打たれます。

 以下、本書の内容・特色と、私ヌルボの感想等を列挙します。
  ※全3冊の目次(岩波書店のサイト)は→コチラ

①在日関係の政治・文化・社会の実にさまざまな分野にわたって、巨視的観点・微視的観点の両面から緻密に記述している。
 それぞれの時期の時代状況とともに、書籍等の関係資料だけでなく、実に多くの人に直接会って話を聞いています。また後述のように、自身の体験も織り込まれています。
 ※私ヌルボが個人的に注目したのは、徐3兄弟の次男で、兄の徐勝と同様学園浸透スパイ団事件の容疑者として長く収監されていた徐俊植と「10年少し前、ソウルの居酒屋で徐俊植と話をした」というエピソード。徐勝や弟の徐京植と違って全然メディアで名前を見ないので今どうしているのかわかりませんでしたが、「3年前から江華島で大豆栽培をしながらひとり暮らし」しているとか。(ハンギョレ紙の記者の情報)

②韓国や北朝鮮や日本、民団や総連等の組織、左右の政治集団等の主張から距離を置きながらも、政治的な諸課題についての自身の考えをそのまま読者の前に提示している。
 韓国・北朝鮮・日本のそれぞれに批判的見解、いや厳しい見解が述べられていますが、それは「在日」なればこその「国境を越えた」視点がベースにあるのかもしれません。
 ※例えば北朝鮮について、次のような記述が目に留まりました。
  侵略・被侵略の「近代」の所産である「在日」は、本来なら、脱近代の課題を明確に担うべき存在であったはずである。そうした「在日」にとって、最も大きな不幸は「北が見えていなかったこと、そしてそれを信じたことではないか。・・・・北のいう「自主」や「主体」は、「在日」にとっては「隷属」そのものであった。「在日」はいまも深い後悔の海に沈み込んだままである。(第3巻p.238)
  ★[参考] 尹健次詩集「冬の森」より
    振り子(部分)
   朝鮮を嫌い
   日本にあこがれ
   日本に捨てられ
   朝鮮を発見する
   また朝鮮に捨てられ
   日本と朝鮮のはざまで「在日」を自覚する
    右へ左へゆれ動いた振り子
 ※第2巻と第3巻の副題はそれぞれ「三つの国家のはざまで」と「アイデンティティの揺らぎ」。これはまさに「在日」及び尹健次先生の<現住所>を示しています。

③在日朝鮮人の文学について、各巻で詳述している。
 植民地時代の張赫宙、金史良から、現代の金石範、梁石日等々、実に多くの在日作家たちとその作品、さらにはそれらについての評論等に至るまで。とくに第3巻ではアイデンティティに関する章の中で李良枝、玄月、鷺沢萌、柳美里、そして「GO」の金城一紀等についても言及されています。いやあ尹健次先生、これら在日の作品をほとんど全部読んでるような・・・。(驚) きっと今年の芥川賞候補作・崔実「ジニのパズル」にも当然目を通されたことでしょう。それらの中には、4ページにかけて記されている呉林俊(オ・リムジュン.1926~73)という詩人をはじめ、私ヌルボが名前も知らなかった作家や詩人が何人も出てくるので、今後の読書の指針にもなります。磯貝治良さんの著作等、作家たちについて書かれた著作についても触れられていて、この在日文学についてだけでも1冊分の本になりそう。また「金達寿、金石範、李恢成、高史明、金鶴泳などと並べてみると、私がいちばん好きなのは金泰生かも知れない」といった個人的感想や、金達寿と親しかった金時鐘が「(金達寿の小説は)全体として「大衆小説」だったと言ってよいのでは」と語っていた、というような聞き書きまで書かれているのは興味深いところです。

④日本人妻、とくに「総連の指示による離婚」を問題として提示している。
 ここで取り上げられている角圭子「鄭雨沢の妻」については、以前→コチラの記事でけっこうこまごまとと書きました。つまり、「朝鮮人の夫とともに北朝鮮への帰国船に乗り込んだ日本人妻の多くが現地で社会主義建設の重荷になっているから、日本人妻とは別れて、同族結婚の家族を優先するように」という指示が総連からあり、それに従った人が多くいたということ。
 本書ではまた、「サンダカン八番娼館」山崎朋子の事例も書かれていますが、ヌルボは知りませんでした。さっそく「サンダカンまで わたしの生きた道」を読み、彼女が若い頃からこんなドラマチックな人生を送ってきたことに驚くとともに、北朝鮮当局と総連が夫婦間の愛情・絆といったものに何の斟酌もなくこんな方針を打ち出していたことに憤りを新たにしました。一方、少しだけ救われたのは、その指示に抗した人たちもいたことです。(この関連で朝鮮新報社で働いていた崔碩義(チェ・ソギ)さんの名前も出てきますが、山下英愛文教大教授の父親ということは初めて知りました。)
 こうしたことも含めて、在日朝鮮人男性と日本人女性の結婚の事例がたくさん書かれているのは、まあ個人情報の範疇なのかもしれませんが、いろいろ興味深いところではあります。最近「ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~」というドキュメンタリー映画にもなった画家・李仲燮(イ・ジュンソプ)山本方子夫妻のこととか・・・。

⑤70~80年代の南北の体制競争と在日政治犯に関連した「ウラ話」等がいろいろ書かれている。
 1970年代には、朴正煕大統領の威信体制下、民青学連事件(1974年)で逮捕され死刑宣告を受けた金芝河や、学園浸透スパイ団事件(1975年)逮捕・投獄された徐勝・徐俊植兄弟の助命運動が日本でも大きな関心を集めて展開されました。
 本書によると、当時は「南北とも多くの工作員を派遣」していた時代で、韓光煕(元総連中央本部幹部)「わが朝鮮総連の罪と罰」等の評価は難しいが、朝鮮労働党およびその指導下の朝鮮総連が強力な対南工作を実施したのは周知の事実」とのことです。そして韓国内で摘発された「スパイ事件」も「すべて「捏造」だったと言うけにはいかない」とか・・・。そればかりか、なんと尹健次先生自身も東大の大学院生の頃の1971年春、総連の指示で秋田の海岸から密航船に乗って北朝鮮に渡り、招待所での「学習」に加え「軍事訓練」(自動小銃、手榴弾、乱数表等)を受けたということが記されています。
 ※上記の「わが朝鮮総連の罪と罰」所収の地図<わたしがつくった北朝鮮工作船着眼ポイント38ヵ所>に秋田県八森町の塩浜温泉があるが、密航船に乗ったのはここ?
 ※密航船の到着地は元山。(1991年ヌルボが初めて上陸した北朝鮮の港も元山で、その第一印象は尹健次先生のそれ(下)とほとんど重なるものがあります。(違うのは、ヌルボの場合は最初から「希望」も「期待」も持っていなかったということ。)
 船は一昼夜をかけて元山に着いた。早朝、港で働く労働者の「虚ろな目」と視線が会い、その時点で、ひと筋の希望が砕かれ、「祖国」に対して絶望的な気持ちになった。一九六〇年代の帰国者が「港に着いた瞬間に分かった」というが、それと同じだったかも知れない。
 ・・・というわけで「結果的に失望して帰った」とのことですが、おそらく他にも相当数の在日青年が総連の手引きで北朝鮮に渡ったものと思われます。在日2世の方による本書の読後感(→コチラ)にも「僕はピョンヤンで訓練を受けた」という知人のことが書かれています。
 これらのことと関連して、尹健次先生が「個人的にはときには顔を合わせてお酒をともにする間柄」であり「北に何回行ったのか知らないが、二度目は弟・俊植を同道している」という徐勝立命館大教授に対し、「北に行ったにしても、それが「在日」として生きていく上でどんな意味をもったのかを検証することが大事ではないか」、「私は率直に言って、徐勝の場合、少なくとも「非転向の良心囚」というだけでは済まないと思っている。それでは徐勝の人生の重要な部分が抜け落ちてしまう」、 「徐勝が「非転向」というとき、何からの非転向なのか」等々厳しく問いかけているのは、私ヌルボとしては「よくぞ言ってくれました」という感があります。徐勝教授や、徐京植東経大教授の著作(とくに「ディアスポラ紀行」とか)を読んで鋭い筆鋒と批判精神に感じ入りつつも、その矛先が北朝鮮に向けられることがない(というか、擁護の文章さえない)ことで、そのすべての言説が訝しく思えてくるのは如何ともしがたいところでした。(しかし、今後も何も言いそうにないような・・・。) 同様の思いは、在日韓国人間諜団事件(1975年)で死刑を宣告され、最近になってやっと無罪が確定した康宗憲氏の自伝「死刑台から教壇へ 私が体験した韓国現代史」を読んだ時も感じたことです。(これについては→コチラの過去記事でも書きました。)
 上記のような70年代の南北のスパイや政治工作をめぐる角逐はその後様相が変わってきます。北からの南派工作員が大幅に少なくなる中で、韓国の北側スパイ摘発の担当部署である韓国国軍保安司令部(保安司)は無理にでも自分たちの仕事の「実績」を上げるため韓国に来た在日を主ターゲットにして「在日同胞スパイ事件」の捏造が行われるようになった、ということです。本書で紹介されている金丙鎮「保安司」は著者自身の体験が実に具体的に記されている本ですが、読んでみると当時(80年代)は拷問による「でっちあげ」がほとんど常態化していたようです。

 以上長々と書きましたが、かなり第3巻に偏り、それも北朝鮮関連のことをはじめ相当に我田引水的な紹介になってしまったような・・・。(笑) しかし冒頭に記したように多くのことを教えられるとともに、尹健次先生の学問に対する真摯な姿勢も感じられて、まだ2ヵ月弱残っていますがまちがいなく今年一番の読書体験といっていいでしょう。

 ※「私ヌルボとしては首肯できない点もあるのですが・・・」と書いたのは、たとえば「親日派」について。昨年刊行された金哲「抵抗と絶望 植民地朝鮮の記憶を問う」の感想をお訊きしたいものです。

 [追記] 個人的なことですが、2人直接知っている人の名前が出てきてビックリ。1人目は大学の先生ですが、2人目は表紙のハングル文字「우리(ウリ.われわれ)」「마음(マウム.こころ)」「하나(ハナ.ひとつ)」をとても味わい深いスタイルで書いている方。誰かな?と思ったら親しい知り合いのKさんではないですか! 最近連絡とってなかったなと思って電話したら通じずメールも不通。本人あるいはご存知の方、この記事見たら教えてくださいね。
コメント (3)
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3冊(+α)チェーンリーディング② 大正時代の詩人アナーキスト中浜哲が朝鮮に行った理由

2016-07-03 16:16:52 | 韓国・朝鮮に関係のある本
         

 5月15日の記事(→コチラ)で卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」(スぺース伽耶)を紹介しました。その本で取り上げられている詩人90人の中で、名前からして知らなかった約40人中の1人が中浜哲です。

 その本に掲載されている詩は「何處へ行く?」と題された詩の一部です。

  髭の凍る冬の晨だつた
  京城の裏長屋を借りて住んで居た
  『久さん』は漢江へスケートと魚釣りを見に出掛けた
  『鐵』は朝鮮芝居の楽屋へ潜り込んで行つた
  『大さん』は辦當を携へて圖書舘へ通つた

  オンドルは無かつたが
  アンカは有った
  三人は其日の収穫を語り合つた
  朝鮮の夜は重苦しかつた

   (※文字の表記は上右画像の「中浜哲詩文集」(黒色戦線社.1992年刊)に拠る。)

 つまり、この詩の一節は中浜哲が自身を含め3人で朝鮮・京城にいた時のことを回想したものです。
 この詩についての記事は→コチラの<朝鮮新報>のサイトで読むことができます。
  ※題の「何處へ行く?」が「何故へ行く?」になっていたり、「『大さん』は~」の1行が抜けているので要注意。
 その説明にもあるように、『久さん』は和田久太郎、『鐵』は中浜哲(本名:富岡誓(ちかい)、『大さん』は古田大次郎です。(大二郎も誤り。)
 では、中浜たちは何のために朝鮮に行ったのでしょうか?

 卞宰洙さんの説明文には彼らが「1920年代の無政府主義者」だったこと、そしてこの詩の一節は「朝鮮に身を避けていた時期を描いたもの」とは記されていますが、一体何から身を避けていたのか書かれていません。もう少し詳しく知りたいと思い、図書館で関連書を探してみると、意外なほど多くの本が出ていました。

 たとえば竹中労「黒旗水滸伝 大正地獄篇(下)」(皓星社)には、かわぐちかいじによる次のような挿画がありました。
      
 ちょうど上掲の詩に相応するような中浜・古田・和田の3人が京城の街を歩いている絵です。描いたのは(あの「沈黙の艦隊」の)かわぐちかいじです。ただ、「朝鮮憲兵隊司令官」福田雅太郎という肩書は間違いだし、彼を暗殺するべく海を渡ったというのも事実とは異なるのですが・・・。
 この本のキャッチコピーを見ると「あの竹中労と若き日のかわぐちかいじが描く! 革命家、美女・妖女、テロリスト、大陸浪人、快人・怪人が織りなす大正アナキズムの世界。」とあります。私ヌルボ、竹中労の本を読むのは何年ぶりか・・・。いやあ、やっぱり情熱とパワーのこもった本です。この下巻は、歴史教科書の見出しにふつうにある「大正デモクラシー」という微温的な(?)言葉からイメージされる大正後期の社会とは違い、テロが頻発する殺伐とした時代像を描き出しています。(竹中労は、60年代後期の学生・労働者運動の高揚と、この大正時代後期を重ね合わせていたのですね。)
 ★テロ事件の例 1921(大正10)年 9月28日 国粋主義者朝日平吾により安田善次郎暗殺。
              同年11月 4日 中岡艮一により原敬首相暗殺。
         1923(大正12)年12月27日 社会主義者難波大助皇太子・摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃。(虎ノ門事件)
                     ※この事件は、ちょうど中浜や古田が京城に来ていた時に起こった。

 基本的なことですが、彼らが属していた組織は1922年中浜哲が中心になって結成したfont color="scarlet">ギロチン社という組織です。なんとも穏やかではないこの名は「首になった人間の集まりだから」(「中浜哲詩文集」中の倉地啓司「ギロチン社」)という意味とのことです。ギロチン社について高校日本史の教科書には載っていません。中浜哲が1922年10月古田大次郎たちとともに結成した無政府主義の結社です。中浜はすでに単独で同年4~5月来日中のイギリス皇太子の暗殺を計って御殿場・岐阜・京都・神戸とピストルを持って追うものの機を逸して失敗しています。

 私ヌルボ、このギロチン社関係の本をいろいろ漁ってみて知ったのは、中浜哲以外にも優れた文才・詩才を示したメンバーが実に多かったこと。古田大次郎は後に死刑に処せられる前に遺書として書いた「死の懺悔」が数十版を重ねるベストセラーとなり、和田久太郎は飄然とした俳句を作る人で、松下竜一「久さん伝」(講談社)や正津勉「脱力の人」(河出書房新社)等で好意的にとりあげられています。
 ※これらの人々については「日本アナキズム運動人名事典」にかなり詳しく説明されています。また→コチラのサイトは日本(&朝鮮)のアナキズム関係の人物・運動・組織について驚くほど多くの情報を提供しています。

 ギロチン社の資金源は、いわゆる<リャク>でした。掠奪の「掠」。つまり大会社に対する強請(ユスリ)で、とくにハッタリが強く弁舌に巧みな中浜が指南役となり、三井・岩崎・古河・安田等の富豪や三越・高島屋等の百貨店、満鉄・芝浦製作所・日本ビール等の大会社から平均20~30円程度、多い時には200~300円をせしめていました。ただ、そのほとんどは生活費と遊興費に費消されたのですが・・・。
 このような<リャク>の時も、またメンバーたちが私娼窟に繰り出す時も仲間に加わらなかったのが古田大次郎でした。早稲田大出身(中退)でテロリストの道を自ら選びながらもまじめでピュアな一面を持ち合わせていた人物で、対照的な性格の中浜とは無二の親友といった間柄でした。そんな彼が関東大震災が起こった翌月の1923年10月はからずもギロチン社による最初の(そして最後の)殺人にはからずも手を染めてしまったのは皮肉なことでした。
 それは古田が小川義雄、内田源太郎とともに大阪の第十五銀行玉造支店小坂派出所で現金運搬の行員を襲った事件で、彼らは現金の奪取に失敗したばかりか古田が銀行員をはずみで刺殺してしまったというものです。
 古田等は逃走し、彼が事件の主犯ということも知られませんでした。しかし「この事件が彼らの運命を決定した。古田大次郎は強盗殺人の現行主犯となり、中浜鉄はその教唆主犯となった。もはやあとがえりできぬ地点を、彼らは踏みこえてしまったのだ。」(平野謙「さまざまな青春」)・・・というわけで、古田は「内地にウロツイていては危険だという中浜の心配からしばらく朝鮮にでも遊ぶということとなった」(古田大次郎「死刑囚の思い出」)のです。

 ・・・これが古田等が朝鮮に渡った理由その1です。
 そして2つ目の理由は爆弾や拳銃の入手。仲間の逮捕に対する報復や脱獄の計画、あるいは(大杉グループの)和田久太郎や村木源次郎が企てている大杉栄虐殺に対する復讐計画への協力のために必要という中浜と古田の判断でした。

 まずその年(1923年)11月半ば過ぎに古田が中浜の友人で朝鮮に詳しい高島三次を「お守役兼案内者」として朝鮮に渡ります。
 2、3日後内地に帰った高島に変わって中浜がやってきます。その後金策のため古田は12月末に内地に戻り、1月末に和田久太郎とともに再び朝鮮に渡ります冒頭の詩の一部分は、この1924年2月の3人の京城での生活の一コマです。彼らの当地での生活やそこで見聞したこと等は古田大次郎「死刑囚の思い出」(「日本人の自伝8」(平凡社)所収)にいろいろ具体的に記されています。その内容はなかなか興味深いことが盛りだくさん。

 また、朝鮮で爆弾や拳銃を入手するといっても中浜等には成算はあったのか? なんらかの伝手(つて)があったとしたら、それはどのようなものだったのか? これも関連書を20冊ばかり読むうちに見えてきました。

 ・・・どうもチェーンリーディング(1冊→1冊)というよりも1冊→3冊→9冊という核分裂型リーディングになって収拾がつかなくなってしまいました。次回は中浜等の京城体験か、彼らと朝鮮独立をめざすテロ組織との接点についてのいずれかについて書きます。
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3冊(+α)チェーンリーディング① 卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」

2016-05-15 23:19:53 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 チェーンリーディングという言葉がどれくらい一般的かわかりませんが、同じ著者の本を続けて読んだり、あるいは読んでいる本に載っている人物や事柄で興味を持ったことがあればその関連書を次に読み、さらにその次も、とチェーンスモーキングのように続けていくこと。
 考えてみれば私ヌルボ、読書歴を振り返ってみるとそういう傾向が強いなと思います。
 最近もそう。 まず発端は4月27日中野にセウォル号関係のドキュメンタリー映画「ダイビング・ベル」を観に行ったのがそもそもの発端。※この映画については→コチラの記事に説明と監督インタビューあり。
 で、その場で配られたチラシの中に、この新刊書(今年2月刊)の広告があったのです。

 卞宰洙(ピョン・ジェス)「朝鮮半島と日本の詩人たち」(スぺース伽耶)。明治時代~現代の日本の詩人・歌人たち90人の、朝鮮・韓国をテーマとした作品を集めたものです。
 この卞宰洙さんの本は、2006年1月から隔週で<朝鮮新報>で114回にわたって連載されていた〈朝鮮と日本の詩人〉シリーズをもとにまとめられたもので、そのウェブサイトで観ることができるので、私ヌルボもこれまで全部ではないものの、しばしば目を通してきました。(実は今も読めます。記事一覧のベージは→コチラ。要会員登録。)
 ※シリーズは初回のアイサツと1人のダブリを除いて112人分。その中になくて本のみに掲載の詩人も若干いるので、本には載っていない詩人も30人近くいます。

 90人の顔ぶれを見ると、A=石川啄木高村光太郎といったチョー有名な人から、B=名前だけは知ってるレベルの人、そしてC=私ヌルボがぜ~んぜん知らなかった人までいろいろ。で、Cがおよそ4割くらい。うーむ・・・。
 ※「アンタが知らんだけやろ」と言われそうなので、9n-1番目の10人拾ってみました。→鹿地亘・新井徹(内野健児)・沢村光博・吉野弘・栗原貞子・関根弘・柾木恭介・鈴木比佐雄・濱口國雄・結城哀草果
 また、有名人でも抒情詩人もいればプロレタリア詩人もいて実に多様。卞宰洙さんは執筆にあたっていろんな詩集・全集・同人誌等を渉猟したそうで、なるほど、その苦心が推察される内容です。
 全体的な紹介は<朝鮮新報>のサイトにある佐川亜紀さんの記事(→コチラ)と、<レイバーネット>の牧子嘉丸さんの記事(→コチラ)を参照されたし、ということにします。

 で、肝心のこの本なのですが、どうも版在庫切れのようで、アマゾン等でも入荷時期未定が続いています。さいわい図書館にあったのでさっそく借りてきてイッキ読みしました。一言で言って、良い本だと思います。これまでに類書も(たぶん)ないし、たくさんの詩人・歌人のたくさんの作品と出会って新鮮な気持ちを味わえます。

 多様なのは作者の顔ぶれだけではなく、作品も同様。
 あの石川啄木
  地図の上
  朝鮮国にくろぐろと
  墨をぬりつつ秋風を聴く

とか、中野重治「雨の降る品川駅」のようなよく知られた詩は当然収録されていますが、著名な詩人にもこんな詩があったのか、という意外なものも少なからずあります。
 たとえば三好達治「丘上吟」(→コチラ.彼も扶余に行ったことがあるのか)とか、萩原朔太郎が関東大震災の時の体験を基に書いた「近日所感」という三行詩(→コチラ)。
  朝鮮人あまた殺され
  その血百里の間に連なれり
  われ怒りて視る、何の惨虐ぞ


 通読してヌルボが感じたことを略述すると・・・

①日本の統治期や(韓国の)戦後の軍事独裁の時期を批判する内容のものが多い。朝鮮総聯の機関紙<朝鮮新報>としてプロレタリア詩人多く取り上げているのは当然ですが、それ以外の詩人の作品も含めて。以前→コチラの記事で紹介した「朝鮮風土歌集」(1935年刊)の生活感や自然情緒に満ちた短歌の雰囲気とはエライ違いです。(社会意識とかイデオロギーとかのなんと厄介なことか・・・。)
②上記のような「植民地」朝鮮の自然と風土の中で「ふつうの」日本人として育った人が敗戦後日本の統治の実態を知って罪責感を持つようになったのは理解できるような・・・。そうでなくても、1950(~60?)年代までの戦後民主教育を受けた世代も贖罪意識を抱いている人が多いように思われます。
 シリーズ最後の記事(→コチラ)で卞宰洙さん自身が「114編すべての詩に通底しているのは、各詩人によって深浅の差はあるものの、日帝の朝鮮侵略に対する悔恨の情と罪己の念であり、圧政に苦しむ朝鮮民衆への同情と友誼の意志である」と書いていますが、相当程度までは意図的にそういった作品を集め、またある程度までは朝鮮をテーマにした作品を集めるとそうした傾向を帯びたものが多くなるということでしょうか。
 ③より<朝鮮新報>らしい点は「金日成主席賛歌と朝鮮への共感、在日同胞の帰国運動の支持を明示した作品」が12編収められていること。
 たとえば真壁仁「ペクトゥの峰」(→コチラ)は次のような詩句で始まります。
 白頭の峰は雪にかがやき/けだかい白銀の頭を/三千里江山にめぐらしているだろうか/私はその峰があなたの顔に重なって見える/それはどんなに離れていても見える高さだ/あの山ふところが国土をうるおす水のみなもと (以下略)
 これには「金日成首相還暦慶賀詩」という献辞が付されています。
 あるいは、金日成が還暦を迎えた年に15人の短歌を集めて「万壽無彊」という文集が出版されとのことですが、その中の結城哀草果の作品が次の3首を含む9首(→コチラ。)
  世界平和の為六十年前昇りし太陽常若く今朝も輝く金日成首相
  金日成首相の還暦よろこぶ歌合唱が世界の山河大きくゆすぶる
  還暦の首相の額なごましく民族愛に蔭一つなし

 ・・・このような作品が、「皇国日本」の時代の天皇を称揚する詩歌とどう違うのか、私ヌルボにはわかりません。半世紀あるいはそれ以上前、このような作品を発表した人たちは今存命ならどのように振り返っているのでしょうか? あるいは、厳しい言い方ですが卞宰洙さんは(本心では)どのように思っておられるのか? 何の疑問も抱いていないのなら問題だし、本心を偽っているのならそれも問題です。

 上述した以外に、個人的に興味を持った詩人その1は郡山弘史(1902~66)。(→コチラ。)
 横浜生まれで、1924年東北学院専門部英文科を卒業後に朝鮮京城府立第一普通高等学校教師となる(~1928)。その間1926年詩集「歪める月」出版。1930年代にプロレタリア詩人として活躍。・・・ということですが、横浜の図書館にも関係の書籍・資料は未だ見つからず。
 2人目の詩人は中浜哲なのですが、彼については続きで書くことにします。

☆この本の90人の中で、ヌルボが好きな詩の1つが吉野弘「韓国語で」(→コチラ)です。冒頭部分は次の通りです。

  韓国語で
  馬のことをマル(말)という。
  言葉のことをマール(말)という。
  言葉は、駆ける馬だった
  熱い思いを伝えるための-。

  韓国語で
  目のことをヌン(눈)という。
  雪のことをヌーン(눈)という。
  天上の目よ、地上の何を見るために
  まぶしげに降ってくるのか。


 「素直な疑問符 吉野弘詩集」は横浜市立図書館ではティーンズ向けの書架にある本ですが、平易な表現の中に深い思索と豊かな感性が込められた作品集です。
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『植民地時代の古本屋たち』-昭和前期の朝鮮・台湾・樺太・満洲等- こういう本、よく作ったものです

2014-03-11 16:13:44 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 川崎に映画を観に行った時など、たいてい立ち寄るのが古書店・近代書房
 昨日行った時目にとまったのが『植民地時代の古本屋たち』という本。中をみると、樺太・朝鮮・台湾・満洲・中華民国の往時の日本古書店のことが実にくわしく書かれているではないですか。
 さっそく購入し、帰宅後あらためて読むと、著者の沖田信悦さんは船橋で鷹山堂という古書店を経営している方。それにしても、よくこういう本を出したものだと思います。

             
          【表紙は樺太の豊原市街(高野書店提供とあります)】

 驚いたのは、記事本文でそれぞれの地の代表的な古書店や売れ筋等の状況を当時の資料を用いて記述しているばかりでなく、各地の古書店のリストや地図まで載せていること。

   
    【朝鮮各地の古書店リストの一部。京城には60以上もの古書店があった。】

        
      【京城の古書店所在図。『全國主要都市古本店分布圖集』(1939年版)より。】

        
             【釜山の古書店所在図。】

 朝鮮では、他に平壌・新義州・大邱の地図が掲載されています。
 著者の沖田さんは、昭和前期の『全國書籍商組合員名簿』『東京古書籍商組合月報』『日本古書通信』等々、業界関係の資料を丹念に当たっているばかりか、満洲の章を見ると、当時新京(現・長春)にあった満洲巌松堂で働いていた大野幸雄さんの聞き書き等もしています。
 このようなテーマでこのような本を構想し、実際にまとめあげるとは、ホントにオドロキ。また70~80年も前に細かな資料をまとめ、それが今までちゃんと残っているのは先人の功績ですね。
 また、次のような写真も、よくあったものです。
     
     【京城の本町(現・忠武路)にあった一誠堂。】

 当時の京城で最も古書店が多かったのが本町(現・忠武路)でした。ただ、ここは他の店も多い繁華街で、神保町のような古書店街といった趣きの街ではなかったそうです。その点では寛勲町方面(現・寛勲洞~仁寺洞洞)の方が古書店が軒を並べている街だったとか。今の仁寺洞通りにも、通文館のような歴史のある古書店がありますね。(参考→通文館についての過去記事。)
 その他、明治町(現・明洞)、黄金町(現・乙支路)、鍾路などにも古書店がありました。

 ただ、ここのあげられている古書店はすべて日本人経営の店で、本町・明治町・黄金町等もいわゆる日本人街でした。
 それに対し、「鍾路通りには、朝鮮史?の堂々たる商店が数多く出店していた」とのことです。
 それら現地人の古本屋のことが本書では抜けている点については、総集編冒頭で沖田さん自身書かれていることですが、「(「全古書連ニュース」での)連載時のタイトル(「外地に渡った古本屋たち」)に違和感をいだきながら筆を進めてきたことを白状しなければならない」と記しています。
 しかし、それはどこまで調査が可能なのでしょうか?

 この本については、<岩戸の中>や<電子書肆 さえ房>の記事、<大阪商業大学>のサイト中の記事でも詳しくとりあげられています。

 上記リンク先の記事と重ならない部分で、私ヌルボがとくに朝鮮の古書店についての本書の記事中「なるほど」と思って読んだのは、1939年頃の状況を一古書店主が記した文の次の2ヵ所です。
・京城のる本店は本格的商売としては考へ物で遅々たる発展を示し、今でも古本屋と云へば学術書と研究資料よりも中古教科書を想い・・・・  
・兎角学生のお客は僅少、一般の人は部門が限られて居り、又趣味として小説類や常識を豊かにする實際書だけで体験の修養書は歓迎される傾向がある。


 今も東大門市場近くの清渓川沿いに並ぶ古本店街(→関係過去記事)には学参や教科書が多く積まれ、またベストセラー本の内訳を見ると日本に比べて人生哲学や生活実用書が多いのですが、70年前もそうだったとみてよさそうだと思いました。

 なお、満洲・朝鮮・台湾に進出していた古書店は、敗戦を迎えて店舗は例外なく当局に接収され、引揚げに際してももちろん他の引揚げ者同様苦労を味わうこととなりました。
 本書の総集編ではそれらのことも記されています。朝鮮に関する部分を1ヵ所紹介します。

 たとえば、京城では、朝鮮人が経営する古本屋たちは接収されなかった。逆にかれらは、引き揚げ者の境遇に落とされたあまたの日本人コレクターから、あふれるほどの処分図書を捨て値同然で買い取り、急ごしらえの倉庫をいくつも持ったという。(『図書館雑誌』第五九巻第八号所収、桜井義之著「終戦前の朝鮮の図書館事情」より)。

 私ヌルボ、この本を定価より少し安く購入したのですが、今ネット通販を見ると、中古本だと送料込で1000円以下で出ています。ま、定価に十分以上相当する本だからいいですけど。
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辻原登「韃靼の馬」  歴史ロマンを楽しみつつ、朝鮮通信使等について学ぶ

2014-02-04 18:11:14 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 辻原登「韃靼の馬」を読了しました。

 この小説の時代設定は18世紀初め。将軍の侍講として幕政を担当していた新井白石が<正徳の治>とよばれる幕政の改革を進めていた時期です。

       
      【600ページを超える大部ですが、読み始めたら一気!】

 主人公は対馬藩士の青年・阿比留克人。雨森芳洲の薫陶を受けて朝鮮語に通じている彼は、朝鮮の倭館にあって、朝鮮側の役人等と直接交渉にあたる任務を担当しています。また彼は薩南示現流の使い手として武芸にも秀でています。

 物語は大きく第一部と第二部に分かれています。
 第一部では、1711年(正徳元年)朝鮮通信使を迎え入れ、その一行の対馬を経て江戸まで往復する間の物語で、幕府と朝鮮、そして対馬藩のせめぎ合いと、その中での阿比留克人の活躍が描かれています。

 読んでいて思うのは、この作家が史実をディテールまで詳しく書き込むとともに、そこに巧みにフィクションを織り交ぜてのびやかにストーリーを展開しているということ。
 日本史の教科書にも書かれている<朝鮮使節の待遇簡素化>という新井白石の基本施策とその背景もきちんと説明されているし、また朝鮮側からの将軍の呼称を<日本大君>というから<日本国王>に改めさせるという史実については、そのまま物語のひとつの動因にもなっています。
 読み進むうち、書名がなんで「韃靼の馬」なの?という疑問が起こりました。
 それが解けるのはやっと第二部に入ってからです。第一部から十数年後。将軍吉宗所望の「韃靼の馬」を求めて主人公たちがモンゴルまで冒険の旅に出るというのが物語の主軸です。
 辻原登の言によれば「馬将軍と言われる吉宗が『清馬より、いい馬はないか』と望んだのは史実」で、「この小説はまずタイトルが浮かんだ」のだそうです。(→コチラ参照。)

 第一部が日朝間の貿易や文化交流や通信使をめぐる挿話等の史実に密着したオーソドックスな歴史小説であるのに対して、第二部は朝鮮~モンゴルを主舞台にした冒険小説的な要素が色濃くなっています。
 ※ラスト近くには鬱陵島まで出てきます。そしてこんな会話もちゃっかり入れています。
 「やあ、きょうはよくみえるぞ、あそこからはもう日本だと先生が教えてくれた。松島(現・竹島)というらしいが、岩だらけのちっぽけな島だ」。

 私ヌルボの10段階評価では(←よくないクセかも)、第一部が9、第二部が7.5で、全体としては8.5といったところ。
 第一部の緻密な描写の魅力が第二部では薄れてやや大味で、展開もほぼ予定調和的になっている印象を受けました。

 ただ、近年の芥川賞作品では心を病んだ主人公の身辺雑記的なものが多く、読んでいる自分まで鬱々とした気分になってしまうのに対して、この芥川賞作家・辻原登の小説は「おもしろくてためになる」ストーリーテリングの魅力は十分。また別の作品を読んでみようという気になりました。
 なお、純文学系の歴史小説では、以前よく読んだ井上靖の歴史小説(「蒼き狼」等)を思い出しました。アクション度(←こんな言葉ある?)では「韃靼の馬」に軍配が上がりますが、抒情性という点では井上靖が優っていると思います。)

 上記のように、史実と虚構が巧みに組み合わされているため、そこにこだわる私ヌルボとしてはその判別にかなり手間取りました。まだわからない点も多々あります。
 以下、それら「ためになった」箇所のメモを列挙しておきします。

阿比留文字・・・トンデモ本ぽい神代文字の1つかな? ハングルと共通点多し。→ウィキペディア

広大(クァンデ)=旅芸人の演じるチュルタギ(綱渡り)は次の4つの基本芸の組み合わせからなる。以下は本書の引き写し。辻原さん、どこで調べたんだろ?(その1)
 ①トゥイサンホンジァビ=綱の真ん中に立ち、1回宙返りのあと、綱を両足で挟んですわる。②トゥムルプクルキ=すわった状態から跳び上がり、降りる瞬間身体を45度ひねって両膝で綱にすわる。③トゥムルカセトゥルム=両膝ついた姿勢から跳び上がり、左に180度ひねって両爪先で綱に乗る。④ホゴンチャビ=宙返りの連続技。

雲南白葯(うんなんびゃく(はく)やく)・・・漢方の秘薬。ネット通販だと10ml×30本で1万5千円とあるのを見たなー、うーむ・・・。

ヒトツバタゴ・・・対馬には3千本を越える自生木があり、5月初旬にいっせいに花をつける。「この木が雪を被ったように一面に白い花をつけ、散った花で海が真っ白になる」とか。その時期に対馬に行ってみたいなー。姉妹都市の岐阜県中津川市もヒトツバタゴの自生地。

保命酒・・・福山の健康酒、かな? 東京駅近くの<TAU-広島ブランドショップ->でも売っているようです。

アストロラーベ・・・天体観測機器。これも知らなかったなー。→ウィキペディア

通信使メンバーによる鶏泥棒・・・ネット上でも話題(議論)になっていますが、その<事件>は1748年の通信使のことで場所も大坂(本書では福山)です。

伝書鳩・・・この時代の日本で用いられることがあったのか。伝書鳩で堂島の米相場の情報を伝えたかどで罰せられた大坂の相場師もいたことは→ウィキペディアで知りました。

・通信使一行は大坂の浪華江(淀川)の河口の九条の港で朝鮮船から航川用の平底船に乗り換える。これを「船改め」という。(数万の群衆が見物に押しかける。←ホンマかいな?)
 西進すると川は堂島川と土佐堀川に分かれるが、船は土佐堀からに入り、天神橋で上陸。行列は土佐堀通り→北浜→堺筋→道修町→御堂筋を進んで・・・。

北御堂(西本願寺津村別院)客館・・・大阪駅からほど近い(地下鉄本町駅から至近)のここが朝鮮通信使の迎賓館だったのか。参考→コチラと→コチラ

・通信使の一員(従事官)が案内されて行った堂島米会所のようすは興味深い。米会所といっても米俵等はなく、つまりは「たてり」(先物取引)が行われていたのです。登場人物の言葉で、読者にもわかりやすく説明されています。(それでもフクザツ。)
 ※西鶴の「日本永代蔵」に唐金屋という大坂人がたてり商いで大もうけする話がある、と本書中の登場人物の唐金屋が語っています。
 ※その従事官の心中の描写。これはフィクションでしょう。「口外しないでおこう」とあるし・・・。
 「きょう、米会所で体験したこと、・・・垣間見た奇妙な世界については決して口外しないでおこう。・・・わが朝鮮は、儒教の教えで国を支え律しているが、それとは全く異質の思想がこの国で生まれ、深く根付いている。数字にもとづいて符牒を操り、巨額の金銭を動かすという方法が発明され、それを体現した人間が商品経済の中心にいる。このことは、我が国や大陸の将来に暗い影を投げかけてくるような気がしてならない・・・・。」

李礥(イヒョン)・・・通信使の製述官という重要なポストにある彼は実在の人物なんですね。「野牛村の領主であった新井白石が李礥に書いてもらった」という扁額が埼玉県白岡市野牛の久伊豆神社にあるそうです。(→コチラ参照。)
 「科挙でトップ合格」したが「庶子の生まれ」ということが大きな「泣きどころ」とは(事実だとすると)、どこで調べたんだろ?(その2) しかし「極端に原則を振りかざす性格」とか、さらには彼のもう1つの「泣きどころ」というのが痔疾というのはどこまでホントなんだか・・・。

「<恵比須堂>の不思議膏」が痔疾に効果、とあるのは<大黒堂>のことかな?虎斑

虎斑(とらふ)ヤマネコ・・・・と本書にあるのはツシマヤマネコのことと思われます。日本国内のネコは、イエネコ以外では対馬のツシマヤマネコと西表島のイリオモテヤマネコの2種のヤマネコのみ、だそうです。ともに絶滅が危惧される希少動物です。→ウィキペディア

諱(いみな)法・・・将軍から朝鮮国王への返書の文中に、16世紀の国王・中宗の諱の「懌(エキ)」の字があることを正使・趙泰億が強く抗議。幕府側はこれに対して朝鮮の国書中に3代将軍家光の諱「光」があることを指摘。結局双方が改めることとなった。←これも史実に基づいているのでしょうか?

キタタキ・・・キツツキ科の鳥。もともと朝鮮半島と日本の対馬で確認されていたが、対馬では森林伐採で生息地が失われたり、博物館の標本用等のため乱獲されてほとんど姿を消してしまった。1920年に対馬で1つがいの標本が発見され、1923年には天然記念物に指定されたが、50年間確認がされなかったため1972年に指定が解除された。
 韓国でも森林伐採の拡大により希少種となり、1952年に保護動物に指定されたが、1978年までにほとんど姿を見ることができなくなった。1993年に南北間の非武装中立地帯で1つがいが発見されている。現在は京畿道の国立樹木園の森林に数つがいが生息しているとされる。今日、この亜種が最も多く生息するのは北朝鮮である。→ウィキペディア

哥老会・・・中国近代の反体制秘密結社。哥弟会などともいう。その起源はアヘン戦争以前にさかのぼるようだが、太平天国滅亡後の湘軍解散にともない長江流域一帯に広く勢力を分布するにいたった。もともと<反清復明>の伝統をもつ下層民衆の相互扶助的組織だったが、排外暴動の組織者として著名である。のち辛亥革命の際にも重要な役割をはたした。→コトバンク

大宛(フェルガーナ)の汗血馬・・・世界史でちょっと出てきたな。→ウィキペディア。本書では、張騫のこと等けっこう詳しく書かれています。

「♪サケサオ サケサオ オラムバエトルリ サケオサ」・・・鞦韆(ぶらんこ.クネ)に乗って歌う歌の歌詞。意味不明。→그네뛰기(ぶらんこ遊び)の風俗等について記した→コチラの韓国サイトに海州(ヘジュ)地方のぶらんこ関係の民謡が紹介されていますが、その歌詞中に「사게사오 사게 사오/오람배 뚤리 사게사오(サゲサオ サゲサオ/オラムベトゥルリ サゲサオ)」という一節があります。しかし、こんな歌について辻原さん、どこで調べたんだろ?(その3)

海参・・・いりこ(干しナマコ)のこと。その効果が高麗人参に匹敵し、かついりこの形状が人参に似ているところから海参と名付けられた。・・・って、ナマコのことを韓国語ではふつうに해삼(ヘサム)というのですが、その漢字表記がこれで、こういう意味だったとは知らなかったわー!

会寧の市・・・公市→私市→馬市の順に開かれ・・・とか、とか、街のようすとか、史実と作者の想像との境目がわかりません。会寧窯は昔から知られた陶器の産地で、唐津焼にも影響を及ぼした(?)とか・・・。→参考

・主人公夫婦が吐含山(トハムサン)の樹木と藪に埋もれてしまった石窟に行き、御堂の中央に安置されている高さ十六尺余(4.84m)の釈迦如来像の前に立つ場面があります。つまり、あの石窟庵。ホントにサービス満点、というか・・・。しかしウィキペディアによると像の高さは3.4mとなってるんですけど。まあいいですけど。

・最後の方でロシア人まで登場。「(ピョートル)大帝は只今、御不例・・・」なんて言葉も・・・。
 また「ネルチンスク条約はロシア語と満語、それに羅甸語で書かれている。おそらくこのたびのキャフタでもそうなるだろう」とも。
 ※キャフタを漢字で「怡古图」と書いてあって、「そーか、知らなかったなー」と思いつつ、一応確認したら「恰克图」が正しいみたいですよ。

※この小説にハマった<かぶとん>さんのブログ記事は→コチラ。いろいろ詳しく書かれているので、参考にさせていただきました。
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「朝鮮風土歌集」(1935)は歴史資料としても貴重 ■明治~昭和の朝鮮を詠んだ短歌を分類・集成

2014-01-18 20:11:57 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 1月9日の記事で今里に移転した大阪の古書店・日之出書房のことを書きました。
 今回、そこで何冊か購入した書籍中の目玉というべき本が「朝鮮風土歌集」です。ガラス戸棚中に並んでいた貴重書中の1冊ですが、ページをめくって内容を見て即決しました。

        
      【装丁は浅川兄弟の兄・伯教(のりたか)、題字は尾上柴舟。】

 内容を簡単にいうと、明治~昭和の有名・無名の歌人たちが詠んだ朝鮮関係の短歌を分類・集成したもので、その総数は4452首に及びます。

 「朝鮮関係」とは、本書の凡例(下画像)にあるようにある通り、朝鮮在住者から旅行者等に至るまでと、対象をかなり広範に設定しています。

    
   【作品の出典の歌集や雑誌等を紹介している点はいいのですが・・・。】

 作品は全387ページで、ページごとにほぼ10~13首ずつ載せています。

    

 著名な歌人の名も多く見受けられます。
 テキトーに拾ってみると・・・

[朝鮮馬] から山に駒をとどめて歌ひけむ高木ふしこそ世に似ざりけれ  佐々木信綱  
[碧蹄館] 勝鬨に山もうごきし古へを語りがほなり一本けやき       大町桂月
[朝鮮]  韓にしていかでか死なむわれ死なばをのこの歌ぞまた廢れなむ 與謝野寛
[鴨緑江] ありなれの川橋渡るもののふのかげにともなふ弓張の月    山縣有朋
[朝鮮]  この國の野の上の土のいろ赤しさむざむとして草枯れにけり  島木赤彦
[扶餘]  寂しさは千年過ぎし石の塔はるけくも寂しうつつ心に       淺川伯教
[扶餘]  軍倉のあとより出づるき米瓦の片に百濟をしのぶ       石井柏亭
[京城]  街上を電車は走る然れども岩山をつたふ水はりてみゆ      平福百穂


 これ以外にも、夏目漱石・土岐善麿・若山牧水・尾上柴舟・小泉苳三等々の作品があります。

 ただ、残念な点は作歌の年が書かれていないこと。與謝野鉄幹のような明治期の作品も、序文を寄せている川田順をはじめこの歌集刊行当時の現役歌人たちの作品もごちゃまぜになっていること。したがって、何か時代を追って考察するとなると、調べ作業に手間がかかりそうです。
 また上の凡例には出典の歌集や雑誌等が数多く記されていますが、個々の歌の出所は書かれていないので、これも調べるとなるとタイヘン。

 なお、「凡例」には「本書に、朝鮮人の創作せる作品をも加えへたることはある意味に於て歌史上のエポツクであると思ふ」とあります。
 その「朝鮮人の創作せる作品」は13人19首。この数や、彼らの作品自体をどうみるかはむずかしいところです。

[鴨緑江] ありなれの岸邊に蒔きし高梁は赤く實りて穂先揃へる   尹孤雲

 ・・・上の山縣有朋の歌にもある「ありなれ」という言葉については考察の要あり、ですね。

 この本の発行は1935(昭和10)年。発行所は眞人社です。
 眞人社は1923年7月市山盛雄細井魚袋が京城に興した短歌結社で、月刊で短歌誌「眞人」を発行。その後編集・発行は東京に移しましたが、「朝鮮郷土芸術を根底とし之れが紹介に努めてゐる」とこの本の巻末にある発行所の紹介に記されています。
 本書は、この眞人社の創立十二周年記念出版であることが、附記に記されています。
 巻頭の川田順や細井魚袋の序を読むと、編纂の中心人物は市山盛雄だったことがわかります。

 この歌集の構成は、全体を風土篇、植物篇、動物篇、慶尚南道篇等の各道篇、雑篇に大別し、各篇ごとに小さな項目を立ててそれにしたがって各作品を分類しています。

        
   【「風土篇」には赭土(あかつち)、擔軍(チゲorチゲクン)、「植物篇」にはパカチ(瓢箪)等の興味深い項目があります。】

    
   【各道篇には現在も有名な刊行ポイントも多いが、そうではない所もあります。】

 ところで、この歌集の内容で短歌と直接は関係ないものの、興味深くまた貴重なのが巻末に39ページ附録として併載されている「朝鮮地方色語解註篇」です。
 このタイトルでは何なのかよくわかりませんが、要するに朝鮮の代表的な名所・風俗・言葉等についての用語辞典です。
 これをみると、現地の日本人たちが朝鮮のどんなことに関心を寄せていたか、それらをどう見ていたか、あるいは朝鮮語の中のどんな言葉をどうアレンジして用いていたか等についての一端がうかがわれます。
 その具体例をあげるとさらに長くなるので、今回はここで終わりにしておきます。

        
   【「朝鮮地方色語解註篇」の最初のページ。「飴鋏の音」は「さびしい響きを持っている」のか・・・。】
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ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ「竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記」を読んで考えたこと

2013-07-15 23:54:10 | 韓国・朝鮮に関係のある本
        

 話題の書(かな?)、 ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ「竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記」(ハート出版)を読了しました。

 朝鮮半島北部の羅南から引揚げてきた母と2人姉妹(16歳と11歳)の物語で、その妹の方の擁子すなわちワトキンズさん自身が体験を基に書き、1986年にアメリカで刊行された作品の翻訳書で、ごく最近発行されました(奥付は7月19日発行)。

 ワトキンズさんは戦後アメリカ人と結婚しアメリカ東海岸に居住してきて、この本も英語で書かれました。刊行後この作品はボストンを中心としたニューイングランドの小中公立学校で教材として採用されてきました。

 ところが2006年11月、引揚げの途上で一家族の例を除いて多くの朝鮮人が強姦の加害者等否定的にしか描かれていないことや、植民地支配の事実背景が記されず日本人が被害者のように読まれるおそれがあることを問題視した韓国系アメリカ人たちから抗議が出ていることが米紙「ボストン・グローブ」で報道され、以後この問題は拡大していきました。韓国でも当然のごとく大きく伝えられました。ほとんどは、この本を非難するものです。(そうではない記事もあります。) そして刊行されていた韓国語の訳書は出版停止となりました。
 ※この本の内容や、この本をめぐる問題の詳細については→ウィキペディアを参照のこと。ちなみに韓国版ウィキペディアの<요코 이야기(ヨーコの物語)>の項目の記述はかなり異なっています。「空想小説」(!)となっていたり・・・。

 で、ヌルボが読んだこの翻訳書ですが、ほとんど事前に得ていた情報から考えていた通りの内容でした。
 率直な感想としては、これをもって「日本人が自身を被害者のように描いている」、「韓国人を悪く描いている」等々の読み方はたしかにトンチンカンです。
 まあ、「親切だった韓国人」の事例をもう少し書いた方が「バランス的には」よかったかもしれませんが・・・。しかし母と娘2人だけの、不安というより恐怖と緊張の脱出行ということを考えれば、このような形での「当時の思い出」も無理からぬものもあります。もちろん、上坪隆「水子の譜」に記されているような引揚げ女性の悲劇も実際数多くあったようです。(参考→コチラコチラコチラ。読む人の「立場」によって感想の書き方もいろいろです。)

 この本のことが問題化したのが2007年初頭。その後私ヌルボ、「東アジア歴史認識論争のメタヒストリー」(青弓社.2008)に収められている米山リサ氏(カリフォルニア大学準教授かな?)の「日本植民地主義の歴史記憶とアメリカ」と題する論考を読みました。
 副題は「『ヨウコ物語』をめぐって」。つまり、この作品の内容と、これに反対する韓国系アメリカ人の抗議運動の経緯について記したものです。
 全面的に同意!というわけではないのですが、興味深い指摘が多々含まれているので紹介します。

・2006年までのアマゾンの読者評のほとんどは「感動的だ」等々この作品に対して好意的である。ある小学校教員は「長年教材として用いてきたが、感動しなかった生徒は1人としていなかった」とも。一方、人種や歴史に関係のない視点から、「内容的に12歳前後の子どもには不適切」という見解もあった。

・文学作品やフィクション化された自伝等について、その作品の有する普遍的人間性において価値があると認められることが、評価基準として優先される傾向がある。しかし、その背景の歴史の批判的検討や(無意識の)政治性等についても、その作品の優劣とは別に、著者は責任を負っている。(←ヌルボ意訳。)
 ・・・それはそうだけど、ワトキンズさんをターゲットにするなら、それ以上に追及さるべき人はゴマンといるんじゃないの? (「感動的」だが「政治的・歴史的に問題」とされるに至ったドーデーの「最後の授業」のことを思い起こしました。)

・バーネット「小公女」の主人公セーラときわめてよく似ている。逆境にあっても心の豊かさと品位を保ち、人に対する思いやりを持ち、勤勉で、力強く生きていこうとする。
 セーラが最終的にはイギリス植民地で父親の友人だったという人物と奇跡的に出会い救われたように、ヨウコもまた、日本の植民地化の朝鮮で父親と友人だったという男性とある幸運を通じて再会し、この人物の援助によってしだいに生活が楽になっていく。
(←ちょっと違うんでないの?)。
 ・・・この指摘はとくに興味を覚えましたねー。そうなんだよなー。2人の妹からは遅れて日本への道を辿った兄や、16歳の姉は朝鮮人と偽れるほどに朝鮮語が話せたというのもその表われといえるかも。(当時の朝鮮在住の日本人で、朝鮮語がフツーに話せる日本人は少なかったと思います。)
 そして、同じく「小公女」との比較で次のような指摘に注目。

・また、セーラは植民地での体験から、一般のイギリス人が抱かない親密さを南アジア系の使用人に対して感じ、そのことが彼女を幸運に導く。一方ヨウコや遅れて再会したヨウコの兄も、他の日本人が猜疑の目を向けるのとは異なり、植民地朝鮮の装いや慣わしに深い親しみを抱いているのである。  
 このように、「小公女」と対照させることによって明らかになるのは、「ヨウコ物語」には日本の植民地帝国が崩壊した後、いわゆる内地へと持ち込まれた異文化と、植民地体験の数々が痕跡としてまとわりついているという事実である。にもかかわらず、同書が戦争のトラウマ、「痛みと偏見」、「普通の人々が戦争によっていかに左右されるか」といったことを考えさせる平和と反戦の物語としてだけ読まれてしまうのはいったいなぜなのだろう。先に述べた読者理解の例の数々から明らかなように、同書を平和と反戦の書として高く評価し、教材として有用なテクストだとする立場にとって、植民地主義の歴史はまったくといってよいほど視野に入っていない


・(アマゾンの読者レビューの1つでは)「なぜヨウコの家族は朝鮮半島北部にいたのか?」「お父さんはどんな仕事をしていたのか?」。戦後、シベリアに抑留されていたことから見ると、ヨウコの父親は戦争犯罪人だったと考えられる、とも推測している。・・・(そのレビューはまた)「第二次世界大戦のオランダから逃れるナチの家族の少女の苦労話」を同じような無批判性をもって出版できただろうか、と問いかける。つまり、ヨーロッパの戦争被害の叙述や歴史表象については批判的な歴史認識に根ざした判断ができるのに対して、アジアの戦争被害について同様の判断ができない出版社、児童文学批評家、学校関係者たちの無知、無批判性、そしてそれを許してきたアメリカ社会にあるアジア人(日本人を含む)に対するレイシズムを、この投稿者は指摘するのである。
 ・・・米山氏の意見は、この(例外的な)レビューに沿っています。
 アメリカにとって、日本の植民地支配・軍国主義批判の言説は、自らの第二次世界大戦参戦を解放と平和をもたらした「よい戦争」の大きな論拠となる一方、植民地主義についてはアメリカも日本と同じ穴のムジナという側面がある、ということもまさにその通り。
 その点が書かれていない「ヨウコ物語」が好まれてきたのも、そんなアメリカ側の事情がある、というわけです。

 米山リサ氏の論考は、最後に次のような興味深いことが記されています。
 この問題が拡大した2007年2月、「ボストン・グローブ」紙はワトキンズさんがメディアや抗議の人たちとの会見の場に臨んだことを報じたのですが、その記事では「柔和な」「73歳のの作者」が、「7つの韓国メディア」を含む「怒れる聴衆」と会見した、と表現しているのです。
 つまり、この新聞記事は明らかにワトキンズさん寄りの書き方

ワトキンズは常に慎み深さ(humility)、優しさ、寛容さ、といった概念と結びつけられてきた。これに対して、同書に異議を申し立てる側に立つコリアン・アメリカンの保護者をはじめとする人々は多くの場合、「怒り」や「抗議」だけに結びつけて描かれているのである。
 ・・・と、このあたりを読むと、多くの日本人の皆さん(・・・ってヌルボもそうですけど)は「そーだろ、そーだろ」と溜飲を下げるのではないでしょうか?

 しかし米山氏はさらに次のように続けているのです。

・このようなメディア表象における、「謙虚で慎み深い著者」に抗議する「寛容とコンパッションを欠いた怒れる聴衆」という構図が、先に述べた普遍主義的な文芸批評(・・・反戦平和、思いやりの心、強い意志への評価)の態度と結びつくとき、自身を非人間的に描く表象に対して抗議する側に立つものが、「人間」あるいは「人間らしさ」の範疇から排除されてしまう、というきわめて皮肉な結果を生むことになるだろう

 ・・・ここでももしかしたら、多くの人たち(日本人)は「そんなの自業自得じゃないか」と思うかもしれませんね。
 (たしかに慰安婦問題にしても、抗議運動を展開している韓国人の皆さんは、支持者だけでなく反発を感じる人も多く生み出していることについてどれほど自覚しているのでしょうか? とくに日本では、本来なら支持したかもしれない人でさえ反発を感じている。)
 米山氏はこれに対して、「間として扱われることに抗議する人々が、逆にそのことによって間化されてしまう」というサイクルを問題視して、次のようにこの論考を結んでいます。

・このサイクルを断ち切るには、「抗議を受ける者たちこそが、まず、謙虚さや「慎み」の覆いから歩みだし、うろたえ、真の和解と対話を妨げるものに対して怒り、「たたかう」姿勢を示し始めるしかないとはいえないだろうか。

 ・・・以上ずいぶんたくさん米山リサ氏の論考をそのまま紹介しました。
 で、私ヌルボの意見ですが、8割方は賛成です。ただし最後の引用部分は別。「真の和解と対話を妨げるもの」とは具体的に何をさしているのでしょうか? 植民地支配の歴史に対して目や口を閉ざしている日本やアメリカ、だとしたら半分は賛成ですが・・・。
 米山氏は「間として扱われることに抗議する人々」と書いています。しかし、個の体験に基づいて本を書いたワトキンズさんに対し、抗議する人々は総体としての(イメージとしての)「韓国人」の中に自らも埋没した状態のままで、その「韓国=被害者、日本=加害者」というナショナル・ヒストリーに合致しないことに憤っている部分が大きいと思われます。一体、抗議活動をしている人たちがこの本によってどのように「間として扱われた」というのでしょうか? 「総体としての」韓国人さえも「間として」扱われてはいません。

 一昨年、舞鶴引揚記念館に行って、数多くの引揚者や帰国できず異郷で亡くなった人たちについて新たな知識と認識を得ました。憤りの念にかられた私ヌルボが「これらの事実が、なぜ多くの人の知るところとなっていないのですか?」とガイドの方に尋ねると、「敗戦国、そして侵略者の側の立場から強くアピールできないという事情があって」とのことでした。

 しかし、旧満州や朝鮮から命がけで引揚げてくる人々に対して「おまえたちは加害者だから当然の報いだ」というような言説にどれほどの正当性があるでしょうか? そのことと戦争責任の問題や植民地支配の反省等とは別個の問題です。

 今、慰安婦問題について(実は互いに似た者同士の)日韓それぞれの「愛国者たち」によって相当に感情的で声高で不毛な議論が展開される中で、肝心なことが忘れ去られてしまっているようです。それと共通する面がありますが、「竹林はるか遠く」の読み方について私ヌルボの言いたいことは「国家に自ら(or祖父母・父母等)の人生を翻弄された経験を持ちながらも、いまだに国に依拠したどころかドップリ浸かった思考しかできないなら、結局はまた同じ悲劇を繰り返してしまう」ということです。まさに言葉本来の意味で「正しい歴史認識」を持たないと、過去「被害者」であった「民族」が将来「加害者」になったりする可能性は十分あるし、その逆もまたあるでしょう。

 たぶん、この「竹林はるか遠く」は多くの日本人読者の共感をよぶと思います。すでにアマゾンの読者レビューでも予想通り(=懸念した通り)のものが多数アップされています。(「韓国人がなぜ抗議するのかわからない」というフツーの反応だけならまだいいのですが・・・。)
 私ヌルボも、(あれこれ書きながらも)基本的には共感をもって読みました。しかし、この本について「だから韓国人は・・・」等々「民族」というタームを拠り所にした読み方をしてしまうと、それは著者のワトキンズさんの思いから「はるか遠い」ものになるということを銘記してほしいものです。

※韓国で実際にこの本を読んだ記者等による新聞記事の中には、しごくまっとうな感想を書いている人もいます。
 その1は→コチラ(日本語)。「今日の我々の課題は、19世紀以前には存在しなかった民族概念を守ることではなく、アジアの多くの国々と共存し、国民を超えて世界市民に発展することだ」と書いています。その2はソウル大教授が書いた→コチラ(韓国語)。「民族主義的な怒りを表わす前に、日本の庶民たちも戦争の犠牲者であるという認識と、すべての人々を獣にする戦争は絶対になくすべきという作家の執筆意図を理解することが必要である」と、また「真珠湾を攻撃した日本政府の挑発行為を非難するセリフがアメリカの読者の感動を生んだ」とも書いています。
 どちらも「中央日報」。先頃「原爆は天罰」という記事を載せたあの新聞ですけど・・・。

※この翻訳書で最後まで気になったのは、家族たちが擁子のことを終始「ちっちゃいの」と呼んでいること。原文は"Little One"なのだそうですが、なんとも不自然でした。
 共産軍のこと等史実についての疑問は他でも指摘されているので略します。細かい箇所では「軍医の龍少佐」という人物の表記はおそらく「柳少佐」か「劉少佐」です。
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横須賀の老舗古書店・港文堂で、韓国関係の本をさがす

2013-05-10 23:58:08 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 昨日は暑くもなく寒くもない心地よい日和の上、ヒマな1日だったので、久しぶりにスクーター(原付)で遠乗り。横浜→横須賀の約30㎞、法定速度内で1時間ちょっと。10年ほど前に和歌山→横浜を丸2日で走破(笑)したことを思えば、なんてことないです。海とか新緑の山とかを眺めながらタラタラ走行していると、以前読んだ漫画・芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』に描かれた風景が思い起こされます。

 で、目的地は横須賀のどこかというと、安浦町。最寄駅が京浜安浦駅から県立大学駅に改称してからもう9年になります。「安浦に行く」などと言うとニヤリと笑うような御仁はどんどん減りつつあるのでしょう、たぶん。

 私ヌルボの行先は、老舗古書店の港文堂。品揃え(量&質)では県下でもトップクラスだと思います。ところが、80年頃に逗子から藤沢、さらに横浜へと引越しして、ほとんど行く機会がありませんでした。ということで、もしかしたら30年ぶりくらいかも・・・。
 他の多くの商店街同様、米が浜通りも寂しくなっていたし、港文堂も外見は年数分老朽化した感は否めませんでしたが、中へ入ってみると充実度は変わりなく、ほっとしました。

      
      【店内は、古書愛好家の目を引きそうな本がいっぱい!】

 おもしろそうな本をあれもこれも買っていてはきりがないので、しばらく前から韓国・朝鮮関係の本と、戦時下の詩歌集、それも入手しにくく、かつ安価なものに絞って購入することにしています。
で、今回の収穫は、以下の3冊。

        
   【表紙の写真は「ミス・京城の微笑」とあります。一瞬高峰秀子かと思いました。】

 積まれていた昔の雑誌の山からたまたま発見。昭和26年9月発行の「毎日情報 9月号」です。毎日新聞社がこういう雑誌を発行していたんですね。朝鮮戦争勃発の1年3ヵ月後です。作家・張赫宙(ちょう・かくちゅう)が空路釜山に行った際の現地報告を15ページにわたり冒頭に掲載しているのでぜひ読んでみようと思った次第。
 張赫宙は、この翌年の1952年に朝鮮戦争を描いた小説「嗚呼朝鮮」を書きました。これは私ヌルボ、数年前に読みました。その後、彼は野口赫宙の名で書くようになります。

         
   【30年以上前の本にしては、紙がやや黄ばんでいるものの、キレイ。】

 許集(編・訳)「韓国発禁詩集」(二月社)は、1978年10月発行。古書としてさほどめずらしい本ではなく、市立図書館等にもありますが、許集というよくわからない編者の22ページに及ぶあとがきも含め、きちんと読み直してみようと思いました。

         
   【[現地篇]と[銃後篇]合わせて約800首の短歌を収めています。】

 実は私ヌルボ、このブログを立ち上げた時、<戦時下の短歌・俳句・詩>についてのブログも同時に始めるつねりでした。しかしこの<韓国文化の海へ>だけで手いっぱいになってしまい、今に至っています。
 戦時中、多くの無名の兵士たちが、前線で数多くの俳句、短歌や詩を作り、書き残していることは、世界の短詩文学史上稀有のことだと思います。「銃後」の人々の作品についても同様。
 ところが、戦後は当時の文学作品は総じて戦争賛美とみなされたりして文学史のテキストでも無視されてきました。しかし、中には著名な歌人・俳人・詩人たちの作品より心をうつ作品が数多く埋もれています。
 このことについて書くと長いので、ここでは出征する夫との別れを詠んだ女性の歌1首だけ紹介しておきます。

  みかへりてしばし動かぬ夫(つま)はもよ天地も消えよ此の須臾(しゅゆ)の間に  
          沼上千鶴子(1941年5月刊「戦線の夫を想ふ歌」より)


 さて、上記の「支那事変歌集」(三省堂版.1938年)について。「支那事変歌集」には、別にアララギ編の岩波書店版もありますが、この三省堂版は昭和13年4月、読売新聞社の依頼を受けて齋藤茂吉と佐佐木信綱が隔月で選んだものです。[現地篇]166首と[銃後篇]636首が収められています。
 この機会に、朝鮮からの投稿歌を拾ってみました。全部で11首ありました。その中で、「朝鮮」ということに意味のありそうなものをあげてみます。

  朝鮮の民等聲あげ兵を送る見て佇(た)つ吾の心迫りぬ   
          京城府  安蘇潔

  鼕々(とうとう)と太鼓が鳴れば鮮人らも出征兵士送ると集ひ來
          朝鮮全州府  芦田定藏

  鮮童の手に手に振れる日のみ旗ますらをの心つよくうつらし
          安東  樽井壽々代


 ・・・たまたま数日前に読んだ金聖珉「緑旗聯盟」の最後も、主人公の陸士出の朝鮮人青年が京城駅から万歳三唱とともに出征していく場面でした。
 ただ、その登場人物の置かれていた状況は複雑なものがあります。日本人兵士の出征についても各々いろんな物語があったでしょうが、この3首は表面的な写生にとどまっているのが残念。「鮮人」のようすを心強く共感をもって受けとめているようではあります。

  輝ける戦果のニュースに感激の作業をつづく夜の工場に 
          朝鮮咸鏡南道  白岩三男


 ・・・咸鏡南道の工場といえば、興南の朝鮮窒素肥料株式会社が思い浮かびます。→コチラの記事であらましを知ることができます。また→コチラには、さらに詳しい連載記事があります。

     小學校にて 
  握り来て手の汗つける一錢を獻金すとて出だせる鮮童
          朝鮮忠清南道  高尾九州男


 ・・・上記の「緑旗聯盟」には、資産家である主人公の父や伯父の巨額の献金が新聞記事にもなったということが書かれていました。(「鮮童」という言葉、短歌の世界ではそんなにふつうに使われていたのかな?)

 朝鮮には関係ないのですが、地元関係ということで目にとまったのが次の1首。
 
  秋の海浪おだしくてヒトラーユーゲント三笠艦上に萬歳を唱ふ 
          横須賀市 青野針太郎


 あら、そんなことがあったのか、と調べてみたら、たしかにありました。
 1938年(昭和13年)9月23日午前11時ヒットラーユーゲントが記念艦三笠を訪問したとのことで、その時の記念写真&説明を→コチラで見ることができます。

 いろんな本に、いろんな人たちの物語がぎっしりつまっています。
 「支那事変歌集」からは75年、朝鮮戦争勃発からは63年。「韓国発禁詩集」発行からも、もう35年経つのですね。
 時を隔てて見ると、リアルタイムでは見えなかったであろうことがいろいろ見えてきて、それが古書を読む楽しさのひとつです。
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[韓国関係新刊書紹介①] 鄭銀淑「韓国酒場紀行」(実業之日本社)は期待通り!

2012-12-14 23:26:12 | 韓国・朝鮮に関係のある本
         

 12月13日つまり昨日発売の鄭銀淑「韓国酒場紀行」(実業之日本社.1500円)は期待に違わず。韓国風に言えば「カンチュ(강추.強推)」=強力推薦の本です。

 鄭銀淑さん、毎度のことながら、いい仕事をしているなー、と思います。「いい仕事」というのは、出した本の内容のことだけでなく、いろんな所に行って美味しいものを食べたり旨い酒を飲んだり等々、うらやましい仕事という意味でもあります。

 私ヌルボが彼女の本を最初に読んだのは、「ドキドキ半島コリア探検―北も南も、ご飯がおいしい!人がいい!」(知恵の森文庫.2002)あたりからだったかな? アマゾン等で見ると、その少し前から書いていたようですが・・・。

 彼女の名前が広く知られるようになったのは、「韓国の「昭和」を歩く」(祥伝社新書.2005年)、「年韓国の美味しい町」(光文社新書.2006年)、「韓国・下町人情紀行 (朝日新書.2007年)と立て続けに新書版が発行された頃からでしょう。
 そして、これは新書ではありませんが、2007年に名著「マッコルリの旅」(東洋経済新報社)が刊行されました。

 これらの著書で、鄭銀淑さんが韓国の庶民的な飲食文化の紹介に果たした役割はすごく大きいと思います。私ヌルボのサークル仲間のオジサンたちも皆彼女のファンで、「マッコルリの旅」等をバイブルのように(?)携えて、地方の飲み屋巡りに出かけたりもしています。同じようなオジサンは、全国にずいぶんたくさんいるのではないでしょうか?

 振り返ってみれば、この10年ほどの間に、彼女の本も進化してきていますね。具体的に言えば、地方の店や地方料理への広がり、それに伴って登場する料理も街や店もだんだんディープになってきたということ。
 そして、たんに店や料理の紹介・説明はもちろん、プラスαの魅力が増してきました。それは鄭銀淑さん自身の能力&努力も当然あるでしょうが、編集者等のスタッフが酒好きのオジサンをはじめとする主な読者層の次なる興味を巧みに先取りした本作りをしているのでは、と推測しています。
 上掲の「韓国の「昭和」を歩く」や、「中国東北部の「昭和」を歩く」(2011年)のタイトルそのままに、「平成」の今ではなく、韓国旅行にも「昭和」の郷愁を求めるオジサン世代の心情にまさにフィットした内容で・・・。
※「鄭銀淑の事務所代表」というManchuria7さんもその代表的なお一人なのかな?(twilogは→コチラ。)

 また、文書中に大方の日本人がカチンとくるような歴史認識に関わる言説がないことも親しまれる理由かも。韓国の地方都市や旧満州に残る日本風の建物や店を見ても「こんな所にも日帝の残滓が!」と怒ったりせず、「懐かしさを覚える」と書いてあったりして・・・。ま、これは読者のことを考えれば当然か。

 さて、というところで、「韓国酒場紀行」の内容を見ていきます。

 紹介している店はソウル30店、釜山9店、その他の地方13店。
 基本的に、庶民の街の、庶民の店ばかりです。
  ※この中には、「ソウル大衆酒場の入門編」として広蔵市場も含まれています。
 やはりソウルの店が多い、とはいっても、その中に浦項、南原、木浦等々の地方料理や地方出身の店主の店がいくつもあります。

 掲載されている写真もいいですね。酒や料理だけでなく、大勢のお客さんたちが楽しそうに飲み食いしているようすが撮られていて、雰囲気が感じられます。
 ヌルボも以前全州や南原の飲み屋に行った時のことを思い出しました。感じたのは酒飲みはどこの国も同じ、ということ。言葉はよく通じなくても、気持ちは相通じるものがあります。というか、お互いがそう思っていい気持ちになる雰囲気があります。(韓国人の方が一般的に声が大きい等の差異はありますが・・・。)

 また、本書には「사람냄새(人の匂い)が失われつつある首都ソウルだが、大衆酒場にだけは・・・」という表現がありますが、この本自体、店主や客や、そして著者自身の사람냄새が感じられます。
 たとえば阿峴(アヒョン)市場の入口近くのジョン横丁で一杯ひっかけた後、階段を上って<タルトンネ(月の町)>に行き、縁台で飲んでる人たちに仲間入りして再開発の話を聞いたりした後、また屋台街に下りて「終電まであと1時間ある」から「仕上げ」だとか・・・、どこまで「事実」に即しているのでしょうか? 
 ※<タルトンネ>は、イ・チョルファン:著/草剛:訳「月の街山の街」の舞台となったような、丘の上の低所得者層の住宅地。都市の再開発が進み、ほとんど消えつつある。

 必ずしも「事実そのまま」でないとしても、著者自身がお酒も料理も、また人間も好きなことはよくわかります。
 そして「神谷バーとの最大の共通点は・・・」とか「狭い店内は新宿駅西口の思い出横丁風」とか「御徒町駅から上野アメ横辺りの飲み屋街にブルーカラー色を加えたような乙支路3街駅周辺」等々の記述からは、日本の(東京の?)庶民的な飲み屋街にも親しんでいることがわかります。(このあたりは日本人スタッフの感化?)

 他にもいろいろありますが、昨日出た本の紹介としてはとりあえずこんなとこでいいでしょ。
 あ、細かい点では、各店の住所はハングル表記も併記されていて、韓国語はダメという人もタクシーの運転手さんに見せればOKになってます。

※高陽市の「例の肉」の料理店の紹介記事で、「例」の字に傍点は付いているものの、どこにも「犬肉」と具体的に書いてないのは、ミスじゃなくて、わざと、なんでしょうね?

※全然関係ないことですが、年中行事を表す명절(ミョンジョル)が「明節」と漢字表記されていましたが、2種類の辞典で確認すると名節でした。「明節」となっているブログ記事等もあるし、うーむ・・・。

※鄭銀淑さんの公式サイトは→コチラ

★[12月18日の追記] 本書は、2011年1月刊行の「韓国の人情食堂」(双葉文庫)と、掲載されている店が重なるところがあり、また、一部同じ写真あるいは明らかに同じ時に撮られた写真も用いられています。しかし、重なり過ぎてはいません。たとえば「韓国の人情食堂」には木浦の食堂が7店載っているのに「酒場紀行」にはなぜかゼロ。大きな違いは「韓国の人情食堂」の方が文章主体の本ということで、たとえば、韓国の食文化についていろんな知識を得たいという人はコチラの記述が詳しい。新書ということもあって、カラー写真は冒頭の16ページだけ。それに対して「酒場紀行」は写真に大きなウェイトが置かれていて、視覚に訴える本です。また、コチラの本は店自体の説明が中心。
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「韓国における日本文学翻訳の64年」その他いろいろ

2012-11-25 23:35:53 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 今日11月25日は憂国忌(三島由紀夫の命日)ということで、コチラのサイトにその案内が載っていましたが、どんな人たちが、どれくらい集まったのでしょうかねー?
 同サイトには、その実行委員会の発起人のリストもありましたが、いかにもという名前が多々ある中で、「あれ、この人も」という名前もチラホラ(立松和平とか)。

 私ヌルボ、個人的に思い起こせば、三島事件のニュース自体にはさほど衝撃を受けませんでした。
 それよりも、1970年の同じ日に、ニューヨークのイーストリヴァーでアルバート・アイラーの死体が発見されたという事件の方がずっとショッキングだったと思います。
 ※もしかして、今も命日にアイラー特集をやってるようなジャズ喫茶があるのでは、と思って探したら、案の定ありましたね。稲毛のJazz Spot CANDYという店。(→コチラ。) 毎年やってるようです。

 翌1971年5月3日には高橋和巳39歳で世を去りました。・・・いろんなことが思い出されます。

 それから40年あまり経った今、世の中はどう変わったのでしょうか?
 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」(村上龍の「希望の国のエクソダス」)という認識は、とっくに常識化してしまったようです。

 11月20日に届いた「週刊文春」メールマガジン。アンケートの設問が「野田佳彦、安倍晋三、石原慎太郎 あなたが総理にふさわしいと思うのは誰ですか?」というもの。
 以前流行った「究極の選択」みたいです。「俺を怒らせたいのかっ!?」って感じですねー。・・・しかしこれが現実。

 韓国でも大統領選挙が間近に迫っています。(12月19日投票) しかし木村幹神戸大教授のtwitter(→コチラ)によると、今回の特色は「盛り上がっていないこと」だそうです。23日出馬取り止めを発表した安哲秀氏にたいする「シンドローム」も、日本のマスコミの思い入れ(?)ほどには盛り上がってなかったようで・・・。韓国の政治風土も、近年大きく変わってきているようです。
 日本でも、すでにポピュリズムが効かなくなってきているという観測もあるようです。はや橋下市長も賞味期限が切れかかってるという気配も漂ってきている、かな?
 マスコミもしょーもない政党の離合集散をくだくだしく追っかけてばかりいないで、「原発」「改憲」「TPP」等々の争点についてわかりやすく解説するとともに、各立候補(予定)者がそれらにどんな意見を持っているかをきっちり伝えてほしい、と切に望んでいます。(同じ政党内でもバラバラのようだし、個人ごとにリストを作っておくれでないかい?)

 さて、今日の「毎日新聞」の読書欄を紹介、・・・する前に、気持ちが明るくなった記事をまずとりあげておきます。
 <隣国のホンネ・日中民間対話>シリーズの第3回で、「白か黒か、未熟な世論 人権活動家・何培蓉さんに聞く」というもの。(今のところ→コチラで読むことができます。) 何培蓉(か・ばいよう)さんは盲目の人権活動家・陳光誠の脱出劇を支えた人権活動家の女性です。もともと英語教師で「ごく普通の中国人でした」という彼女は決して「妥協を排する闘士」ではなく、「民主の実現は、妥協するプロセスであるべきだと思うのです」と語っています。また反日デモについても、「人々が政治に参加することは良い現象ですが、(略奪行為などの)過激行為が起きたことは世論が未熟な証拠です」とも。(反中国で熱くなってる一部の日本人の対極ではないですか。)
 ・・・私ヌルボ、民主主義の少年期における清新さを彼女に感じました。民主主義の老年期にある日本の私たちは、昔を懐かしむか、「大人になったら(そんなに素晴らしいものでもないことが)わかるよ」とシニカルな言をとばすしかないのでしょうか・・・。

 ほとんど記事にしない時事放談めいた文章をたらたら書き連ねてしまいました。
 やっと本題、「毎日新聞」の読書欄です。
  ※とりあえずは「毎日jp」で読むことができますが、恒久的には→コチラのサイトで朝・読・毎・産の4紙の書評のバックナンバーを読むことができます。

 今回は、伊東光晴先生による「ノーベル経済学賞の40年 上・下」(トーマス・カリアー著)の評はとてもためになったし、ヌルボが目を瞠った「ひとたばの手紙から」を著した尊敬すべき俳人・宇多喜代子さんが「今週の本棚:好きなもの」で好きなものとして「絵巻・緑茶・宝塚歌劇」の3つをあげていたのも興味深く読みました。しかし、17歳の時に見た小林一三の眼光を記憶に留めているとはねー・・・。

 で、ようやくタイトルに掲げた尹相仁ほか著、舘野・蔡星慧訳「韓国における日本文学翻訳の64年」(出版ニュース社.4200円)について。この本の説明文だけで知らなかった重要な事実が次の2点。
 ①日本文学が戦後、韓国に再登場するのは1960年の4月革命以後。強力な排日政策を進めていた李承晩が失脚して対日文化政策が変化したため。読み物に飢えていた一般読者が日本文学の復権を求め、出版資本がそれに応えた。
 ②60年代半ばに三浦綾子「氷点」がベストセラーになった。三浦人気は、戦後にキリスト教が韓国社会に対して果たした役割とも関わる。

  ※三浦綾子の小説が韓国で多くの読者を得たことは知っていましたが、少し前に本ブログ記事で紹介した浅見雅一・安廷苑「韓国とキリスト教」(中公新書)にはそのことは書いてなかったし、私ヌルボも思いつきませんでした。
 また、
 ③90年代以降の経済成長後の韓国の若者たちが、村上春樹作品の主人公たちに自身の自画像や理想形を見出した。
・・・という指摘もあるそうです。
 そして、翻訳された作品の目録も付いているそうで、これはなかなか意義のある書物といえそうです。横浜市立図書館では目下「準備中」。早く現物を見たいものです。

 もう1つ。<浪花の歌う巨人・パギやん>こと趙博さんが「パギやんの大阪案内 ぐるっと一周 [環状線]の旅」(高文研.1890円)を出しました。おもしろそう! これも読むぞ!!
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浅見雅一・安廷苑「韓国とキリスト教」を読む ~歴史と現在、特色や問題点等を概観~

2012-11-09 23:37:39 | 韓国・朝鮮に関係のある本
         

 韓国の宗教については、日本人の目から見ると、共通点もいろいろありますが、驚いたり疑問に思ったりすることもいろいろあります。
 とくにキリスト教に関することは、「なぜ信者が多いのか?」をはじめ、私ヌルボも質問されたことがしばしばあります。しかし、韓国オタクではあっても専門的研究者でもなくクリスチャンでもないので、自信をもって答えられないことの方がずっと多いです。
 また、自分自身でも、韓国のキリスト教については知りたいことがたくさんあります。
 以下、いろんな疑問を列挙してみました。(内容的に、重なっているものが多いですが・・・。)

 ※カトリックのことは韓国では天主教(천주교.チョンジュギョ)、プロテスタントは改新教(개신교.ケシンギョ)または基督教(기뎍교.キドッキョ)といいます。

Q1.なぜあんなにネオンの十字架が多いのか?
 韓国を初めて訪れ、とくに夜の街を見渡した人がすぐ気づき、発する質問がこれですね。見通しの効く場所から眺めると、赤く輝く十字架が数十も数えられるほど。
 ※<ソウルナビ>にも「ソウルの夜空に浮かぶ赤い十字架」と題した記事がありました。

Q2.なぜキリスト教信者が多いのか?
 日本のキリスト教人口は、総人口の約1%。それに対して、韓国ではキリスト教人口が総人口の30%に達しているそうです。

Q3.なぜニューカマーの韓国人は教会に通っている人が多いのか?
 これは私ヌルボ自身がこれまで接した中での実感。横浜在住という地域性も多少は関係あるかな?

Q4.なぜ海外布教に出るキリスト教組織が多いのか?
 本ブログの過去記事に書いたように、韓国語を話している人たちが大勢(10数人?)いるな、と思ってつい声をかけたら、オンヌリ教会とかサミル教会の人たちでした。
 ウィキペディアの<韓国のキリスト教>の説明によると、やはり「海外に対する宣教活動が活発なことも韓国キリスト教の特徴で、2000年にはプロテスタントだけでも10,646人の宣教師156ヵ国で活動していて、この数字はアメリカについで世界2位なのだそうです。海外布教といえば、2007年7月にセンムル教会の男女23人がアフガニスタンで短期宣教中にタリバンに拘束され、牧師と一般信徒各1人(ともに男性)が殺害されたことがありました。どうも危険な所、生活等が困難な所に行くケースもかなり多いようです。

Q5.(Q4と関連しますが)海外布教の牧師を描いたキリスト教関係のドキュメンタリー映画がしばしば一般公開されていますが、その舞台も危険な所、困難な所が多いのはなぜ?
 たとえば・・・、
 ①「なくな、トンズ」・・・トンズとはスーダンの小さな町の名。内乱が長く続く中、貧困や病に苦しむ人々の中で、「トンズの父であり、医者であり、教師であり、指揮者であり、建築家であった」というイ・テソク神父。48歳という短い生涯を終えた献身的な彼の人生を描いたドキュメンタリー映画。
  ※韓国人(キム・テイさん)の感激ぶり(→コチラ)と、日本人男性2人の冷静な感想(→コチラ)は対照的。
 ②「召命」・・・アマゾン川流域に住む少数民族バナワ部族の中で暮らす韓国人宣教師夫婦の日常。ネズミや亀の肉(地元では贅沢品)を食べられなくて往生する話とか・・・。
 ③「召命2:モーケン族のワールド・カップ」・・・タイの沖合に浮かぶ小さな島を舞台に、そこで暮らす海洋民族モーケン族の村で、教師や医者としての活動もしている韓国人宣教師カン・ソンミンさんの生活。若い頃サッカー選手を志したという彼は、タイの少年サッカー全国大会に向けて、村の子供たちの指導もしている・・・。
  ※やや辛口の対話式映画評は→コチラ
 ④「召命3:ヒマラヤのシュヴァイツァー」・・・ヒマラヤの奥地生活30年の、78歳の医療宣教師カン・ウォンヒ宣教師夫婦を描いたドキュメンタリー。

Q6.所属信者が約75万人以上(!)という汝矣島(ヨイド)純福音協会という大型教会(メガ・チャーチ)はどんな経緯で成長したのだろう?

Q7.著名な牧師等が社会的政治的に広く影響力を持つこのと意味(背景等)は?
 1989年平壌を訪問して注目され、ソウルに戻って5回目の獄中生活を送った統一運動の推進者・文益煥(1918~94)牧師。あるいは、民主化と人権の伸張のために献身し、2009年2月亡くなった時には多くの韓国民に大きな衝撃を及ぼした金寿煥枢機卿(1922~2009)等については、マスコミでも大きく取り上げられてきました。

Q8.近世後期~近代初頭の、キリスト教に対する日韓の違いは?  
 江戸後期、日本では蘭学が発達していった頃、韓国では中国(清)に行ってきた実学者の中から西洋の学問・知識とともにキリスト教も受容した人たちがいて、その後弾圧を受けた。彼らにわりと寛大だった正祖(イサン)も、弾圧に乗り出さざるをえなくなったとか。
 ・・・つまり、かなり日本とはようすが違うぞ。

Q9.さらに歴史をさかのぼって、朝鮮へのキリスト教伝来の歴史は?

Q10.現在相当数のキリスト教組織が脱北者支援に関わっているということは、どんな宗教的・歴史的・政治的背景があるのでしょうか?
 本ブログ今年7月8日の記事でとりあげた黄晳暎(ファン・ソギョン)の小説「客人(ソンニム)」>に記されていたように、1880年代、朝鮮で最初にキリスト教(プロテスタント=改新教)の教会が建てられ、布教が進められた地が現北朝鮮の黄海側に位置する黄海道ですが、そんなこととも何か関係があるのかな?
  ※先ごろ死亡した文鮮明世界基督教統一神霊協会教祖は黄海道の北の平安道定州出身でしたね。

 ・・・ことほどさように、キリスト教をめぐる状況は日韓の間に大きな差異がありますが、たとえば上記のようなふつうの日本人が抱く疑問に7割ほどは答えてくれる本が今年(2012年)7月刊行の浅見雅一・安廷苑「韓国とキリスト教」(中公新書)です。

 先に掲げたQ1~10すべてを解明してくれているわけではありませんが、韓国のキリスト教についてさまざまな角度から叙述し説明している本です。以下、要点をかいつまんで紹介します。

 まず、韓国でのキリスト教徒の多さと、その理由について。 
 日本のキリスト教徒は、新旧諸教派合わせても1%弱であるのに対し、韓国は29.2%で、仏教(22.8%)を凌いで人口比1位。(2005年調査。)  宗教人口(全人口の53.1%)では、仏教43%、プロテスタント(34.5%)、カトリック(20.6%)で、新旧両教を合わせると55.1%にもなります。
 では、キリスト教が国家的宗教になり得た原因はどこにあるのか?
 本書では、以下の4点に集約しています。
1.韓国の原信仰が一神教的要素を持っていたので、一神教であるキリスト教を受容する下地となった。
 ※本書では、「韓国の創世神話に出てくる桓因(ファニン)=ハナニム(하나임)は「唯一のお方」の意」と説明しています。「ハナ(하나)」は「一」の意です。しかし、韓国語で神を意味する語はハヌニム(하느님)で、これは「ハヌル(하늘)」=「天」に由来する言葉です。韓国のキリスト教会が神をハヌニムでなくハナニムとよぶようにしたわけで、本書の論理は転倒しているように私ヌルボは思いました。
2.朝鮮王朝の朱子学の理気二元論には、キリスト教の世界観に類似する点があった。
3.儒教の倫理を重視する姿勢が、キリスト教の倫理への接近を容易にした。
4.植民地時代にキリスト教が抗日独立運動の精神的支柱となっていた。

 さらに、韓国特有のシャーマニズムや一種の現世利益的な思想が横たわっているとも。
 また外部的な要因として、アメリカの影響もあげられています。朝鮮戦争の時に、アメリカに助けてもらったという意識と、アメリカに対する憧れから親米思想が生まれた。

 また、選民思想が韓国の人々を捉えたという論はヌルボとしてはありうると思いました。本来はイスラエルの民が神から選ばれたとする選民思想ですが、日本による植民地支配などの民族的苦難を、韓国人はイスラエル的選民思想と重ね合わせて、神は韓国人を自らの民としてお選びくださった、というものです。
 他にも、韓国のキリスト教が祖先崇拝をうまく取り入れたこと、キリスト教に似ている東学(天道教)の存在などが挙げられています。

コチラのブログ管理者さんは、韓国でイエズス会の神父から聞いた話として、社会全体の不安定さが信者の増加の根本的な理由としています。日本軍の占領、朝鮮戦争、軍事独裁政権などによって国内のすべての秩序が崩壊していく中で、人々がキリスト教に心の拠り所を求めたとのこと。
 李承晩を始め抗日運動を推進したプロテスタント信徒たちがそのまま戦後のリーダーになったことから、プロテスタント教会は軍事政権に対し寛容な立場を取ったのに対して、カトリックは日本の植民地支配における神社参拝問題に妥協的であったことから戦後支持を失ったが、60年代末から政治の民主化を求める運動に深く関わっていくようになる。警官隊に追われた学生を明洞大聖堂に匿った金寿煥枢機卿に象徴されるように、カトリック教会はこの民主化運動の中で人々の信頼を得ていったという。

 韓国で、キリスト教信者の増加が目立つのは、戦後の経済成長期に入ってからだそうです。
 第2次世界大戦直後10万人ほどに過ぎなかった韓国のプロテスタント信者は、1950年代には100万人を上回り、以後年平均25ポイントもの成長率を15年に渡って維持して一気に教勢が拡大しました。
 それを主導したプロテスタントのメガ・チャーチは現世利益を前面に出していて、アメリカの一部のメガ・チャーチに近いとのことです。

 日本へのキリスト教伝来はもちろんザビエル。1549年鹿児島に来航しました。朝鮮半島のキリスト教は1784年に李承薫が北京で受洗した年を起源としています。
 しかし一方、1593年豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際に、イエズス会の宣教師セスペデスが、日本から朝鮮半島に渡ったという史実があります。ところがキリスト教が日本の侵略戦争に乗じて伝播したとは韓国教会にとっては心情的に受け入れがたいようで、李元淳ソウル大学名誉教授は、「その後朝鮮社会にも根づいていないし、証拠とされる資料はすべて伝聞によって作成されたもので、これを起源とすることはできない」としています。
 ※関連で、ジュリアおたあの物語は興味深い。(→ウィキの説明。)
 ※→コチラのブログでは、「証言」の信頼性や「資料の有無」等について、従軍慰安婦問題との間のダブルスタンダードを批判しています。「信頼できる資料がない」と否定するのなら、慰安婦問題も否定されるべきだ、との主張ですが、ヌルボが思うに、ダブルスタンダードはどっちもどっち。

 以上、とくに韓国でのキリスト教信者が多い理由を中心に、本書の一部を紹介しました。それでも、まだ十分納得するには至りません。
 しかし、これまで韓国のキリスト教事情について幅広く多様な観点から概観したコンパクトな本がなかっただけに、本書が刊行された意義は大きいと思います。
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山路愛山『韓山紀行』を読む ②よその国を見て「汚い」と思うこと (木村幹先生の論考を参考に)

2012-10-15 23:52:25 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 →5日前の記事<山路愛山『韓山紀行』を読む ①日露戦争中の韓国の印象を率直に記述>の続きです。

 1つ前の記事で書いた10月13日(土)夜のNHK総合「東京カワイイTV」の前の番組が「関口知宏と高校生の旅 中国縦断2500キロ」。 ※この番組の中身は→コチラ参照。私ヌルボも同感した観た人の感想→コチラ
 見た感想はいろいろありますが、とくに1ヵ所、見ながら「アリャリャ」と思ったのが、5人の日本人高校生諸君の考えたプロジェクト。その内容というのが「ゴミをなくそう!」というものなんですねー。私ヌルボ、番組の最初の20分くらいは見てなかったのですが、街にゴミなどが散乱しているようすがよほど気になっていたんでしょう。そこで「お世話になった中国の人たちにお礼をしよう」という善意から考えついた企画だったのですが・・・。

 ここでそれまで生徒たちをバックアップする立場なのであまり目立たなかった関口知宏さんが出てきて、厳しく問いかけるのですよ。鶏や豚を捌いてまでもてなしてくれたけど、その鶏や豚は一家の財産だったということをわかっているか? そんな人たちに、「キレイにしたらいいですよ」というのは「あなたの国はゴミだらけで汚い」と上から目線で言うようなものだ、というのが関口さんの話の主旨でした。

 今まで私ヌルボ、中国縦断2500キロ」は少ししか見てなくて、関口さんの人となりもよくわかってはいなかったのですが、少なくともこの場面は「よく言ってくれました」という思いでした。(→コチラのブログ記事も同じ趣旨で、ナットクしつつ読みました。)

 10月10日の記事で、日露戦争中韓国を訪ねた山路愛山が「韓山紀行」で韓国の街や家の不潔なことをここかしこで記していると書きました。
 往時の韓国についてのこのような感想は彼に限りません。高浜虚子・谷崎潤一郎等々、他の多くの人々の著作にも同様に韓国の印象が記されているそうです。
 そのことを知ったのは、先月例の領土問題をめぐるNHKの特集番組に出演して(目立たなかったなりに)知名度の高まった木村幹神戸大教授の論考を読んだからです。
 その論考のタイトルは「「不潔」と「恐れ」-文学作品に見る日本人の韓国イメージに関する一試論」
 現代の高校生たちは「実際に汚いから「汚い」と言っただけ」なのでしょう。昔の山路愛山等にしても同じ。しかし、木村幹教授は少し離れた所に視点をおいて「なぜ「不潔」と思ったか?」を問題にしています。

☆ダウンロードのしかた
 神戸大学のサイトから
 →サブメニューを開く(タイトル下左)をクリック
 →研究タグ中の「研究ニュース・研究内容」をクリック
 →学術成果リポジトリ Kernelをクリック
 →簡易検索の窓に「木村幹」と入力し検索
 →論文のリストが出てくる。
 このリスト中の「Full text」のアイコンをクリックすると、PDF文書で読むことができます。
 リストの36番目が<「不潔」と「恐れ」:文学者に見る日本人の韓国イメージに関する一試論>と題された論文です。
※リストの4番目に「韓国・北朝鮮の嘘を見破る:近現代史の争点30」(文春新書)所収の<「韓国内の『親日派』は国賊である」と言われたら>という一般読者向きに(比較的)読みやすく書かれた一文もあります。その挑発的な書名とは裏腹に、嫌韓的な感情は全然含まれていない研究者らしい筆致です。未読の方はぜひ読んでみてください。

 さて、この木村幹教授の論考のポイントを、とくに「韓国は不潔」という見方について整理し、箇条書きにしてみました。

・高浜虚子や谷崎潤一郎等の著作にあるような、朝鮮人が不潔とされる一方、それと対照的に日本人はきれい好きであるという見方は、「当時の日本人文学者においては、かなり普遍的な傾向であった」。
・しかし、江戸時代には、朝鮮に対するイメージに「不潔」とか「危険」とかのマイナスの要素はみられない。
朝鮮を不潔と見る見方は、「明治後期以降の時代状況の中から生じて来た」ものである。
・朝鮮が不潔である理由とされたのは、その民族性ではなく「発展の程度の差異」によるものであり、つまり「文明化の不足の結果」であると考えられた。その反対側には「文明化」を達成した日本に対する「誇り」があった。
・このような日本人のアジア認識は、西洋人のそれをそのまま踏襲したものであった。「文明化」の遅れた土地に自らの文明を伝達することを「責務」と考える思考法もそのひとつ。西洋人により強調された(日本も含む)アジア・アフリカ諸国の「不潔」観を、日本人はそのまま継承した。
・今日の日本人も、韓国に対して上記のようなマイナス・イメージを持ち続けている。そして、こと韓国となると、そのイメージに相応しい事件・事象にのみ注目してそのイメージを再確認している。結果、それらのイメージは変化することがなかった。
・重要なことは、韓国も他の諸国同様の「外国」のひとつにすぎないということを認識して、冷静に対処する必要がある。


 なーるほど、ですね。学問的に素人の人たちは、ややもすれば愛山や虚子等の本を読んで、「やっぱり植民地化前後の朝鮮は不潔で遅れた社会だったんだな」とそのままストレートに受けとめてしまいそうですが、木村先生は彼らが韓国を「不潔」とみた理由とその意味を、歴史的文脈をたどったりして追究していきます。
 たしかに、時代によって、国によって、あるいは身分・階級等々によってもモノサシ(価値観)は違いますからねー。昔の日本人が、昔の朝鮮を見た時のモノサシをそのまま現代の韓国を見る時に、何も考えずに用いるのは誤解のモトになりそうです。

 「汚い」の基準について私ヌルボが個人的に思い出すのは、以前めずらしくがんばって自分の部屋を掃除してキレイにしたことがあったのですが、その部屋に初めて入った一人の子どもが無邪気に発した言葉が「どーしてこんなに散らかっているの?」でした。(泣)

 ・・・以上、「不潔」を弁護するような書き方になったかもしれません。しかし、近代化にともなって病気が減少し寿命が延び人々の健康が増進してきたのは、衛生観念が高まり住環境が清潔になってきたことと大きく関わるのはまぎれもない事実だし、「清潔」の押しつけが絶対よくない!と主張しているわけでもないのです。
 「汚いからキレイにしてあげましょう」問題、考えてみれば深いです。

☆[蛇足]
 ところで、木村幹先生の緻密で慎重な論の進め方に接して想像したことがあります。
 もし誰かが木村先生のことを「馬鹿野郎!」と罵倒したらどう反応するか、ということ。
 「君が僕を「馬鹿野郎」というのは、かくかくしかじかの価値観に拠るものと分析されるが、そのような価値観を共有する者は誰もいないから、何の説得力もないよ」と答えるのかなー、とか・・・。
 いや、もしかしたら、自分がそう答えようとするのはどのような価値観に基づいているのか、と考えると・・・などと、さらに自己分析に入っちゃったりして・・・。
 そこへいくと、「馬鹿野郎!」に対して「なんだと?! 大馬鹿野郎!!」と単純にわめき合ったりしてる人たちの方がある意味人間っぽいかも・・・。
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山路愛山『韓山紀行』を読む ①日露戦争中の韓国の印象を率直に記述

2012-10-10 13:46:53 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 最近、明治後期~大正初期に活躍した評論家・史論家の山路愛山が日露戦争勃発の3ヵ月後の1904年(明治37年)5月、韓国を訪れた際の紀行文「韓山紀行」を読みました。
 1964年刊行の「現代日本思想大系 4 ナショナリズム」(筑摩書房.1964)に収められているもので、原稿用紙だと30数枚程度で、そんなに長文のものでもありません。
 その後、インターネットでも→コチラのサイトで全文見られることを知りました。(いいかげんなスキャン結果の文章が校正されないままになっていますが・・・。とくに後半部分。)

 さて、その「韓山紀行」の内容なのですが、当時の韓国の「人々の怠惰なようす」「街や民家の不潔なようす」「進取の精神に欠け、危機感もないこと」等が忌憚なく書かれています。

 したがって、いわゆる<嫌韓派>にとっては、恰好のネタ元ともいえるでしょう。現に、<植民地統治の検証 1 反日史観を糺す>というサイトには、以下の2ヵ所が引用されています。

 (釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶるノン気至極なるものにして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんことを思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて少しも改むることを知らずという。僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営の容易の業にあらざるを知るなり。(5月5日) 

 水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうなれども日本の村(原文のママ)同然の体(てい)たらくなり。さりながら城門は立派なるものなり(水原城はユネスコ世界遺産)。韓国の都会は大陸流にして廻らすに城壁をもってし四門を開き望楼を設く。遠望すれば写真で見たる万里の長城なり…  それはともあれ僕は城壁の大なると楼門の魏々たるとを見、城の内外にある民家の豚小屋同然たるに対比し、韓国には役人の建築ありて、人民の建築なきを感ぜざることを得ず。(5月8日)


 上記以外にも、たとえば次のような記述があります。

 その礼楽法度、ことごとく中華に擬するをもってみずから誇り、華人の称して小中華といいたりとて揚々たること事大根性ぜんぜん呈露す。その根底すこぶる深しというべし。この種の人物をして発憤自彊せしめんとす、僕はまず匙を投げざることを得ず。

 ところが、彼の文章には露骨な差別感情は見られず、率直に見たままを記しています。もちろん、いくら事実であっても、たとえば「不潔」と書かれた側は差別と受け止めることはむしろ当然かも・・・。また愛山自身は意識しなくても、当時の日本人なればこその「思い込み」もあったでしょう。
 山路愛山はクリスチャンであり、内村鑑三や堺利彦等と思想や政治的主張を越えて親交のあった人物ですが、当時の彼は自身帝国主義者であることを標榜していました。
 ところが、現在の「帝国主義者」のイメージを持って次のようなくだりを読むと、意外に思う人も多いのではないでしょうか?

 僕の深く恐るるところは在韓の日本人が自重せず、大国の威を借りて韓人を凌辱しかえってみずから韓人の不信を招かんことこれなり。日本国民の韓国にある者は人人みずから韓人の師表たるをもって任ぜぎるべからず。(5月7日)

 ・・・愛山がこのように書いたのは、「在韓の日本人が自重せず、大国の威を借りて韓人を凌辱し・・・」ということが見受けられた、ということでしょうか。
 そしてこの紀行文の最後の方で、彼は次のように旅を総括しています。

 さりながら韓国を見たること僕にとっては真に一大教訓なり。僕は韓国に対する日本の位置のとうてい今のままにてやむべからざるを信じ、韓国を鞭撻して、秩序あり、規律あり、文明人の棲息経営に堪ゆるものたらしむるは実に大日本国民の義務なることを深く信ずるに至れり。試みに思え比屋みな浄潔にして道路もまた平坦砥のごとき間に介在するに茅屋あり、ひとり不潔、汚穢をきわむるのみならず、破壊、危険の状あらば隣人たるもの公益を維持するの上よりしてその主人に迫りて改築の計をなさしめざるを得ず。これ隣人の権利にしてまた義務たるにあらずや。僕の韓国に来らざるや韓人のなおみずから振い、みずから彊(つよ)むるの余地あるを信ぜり。足ひとたび韓国を履(ふ)みて後はこの信仰は一変せり。韓人のみずから振作するを待つはほとんど枯木の芽を出すを待つに異ならず。如(し)かず、日本の隣人の義務としてひとりそのなすべきところをなさんのみ。この新信仰を僕の心に生ぜしめたるものは実に此遊の賜なり。(5月17日)

 きれいに整った住宅街に1軒不潔な上に壊れそうな家があったら、改築を促すのが隣人としての権利であり義務である・・・。韓国としてはなんともひどい言われようですが、愛山の気持ちとしては、差別視や収奪の対象というよりも使命感でしょう。

 ・・・と、このように書くと、私ヌルボが山路愛山を、あるいは往時の帝国主義やひいては韓国併合を肯定弁護していると思われるかもしれません。真意はそうではなくて、それらを否定するとなると、相手側の手強さを十分に認識しなければならない、ということです。

 「韓人のなおみずから振い、みずから彊むるの余地」を信じていた愛山は、韓国に行って「この信仰」を一変せざるを得ませんでした。
 もし自分がその時代にタイムスリップしたとして、愛山のような「健全な帝国主義者」を相手にどのような意見を述べることができるか、ということを自問してみると、そう簡単には答えを出せません。

 その当時のモノサシだけをもってすれば「歴史の必然」の前にほとんど立ちすくむしかなく、また現代のモノサシで過去を裁断しようとすると空論に陥るしかないようで、日韓の間の歴史認識問題もこのあたりのギャップを無視して噛み合わない議論を重ねているようです。

       
    【今年7月、渋谷・百軒店を歩いていて偶然見かけた山路愛山終焉の地の標識。】

 →山路愛山『韓山紀行』を読む ②よその国を見て「汚い」と思うこと (木村幹先生の論考を参考に)
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「鄭雨沢の妻」を読む  北朝鮮で粛清された総聯幹部と、日本に残された元妻の運命の岐路

2012-08-13 23:56:37 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 7月29日の記事で、たまたまプロポーズされて結婚した相手が在日朝鮮人の男性で、おりしも北朝鮮への帰国運動が盛り上がっている時期でもあったので、間もなく一家ともども北朝鮮に渡った日本人妻・斉藤博子さんの北朝鮮に嫁いで四十年-ある脱北日本人妻の手記」(草思社.2010)を紹介しました。

 北朝鮮への帰国事業が、いかに多くの在日朝鮮人や、日本人妻等の運命を大きく左右したか・・・。彼らについて書かれた本や手記等を読むと、その悲劇にも実に多様な「諸相」があることがわかります。(最近公開された梁英姫監督の映画かぞくのくにもそのひとつ。)

 この鄭雨沢の妻」(サイマル出版会.1995)も、その一例を提供してくれます。<自伝小説>と銘打たれていますが、おそらくほとんどは著者の角(すみ)圭子さんの実体験とみていいのでは、と思います。

      

 今、鄭雨沢(てい・うたく.チョン・ウテク)という人物を知る人は多くはないでしょう。私ヌルボも知りませんでした。
 最近李恢成の自伝的小説「地上生活者」を読んでいたら、朝鮮総聯創立初期の中央常任委員で、文化・宣伝部次長の任にあった千時雨という人物の名が少しだけ出てきて、それでなんとなく書名だけ記憶にあったこの「鄭雨沢の妻」を思い出し、図書館で借りて読んで、はじめていろんなことを知ったというわけです。

 鄭雨沢は1927年3月17日生まれ、角圭子さんは1920年生まれ。角さんが7つ年上です。
 2人が知り合ったのは1950年、朝鮮戦争が勃発して間もない頃で、角さんは当時神田駿河台のソヴェト研究者協会(ソ研)の事務局で、副島種典(種臣の孫)の下で勤務していました。
 そのソ研の総会で、解放新聞社(在日本朝鮮人連盟系)の記者だった彼が招かれ、朝鮮戦争の現状について講演をしたのが1つ目のきっかけ。そして10日ほど後に偶然中央線の電車に偶然乗り合わせたのが2つ目のきっかけ。車内で話に興が載って、武蔵境の寮に帰るという鄭に彼女は声をかけ、彼女が間借生活をしている三鷹で一緒に下車することになります。(こうした偶然が両者の運命を決定づけるんだなー。)

 翌1951年1月2日、武蔵境の寮が火災で丸焼けになった後、2人は彼女の部屋で新婚生活に入ります。

 その間の2人が交際を深めるエピソードの中で、とくに彼の提案で行った相模湖のデートは最上の思い出だったようで、会話も情景も仔細に、かつ印象深く描かれています。
 たとえば湖に浮かべたボートで声をかぎりに歌を歌ったこと等々。彼は少年期に声楽家の従兄から教わったという歌を次々に歌ったとか。

 「それらはフォスターであったり、シューベルトであったりしたから私も歌えた。またトセルリの「嘆きのセレナータ」を鄭は母国語で歌い、私は日本語で合わせた。やがて彼は歌劇「リゴレット」中のアリア「女心の歌」を「ラ・ドンナ・エ・モビレ」と、イタリア語で本格的な発声で歌いだし、私を驚かせた」。

 歌といえば、後年(1957年)板橋区志村中合でアパート生活を始めた頃の朝のことも・・・。

 「黒い目をあけてよ かわいい人よ 夜が明けた もう鳥が啼いている 愛の唄を」
  私は・・・眠ったふりをして歌を聴いているが、「愛の唄を」のくだりまでくると噴出してしまう。彼はマスネーの有名な歌曲「青い目をあけて」を黒い目に置き替えて、思い入れたっぷりに唄っているのだ。

 本についての会話も紹介します。

 青写真(未来の人生設計)についての彼女への質問を、そのまま返された彼はこう答えます。
 「ぼくが人生のエンジニアだったら、未来をこう設計します。《世界を震撼させた十日間》のジョン・リードとか、《ニッポン日記》のマーク・ゲイン」 
 私はここでコミュニストのジョン・リードとリベラリストのマーク・ゲインの名が彼の口から同時に出てきたことに、ちょっと驚いた。
  「彼らのような一級の、世界的ジャーナリストになって、世界をまたに活躍したいんです」

 ・・・いやー、何という夫婦なんだ! 要するに、2人ともすごいインテリなんですね。

 彼女は、両親が画家という家の一人娘。明星学園に11年通った後日本女子大。ノモンハン事件(1939年)の頃には父母には「仮面をかぶって」「ぼつぼつ赤の勉強」を始めたという、すなわち社会主義に理想を抱く良家の子女。戦後のソ研での仕事もその延長線でしょう。

 一方鄭雨沢は、朝鮮半島南西部、木浦の沖の荏子島(イムジャド)の富裕な地主の三男。木浦中学2年の時、徴用で大邱の軍事工場に入れられるが、半年後仲間を誘って日本人の監督に闇討ちをかけ、逃亡したため、学歴は中2止まり。以後終戦まで丸5年間本を読み漁る。マルクスも読んでいた彼は、終戦後朝鮮共産党(のちの南朝鮮労働党)に加わり、何度も捕まっては水拷問や電気拷問に責め立てられたりもしたそうです。
 1948年8月の大韓民国成立の2ヵ月後起こった麗水・順天事件で、危うく生命の危機を免れた彼は、密航船に乗り込んで日本に逃れます。
 2人が出会ったのは、彼が日本に密航して1年9ヵ月後のことです。(捕まったら李承晩政権の韓国に送られて死刑になる、と鄭は彼女に語ります。)

 1953年8月8日朝日新聞は「北鮮、十二要人を粛清」との見出しで南朝鮮労働党の指導者だった朴憲永等の粛清を伝えます。(処刑は56年(?)) 同じ南労党出身の鄭雨沢も衝撃を受けたことでしょう。
 翌1954年、赤狩りが激化する中で、2人は警察の追及を受ける身となり、居所を転々と移します。
 角さんは「良き妻の素振り」で夫に聞こうとしなかったし、彼も語りませんが、分裂している日本共産党の主流派の側に属して同胞の地下活動を指導しているらしかった、とか・・・。

 警察の追及を逃れて、最後に入り込んだ所が川崎の池上新田にある大きな朝鮮人街。
 「ふつう中留と呼ばれているそこは、一九五四年の当時、警察官も一人で入れぬ無法地帯ともいわれていた」
・・・とあります。現在は池上新町。<川崎のコリアタウン>セメント通りも近い所です。そこの街や、そこで暮らす人々のようす、角さん自身の体験の描写は非常に興味深いものがあります。全270ページの本書のうち約100ページに及んでいます。(現在の街はずいぶん変貌していることは推察できます。)
 ヤミ商売・密航者・家庭争議・煤煙等々、そんな中で、人々は飲み、食い、歌い、踊る・・・。
 この部分については、次のエピソードだけ紹介して、他はあえて省略します。

 彼らとのつき合いの中で習った朝鮮語を得意そうに口にした妻に、鄭は「喜ぶどころか複雑な、暗い表情」になります。そして「しばらく考えるふうに黙してから」言います。
 「ね、スミ。ここの人たちの言動を朝鮮本来のものとはどうか思いこまないでおくれ。ゆがんでいる・・・・。ひどくすさんでいる」 
  後半の言葉をとても苦しそうに、だが思い切って言うというふうに言いおわると、あらためてここの人びとに、いや多分、在日朝鮮人のすべてにであろう、思いを馳せる深い眼差しになって、「無理もないことなんだ」と低い声で、ゆっくり噛みしめるようにつぶやく鄭雨沢でもあった。
(朝鮮人街に住む人々と、鄭自身との距離感の微妙な表現がいかにもインテリっぽい。)

 2人が川崎に潜んで暮らしている間、1955年朝鮮総聯が創立し、民族団体は日共の影響下を離れて北朝鮮に直結した金日成路線へと転換しました。組織内で先覚派(主流派)に対する後覚派に属していた鄭は、神奈川県朝鮮中高級学校の日本語教員に「左遷」されますが、翌56年には中央常任委員に選ばれ、文化・宣伝部次長となって信濃町の総聯中央本部に通うようになります。
※1954年横浜の紅葉ヶ丘に音楽堂とともに落成した県立図書館に2人がほとんど日曜ごとに通って思い思いの読書に耽った、という記述には、今近辺に居住してその「歴史を感じさせる」たたずまいを知るヌルボにとっては、思うところが多いですね・・・。

 1957年夏から板橋区志村中台のアパートへ。「ひぐらしの里」とよばれる美しい自然環境で、2人はしあわせな日々を送ります。

 そして1958年夏頃から北朝鮮への帰国運動が活発化します。
 総聯の宣伝部長として、鄭雨沢は最前線で働きます。

 1959年4月、角さんが著した「トルストイの愛と青春」の刊行を祝って、中央公論社の地下ホールに先輩や友人たちが集まります。その二次会の席でロシア文学者の江川卓がツルゲーネフの「その前夜」を話題にします。ブルガリア人青年と結婚したロシア人女性エレーナが、夫の病死後も彼が命をかけた独立戦争に身を捧げるため看護婦としてブルガリアに向かうという物語。「エレーナの生き方を私に重ねていたからかもしれない」とも思われる江川が「角さんも、いくの? やっぱり」という問いかけに「行くってどこへ」ととぼける彼女。江川は鄭雨沢にも、彼が岩波の「世界」3月号に載せた「全国民を敵として 李政権の恐怖政治と国家保安法」について語りかけます。(角さんは、密航者である夫が「もう、大丈夫なんだわ」という喜びを内心に秘めます。)

 角さんの人生の転機は、不意打ちのようにやってきます。
 出版記念会の20日後、当時続けてきた朝鮮大学校の講師の解雇を、突然言い渡されます。
 そして1961年。朝鮮戦争開戦日の6月25日日比谷公園で開かれる在日朝鮮人の集会で、演説するための原稿を持って出かけるところの鄭雨沢に、角さんは「私もあとから行くわ」と言います。ところが振り返った彼の言葉は「来る必要ないよ」でした。

 大学を馘になって以来の疑問と悲しみを一度にぶつける妻に、鄭雨沢が語ったのは、帰還船に乗り込んだ日本人妻の多くが社会主義建設の重荷になっている、ということ。朝鮮人の帰国者には指導員1人つけば足りるのに、日本人妻には3人つけても間に合わない等々。したがって、日本人妻を帰国船に乗せるのはわが国にもう少し余裕ができるまで見合わせて、同族結婚の家族を優先してほしい、と共和国(北朝鮮)から連絡があった、というのです。

 ともかく今日の集会には反・日本人妻感情といったものが沸騰していて、その中に自分をさらすことが鄭にはできないとわかった角さんは「集会に行かないから、心配しないで行って」と告げますが、彼が背中を見せた瞬間激しい孤独感に襲われて「テイ」と呼びとめます。
 振り向いた彼に「私はこれからどう生きればいいの」問いかけると、しばらく無言で見つめ合った後、大粒の涙を流しながら彼が発した言葉が「スミ、ぼくたちは別れなければならない」です。「スミは、自民族の良き娘に還らなければならない」とも・・・。

 「スミは日本人の中でも、とくべつ毛並みの良い家の娘に生まれた。ご両親がきみにさずけた才能の上に、ああいう家庭で培われたおのずからのものを、きみは資質としても、感性としても持っている。朝鮮人の世界では、そういうかけがえのない貴重なものを殺してかからなければ・・・」

 もし彼らの物語が将来映画化でもされることがあったら、このような彼の言葉を手がかりに、彼女を北朝鮮に連れて行った後の悲劇を予見して、あえて別れた、という含みをもたせるかもしれません。
 しかし、ここはやはり彼はあくまでも共和国の指示に忠実だったとみるのが正しいかも。

 (上記のような日本人妻についての見方は、あくまでも組織の内部情報に止めたということなんでしょうか? 具体的にすると、知られてはまずい北の実情が「敵」に漏れてしまうし・・・。)

 「テイ、演説に遅れて、早く行って」という彼女の言葉で終わる本書が書かれたのは1995年。巻頭には、79年春のこととして、新聞に「北・朝総連元幹部相次ぎ粛清」という横見出しの下に知識人らを“スパイ”で処断、鄭雨沢(元中央外務部副部長)もとある記事を目にします。

 ヌルボが一読者として思うに、上述のように①南労党系で、②地主階級出身で、③ブルジョア的教養(?)を持つ彼が粛清されたのは、(今から見れば)当然の成り行きでしょう。
※先述の鄭雨沢が歌った西洋の歌曲について思い出されるのが声楽家金永吉(日本名・永田絃次郎)のこと。1960年1月帰国船に乗って清津港に着いた彼は、歓迎式直後に「オーソレミオ」をイタリア語で歌ったことが問題とされたといわれます。それが彼の共和国の状況だったとすると、鄭雨沢の教養は、国にとっても彼にとっても危険なものだったでしょう。
 そのような危惧を彼は予感していなかったのでしょうか? 総連関係者で、「帰国」すれば処罰が待っているような北朝鮮に、それでも行く事例は何かで読んだ記憶がありますが・・・。

 夫とともに北朝鮮に行った日本人妻・斉藤博子さんの場合は生まれて間もない子どもと別れたくない、ということが決断の大きな理由となりました。

 斉藤博子さん夫妻と、鄭雨沢・角圭子夫妻は、夫婦の民族性以外はほとんど対照的です。
 ただ、角さんに子どもがいれば状況は変わったかどうか・・・。
 また、もし鄭雨沢が日本人妻についての情報を聞いていなかったり、無視したとすると、角さんは当然心に決めていた通り北朝鮮に渡っていたでしょう。するとその先は・・・。
 ・・・ということなどをいろいろ考えてみると、本当に禍福はあざなえる縄のごとし、です。

 角さんは、まえがきで「見たことも行ったこともない国の在り様を、鄭とともに信じてうたがわなかった責任から、私がまぬがれ得るものとは思わない」と記しています。このような誠実さに、彼女の人間性がうかがわれます。(彼女よりもはるかに大きな責任を負っていながらも、なんらの反省や謝罪の言葉もない人はたくさんいるのに・・・。)


 ★追記
 先にあげた李恢成「地上生活者 第3部」に、物語の語り手・趙愚哲が在日の学生組織の仲間の自宅を訪ねる場面があります。その場所が川崎の中留。そこで一晩をすごした翌朝、その友人が声をかけます。
 「ほら、前の部屋だよ、千時雨が少し前まで住んでいたのは」
 直接会ったことがない千時雨の名を愚哲が覚えているのは、雑誌「世界」に彼が書いたものを読んでいるからです。
 以下、長いですが、そのまま引き写します。

 驚ろくのはその文章のなめらかさだった。日本人はだしである。たぶんこの自分よりか七、八歳うえの世代だろう。植民地時代にたっぷり国定教科書や軍事訓練による教育を受けた賜物もあるのかも知れないが、要は本人の資質のせいにちがいない。愚哲は在日一世にこんな達者な文章で論理展開をする人がいるのを誇らしく思ったくらいなのだ。 
 「千時雨氏はここで日本人のかみさんと暮してたのさ。ロシア文学やってる角田敬子という女性だけど知らんか? トンムはロシア文学やってたから知ってるんじゃないの」
 「うーん。おれは天麩羅学生みたいなもんだからな。けど、名前だけは何かの翻訳で見たことがあるような気がするな」
 「そうか。彼女は民族師範専門学校でもロシア語をおしえているオシドリ夫婦なのさ」
 「ふうん」ぼく愚哲は深く考えぬまま彼の話を聞き流していた。
  まさかそのときは後年この二人と知り合いになり、入院中の彼を見舞ったり、あげくの果てはべつの若い朝鮮人女性と帰国する彼を独りで上野駅まで見送ることになろうとはゆめにも想像していなかった。
 
 「地上生活者 第4部」には、千時雨は同僚の若い朝鮮人女性と北に渡ったこと、その時彼女は身籠っていたことが短く書かれています。
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朝鮮総督府発行「朝鮮旅行案内」中の朝鮮語会話は、「上から目線」

2012-07-13 23:28:26 | 韓国・朝鮮に関係のある本
 一応1つ前の記事の続きです。

 横浜市立図書館の蔵書に戦前の朝鮮旅行案内記があることを知り、借りて目を通してみました。1934年9月、朝鮮総督府鉄道局発行です。
  
        
         【年季が入っていて傷みが激しく、館内閲覧限定もやむをえません。】

 内容は、と見ると、携帯の便をはかってか小さい判型ながら、一般記事の他にも地図・写真・挿絵・カコミ記事等々盛りだくさん。

       
       【このページは、釜山の名所の説明に「ゴム沓(くつ)」の囲み記事。地図が付いています。】

 私ヌルボが興味をもった点は、朝鮮の風俗や文化を紹介した小さなカコミ記事が随所に入っていること。上の写真にもゴム沓(コムシン)の説明がありますが、別の2例を下に掲げます。

     
 
 この記事によると、すでにこの頃から明太子については「頗る内地人の嗜好に適する」と記されてるのですね。「少なくとも左党と、朝鮮に於ける生活に経験を持って居る内地人には・・・」と但し書きつきですが・・・。学童の弁当箱に「必ずと云ふ程」に一塊というのは本当なのかなー?

     

 今は頭上に物を載せて運ぶ女性を見る機会は激減しました。しかしないわけではありません。下の写真は昨年(2011年)9月光州市内で撮ったものです。

         

 頭の上にバッグを載っけて信号待ちをしていた女性(左)、横断歩道を渡ってそのまま歩いて行きました。(右)

 さて、「朝鮮旅行案内記」でもう1つ興味をもったのが、簡単な朝鮮語の文と単語を紹介したページ。今の韓国旅行ガイドブックにもふつうありますね。
 しかし、下を見てください。

   

 「ありがたう」とあります。「ございます」がついてないですね。で、朝鮮語も「コーマプソ」。「コマプスムニダ」じゃないです。そして「行け」が「カ」。「ありません(オプソヨ)」ではなく「ない(オプソ)」。パンマル(ぞんざい語)になってます
 なんなんだ、この「上から目線」は? つまりは、当時の日本人が朝鮮に行った時には、「そういう言葉」を使っていたということなんですねー。会話の例文からして対等な関係が前提となっていなかった。そしてそのことにこうした本を作った人も、これを利用した人も何とも疑問を感じなかった、ということでしょうか・・・。
 その次のページの一部を続けて見てるとさらに問題が・・・。

     

 今韓国語を学習中の皆さんは上のカタカナを見て、元の韓国語がわかるでしょうか?
 チョンガ(총각)は「男児」じゃなくて男の独身者でしょう。「女児」の「キチベエ」はなんで吉兵衛?じゃなくて「계집애(ケーチベ)」ですね。「女児」より少し上じゃないですか? 「芸妓」すなわち「妓生(기생)」は、キーセンではなくキーサンというのが一般的だったのかな? 他の本等でも見ましたが・・・。
 しばし考えたのが「女」の「エベンネエ」。「男」の「사내(サネ)」はすぐわかるのですが・・・。結局思いついたのが「예쁜애(이쁜애)」でした。「イェップネ」。しかし、「女」じゃなくて「かわいい娘(こ)」という感じなだけどなー。どうもこういう言葉の関係づけもちょっと引っかかるなー。
 そして何よりも「カルボ(갈보)」なんて単語、今の韓国語旅行会話の本にはもちろん載ってるわけないですね。こういう単語が載っていること自体、当時朝鮮旅行に出かけた日本人(男性)のお里が知れるというものです。あーあ。
コメント (16)
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