昨年上半期には50本の映画を観ました。今年は44本と減りました。1~3月やむを得ない事情で17本と激減。6月に12本と集中的に観ましたが、2019年から続いていた年間100本以上は今年はちょっと難しいかも・・・。
しかし、それなりに数はそろっているし、外国映画・日本映画とも作為することなくバランスよく4作品ずつになったのでスイスイ書ける感じ。
なお作品は観た順にならべました。
《外国映画》
○ファースト・カウ(米)
インディペンデント映画作家として評価の高い女性監督ケリー・ライカートの名が一挙に知られたのは、ようやく2021年彼女の4作品がまとめてされてから。本作の舞台はオレゴン州で、冒頭は現代。川を船が行き、川べりで犬が何やら地面を掘り返してる・・・。と、いきなり1820年代、つまり西部開拓時代まで一気にさかのぼります。
ビーバーを捕獲すると高く売れるとのことで狩猟グループに雇われた料理人のクッキーは、ロシア人に追われているという中国人移民のキング・ルーを助けたことが機縁となってやがてオレゴンの未開の地に移った時ルーと再会します。そんな時この地に初めて牛が舟に乗せられやって来ます。クッキーとリーはその牛のミルクからドーナツを作って市場で売り始めるとたちまち大人気に・・・。ってその牛は彼ら2人の所有物じゃないですよね? つまりこっそり悪事を働いているということ。そして悪事はいつか露見するもの・・・。
本作の稀有なところは、物語の最後になってすべてが分かるのですが、その分かり方というのが映画1シーンもしくは数シーンを見て分かるというのではなく、観客自身の頭の中で映されていないシーンを補って過去~現代のすべての物語を想起するという構成になっていること。(いやあ、まいったまいった・・・)
○コット、はじまりの夏(アイルランド)
たまたま映画館で居合わせた知り合いは英・独・仏・西等の欧州の言語に通じているのですが、開映後間もなく「どこの言葉だ?」。私ヌルボも当然分からず。
1981年アイルランドの田舎町。コットは9歳の少女。大家族の中でひとり静かに暮らすというより、父親が問題ありありの放蕩者でおよそ子供に愛を注ぐような親ではないのです。たまたま近く赤ちゃんが生まれるということでコットは夏休みを遠い親戚夫婦の家で過ごすことに。夫婦はコットを優しく迎え入れ、主に仔牛の世話等の仕事を手伝ったりして日々を送ります。2人の温かな愛情をたっぷりと受け、コットは今まで経験したことのなかった生きる喜びに包まれ、いつしか本当の家族のようにかけがえのない時間を3人で重ねていきます・・・という粗筋は事前に仕入れていたのですが、意外に思ったのはコットちゃんの表情が親戚夫婦に対しても変わらず笑顔を見せることもなく打ち解けておしゃべりをすることもないのです。ただ後になって考えてみれば、自分のやるべきことをやる充実感や親戚夫婦が寄せる信頼感のようなものが表情には現れなくても内に育まれていったのでしょうね。やがて赤ちゃんが生まれてコットちゃんは親戚のおじさんの車で帰ることに・・・。久し振りにわが家に戻って、私ヌルボ、「えっ? これでおわっちゃうの!?」と思った瞬間、大感動のラストが! うーむ、ここまで引っ張るとは、してやられましたがな。
○パスト ライブス/再会(米・韓)
ソウルに暮らす12歳の少女ノラと少年ヘソン。ふたりは互いに恋心を抱いていたのに、ノラの海外移住により離れ離れになってしまいます。12年後24歳の時、2人はニューヨークとソウルに居ながらも、オンラインで相手のことをたまたま探し、PC上で再会を果たしますが、直接会うことはできません。そして12年後の36歳。ノラは作家のアーサーと結婚していました。ヘソンはそのことを知りながらも、縁のひもをつかもうと勇気を出してノラに会うためにニューヨークを訪れます。24年ぶの再会ノラは歓迎しヘソンと2人観光船で周遊します。2人が家に戻ると玄関先の階段にアーサーが座って待っています・・・。
この3人の間で大声で呶鳴り合う場面は全然ありません。しかしそれそれぞれに他の2人に対する言葉にならないさまざまな思いの深さが感じられる「おとなの映画」でした。あ、ヘソンはそのまま韓国に帰って行きます。(ネタバレ、ごめん。)
※<イニョン>という言葉が何度も出てきます。本作のキーワードと言っていいでしょう。漢字だと<因縁>。日本だともっぱら良からぬ意味で用いられますが、前世からの運命(さだめ)といった意味でしょうか? 字幕では<縁>と訳しています(←妥当)。愛し合った者同士が結ばれるか否かもそんな<縁>によるものだと・・・。(なーるほどねー。
○システム・クラッシャー(独)
9歳の女の子ベニーは最初からちょっとしたきっかけで嵐のごとく猛烈に荒れまくります。大きな物を投げつけてガラスを割ったり・・・。元はと言えば幼い頃父親から受けた暴力がトラウマになっていて、ママのもとには帰りたくても、実際帰ると決まって父親との修羅場になってしまいます。そんなわけで母親はベニーを施設に委ねます。グループホーム、特別支援学校等々。しかしどこも面倒見切れず追い出されてしまいます。解決策もなくなったところに男性トレーナーのミヒャはベニーを森の中の山小屋に連れて行って3週間の隔離療法を受けさせるます。そしてやっとまともに意思疎通が可能になり良い方向に向かうのかな?と思いきや、帰路ミヒャの家に寄ると「わたしを家族にして!」と今度は無理な要求。ベニーは夜の雪の原を彷徨います・・・。
やがて母親が父親と別れたということでやっとメデタシになるのかなと思ったら母親は働いて稼がなければ・・・と肩すかし。なんだ、こんな手のつけようのない女の子も実は周りの大人たちが作り上げたということか・・・。
※「システム・クラッシャー」とは、ベニーのようにあまりに乱暴で行く先々で問題を起こすを転々とする制御不能で攻撃的な子供のことを指す隠語とのこと。(直訳すればシステム破砕機?) 本作が長編デビュー作となるノラ・フィングシャイト監督はホームレスを描いたドキュメンタリーの撮影中に「システム・クラッシャー」と呼ばれる子供がいることを知り映画化を決めたとか。
※本作は2019年のベルリン国際映画祭でプレミア上映され、ベニーを演じたヘレナ・ゼンゲルは翌20年ドイツ映画賞主演女優賞を史上最年少で受賞しました。
また本作は第69回べルリン国際映画祭銀熊賞とモルゲンポスト紙審査員賞の2冠を受賞。ドイツ映画賞では作品賞、監督賞、脚本賞、俳優賞、女優賞を含む8部門を獲得しました。
《日本映画》
○ゴールデンカムイ
野田サトルによる原作漫画は「週刊ヤングジャンプ」はもちろん、全31巻に及ぶコミックも見ていません。ま、その分予備知識ナシで観れたということ。
明治末期。日露戦争から帰還した“不死身の杉元”は北海道で砂金掘りをしている中でヒグマに襲われますがアイヌの娘アシリパに命を救われ、それが機縁となってアイヌの集落で暮らす人々とも親しくなり・・・。
いろんなネタ満載で楽しめます。鍋物に「これを入れるといい」と味噌を取り出すとアシリパは「これはうんこではないか?!」と驚いたり・・・。
それにしても、細部にまでよく調べぬかれているものです。そこは原作から監修を担当しているアイヌ語・アイヌ文化の研究者・中川裕千葉大学名誉教授の役割が大きいと思われます。
※中川名誉教授の著作として集英社新書から「アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」」等2作が刊行されています。
※続編があるものと期待していたらドラマシリーズ版を放映だって?!
○戦雲 -いくさふむ-
「標的の村」「標的の島」「沖縄スパイ戦史」等、沖縄の歴史・社会問題をテーマに優れたドキュメンタリーを制作してきた三上智恵監督の新作。今回も基地関係。と言っても舞台は沖縄本島ではなく、先島諸島の与那国島・宮古島・石垣島の3島。そこで自衛隊によりミサイル基地、弾薬庫の建設が進められているのです。例の<台湾有事>に備えて防衛力の強化(??)が狙いなのでしょうか? 太平洋戦争末期巻き添えとなって亡くなった沖縄の一般住民は10〜15万人で、県民の4人に1人に上りました。今このように自衛隊&政府がほとんどの国民が知らない間に(たぶん意図的に知らせずに)コトを進めているんでしょうね。私ヌルボも知りませんでした。
地元の人たちは当然反対の意思表示をするのですが、集団でこぶしを突き上げシュプレヒコールを叫んだりはせず、仕事着の女性が直接自分の言葉で個々の自衛隊員に語りかけるのです。はたして制服を着て個人としての感情や思考が抑えられがちな自衛隊員はどう思ったでしょうか?
こんな3島の軍事要塞化の現状の他に、島々の人々の暮らしや祭り等のようすも描かれています。
※<いくさふむ>とは<戦雲>の琉球方言(←大雑把)。
○正義の行方
1992年に福岡県飯塚市で2人の女児が殺害された飯塚事件。DNA型鑑定などによって犯人とされた久間三千年(くま・みちとし)は2006年に最高裁で上告が棄却され死刑が確定。08年10月福岡拘置所で刑が執行されました。
しかし翌09年には冤罪を訴える再審請求が提起され、事件の余波はいまなお続いています。
本作は、弁護士、警察官、新聞記者という立場を異にする当事者たちが−時には激しく対立しつつも、事件の全体像を多面的に検証し、この国の司法の姿を浮き彫りにしていきます。
そして、そんな疑問の多い飯塚事件を再検証し、再審を求める取り組みを進めます・・・
それにしても、疑問が多い事件であるにもかかわらず2006年最高裁での上告棄却・死刑確定からわずか2年で刑が執行されるとは、どういうわけなの?? 冤罪は言うまでもなく大きな問題ですが、死刑も言うまでもなくあってはならない刑罰であることを皆さんに認識してほしいものです。
※Wikipediaの飯塚事件の項目には、「死刑執行の際、久間は手順に従って氏名を確認しようとする刑務官に対し「そんなこと、おまえが分かっとるだろ」と怒りを露わにし、遺書のために用意された紙とペンも受け取らず、最期まで「私はやってない」と怒鳴っていたという」とあります。
※足利事件(栃木.1990)は飯塚事件と共通点が多い女児殺害事件で、同じDNA型鑑定が証拠として用いられ、容疑者として検挙されたKは91年地裁で無期判決となりその後最高裁でも上告が棄却されて刑が確定したが、その後2008年12月東京高裁はDNA型鑑定に疑問が提起され再鑑定されることになり結局は無罪となった。しかし、そのわずか2ヵ月前の同年10月に久間三千年が処刑されたのである。
※2008年1月日本テレビがニュース特集で足利事件のキャンペーン報道を開始し、自供の矛盾点やDNA鑑定の問題点等を指摘、DNA再鑑定の必要性を訴えた。その影響力は大きかったようだ。
※無実と推定される人物が死刑となった事例として菊池事件[藤本事件](熊本.1951)がある。
※冤罪も大いに問題だが、死刑自体が大きな問題であることを私ヌルボは強く訴えます!
○あんのこと
<親ガチャ>というわりと最近の言葉があります。母(&祖母)とひどく散らかった部屋で暮らす杏(あん)もまさにその言葉通り。しかしどんな毒親でも子供は言うことを聞くものなのか? 21歳の主人公・杏は幼い頃から母親に暴力を振るわれ、十代半ばから売春を強いられ、そしてある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は多々羅という変わった刑事と出会い、物語が動き始めるわけですが・・・。
本作は事実に基づいているとのことで、その記事が載っている2020年6月の朝日新聞社会面を縮刷版で探したらすぐ見つかりました。社会面というと目につくのは事件・事故の記事で、その記事もその一つでした。当時は新型コロナで緊急事態宣言が発令されて間もない頃で、それも杏の運命を左右してしまいます・・・。
(以下は宣伝文そのまま)本作は杏という女性を通し、この社会の歪みを容赦なく突きつける。同時に、単なる社会派ドラマの枠を超えて、生きようとする彼女の意志、その目がたしかに見た美しい瞬間も描き出す。そして静かに、観客に訴えかける。杏はたしかに、あなたの傍にいたのだと。
ただ、こういう作品をいちばん観てほしい毒親と杏のような娘がはたして観てくれるかと考えると悲観的にならざるをえないんだよねー。
※なんと言っても、本作で目を瞠ったのは主演の河合優実! 今さら私ヌルボが声を大にして叫んでも二番煎じどころか百万番煎じくらいになりそうですが・・・。