ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

①韓国文学②韓国漫画③韓国のメディア観察④韓国語いろいろ⑤韓国映画⑥韓国の歴史・社会⑦韓国・朝鮮関係の本⑧韓国旅行の記録

韓国の、例の<お騒がせポスター>の作成者は、やっぱり<あの人>だった!

2020-04-03 01:35:20 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 2016年3月の旅行記事(→コチラ)で下の画像を載せました。

     

 ソウル駅に降り立った皆さん、駅前(東)から駅舎を背にして正面のビルの屋上にこれがあるのに気づきましたか? この建物はソウル南大門警察署。バスを持ち上げている警察官の造形物です。
 私ヌルボ、これを造ったのは<広告の天才>ことイ・ジェソクだろうと直感して調べたら正解でした。
 イ・ジェソクを初めて知ったのは2015年5月のソウル旅行でソウル市庁舎外壁に女の子が掲示板を持っている巨大な画像を見たのがキッカケ。それも静止画像ではなく、6秒間隔で掲示板の文字が変わっていくのです。(今はありません。) これがイ・ジェソク(이제석)さんが手がけたものということを確認して書いた記事が→コチラです。
 以後<‘広告の天才’イ・ジェソクの奇抜な広告アートの数々>シリーズとして→[その1]、→[その2]、→[その3]と、3回にわたって彼の広告作品を紹介しました。
 それらを見てわかるように、ほとんどすべてが警察をはじめとする公共広告です。
 そして今回注目するのは[その3]にまとめたメッセージ性が強いもの。地球温暖化や大気汚染等の環境問題とか、食糧問題とか、反戦キャンペーン等々。

 それはいいとして、たぶん大多数の日本人が「これはなんだっ!?」と目をむくのが下の2つ。

    
 左は2008年8月のニューヨークのマンハッタン。表題は'STOP ISLAND THEFT'、つまり「島泥棒はやめろ」。「独島は韓国領」とアピールしてます。右は2013年2月の安倍首相糾弾ポスターですが、なんともひどいですねー。「人気取りのために国を売っている」という表題の下に「安倍の攻撃的な右傾化政策は日本をアジア周辺国から公共の敵とし、国際社会から孤立させているのだ。日本とアジアそして世界平和を担保とした彼の人気取りのための政治賭博は即時中断されなくてはならない」と記されています。
また右の小さい画像は鬱陵島に立てられたパネルで、海面上の小さな島はもちろん竹島(独島)です。
 <独島>愛にしても、金正恩をも下回るほどの安倍晋三首相の好感度にしても多くの韓国人共通なので、イ・ジェソク氏個人に怒りをぶつけても何が変わるというものでもないですが・・・。(※ただ、上右のエゲツないポスターには韓国内でも批判があったそうです。)

 さて、ジツはここから本論です。(毎度すみません。)
 本記事のタイトル「例の<お騒がせポスター>」で、皆さん、ピンときましたか?
 東京五輪・パラリンピックを原発事故と結び付けて揶揄したポスターです。


 このポスターに対し東京五輪・パラリンピック組織委員会はIOCに問題提起し、それを受けてIOCは「VANKに対し、政治的メッセージのためのオリンピックエンブレムの不正使用を非難し、今後このような行動を控えるよう求めた」とのことです。VANK(Voluntary Agency Network of Korea)はこのポスターを製作しソウルの在韓国日本大使館の建設予定地のフェンスに貼った民間団体と報じられていますが、その依頼でポスターを直接作成したのはやっぱりイ・ジェソク氏でした。
 しかし、公共広告を専門にしている彼がエンブレムの使用について知らなかったはほとんど致命的な手抜かり。知ってたとしたら口あんぐりです。もちろんVANKもですが。VANKはこれまで外国の図書館等で地図にSea of Japan(またはJapan Sea)とあればこっそりEast Seaと書き直したりもしてきたそうですが・・・。

 イ・ジェソク氏とVANKの代表が昨年10月1日に会い、以後提携が進んでいるようで、この<放射能五輪>以外にも<旭日旗批判>のポスターも作っています。(VANKは民間団体とはいっても公的資金を提供されているとのことです。)

   


 実は私ヌルボ、原発事故後現在に至るまでの諸施策や報道、あるいは旭日旗に対しても批判すべき点は多々あると考えていますが、「旭日旗はハーケンクロイツと同じ」といった事実に反することや、このようなショッキングなポスターによる印象操作等はまっとうな批判を損なうものでだと思います。(例の徐敬徳教授はとくに問題ありですが、その件はまたいずれ。)





 このような(韓国人全員ではないにしても)一面的なプロパガンダよりも、やはり下のような彼らしい発想の健全な広告を期待したいものです。

     

 左は大邱の先史時代路にある先史遺跡公園への案内板。もちろん案内板は最初から原始人によって叩かれて変形しています。右は2016年10月16日の清渓広場。世界食料デーで、飢餓ゼロをめざすキャンペーンの造形物です。
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2泊3日の岡山旅行の記録① たまたま出会った宇垣一成陸軍大将の銅像

2019-10-05 09:24:18 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 9月9日(月)~11日(水)岡山に行って来ました。首都圏に住む大学時代の同窓3人が、同じく岡山在住の仲間を訪ねようというのが旅の趣旨です。
 ただ、私ヌルボを含む首都圏の3人は各自ほかの都合もあって、10日午前に現地集合で帰路もそれぞれ別。(・・・というのがイマ風? orウチら風?)

○9月9日(月)
 私ヌルボは9日に発ちましたが、台風の影響でダイヤが乱れることを勘案してキップを買っていなかったのがバッチリ正解! 台風は雨は(自宅辺りは)そんなでもなかったものの、風はまだ強く、昼過ぎ頃でもJRや新幹線は30分以上の遅れ。しかし新横浜14:21発の岡山行ひかりに乗り込んだ時はほぼ定刻になっていました。そして18:19岡山着。

    
 すでに薄暗くなり始め、明日・明後日とあちこち行くので、この日は駅近のホテルの近くで焼きあなご飯を食べて、後はブログ編集作業。

○9月10日(火)
 7時前に起床。仲間との待ち合わせは10時桃太郎像前なのでどこか行けるゾ!と数日前検討した所は岡山縣護國神社。とくに何があるからという具体的な目的があるわけではありませんが、「何かあるだろう」というカンのようなものが働いたので。
 岡山駅前から西大寺行きのバスに乗り、約30分。なだらかな坂を登って行くと、神社の手前から道の両側にポツポツ石碑が建てられています。
 そして「おっ、これは」という銅像が・・・。

    
 宇垣一成(うがき かずしげ.1868~1956)です。[現]岡山市生まれの陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督等を務めた人物です。また3度首相候補にも名前が上がりましが、これは実現しませんでした。
 ところで私ヌルボ、宇垣一成のおよその経歴はそれなりに知ってはいましたが、岡山出身ということは知りませんでした。そしてここに銅像があることも。こういう思わぬ出会いがあるのも、下調べをキッチリしてなかったから、かな?
 彼が朝鮮総督を務めたのは1931~36年。満州事変、五・一五事件、二・二六事件等々、軍部の策謀やテロ事件が相次いでいた頃です。
 彼は<内鮮融和>を掲げて皇民化政策を行った一方、農村振興運動等を推進しましたが、(ウィキペディアには)「実効性には乏しかった」とあります。
 農村振興運動といえば、想起されるのが朴正熙が推進したセマウル運動のことです。
 大邱師範学校を卒業した朴正熙は1937年満19歳で聞慶(ムンギョン)公立普通学校の教師になりますが、崔吉城広島大名誉教授によると(→コチラや→コチラ)、その学校が宇垣総督による農村振興運動下で運動の中堅人物を養成する指定校であり、朴正熙も運動の指導者養成の教育を担当したことから、あのセマウル運動の淵源はここにあったと「確信するようになった」とのことです。
 ※崔吉城先生はご自身のブログ記事(→コチラ)によると2013年に宇垣の生家を訪ねておられます。(ヌルボは車で近くを通っただけ。) この記事中に、「宇垣が農村で生まれ田舎の小学校の教師をしてから立身出世を遂げ、陸軍士官学校を出て政治家になったことと朴正煕氏が私にはダブって感じられる。」とあるのはなるほど!です。

 おっと、宇垣一成に深入りし過ぎたな。とても1回で全部は書けそうにないので3回に方針変更。

 さて、社殿の方に向かう前に、第一鳥居の前を過ぎて反対側の一角を眺めると慰霊碑が並んでいるのが見えたので行ってみました。その中に・・・。

   
 「比島海軍戦歿者招魂碑」と刻まれています。その横には「夢にまで見し山川に 別れを告げて幾年ぞ 帰心の涙枯れ果て丶 御身は比島に朽ちるとも 帰れ御霊よ古里へ」と、これは戦没者の遺族の思いでしょうか・・・。
 そして私ヌルボが注目したのは、この招魂碑の前方左右に建てられた2つの碑です。

    
 「朝鮮看護隊」と、「台湾高砂隊」の碑。
 <台湾高砂隊>は、太平洋戦争末期、フィリピンやニューギニア等の密林地帯の戦場に投入された高砂義勇隊のことでしょうか。<朝鮮看護隊>の方はよくわかりませんが、従軍看護婦のこと?
 いろいろ検索してみたら、→コチラは全国の護国神社の説明と写真を網羅した<指定護國神社 参拝記録>というサイト中の<岡山縣護國神社>のページで、驚いたことにここの石碑や銅像等すべての写真と碑文(の多く)を網羅しています。
 そこに私ヌルボが見落とした「比島海軍戦歿者招魂碑」裏面の碑文もありました。

  ここに比島の砂を亡き戦友の御霊として永遠に御祭祀します 太平洋戦争にて散華した比島海軍各部隊の戦歿者及び海軍と運命を共にした日本人韓国人中国人比島人の戦歿者の御霊よやすらかに眠り給え
  1980年8月 建立
 ※以下は碑文副碑
 1944年10月20日 約20万の米軍が比島のレイテ島に上陸し ここに苛烈な比島攻防の火蓋が切られました
 我が聯合艦隊が全軍突撃を以って決戦を挑んだ比島沖海戦も 艦隊航空機多数を喪失し惨敗を喫しました
 爾後 米軍は碑等各島嶼に次々上陸 所在の海軍部隊は陸軍と共同して善戦力闘しましたが 圧倒的な火力の相違と無限とも言える彼等の武器弾薬の補給に対し わが方のそれは無に等しく各部隊とも止むなく山中に立て籠もって遊撃戦に転じました。
 撃つに弾丸無く 生命の糧の塩もつき 草根木皮を食みながら歯を食いしばって頑張った将兵は 米軍の急追と風土病や栄養失調で次々と斃れ 万斛の涙を飲んで異境の土となったのであります。
 この碑は 遺族戦友相謀り 比島海軍関係全ての戦歿者(外国人も含む)約20万の御霊を永遠にお祀りするため建立されました
 尚 毎年8月最後の日曜日に招魂祭を行っております  以上
    比島海軍招魂会


 フィリピン戦は大岡昌平の「レイテ戦記」等や江崎誠致の「ルソンの谷間」に垣間見られるように実に悲惨な戦争で、日本軍兵士だけでも陸軍約38万人・海軍約12万人、計約50万人もの死没者は中国戦線をも上回っています。そんなところに(あるいはもっと南方に)送られた台湾や朝鮮の人たちのことは(日本の戦没者とともに)忘れてはならないと思います。
 (上の碑文で、「韓国人中国人比島人の戦歿者の御霊」まで視野に入っているのは終戦後35年経った1980年だからなのでしょうか。年号の西暦表記についても。)

 朝鮮とは直接関係はありませんが、やはり遥か遠い地で故国に帰れず亡くなった人たちの慰霊碑の中に「満蒙開拓 青少年義勇軍之碑」もありました。

    
 以下はその碑文です。

 我等義勇軍は 天祖の宏謨を奉じ 心を一にして邁進し 身を満洲建國の聖業に捧げ 神明に誓って 天皇陛下の 大御心に副ひ奉らんことを期す
 この言葉に従って昭和13年より昭和20年にいたる8年の間に9萬人の少年達が五族協和王道楽土建設の名のもとに満洲に渡っていった 今その事の是非についての論は置き昭和20年8月15日大東亜戦争の終結によって飢餓と悪疫の流行により阿鼻叫喚の巷と化した満洲に少年達は放置され幾多の同志を失った 幸いにして一命を得て故郷に帰ったもの相語らい空しく逝った同志の上を思い三十余年を経て今ここに満蒙開拓青少年義勇軍の碑を建つ
 1980年9月 義勇軍之碑建立委員会


 これらの慰霊碑や銅像を見たり、その碑文を読んだりすると、その背後に実に膨大な物語があることが実感されます。南や北の遠い戦地で亡くなった人とその遺族、あるいは敵として戦った相手、あるいは現地で暮らしていた人たちのこと等々。そしておびただしい悲劇。そしてそれらのことと今の人たちとの関わり・・・。護国神社はそんなことを考えさせてくれる場所です。靖国神社も(以前行った)ソウルの国立墓地も。

   
 左は護国神社の拝殿等。この手前の第二鳥居を入ったすぐ右手に宝物遺品館がありましたが、10時の開館前だったのが残念。→上記のページを見たら「閉まっていたが、お願いすると気持ち良く開けてくれた」とのことで、中の写真もいろいろ。そうだったのか。右は「岡山県全海軍戦歿者慰霊碑」。写真を照らし合わせてみると、案の定海軍旗(旭日旗)は近年(最近?)取り付けられたことがわかります。

 いかんな、全然旅行記録になってないゾ・・・。
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日本に漂着した朝鮮船のこと ①1819年鳥取県琴浦町に漂着した朝鮮人たちを描いた掛け軸が機縁となった日韓友好交流公園(風の丘)

2018-07-09 23:55:51 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 4年前に一緒にソウルの美術館巡りをした元同僚I氏から6月14日メールが届きました。「表参道のスパイラルで、添付ファイルの奴を展示してました。写真が下手で申し訳ありません。」とあり、左のような画像が添付されていました。
 何やら、江戸時代頃(?)と思われる、ハングルの文章に10人あまりの人物が描かれた掛け軸のようです。
 私ヌルボ、そもそも「表参道のスパイラル」からして知りませんでした。検索してみると、スパイラルガーデンというところで6月6~17日「近くへの遠回り―日本・キューバ現代美術展 帰国展」というのが開かれていることはわかりましたが、「キューバと朝鮮はまず関係ないよなー」と思って、不明のままホッタラカシにしてました。 
 ところが2週間後の6月28日横浜スタジアムに連れだって野球観戦に行った折、そのメールの写真のことを言われて思い出し、帰宅後再度見てみたら、この掛け軸の説明文の画像も付いていました。(右) つまり、<鳥取県立図書館>蔵の「漂流朝鮮人之図」ということなのですね。
 また、この展覧会について詳しく記したブログ記事(→コチラ)によると、どうも<漂流>というがカリブ海との共通項とのことのようですが、それでも「?」は残ります・・・。

 ・・・といったことを知って、実は私ヌルボが思い出したことがありました。それは数ヵ月前たまたま目にした「鳥取育英高新聞」の記事。2017年4月発行のタブロイド版最終面の大半を費やした日韓関係についての企画記事です(右)。
 韓国に対する高校生たちの印象を訪ねたアンケートも興味深いですが、その下の日韓友好交流公園という私ヌルボの知らなかった所を訪問取材した記事があったので特に記憶に留めていました。
 日韓友好交流公園(風の丘)は県立鳥取育英高校のある北栄町の西隣の琴浦町の道の駅「ポート赤碕」内の公園で、日韓友好資料館・物産館や日韓交流記念碑等の施設やモニュメントがあります。
※→コチラや→コチラに公園の案内や画像いろいろ。
 この公園が造られた契機となったのが、この新聞にも記されているように過去2回この地に漂着した朝鮮・韓国船乗組員を救助したということでした。その2回というのは、
①1819年江原道平海(ピョンヘ)の商船が漂着。鳥取藩は12人の乗組員を保護し、手厚くもてなして長崎まで送り届け、一行は無事帰還した。
②1963年釜山港を出航した巨済島(コジェド)の漁船が漂着。地元民の募金等により船は修理され、乗組員8人は無事帰還した。
・・・というものです。※琴浦町の位置は下の地図の通り。

 冒頭の絵に関係するのはもちろん①の方です。私ヌルボ、船が漂着というとなんとなく漁船のように思っていましたが、当時の記録によると、「イワシと葉煙草を積んで航行する中、1月12日鳥取藩の八橋(やばせ.←公園の近く)に漂着した」とありますね。「その後鳥取に移送され、江戸幕府の漂流民送還制度によって長崎と対馬を経て、9月15日、釜山に戻ってきた」とも。
 考えてみればこの時代の朝鮮で、このようにハングルと漢字で漂流の経緯や感謝状が書けるという人は漁民ではまずいなかった(?)かも。もしかして商人だとしても、なかなか?) ※絵を描いたのは日本人の絵師です。
 で、文章を書いたその人はというと、この絵の描かれている12人の中央でただ一人冠帽をかぶり長キセルを持っている安義基(アン・ウィギ.안의기)という人物。


 次にこの人物図の上のハングルの文を、「丶」(アレア)を「ㅏ」に置き換えて打ち直し、訳してみます。
   죠션국강원도 평해고을 열두 사람니 기모연초 칠일 대풍 뉴래
   (朝鮮国江原道 平海コウル(郡)十二 人が 己卯年初 七日 大風流来)

 最初の「朝鮮」からして今と違う書き方。「열두 사람」ではなく、「열두 사람」となっているのは昔の言い方なのかな?? その他の表記にも気になる点はありますが・・・。
※鳥取県立図書館のサイト内で、謝恩状の日本語訳と「漂流朝鮮人之図」の詳細画像を見ることができます。→コチラ

 ところで、この1819年の鳥取への朝鮮船漂着という出来事自体はとくにめずらしいことではありません。1618~1872年朝鮮人の日本漂着は971件9770人にものぼります。(朝鮮半島への日本船漂着は92件1235人で、件数で10分の1、人数では8分の1と、かなり少ない。 ※池内敏「薩摩藩士朝鮮漂流日記」(講談社選書メチエ)
 その中でこの1819年の事例が注目され、公園まで造られたのは、次のような理由が考えられます。
①漂流民の絵やハングルまで入った「漂流朝鮮人之図」が人々の関心を引きそうである。
②「日韓友好」にふさわしい、なかなか感動的なネタである。(日本人として「気持ち良い」。)
③その点に注目した片山善博知事が環太平洋交流事業の一環として注目し、安義基の子孫探し等を経て公園開設、さらに種々の交流まで積極的に推進した。


 ここまで読んで、「なかなかいい話じゃないか」と思った人はふつうにいらっしゃるでしょう。私ヌルボ、それをけなすつもりは全然ありません。ましてや、たとえば高校生たちの韓国・朝鮮理解を深めたり、友好のきっかけとなるとは、片山知事の業績として評価に値するといえるでしょう。
 しかし光もあれば陰もあるのが世の常。数多くの漂流の事例の中には悲惨なものや腹立たしいものも多々あります。(日本で救助され保護されても、恩を仇で返すように行く先々で乱暴を繰り返した朝鮮人漂流民のこととか。)
 また、考えてみれば、昨年は北朝鮮の木造船が約100隻も漂着しましたが、今の日本人のどれほどが200年前の琴浦の人たちのような「温情」を北朝鮮の漁民に対して持っているのでしょうね? 朝鮮有事の場合、朝鮮人たちが日本に押し寄せてきたら武力で追い払えと主張している人たちもいますが、ごく少数と見ていいのかな? どうかな?
 韓国では済州島にノービザでやってきたイエメンからの難民申請者の件が大きな問題になっていますが、これも関係があるかも・・・。日本にとっても無関係とは言ってられません。
 光と陰といえば、片山善博元知事は韓国語ができるとのことですが(1984年の初の訪韓が契機。)、彼と韓国・北朝鮮をめぐるいろいろについては、ネット上であれこれ批判的に取り上げられてもきたのですね。(「片山善博 韓国」で検索してみてください。)

 ・・・と、やっとここまで書き上げたところで、この「漂流朝鮮人之図」の説明や、漂流民たちの鳥取での日々と当地の人たちの接し方、その後の彼らの帰途、そして1990年県立図書館に長く死蔵されていたこの掛け軸の<再発見>から安義基の子孫探し、鳥取県と江原道との交流等々に至るまで細かく、かつ読みやすく書かれている本は片山善博・剱持佳苗「地域間交流が外交を変える」(光文社新書)であることが判明。ありゃりゃ、です。漂流民の名前のハングル表記(原表記・現表記とも)が12人全員分載っていますが、李さんはやはりではなくになってます。それから片山氏は、上述の安義基の「干鰯を商う商人」という供述に疑義を唱えてますね。「密貿易者だったのでは!?」と推察していますが、はたして・・・。

 今回は一応ここで一区切り。続きは現代の話にするか、同じ1819年に朝鮮半島西岸に漂着した薩摩藩士の話にするか、また別のテーマにするか未定です。


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尹東柱の<聖地探訪>① 宇治川に懸かる天ヶ瀬吊り橋で撮られた写真をめぐる物語

2018-06-24 19:06:55 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
     

 3月8~10日に京都に行ってからもう3ヵ月以上経ちました。
 旅の第1目的は9日の大阪アジアン映画祭で韓国映画「朴烈 植民地からのアナキスト」を観ること、2番目は京都鉄道博物館の見学でした。残りの時間でどこか行ける所は?と考えて、思い出したのが昨年10月、尹東柱の記念碑が宇治川の新白虹(はっこう)橋のたもとに設置され、除幕式が行われたという毎日新聞の記事でした。(→コチラ。)
 また、除幕式の3日前の聯合ニュースの記事(→コチラ)には、記念碑設置の機縁となった1枚の写真が載ってします。それが上左の画像。 記事にあるように、宇治川の天ヶ瀬吊り橋で1943年初夏に撮った尹東柱(前列左から2人目)の生前最後の写真です。そして右の画像は、今回私ヌルボが撮った写真です。

 9日午前10時30分頃JR宇治駅に降り立った私ヌルボ、案内所で訊くと。吊り橋まで「歩くと50分くらいかかりますよ」とのことだったので、タクシーで新白虹橋まで行きました。そこに建てられた記念碑のことはいずれ書くことにして、約300m川の下手(西)にある天ヶ瀬吊り橋のことについてまず書くことにします。
 長さ50mを超えるこの吊り橋ができたのは1942年。翌43年に尹東柱たち同志社大学文学部英文学科の学生10人がここにピクニックにやって来たのも、平等院から遠くない所の、できて間もない観光スポットとして注目したからかもしれません。
 私ヌルボ、現地を訪れるまでの予備知識といえば、上述の新聞記事だけでした。したがって、行ってみて初めて知ったこと、その後本を読んだりして知ったことがたくさんあります。

 その「行ってみて初めて知ったこと」とは、この現在の吊り橋は1943年当時のものとは違うということです。戦後1953年9月、台風13号は宇治川の堤防を壊し、多くの被害をもたらしましたが、その時に1度流失。その後架けられた橋は老朽化のため1998年に改修され、今に至るとのことです。上の2枚の写真を比べると、吊り橋のワイヤーロープや背後の山の稜線から、同じ橋のように思ってしまいますね。

    
 橋のたもとには<東海自然歩道>という標柱がありました。(左画像。) また、下流方向に少し行ってふり返ると、吊り橋の向こうに白虹橋が見えます。(右画像。)

 そして、「その後本を読んだりして知ったこと」は、この学生たちの写真の来歴と、写真が撮られた前後の尹東柱のことです。
 この写真については、最初、尹東柱の評伝の決定版というべき宋友恵「空と風と星の詩人尹東柱評伝」(藤原書店.2009)に書かれているだろうと思って図書館で見てみたら全然記述なし。載っていたのは多胡吉郎「生命の詩人・尹東柱」(影書房.2017)でした。
 多胡さんは1995年当時NHKのディレクターとして韓国のKBSと共同でNHKスペシャル「空と風と星と詩 尹東柱・日本統治下の青春と死」と題した番組を制作しました。この本は、その時の取材記録にその後知り得た情報を加え、昨2017年2月刊行されました。(その翌月神保町のチェッコリで多胡さんのトークイベントがあったことは今知りました。残念。)
 さて、その番組制作に際して、多胡さんは1994年の春~初夏、尹東柱と同時期に立教大学(1942年4~10月)と同志社大学(42年10月~43年7月)に在学していた可能性のある人たちに卒業者名簿をたよりに片っ端から電話をかけていったのだそうです。
 平沼東柱(ひらぬまとうちゅう)を知りませんか? 朝鮮からの留学生、平沼さんを憶えていらっしゃいませんか?」 ※日本留学に際し必須とされたため、尹東柱は(留学の2年前に)尹氏一門が創氏改名で決めていた「平沼」という姓を日本で用いていた。
 ・・・という質問に「記憶がない」「知らない」という返事ばかり続く中、「平沼さんですね。はい、覚えています。朝鮮から来ていた平沼さんのこと」という声が返ってきたとは! 尹東柱と同じ同志社大の英語英文科にいたMさん(京都在住)で、彼女からは今も親交が続いている同窓のKさん(北鎌倉在住)の消息も得ることができ、その後「平沼さんについてよく覚えている」というお二方を訪問取材したとのことです。
 お二方とも、朝鮮からの留学生であることはわかってはいたが、尹東柱(ユン・ドンジュ)という本名はおろか、戦後の韓国で国民的詩人になっていることは「まるで知らなかった」そうです。
 現在でも尹東柱を知っている日本人は100人中5人もいないでしょう。いや、1人いるでしょうか? 番組放映時の1994年だとなおさら・・・。(この番組はNHKスベシャル中歴代下から2番目の低視聴率だったとか・・・。)
 そして、このKさんの自宅にあった古いアルバムから出てきたのが冒頭の天ヶ瀬吊り橋で撮った写真だったのです。尹東柱の右隣がMさんで、その右がKさん。当初はお二人とも撮った場所の記憶はなかったそうですが、番組終了後の調べで天ヶ瀬吊り橋とわかり、Mさんも現地に行ったりしているうちに記憶が次第に蘇ってきます。つまり、その日は英語英文科の学生たちの1日遠足で、宇治駅→平等院と歩き、さらに吊り橋まで行って河原で飯盒炊爨をしたそうです。
 で、この遠足の目的というのが「故郷に帰ることを決めた「平沼さん」の送別」だったとのこと。「だからいつもは控えめな尹東柱が写真の中央に写っているわけなのだ」というのは多胡さんのナットクの解釈です。
 Kさんの記憶によると、東柱は昼食の後級友たちから請われるままに河原で「アリラン」を朝鮮語で歌ったといいます。
 この1日遠足の時期を、多胡さんは服装等から「おそらく5月から6月のことだった」と推定しています。
 この時、故郷(「満州国」北間島の龍井)に帰ることを決めていた東柱ですが、約1ヵ月後の7月14日逮捕・拘禁されます。帰郷のため用意していた切符は使われることなく、朝鮮まで一緒に帰省する約束をしていた同じ同志社大の留学生張聖彦さんは1人で帰ることになります。
 44年3月京都地裁で治安維持法違反により懲役2年の刑を言い渡された東柱は福岡刑務所に送られ、45年2月16日獄中で死亡します。
 このようなその後の奈落に落ちるような人生の暗転を思うと、この写真が撮られたピクニックの1日は彼にとってほとんど最後の楽しい思い出だったかもしれません。
 それはこの写真に写っている他の学生たちも同様で、Mさんの家に残る男子学生の学徒出陣に際しての寄せ書きの中には、宇治へのピクニックがいかに楽しかったかを回想する文章もつづられているそうです。

 多胡吉郎さんの絨毯爆撃的な電話取材作戦がほとんど奇跡的に功を奏して、上述のように尹東柱についての新情報が得られるとともに、MさんとKさんにとっても人生に新たな「物語」が加わり、またそのゆかりで宇治市に詩碑が建てられてより多くの人に尹東柱のことが知られていくというこの20年余の経緯が、この<聖地探訪>を経ていろいろわかりました。

 「生命の詩人・尹東柱」という本は、この写真の件以外にも、尹東柱の人生や作品等の中の「謎」について、実に細かなところまで独断を排して実証的に探求し、多くの関係者に会って話を訊いたりして真実に迫っています。ちょうど推理小説を読むような感じで引き込まれます
 この本は今年5月韓国でも翻訳書「생명의 시인 윤동주」が刊行され、新聞等で紹介記事も書かれました。・・・が、読者の反応は必ずしも良いとはいえません。というのは、代表的作品「序詩」の解釈や、福岡刑務所での死因をめぐって等の論点ゆえなのですが、それについてはまたいずれ・・・。
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最近の縁日に、韓国フードがいろいろ浸透している! チャプチェとかトッポキとか・・・

2018-06-05 14:01:34 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 縁日が大好きという人、子供や若者でなくてもたくさんいますね。私ヌルボの場合、もちろん嫌いじゃないけど、とくに好きというほどでもなく、「○○が食べたい!」という屋台の定番の食べ物もないということもあって、2、3年に1度行く程度ですかねー。
 ところが、たまたま昨年9月、相鉄線平沼橋駅近くにある水天宮平沼神社の縁日に行き、そして一昨日(6月3日)横浜西口から徒歩約15分の浅間神社の例大祭の縁日に行って、認識を新たにしました。
 つまり、屋台で売っているモノを見ると、お好み焼きや焼きそば等々、昔からの定番のものもあれば、初めて見たというものもけっこうあるのですね。また定番の1つのたこ焼きにしても、タコがずいぶん大きくなってるようだし、・・・って6個で500円だからなー。私ヌルボ、連れが買ったのを100円出して1個分けてもらっただけです、トホホ。
 で、その昔はなかったゾというモノの中に、韓国の食べ物がいくつかあることに気づきました。もしかしたら、「今頃気がついたか!」と笑われるかもしれませんが。年配者の場合、孫を連れて縁日に行くという人以外は世の中の変化には鈍感になりがちなもので・・・。(お察し下さい。けほけほ。)
 では、まず昨年9月5日水天宮で撮った画像から。

    


 いや、屋台の写真じゃないし、韓国関係でもないんですけどね。水天宮平沼神社の例大祭では、境内にある神楽殿で神楽が催されるのです。私ヌルボ、それは知っていましたが、日時までは未確認のまま行ったら、たまたまその始まる少し前。ラッキーなことに、「天孫降臨」と題した演目でしたが、通して観ることができました。サルタヒコやアメノウズメが登場します。(深入りはしません。) 神楽殿では、直前までフラダンスもやってたようです。(→コチラ参照。)
     

 はい、これがチャプチェの屋台。2枚とも同じ店です。ちゃんとハングルで「잡채」と書かれてます。漢字で書くと「雑菜」というのはどれくらい知られているのかな? この画像、肝心のチャプチェが写ってないのが残念。いや、それ以前に買って食べて、話をしてみるべきでしたね。ま、それは次の機会に。

 先を急ぎます。浅間神社の例大祭です。

     

 たくさんの車が行き来する浅間下交差点を神輿が進みます。
 その浅間下から西方向へ、松原商店街入口辺りまで約800mに400軒もの屋台が立ち並んでいます。

    

 最初に目に入ったのが「チーズハットグ(치즈핫도그)」の店。(上画像) 「ハットグ(핫도그)」というのは「ホットドッグ」のことですが、韓国では、日本でふつうアメリカンドッグと言っている、串に刺して油で揚げたものも含めて「ハットグ」と呼んでいます。韓国人はトロ~ッと糸を引くチーズが好きで、この屋台の看板にも「のび~る」とあるように、それがウリなんでしょうね。また韓国ではオムレツ等々にはケチャップをジグザグに何往復も塗るのがふつうのようで、ハットグの場合はさらにカラシも同様に塗りたくるため、(私ヌルボの目には)下品の三重奏となるわけです。下品でも美味しいものは好んで食べますが、このチーズドッグは食欲がわかず写真撮影だけでスルー。

    

 「のび~る」でもう1つあったのが上左の「のび~るアイス」。その向こうの屋台の「ドネルケバブ」と同様、こちらはトルコです。国際色が色濃くなっていることが如実にうかがわれます。これからは東南アジア系が増えそう?となんななく思いました。一方、中国系がほとんどない(?)のはなぜ?
 上右は韓国人が大好きなトッポキ(떡볶이)。直訳すると「餅炒め」なんですけどね。それにしても、なんであんなに好きなんでしょうねー?(チャジャンミョンも・・・。) って、味の好みにリクツはないのはわかってるんだけど。

    

 そもそも、この記事を書くことになった直接的な契機はコレ!です。実は私ヌルボ、初めて見ました。ウェブ検索してて、たまたま行き当たったのが→コチラのブログ記事。2017年の初詣の縁日の屋台で「韓国旅行中にたくさん見かけるやーつ」を発見したということで、この「電球ソーダ(전구소다)」を写真入りで紹介してました。
 上右の画像は別の所のものですが、なるほど「韓国からやってきた!」とかかれています。浅間神社の屋台はどうだったか、ちゃんと見てなかったです。
 その後の調べでは、どうも2016年4月の→コチラの記事(韓国語)が最初ではないかと思いますが、その後あっという間に日本にまで広まったのですね。冒頭で「今頃気がついたか!」と思われるかも、と書いたのは具体的にはこれのことです。
 電球(&ストローも)が光るのがミソだし、カラフルで「インスタ映えする」というのも流行の大きな理由になったとのこと。
 →コチラの記事で紹介されている原宿電気商会という電球ソーダ専門店が神宮前にオープンしたのが2017年5月とか。けっこうお客さんが並んでるみたいです。それにしても、ホントにそれぞれの業界の皆さんの反応は早いです。(若者向け飲食店業界、縁日屋台業界・・・。)
 その原宿電気商会のドリンクメニューは、必ずしも炭酸入りでもないようですが、10数種類あって色とりどり。ただ、韓国にはある五味子茶(オミジャチャ)ソーダはないようです。

    

 上左は韓国の電球ソーダ。今やコンビニでも売っているとか。(上右)

 そして、浅間神社の屋台で電球ソーダと一緒に売られていたのが下左の、これまたユニークな容器に入ったジュースです。

    

 これも韓国由来です。右は仁川の屋台です。日本では「点滴ジュース」といいますが、韓国では「링거음료(リンガウムニョ)」すなわち「リンゲル飲料」です。
 ところが、最近(5月26日)のニュース(→コチラ.韓国語)によると、<블러드 쪽쪽>(ブラッド・チュクチュク)という商品名の点滴ジュースから規定をはるかに超えた細菌が検出されたことと、医療機器法違反のため回収措置がとられるとか。
 いやあ、この形態はたしかにちょっとヤバい感じはします。日本では大丈夫?

 話を元に戻して、韓国由来の縁日屋台フードですが、お祭り屋台の人気メニューをなんと200も50音順にリストアップした→コチラの記事を参照したら、上記以外にもチヂミと(ヌルボの好きな)ホットクが入ってました。この2つはナットクです。まだ食べたことがないという人にはぜひオススメしたいと思います。
 トッポキ(トッポッキ)、ハットグ、ホットク等々、韓国語になじみのない皆さんにはけっこう紛らわしいですね。

 ずいぶん長くなってしまいました。(いつものことですが。) また9月には水天宮平沼神社例大祭、11月には金刀比羅大鷲神社の酉の市に行って新情報を拾ってきます。
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<地理のテスト形式> 日韓の姉妹都市(現在163組) その由縁は?

2017-09-28 22:41:31 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
2017年9月現在、韓国と姉妹提携をしている自治体(都道府県・市区・町村)は合計163あります。おそらく、おおかたの日本人はその多さに驚くのでは?
 国別の多い順に10位までみると、1位=アメリカ(449) 2位=中国(364) 3位=韓国(163) 4位=オーストラリア(108) 5位=カナダ(70) 6位=ブラジル(57) 7位=ドイツ(53) 8位=フランス(52) 9位=ロシア(45) 10位=ニュージーランド(43) ※台湾は13位で22。

 こうした数をみると、たしかに韓国は多いですね。姉妹都市が1つもない県は岩手・福島・群馬・栃木・長野・三重・徳島・沖縄の8県だけです。
 ちなみに、北朝鮮との姉妹都市はありません。が、以前はありました。水木しげるの出身地として知られる鳥取県境港市で、元山市と1992~2006年姉妹都市でした。1978年8月北朝鮮から初の貨物船(例の)万景峰号が入港したり、以後も多くの朝鮮船舶が往来して、2003年には延べ408隻が北朝鮮のカニなどを届け、中古の自転車やタイヤ、冷蔵庫などを朝鮮に持ち帰っていたとのことです。その姉妹都市提携に終止符が打たれたのはもちろん日朝関係の悪化。この件は深入りすると長くなりそうなので、参考として→コチラコチラの記事を紹介するに止めます。

 韓国との姉妹提携がなぜこんなに多いのか? ・・・は問うまでもありません。昔からさまざまな交流があり、現在もすぐ行き来できるという利点を生かして、たがいに共通点を持つ自治体間で知識・技術その他有益な諸情報のやりとりをしているということです。

 163の事例の中で、日韓の両都市の名前を見ただけでその提携理由がわかるものもあります。たとえば・・・
  東京都と、ソウル特別市 ・・・ 首都
   ・下関市(山口県)と、釜山広域市 ・・・ 関釜連絡船
   ・奈良市と、慶州市 ・・・ 古都。(慶州は新羅の都)
 ・・・といったところ。

 この記事のネタ元は<自治体国際化協会>のサイト中の→コチラや→コチラなどのページです。個別に、<提携の動機及び経過>等についても記されています。
 それらを読むと、たまたまその市に住んでいた相手国の人の出身地だったことが機縁で、とか、議員が訪韓した時に会った人の縁で等々のわりといいかげんな(?)縁で姉妹都市になった例も多数ありますが、第三者にとっては意外な共通点を有する町同士の結びつきもあり、なかなか興味深いものがあります。
 たとえば、東京では5つの区がソウル市の区と姉妹提携していますが、荒川区だけは済州市と姉妹提携をしています。その理由は?と問うと、私ヌルボの友人の1人はノーヒントで即答したのでちょっと驚きました。「区内に済州島出身者が多く在住しているから」なのだそうです。

 今回は163の事例中から地理や歴史の勉強にもなりそうな20の事例をピックアップして、その共通点は何か?をテスト問題風にしてみました。難易度は・・・よくわかりません。日本の自治体名だけを見て見当がつきそうなものが8つほどはあるので、半分できれば上出来だと思います。韓国側で日本人に知られているのは、浦項(ポハン)、平昌(ピョンチャン)、あとはちょっと離れて蔚山(ウルサン)、利川(イチョン)といったとこですかねー?

 ※正解は( )の部分を範囲指定すれば現れます。


日本の自治体韓国の自治体正解[選択肢]姉妹都市成立の主な理由
瀬戸市(愛知県)利川市(京畿道)()=2002FIFAワールドカップの時の開催地としては最小の都市
=[日]旧帝国海軍で現在は海上自衛隊の拠点。[韓]海軍の軍港都市。<海軍桜>の名所。(2010年合併鎮海市から改称)。
=[日]加藤清正のお膝元。[韓]清正が築いた倭城がある。
=[日]氷ノ山スキー場と、[韓]竜平スキー場がある。
=[日]史跡「伝王仁墓」の所在地。[韓]王仁博士の生誕地といわれる。
=大製鉄所を中心とした臨海工業都市。
=伝統行事として闘牛が行われている。
=[日]江田船山古墳の所在地。[韓]武寧王陵の所在地。出土品(履・耳飾など)が類似。
=カニの特産地。
=伝統的な陶磁器の生産地。
=炭鉱都市。
=[日]英彦山の開闢の伝説の地。[韓]その伝説と共通性のある韓民族の壇君神話に関係がある魔尼山の所在地。
=[日]朝鮮通信使の寄港地。(2004年牛窓町が合併により市に。) [韓]江戸初期朝鮮通信使の礎を築いた松雲大師の生誕地。
=茶の特産地。
=国の無形文化財の大綱引きが行われている。
=梨の特産地。
=[日]孤児たち3千人を育てた田内千鶴子さんの出身地。[韓]孤児院の所在地。
=[日]白村江の戦(663年)百済に多数の援軍を送った地。[韓]当時の百済の本拠地。
=[日]日本の統治期に朝鮮の植林に携わりながら朝鮮の陶磁器を研究紹介した浅川巧の生地。[韓]浅川巧が訪れていた林業試験場の出張所があった所。
=干潟で知られ、[日]ガタリンピック、[韓]マッドリンピックというイベントを開催。
倉吉市(鳥取県)羅州市(全羅南道)()
越前町(福井県)盈徳郡(慶尚北道)()
静岡県忠清南道()
瀬戸内市(岡山県)密陽市(慶尚南道)()
赤平市(北海道)三陟市(江原道)()
枚方市(大阪府)霊岩郡(全羅南道)()
添田町(福岡県)仁川広域市江華郡()
狭山市(埼玉県)統営市(慶尚南道)()
福山市(広島県)浦項市(慶尚北道)()
熊本市(熊本県)蔚山広域市()
大仙市(秋田県)唐津市(全羅南道)()
呉市(広島県)昌原市(慶尚南道)()
高知県全羅南道()
若桜町(鳥取県)平昌郡(江原道)()
北杜市(山梨県)抱川市(京畿道)()
鹿島市(佐賀県)高興郡(全羅南道)()
和水町(熊本県)公州市(忠清南道)()
鹿嶋市(茨城県)西帰浦市(済州南道)()
徳之島3町(鹿児島県)清道郡(慶尚北道)()
 
 
【付記】
①利川市は、瀬戸市の他に、信楽焼で知られる甲賀市(滋賀県)とも姉妹提携している。また波佐見焼の波佐見町(長崎)は高麗青磁発祥の地の康津郡(全羅南道)と姉妹提携している。
④この件については、先日(2017年9月23日)の毎日新聞(東京)の<日韓つなぐ自治体交流 川勝平太・静岡県知事と李俊揆・駐日韓国大使>という記事(→コチラ)で知りました。同県には朝鮮通信使ゆかりの清見寺もあり、日韓の交流・親善の場とされている。
⑤牛窓に伝わる唐子踊りは朝鮮通信使伝来とされている。
⑦私ヌルボ、2015年11月枚方市でちょうど交流行事が開かれた日に行きました。→関係記事
⑩[日]JFEスチール西日本製鉄所と、[韓]POSCO。
⑪明・朝鮮連合軍(5万5千)が日本の籠城軍(1万)を取り囲んだ絵はよく知られる(?)。(→コチラ参照。)
薩摩川内市(鹿児島県)と、昌寧郡(慶尚南道)も綱引きの縁で姉妹提携をしている。
⑭「木浦の母」とよばれた田内千鶴子(1912~68)の伝記映画に、日韓合作の「愛の黙示録」(1997.石田ゆり主演)がある。
⑮[韓]もちろん2018冬季五輪の開催地。

 全体的に、特産物関係が多いですね。上記以外では、ニンニクの特産地という田子町(青森県)瑞山市(忠清南道)というのもありました。
 歴史や伝説の結びつきも、他にいくつかありました。7世紀白村江の戦の後百済から亡命した鬼室集斯を祠る鬼室神社がある日野町(滋賀県)と、鬼室集斯の父の鬼室福信を祠る恩山別神堂がある扶余郡恩山面(忠清南道)との姉妹提携等々。
また、産業等の現代的な共通項もあります。玄海町(佐賀県)釜山広域市機張郡、そして御前崎市(静岡県)蔚珍郡(慶尚北道)。これらはいずれも<原発の町>です。

【蛇足ながら・・・】
 以下は私ヌルボの体験的日韓姉妹都市の話です。
・10数年前だったか、川崎市富川市の間の高校生交流の催しにちょっと関わったことがありました。その少し前に川崎市と富川市が姉妹都市ということを知ってなるほどと思いました。富川は、首都の大都市と、大きな港町の間のベッドタウンです。すると横浜市と仁川市も姉妹都市なのかなと思ったら少し格下(?)の友好都市。仁川市の姉妹都市は神戸市でした。(空港がらみで仁川市と成田市も姉妹都市です。成田市はお寺(新勝寺)がらみで内蔵寺のある井邑市とも姉妹都市になっています。)
・2008年全州に行った時、日本語の堪能な市の職員のBさんという方と話す機会があり、全州が金沢と姉妹都市だと聞きました。ともに歴史・文化の伝統がある地方の中心都市で、川崎-富川以上にナットクしました。
・今年(2017年)7月、友人から声をかけられ、山梨県北杜市浅川伯教・巧兄弟資料館に行ってきました。こじんまりとしていますが、展示内容はとても密度の濃い資料館で、館長さんからもいろんなお話を聞くことができて幸運でした。その時に、北杜市の姉妹都市とその経緯等についても知りました。それが私ヌルボが今回の記事を書いた直接的な契機です。 ※今月初めのソウル旅行で浅川巧の墓のある忘憂里共同墓地を訪ねたのもそれがきっかけです。(→関係記事。)
・数十年前の学生時代に行った石塔寺(いしどうじ)にある石造三重塔(阿育王塔)の縁で、所在地の東近江市(滋賀県)が、よく似た長蝦里三層石塔のある扶余郡場岩面(忠清南道)と姉妹提携していることは今知りました。
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在日コリアンの8割は韓国語(朝鮮語)ができない。民族意識が強くない人も多数(推定)

2017-02-25 17:16:17 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 最初に蛇足から書く記事もめずらしいかも。
 その蛇足です。(笑) この記事は在日コリアンの擁護とか、あるいは非難とかを意図して書いたものではありません。早トチリしないようお願いします。

 日本の統治時代に日本にやってきた在日朝鮮人の生年を1895~1925年とすると現在存命の人でも90歳以上で、家族の中ではおそらくひいおじいさんとひいおばあさん。すると現在の一般的な在日の3世代家族の場合は2~4世か、あるいはすでに3~5世に移行しつつあるといったところでしょうか。
 1945年の大戦終結からもすでに70年。1世・2世が主体だった在日社会も大きく変わってきたのも、そのことの良し悪しは別にして当然といえば至極当然のことです。
 そして在日朝鮮人の家族のあり方も個々人の生き方・考え方もずいぶん多様化してきました。
 ところが、ヘイトスピーチ関係の人たちの言説をはじめとして、そんな多様化している在日韓国・朝鮮人を一くくりにして「在日は日本から出ていけ」等々と呼ばわるとはなんとも大雑把な物言いであることか。彼らのアタマの中で在日韓国・朝鮮人はどういうふうに認識されているのでしょうか? (彼らだけでなく、世間一般の「在日のイメージ」もどれだけ現実にあっているか疑問ですが・・・。)
 「在日特権」をとくに問題にしているということがいわゆる<オールドカマー>の特別永住権であれば、彼らが日本国籍をとれば問題解決? いや、日本国籍を取得しても韓国や北朝鮮を利するような投票行動をする(??)からダメ?
 しかし、今の多くの在日コリアンはそんなにまで<祖国>に対する忠誠心、いや民族的アイデンティティつまり<祖国>という認識ももってないでしょ。
 たとえば日系アメリカ人3世に「日本人の血を引いているのに日本語がしゃべれないのか!?」などと咎めだてするのがトンチンカンなのに、まだ在日韓国人に同様に非難する本国の韓国人はいるのでしょうか?(これは、いるでしょうね。)
 また、日系アメリカ人3世が日本語がしゃべれないということを「まあそんなものだろう」とたいていの日本人は受けとめるでしょうが、在日韓国人3世が韓国語をしゃべれないと聞くと、相当多くの日本人は意外に思うとしたら、それもちょっとヘンなのでは?

 私ヌルボとしては、議論しあう前に、いや考える前に、まず在日コリアンたちの韓国・朝鮮及び日本との文化的・精神的・政治的距離(親近感、拒否感等)についての現状況をまず知る必要がある、と思い図書館でちょっと資料を探してみました。
 ところが、最近の手頃な資料は見つからず。
 一応目を通したのは、福岡安則「在日韓国朝鮮人」(中公新書.1993)と、福岡安則・金明秀「在日韓国人青年の生活と意識」(東京大学出版会.1997)の2冊。ただ、1993年の調査に基づく本で、20年以上も経った現在は相当状況も変わっているはずですが、その点を差し引いても意味のある内容だと思うので、以下ピックアップして紹介します。
 ※紫色部分が上記の本の内容。黒色部分は私ヌルボの補足や感想等です。
 ※被調査者の母集団は「日本生まれで韓国籍の18~30歳」の人たち。「父親は、1世が21%、2世が75%。母親は1世が11%、2世が81%」です。

○アイデンティティを分類すると・・・ ※数字は%。( )の数字は複数回答可の場合。
 ・葛藤回避型23.1(46.1)・・・民族や国籍等のことは考えない。考えたくない。 
 ・個人志向型22.8(44.5)・・・民族や国籍等よりも、個人としての能力や仕事、社会的地位等に価値を見出す。
 ・共生志向型19.1(51.5)・・・日本人や、他の在留外国人と共に助け合いつつ、よりよい社会をめざす。
 ・同胞志向型13.4(37.4)・・・在日同士の同志的人間関係を重視する。「祖国」の人たちとの違いを認識しているが、コリアンとしての意識は強く、帰化は考えない。
 ・帰化志向型13.4(25.6)・・・日本国籍を取得し、「日本人」となることを志向する。
 ・祖国志向型2.0(6.3)・・・北朝鮮、または韓国、または統一朝鮮を「祖国」と考える。
 ・葛藤型2.6(4.9)・・・上記中の複数の価値観の間で悩む。

 嫌韓派の人たちのイメージに合う在日像は「祖国志向型」ですよね。
 その特性は次のように説明されています。
 祖国志向にとってシンボルとなる言葉は在外公民。中心課題は祖国の発展・祖国の統一に寄与すること。地方参政権等諸権利の要求は「内政干渉になる」、「同化を促進する」という理由で批判的。差別に対しても裁判に訴えるよりも同胞間で助け合う。祖国も自分の国も「一つの朝鮮」。生まれ育った日本への愛着心は薄い。権威主義的伝統主義をきわめて強く内面化していて、儒教的態度も自己確信性ももっとも強い。
 しかし、この「祖国志向型」は90年代でもごくわずかになっています。漫画「嫌韓流」に登場するような「過激な」在日像は相当に例外的な在日像といえそうです。

○在日コリアンの韓国語(朝鮮語)能力は?
[A]読解
 ・まったく理解できない68.8
 ・ハングルも少ししかできない11.1
 ・ハングルは読めるが、理解はできない4.2
 ・辞書を使っても少ししか理解できない4.2
 ・・・上記の合計は88.3。ということは、「ふつうに読める」というレベルの人は約1割ということか?
[B]会話
 ・まったくできない40.4
 ・いくつかの単語しか知らない30.4
 ・いくつかのあいさつの言葉しか知らない14.6
 ・会話が母国語でなされることがあった9.2

 ・・・1990年代、家族内で母国語で会話している在日はすでに1割を切っていたということです。こういう数字を見ると、センター試験の外国語に「韓国語」を入れていることを「在日特権」というのはトンチンカンだと思います。「フランス語」「ドイツ語」「中国語」等とともに、英語と同等の外国語科目として設定すること自体の問題はあると思いますが・・・。
 なお、・母国語はまったく耳にしたことがない21.8という数字もあります。

○「金海金氏」、「密陽朴氏」といった韓国(朝鮮)独自の一族の「本貫」を知っているか?
 ・知っている35.3% 知らない64.7%
 ・・・祭祀(チェサ)つまり日本でいうところの先祖に対する法事はわりと行われているようですけどね。

○「差別」された経験と、意識
[A]被差別体験の有無
 ・とてもよくある2.5
 ・よくある 6.5
 ・少しはある32.5
 ・ほとんどない28.0
 ・まったくない30.5
[B]偏見・差別の認知の程度
 ・とてもよくある4.4
 ・よくある15.3
 ・少しはある45.0
 ・ほとんどない24.1
 ・まったくない11.2
[C]現在の民族的劣等感
 ・とてもよくある3.9
 ・よくある7.5
 ・ときどきある23.6
 ・ほとんどない32.2
 ・まったくない32.7

 ・・・いわゆる「反日」派が言うほどの「深刻な差別」は昔のことかも。しかし決して「差別はなくなった」とは言えない、というのがふつうの見方では? 一方、北朝鮮の教科書には「倭奴(ウェノム)」という差別語がふつうに載っていますが、これについても左右の政治的立場を超えて批判しなければ、というのがヌルボの主張。
 なお「一番心に残る被差別体験の時期」については、9~12歳(小学校高学年)30.1と、19歳以上21.6が多いのは、「マイノリティが仲間はずれにされやすい時期」と、「就職をはじめ、実社会での現実的な差別の壁に直面する時期」ということでしょうか。

○土地・国等に対する愛着度[複数回答可] ※「非常に感じる+どちらかといえば感じる」の%。右の[ ]は、「どちらかといえば感じない+まったく感じない」の%。
 ・生育地 77.4 [8.0]
 ・日本 63.2 [6.7]
 ・在日韓国・朝鮮人 51.8 [16.8]
 ・韓国38.2 [24.3]
 ・朝鮮9.2 [56.5]
 ・統一祖国25.9 [34.8]

 ・・・端的に、「韓国(朝鮮)」よりも「日本」や「在日」であることに愛着を感じている人の方がずっと多いのです。やっぱり「生まれたら、そこがふるさと」(→関連過去記事)なのでしょうか? 

○本名と通名(日本名)について
[A]どちらを用いているか? ※[ ]は両親の場合
 ・まったく通名だけ35.3[21.5]
 ・ほとんど通名 30.3[35.4]
 ・通名の方が本名より多い 12.6[19.8]
 ・同じくらいに使い分けている 5.7[14.3]
 ・本名の方が通名より多い 3.8[2.3]
 ・ほとんど本名 6.0[3.6]
 ・まったく本名だけ6.4[3.1]
 ・・・8割ほどは日本名をふつう用いている。両親の世代で「使い分けている」という人が多いのは、「日本社会での民族差別が激しかった」ことと、「民族意識が強かった」という背景があったから、と思います。一方、「ほとんど本名」「まったく本名だけ」という人が増えたのは、学校名での本名宣言運動で自身の民族アイデンティティを回復した人が相当数いたことと、「本名だけ」でも生活を続けられる程度に昔に比べると差別が減ったということか。
[B]「<本名を名乗ること>は<本当の自分らしく生きること>」論に対する賛否は?
 ・そう思う 10.4
 ・どちらかといえばそう思う 10.2
 ・どちらともいえない 33.2
 ・どちらかといえばそう思わない 15.5
 ・そう思わない 30.7
[C]「差別回避のための通名使用」論(=「差別されないためには、通名を使わざるをえない」)に対する賛否は?
 ・そう思う 10.2
 ・どちらかといえばそう思う 16.0 ・どちらともいえない 30.6
 ・どちらかといえばそう思わない 12.3
 ・そう思わない 30.9

 ・・・「通名使用はもはや「差別回避」のためではないと言えそう。
 日本社会で生きるための便宜上日本名を使うのでなく、生まれた時からの名前が日本名なので、本人にとっても本名よりはるかに身近なのが通名、という在日コリアンがごくふつうになっているように思われます。

 冒頭に書いた2つの本の一部を紹介しましたが、これだけでも「思っていた在日像と違う」と意外に思った人も多いのではないでしょうか? 20年前でこうした数字が出ていたわけですから、現在はさらに生活面でも意識の面でも在日コリアンの日本への同化の趨勢は進んでいるでしょう。
 私ヌルボとしては、こうした「同化」を肯定的に見るか否定的に見るか以前に、生活者としては「自然なこと」と考えます。本人の意思の有無にかかわらず、です。歴史の長いスパンでみれば、日本人もほとんど皆が「よそ者」です。列島の外からその昔大勢が移住してきました。以後も列島内をあちこち移動して現在に至ります。民族にどれほどの長い歴史性があるのか? まして国籍といった近代国家の属性にしかすぎないものに・・・。
 最近読んだ徐勝「だれにも故郷(コヒャン)はあるものだ」(社会評論社.2008)ではこうした在日の現状を強く批判していました。「在日朝鮮人」「在日韓国人」を「在日」とだけ呼ぶことも「「朝鮮人」等という言葉を回避した言葉だ」と否定しています。しかし、こうした徐勝氏の主張も時代の流れに抗する「ムダな抵抗」に見えるし、あるいは敬愛する作家・金石範さんの「統一朝鮮を志向する」という姿勢には共感も覚えますが、少なくとも現実的な力になるとは思えません。

 日本人が、近所に住むことになった人のために親切心から声をかけたり面倒を見たりすることも見方によっては「同化圧力」になります。またよそから来た人の意識も「郷に入れば郷に従え」という姿勢もあればその逆もあります。ごく表面的な、それも「民族」「国籍」といった限られた尺度だけで物事の当否を判断するのはとても非現実的で、トンチンカンな主張に直結する危険性があるので要注意、ということです。
 一口に在日と言っても人によりさまざま。多くは上記のように「フツーの日本人」と変わらない意識を持ち、ほぼ同じような生活をしています。一部の著名な在日コリアンが時にはさも自分が「在日の代表」といったような言い方で意見を言ったり、本に書いたりしている場合もありますが、そのような言説をそのまま受け止めて賛成したり反対するのも早トチリ。それが民団や総聯の代表者であっても、です。またメディアによく登場する在日コリアンの場合、明確な主義・主張を持っている人が多いのは、とくにそういう人をメディア側が選んでいるからそうなので、在日の多くが同様の考え方をしているわけではありません。(←ふつうのメディア・リテラシー。)
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東京韓国人学校の<問題になり方>自体に問題がありそうだゾ・・・・

2016-07-15 21:42:35 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ



 上の画像はソウル日本人学校。今年4月1日(金)、空港鉄道デジタルメディアシティ駅から少し離れた韓国映像資料院に行った時、街の地図を見てその数百m北に日本人学校があることに気づき、7、8分ほど歩いて見てきました。
 外に生徒たちの姿は見かけず、校庭に通じる門も閉まっていて、掃除(?)の人たちがいただけでしたが、ずいぶんきれいでリッパな校舎(5階建て)だなあという印象を受けました。
 その時、すでに東京都の韓国人学校の移転先が都政で問題になっていたことは、帰ってきてから知りました。
 
 関連記事にいろいろ目を通してみましたが、あいかわらず威勢ばかりよくて中身がカラッポの記事が多い中で、読むに値する記事はとりあえず2つ。
 その1は、あの「産経新聞」の黒田勝弘産経新聞ソウル駐在支局長の連載コラム[ソウルからヨボセヨ]の3月26日の記事。(→コチラ。)
 「産経新聞」そして黒田記者といえば、韓国メディアではしばしば(それ以上か?)「日本の代表的極右言論(人)」とよばれています。私ヌルボは極右とは思いませんが・・・。(ふつうの右派でしょ。)
 その黒田氏が「日本人学校移転 韓国の世話になった過去も」と題し、1972年創立以来の歴史と「新しい学校用地はソウル市が元の学校の土地と交換する形で提供してくれた。元の地域は地価が高騰していたため、差額で最先端の新校舎も建てられた。最初の土地購入は韓国政府のお世話になっている」といった「世話になった」ことを記し、次のような文で締めくくっています。

 最近、東京の韓国人学校の移転先に都立高校跡地を提供する計画に反対、批判の声が出ているとの記事が本紙に出ていたが、こうした反対はまずい。ソウル日本人学校もお世話になっているのだから、ちゃんと実現してほしい。

 私ヌルボ、左派右派と関係なく、傾聴すべき意見を述べる人もその逆の人もいると思っていますが、黒田氏の記事はもちろん前者。韓国メディアも、韓国に対する豊富な知見に基づいて本音で韓国を批判しているからこそ「極右」と言いつつも耳を傾けるのでしょう。
 まあ、この問題については産経の方針にそぐわないためか紙面ではその後ずっとスルーされてるようですが・・・。

 さて、都有地の韓国人学校への貸し出しに反対する人たちが挙げている理由は次のようなものです。
  ・保育園などの「都民のための施設」を優先すべき。
  ・定員割れしていて必要もないのに、増設を希望している。
  ・韓国人学校だけ優遇されている。
  ・外国人学校の整備は都の長期ビジョンに掲載されていない。都はもともと課題として認識していなかったにも関わらず、韓国人学校の建設が進められている。
  ・学校のために特別支援学校の建設が中止になった。
  ・増設は韓国の高額な接待によって決まった。

 これらの「理由」のそれぞれに対し、具体的根拠を示して反論しているのが読むに値する記事の2つ目。「「韓国人学校は優遇されている」は本当か?――都有地貸し出しをめぐる誤認」と題した、吉田悠子さんという方がシノドスに書いた記事です。(→コチラ)
 たとえば、東京都は過去フランス政府からの強い要請によって、フランス人学校建設のため都立高校の跡地を売却したとのこと。「用地を有償で貸与するのか売却かという点を除けば、今回の韓国人学校をめぐる議論と同じである。しかしこの件でフランス人がヘイトスピーチの対象になっただろうか?」と吉田さんは問いかけています。(長い記事なので、内容はリンク先を直接見てください。)

 今回の都知事選には在特会の桜井会長も立候補していて、(当選したら)韓国人学校への敷地貸与中止は、彼としては当然。ところが自民党系の都知事候補2人(増田&小池氏)とも中止とは言わないまでも白紙化表明ねー。大体この問題一帯にプンプンたちこめているヘイトの臭いを自らすすんで浴びようという感じで、これは都民の皆さんナメられてるような・・・。もっとも、革新系統一候補の鳥越氏もこの問題については「具体的に知りません。それについて明確な答えは持っていないが、(知事の)任にあたることになったら、東京都民に納得いただける策を打ち出したいと思います」とナサケナイ発言。宇都宮健児氏は次のように記者の質問に答えていましたが・・・。
 韓国人学校に都の土地を利用させるのはけしからんという意見について、「韓国人学校だから」という点については、私は問題があると思っております。なぜなら、東京都は今から10年ぐらい前にフランス人学校に用地を貸し与えているんです。フランス人学校はよくて、韓国人学校はけしからんというのは、民族差別ですよ。ヘイトスピーチ対策法ができたばかりでしょ? ただ、そこの土地が韓国人学校に貸与するのに相応しい土地かどうか、片方で保育所とか特別養護老人ホームの建設のための用地が必要なのは間違いないことなので、その土地がそれに相応しいかどうかというのは検討する余地があると考えております。ただ一方的に韓国人学校の貸すのはけしからんという民族差別的な考え方には同意できません。
 ・・・と、少なくともこの問題についてはまともな主張をしていた宇都宮氏でしたが、下りざるをえなくなっちゃったんだよなー・・・。

 アラ、続けて<芥川賞候補作・崔実「ジニのパズル」と2000年の直木賞受賞作・金城一紀「GO」>とか、<最後まで出自を隠し通したやしきたかじん>とかについて書くつもりだったのが、例によって長くなりすぎなのでここまででオシマイにします。

 うーむ、本ブログとしてはめずらしく政治的意見(だろうな?)を鮮明に出しちゃったような・・・。

※公式サイト
  → ソウル日本人学校 ・・・・ほー、小6の修学旅行は雪岳山公園方面か。
  → 東京韓国学校
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横浜の原鉄道模型博物館で、伝説の金剛山電気鉄道22号を見る

2016-03-18 12:36:12 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 3月5日(土)原鉄道模型博物館に行ってきました。横浜駅東口から歩いてすぐの所です。
 実は私ヌルボの住まいから徒歩圏内。しかし、2012年7月開館なのに存在を知ったのは昨年で、入館は今回が初めてでした。
     
 第一京浜の南側から見ると、首都高の向こう、奥(北)から横浜そごう、スカイビルときて、一番手前が横浜三井ビルディング。(上左) この建物内にあります。1月16日(土)~3月17日(木)<台湾の鉄道展>ということで、朝鮮と共通する点も多いだろうと思い、この機会に一度見てみようと思ったわけです。
 エスカレーターで2階へ。鉄道模型で入館料が大人\1,000とは高いんじゃないの?と内心思ったヌルボ。しかし、見て回った後の感想は、「むしろ安い!」
 いやあ、95年のほとんど全生涯を通じて鉄道模型と実際の鉄道に情熱を傾けたこの方は、マニアの極致と言っても過言ではありません。
 原信太郎さん(1919~2014)。正直なところ、原さんが才能財力自由に使える時間に恵まれていたことは羨ましいかぎり。子供の頃からすごく高価な(今のお金だと数十万円?)模型を買ってもらえたりしたわけですからねー。(上の説明文を読むと「旅した国延べ約380ヶ国」という数字もオドロキ。たとえば10ヶ国を周る旅行38回分ということ?)
 さて、私ヌルボが入館してすぐ、「おおっ」と思ったのは、陳列されている鉄道模型の大きさ。子供の頃から見慣れているHOゲージとかOゲージよりずっと大きい、軌間45mm一番ゲージというものだそうです。
 そして最初の部屋ですぐ目にとまったのがこれ。(下画像)
 思いがけなくも、終戦までの朝鮮で走っていた金剛山電気鉄道の模型がみられるとは!

   

 細部に至るまで凝りに凝って、とても精密に作られています。
      
 「内金剛~鐵原」という行先標はもちろん右読みの旧字体。車両下部の機器箱は開閉できるようになっています。そして、模型の製作過程を撮った写真はアルバムに整理され、映像資料として検索して見られるようになっています。

 ところで、特別展のタイトルは冒頭で記したように<台湾の鉄道展>です。原さんはとくに台湾には思い入れが深かったようで何度も訪れ、1968年撮影の貴重な動画も残しています。この記事ではそれら台湾のことについては字数の都合上ばっさりカットします。が、1つだけ阿里山森林鉄道の見どころ独立山スパイラルループ線の図だけ貼っておきます。これは以前→コチラの記事で紹介した「日本鉄道旅行地図帳 歴史編成<朝鮮・台湾>」(新潮社)掲載のものですが、この特別展でも同様の図がありました。私ヌルボ、最初にこれを見た時には驚いたものです。平面図で見るとトンネルが交叉しているではないですか。1916年という時代によく造ったものです。ダージリン・ヒマラヤ鉄道(インド)、アントファガスタ・サルタ鉄道[アンデス山鉄道](チリ~アルゼンチン)とともに世界三大登山鉄道に数えられているのもむべなるかな、って乗ったことがないので想像するだけですが・・・。
 この阿里山森林鉄道が路線延長82.6キロ(嘉義~新高口)だったのに対し、1931年に(鉄原から)内金剛まで延びた金剛山電気鉄道は116.6キロ。(ちなみに箱根登山鉄道(小田原~強羅)は15キロ。) 阿里山森林鉄道が今も嘉義~阿里山間を運航しているのに対し、金剛山電気鉄道の方は起点の鉄原が38度線以北なので終戦後わずか9日後にソ連軍により南と分断され、その後朝鮮戦争で破壊され、休戦後鉄原は軍事境界線の南、つまり韓国の領域となりましたが、いかんせん金剛山が北朝鮮側なのでいまはもう「伝説」として語られるのみ、かな? ※1997年開業の金剛山青年線(安辺~金剛山)は別ルートなのでこの際関係ナシ。

 原さんがこの金剛山電気鉄道に乗ったのは1939年、20歳の時。展示されている年譜によると、2年前の1937年「18歳 通学用に初めて自動車を買う(ダットサン)」という記述が・・・。
 著書によると、鉄道技術を本格的に学ぶため慶応大から東京工業大に入学しなおすことに決め、その受験勉強もめどが立ってきた頃「息抜きに朝鮮旅行に出かけました」とのこと。(ウグーッ!) さらに「旅行から帰ってきてから受験科目を勘違いしていたことがわかり、必死になって勉強しました。そのかいもあってなんとか大学には合格することができました」ですと。(ムグ~!!)
   
 上左の画像上部の絵は、1929年京城市内で開かれた朝鮮大博覧会に際し金剛山電鉄が発行した吉田初三郎「朝鮮金剛山交通大鳥瞰図」です。→コチラのサイトで拡大して見ることができます。
   
 見学所要時間は約1時間半。順路の最後の方でまた「おおーっ」と声を上げそうになったのがこの展示。→ウィキペディアによると「1番ゲージの室内ジオラマとしては世界最大級の面積(約310平方メートル)」なのだそうです。いやー、すごいすごい! 小さな子供が「動鉄実習」中。本物の運転台を使って模型を運転しています。前のディスプレイには運転車両の車載カメラの映像が映し出されていて臨場感がある、と思います。

 いやあ、1人で行ってけっこう感動し、コーフンした博物館でした。特別展の企画によっては当然また行ってみます。あ、<台湾の鉄道展>は昨日でオシマイだったか! この記事を見て「行ってみようかな」と思った人ごめんなさい。

 後日、市立図書館に原信太郎さんご自身による本があったので見てみました。
   
 この本も、いろいろ興味深い文と写真がいっぱいです。たとえば金剛山電気鉄道22号の模型を下から撮った写真とか・・・。

 この後、金剛山電気鉄道の歴史、戦後そして現在の遺構等々についても興味がわいてきて、すこしずつ関連書を読み始めています。あー、ネタは次々にわいてきて、記事は遅々として進まない状態。困った困った・・・。

 ※館内で撮った写真を多数載せましたが、しばらく前から撮影OKになっています。動画も多数アップされていて、中には
金剛山電気鉄道22号の動画もあります。→コチラ

 ※原鉄道模型博物館の公式サイトは→コチラ
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[無定見(笑)・大阪の旅] 韓日食博、王仁、新発見の高麗青磁、格安ホテル等々 (その4)

2015-11-20 23:41:23 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 → ①王仁関係
 → ②韓日食博
 → ③東洋陶磁美術館「新発見の高麗青磁」

 ・・・ときて、ようやくこのシリーズ最後の記事です。

④格安!ホテル
 今回の2泊3日の大阪旅行。私ヌルボが友人等に「宿泊費は4,600円。クーポンを使ったので4,100円で済んだ」と言うと、「それは安かったねー」という感想が返ってきます。そしてさらに「それが2泊分の料金なんだ」と告げると驚かれます。

 そのホテルの場所はJR新今宮(or地下鉄動物園前)駅至近。東口から出ると、道路を隔てた向こう側に、その大きな建物がそびえ立っています。(下左)。
     
 上右は、その入口です。

 低料金の理由は、いうまでもなくこの辺りの環境。あいりん地区。「あの」通称・釜ヶ崎です。
 私ヌルボがこのあたりで宿泊したのは2回目です。最初は10年ほど前だったかな? わりとよく利用している大阪駅から歩いて10分ちょっとの所にある1泊4,500~5,000円くらいのビジネスホテルが満室だったので、「ここなら泊まれるだろう」と思いやって来ました。簡易ビジネスホテル(?)でフロントのオバハンに空室の有無を訊くと、「安い部屋は満室なんですよ」と言うので、高い方でもやむなしと思いつつ料金を尋ねたら「2,000円」でした。(安い方は1,500円とか。)
 たたみ3畳を縦に敷いたような細長い部屋でしたが、カギもかかりTVもある清潔な部屋でした。

 ところで「釜ヶ崎」というと、もしかして60~80年代当地で頻発した暴動を思い浮かべる人がいまだに多いかもしれません。
 しかし、とくに21世紀に入って街のようすは大きく変わってきました。理由は、まず経済・産業構造の変貌。つまり機械化の進展や長期の不況により単純肉体労働が総体的に減ったこと。そして日雇い労働者の高齢化(生活保護で暮らしている人が増えています。)。ウィキペディア(→コチラ)によると、あいりん地区の日雇いの仕事もバブル期の3分の1にまで減少しているそうです。
 それと相まって、かつてたくさんあった簡易宿泊所もアパートになったり、あるいはこのホテルのように外国人バックパッカーを主としたゲストハウスに転換したりしたというわけです。(東京の山谷や横浜の寿町も同じような状況です。)

 いろいろ検索してみると、<大阪・西成がバックパッカーの聖地に!? 〝昭和っぽい〟街並み…簡易宿泊所が外国人のお気に入り>という記事がありました。(→コチラ。)
 元は2014年の「サンケイ」の記事です。これには、次のようなことも書かれています。

 西成に転機が訪れたのは平成17(2005)年春、あいりん地区の簡易宿泊所の若手経営者が集まって「大阪国際ゲストハウス地域創出委員会」(OIG)を結成したことだ。
 日雇い労働者の高齢化で経営は厳しくなり、「外国人なら治安を気にせず、低価格を重視するはず」と経営方針を大転換した。
 1泊1千~3500円の低価格を武器に、主にバックパッカーが利用する全世界向けの宿泊サイトに登録して海外にアピール。21年にはOIG顧問の松村嘉久・阪南大教授(観光地理学)がJR新今宮駅近くに観光案内所を開設し、英語の観光パンフレットの無料配布も始めた。
 伊東さんのようにOIGに加盟していない経営者にも外国人が利用する宿泊サイトの助言をするなどして支援。その結果、OIGに加盟する主要8施設の外国人利用者は、19(2007)年が約5万2千人だったのが25(2013)年は約12万2千人に急増した。
 奈良市の24(2012)年1年間の外国人宿泊者数は5万6千人で、関西の代表的な観光地を上回った。


 ・・・ということで、私ヌルボがこのホテルのことを知ったのも実は韓国のブログ記事(→コチラ)でたまたま見たからです。ホテルの施設・設備の説明の他、①料金が安い ②関空へのアクセスが便利 ③繁華街に近い 等のメリットをあげ、上述のような当地の環境・歴史にもふれています。記事の最後の方で、この近辺の他の格安ホテルも紹介しています。
 仲間と韓国を旅する時ももっぱら安宿専門のヌルボ、どんなものかなとの好奇心もあって泊まることにしました。
 フロント係の青年はやっぱり韓国人の若者でした。日本語は十分大丈夫です。
      

 1階に思ったより広い共同の浴室があり、トイレ・洗面所も共用で各階に1つずつあります。
 部屋のTVのスイッチを入れると、ちょうど前日(11月2日)開かれたワンコリアフェスティバルのニュースをやっていました。 
     

 →コチラの韓国記事にもいろいろ写真が載っています。
 夜はちょっと通天閣方面に散歩。また翌朝近所を歩くと、なるほど自販機のドリンクは50円です。(ホットドリンクや量が多い物は80~100円。)
      
 このホテルの韓国人客と日本人客はそれぞれ何割くらいか等々、フロントのB青年に取材してみるかなとも思ったのですが、朝忙しそうだったのでまた今度ということにしました。

 ※「このホテルに泊まってみようかな?と思うけど、ちょっと心配」という女性は→コチラのQ&Aを読んでみてください。

 ところで、最近伝えられるところでは大阪を訪れる外国人観光客が急増、いや「爆増」しているとか。(→コチラ参照。) 前年比113万人だそうです。外国人観光客訪問率ランキング(→コチラ)でも奈良どころか京都をも上回っています。(京都市内の深刻なホテル不足という事情もあるみたいです。)
 そういえば、今回初めて通して歩いた天神橋筋商店街でも多くの外国人観光客をみましたね。30年ぶりくらいで関西風うな重を食べましたが、その店でも中国人父子がうな重(特上?)を食べてました。
 また、昨日「朝鮮日報」のサイトの隅っこをクリックしたら「お好み焼きで有名な大阪‘치보(チボ)’」という記事(→コチラ)が現れました。‘チボ’とは何かと思ったら、千房(ちぼう)という店のことで、英語だけでなく韓国語・中国語のメニューもあるとのこと。そうした方策・配慮も集客力につながっているのですね。
 大阪方面はまだまだ行ってみたい所がたくさんあります。年末年始にかけての帰省の折りにまた寄ってみることにします。

 [付け足し]
 これまでの記事には書きませんでしたが、こんな所にも行ってきました、ということで。
        
 大阪韓国文化院。韓国映画祭とは日程がちょっと合わなくて残念。

     
 蕪村公園。くわしくは→コチラ参照。この記事にあるように、私ヌルボも蕪村資料館といった施設はぜひ建ててほしい!
     

 公園は新しい(2009年オープン)ので初めてでしたが、そこから歩いて数分の与謝蕪村生誕地。『春風馬堤曲』の中の「春風や 堤長うして 家遠し」の句が刻まれています。
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韓国人原爆犠牲者慰霊碑をめぐる問題 平和公園外の慰霊碑を「差別」とみなした80~90年代のマスコミ

2015-10-16 19:54:17 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ

 11日(日)、広島の平和公園に行ってきました。前来たのは20年以上前。今回は限られた時間で、見たい所の一部しか行くことはできませんでしたが、平日仕事を持ちながら、月2回日曜日のガイドを10年間続けているというIさんのていねいな説明を聞きながら主な石碑やモニュメント等を見学し、とても勉強になりました。
 続いて原爆資料館へ。外国見学者の来館者がとても多く、展示物の前は割り込みもむずかしいほどの混みようでした。
 一緒に行った仲間の1人が吉永小百合による吹き込みに引かれて音声ガイドを借りたので、同じ物はあえて借りずリスニングの訓練のつもりで韓国語の音声ガイドを借りました。すると「강제징용(強制徴用)」なんて言葉が際立って聞こえるのは時節柄? あるいは私ヌルボ気にしすぎ? 中身は「約35万人の被爆者の中には、強制徴用された労働者を含め数万人の朝鮮人・中国人その外にも東南アジアの人々が含まれていました」というもので、まあ<徴用>=<強制徴用>だし、とりたてて目くじらを立てるほどのものでもないんですけど・・・。仲間に訊いたら日本語版と同じで、その文章をそのまま訳したようですね。
       

 ガイドさんから聞いた話で初めて知ったのは「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」(写真上)移設をめぐる話。ヌルボは、90年代「慰霊碑が公園外にあるのは差別だ」との声が高まったので移設した、と思っていました。ところがガイドさんの説明では「被爆した朝鮮の王族の○○(?)殿下が発見された場所に建てられたもので、差別があったというものではない」とのこと。
 慰霊碑を見ると、なるほど、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の刻字の横に李鍝公殿下外貳萬餘霊位」と刻まれています。
 後で調べたところでは、李鍝[イ・ウ](1912~45)は大韓帝国皇帝だった高宗の五男の子。純宗や李王垠の甥にあたる人物で、当時は広島に置かれた第二総軍の教育参謀中佐で、8月6日は馬に乗って司令部への出勤途中福屋百貨店付近で原爆投下に遭い、本川橋西詰でうずくまっているところを夕刻発見され、市内似島の病院に収容されたが翌7日死亡したとのことです。

 以前広島を訪れた時、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を見た記憶はあります。移設が1999年7月なので、その時はまだ本川橋西詰めにあったわけですが、しかとは覚えていない上、撮ったであろう写真も行方不明です。
 ただ、当時(80~90年代)のマスコミ等で「公園外にあるのは差別」との主張に接していたので、なんとなく私ヌルボもそのように受け止めていました。
 
 そう思い込んでいたのは、文芸評論家・加藤典洋氏も同様で「敗戦後論」(1995年「群像」1月号に初出)に次のように記しています。

 護憲派は、原爆の死者を「清い」ものとし、同じく改憲派は兵士として死んだ自国の死者を「英霊」とし、「清く」する。広島の平和記念公園は韓国・朝鮮人の碑を受け入れていないが、ともに死者を「清い」、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである。

 そして、この文章に次のような注をつけています。

 広島の原爆による朝鮮・韓国人の死者の存在はわたし達に深い意味をもっている。それは、原爆の死者の無垢性というものにわたし達の疑いを向けさせるたぶんはじめての契機となった。この敗戦の死者の問題の「ねじれ」が浮上するのに、この無垢な死者の碑石が取り除かれることはわたし達に不可欠の条件だったはずである。この文章の初出とほぼ同時期に訳書が刊行されたイアン・ブルマ『戦争の記憶—日本人とドイツ人』によれば、広島の記念公園には本国から強制連行され、広島で働かされている時に原爆にあった朝鮮人犠牲者の碑は、おかれていない。一九七〇年に大韓民国居留民団によって建てられた碑が「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っている。「のちに地元の朝鮮人がこの慰霊碑を公園内に移転させようとしたが、失敗に終わった。広島市当局は、平和公園には慰霊碑は一つでよいといった。そしてその慰霊碑には朝鮮人の過去帳は納めてもらえなかった」。日本人以外には入れない。しかし、日本人でさえあれば、ほぼ個人の特定なしに入ってしまう、というあり方が、やはりこの平和記念公園と靖国神社の共通性格として浮かび上がる。なお、後者に関連し、死者の遺族の意思を無視しての護国神社への合祀をめぐり、山口県の殉職自衛官未亡人中谷康子が訴訟を起こしたことは記憶に新しい。

 上記の引用部分は、単行本の「敗戦後論」(1997.8)にも当然そのまま載っています。しかし最近刊行されたちくま文庫版(2015.7)には、次のような長い補注がつけられています。

 この注記とこれに関連する本文63頁の「広島の平和記念公園は韓国・朝鮮人の碑を受け入れていないが、ともに死者を『清い』、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである」との記述に、重大な事実誤認のあったことを後に読者からの指摘によって教えられた。上記の本文記述を撤回するとともに注を次のように訂正したい。
  前広島市長平岡敬氏の手になる『希望のヒロシマ』(岩波新書.1996.7)によると、この碑は、「原爆の犠牲となった同胞を追悼するために、朝鮮王族李(イ)鍝(ウ)公を敬慕する張泰煕氏ら在日韓国人有志によって建立され、1970年4月10日に除幕された。」。碑の表面に「在日原爆犠牲者慰霊碑」という文字と並んで「李鍝公殿下外弐萬余霊位」と記されている通り、この碑は「韓国人原爆犠牲者の慰霊と李鍝公の追悼というふたつの性格をあわせも」つ。この碑の立つ場所についてはイアン・ブルマの著作『戦争の記憶』(TBSブリタニカ.1994)に「平和記念公園の外、片隅に隠れるように」立っているとあり、わたしも注に引いているが、それはこの地点がこの碑の追悼する李氏の終焉の地(本川橋西詰め)であることからそこに建てられた。碑には、「公の被爆された由緒深い場所に確定された」と記されている。従って、ここに日本人による韓国・朝鮮人差別が見られるというイアン・ブルマとその記述に従ったわたしの判断は、事実を正しく伝えない誤認である。
 このほか、わたしが注に引用したブルマの記述が、以下の点で事実と違っているので訂正する。
 一、慰霊碑の移転を広島市が断った事実はない。広島市は慰霊碑の平和記念公園内への移転にもし希望があれば応じたいと候補地を用意しているが、現在のところ、在日韓国人間にさまざまな意見があり、実現していない。
  二、平和記念公園内の原爆犠牲者の慰霊碑には日本人、韓国・朝鮮人全員の名前が記載されている。また、平岡氏によると、この在日原爆犠牲者慰霊碑の裏面には、建立協力者として、「李鍝公」の陸軍士官学校での同期生である多くの日本人の名前も記されている。
  元ジャーナリストから市長となった平岡氏は、この碑をめぐる誤解が世に広まっていることについて、「私は、いまの日本に韓国・朝鮮人に対する差別が存在しないといっているのではない。慰霊碑ができるまでのいきさつ、背景を調べないで、碑の建立”場所”を差別ととらえてしまう(日本のマスコミの—引用者)固定観念、先入観を問題にしたいのだ」と述べ、不正確な記述が広島に関し出回っている例としてこの一件に言及している。
  わたしの場合がその悪しき一例だろう。深い反省の意をこめてこの誤認を訂正させていただく。

 当時の平岡敬広島市長(1927~)はコチラの記事によると戦時中は京城帝大予科に在学中で、終戦は学徒動員先の興南(現・北朝鮮咸興市)の化学工場で迎えたとのことです。その後広島市に引き揚げて広島高校(現広島大)に編入し、早稲田大学を経て中国新聞社へ入社。中国放送代表取締役社長などを歴任した後、1991~99年の2期8年にわたり市長として在職しました。地元のジャーナリストして豊富な経験・知識を持ち、韓国・朝鮮への思いも深い人です。
 その平岡敬市長(当時)の「希望のヒロシマ」が刊行されたのが「敗戦後論」の1年前なのに、加藤典洋氏も編集者等も気づかなかったのは手落ちでしょう。(・・・って、今まで気づかなかったヌルボも言えたガラではありませんが・・・。)
 ※ここまでは→コチラの記事に拠りました。(大変情報通の、かつ熱心な<嫌韓>サイトですけど。)

 「公園外にあるのは差別」といった新聞記事は、広島大・石田雅春氏の論考(→コチラ)によると「昭和50年代初めごろから韓国人原爆犠牲者慰霊碑が平和記念公園から意図的に締め出されたとか、差別されているという解釈が次第に広まっていった。・・・・関係者の間では、韓国人原爆犠牲者慰霊碑の公園内移設を求める声が高まっていった。」とのことです。新聞各紙も、80年代後半から「広島市の差別的な措置によって同碑が平和記念公園の対岸に建設された」という言説を形成していきました。
 こうした中、1980年広島市は慰霊碑の公園内移設を認めるとともに、それを期に南北統一の慰霊碑を造るように求め、市と民団と朝鮮総聯の協議が始められました。(1997年はすでにその段階だったのですね。) で、移設が現実のものとなったのが1999年7月21日。翌8月5日に移設後初の慰霊祭が営まれたことは、「毎日新聞」等でも報じられました。移設がこれほども遅れたのは、たとえば「韓国」という名称を維持しようという民団側と、反対する総聯側の協議がまとまらなかったため。結局当面の間は従来の「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」を公園内に移すことで総聯側が譲歩してようやく移設が実現したというわけです。

 ・・・と、ここまで長々と書きましたが、全体的にみると、80~90年代の<進歩系>言論と、それを支える<良識的>読者(←私ヌルボのような)を取り巻く<時代的フンイキ>といったものがあって、それがちょっと冷静に調べればわかることまで怠って、この「公園外の慰霊碑は差別だ」問題についても誤解がそのまま事実であるかのように流布したといえそうです。例の「慰安婦報道」問題と通じるところがあるようですね。

 ・・・と、ここで記事をオシマイにすると加藤典洋氏の反省を数年遅れでなぞるだけになってしまいます。
 しかし、広島市&平和公園にとっても、韓国・朝鮮人と関係団体にとっても、私たち個々にとっても、重要な、そしてむずかしい問題は依然残っていることを忘れてはいけません。1999年の慰霊碑の公園内移設によって一件落着では決してないのです。
 それについては続きで・・・、といってもいつになるか。むずかしい問題はなおのこと書くのがむずかしいからなー・・・。
 ※イアン・ブルマ「戦争の記憶—日本人とドイツ人」はヌルボも読みましたが、(上記のことは別として)良い本だと思います。
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「ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く」を見に行く ①全体の印象と、展示の特色等

2015-04-14 16:40:33 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ

 昨年5月、府中市美術館に<東京・ソウル・台北・長春-官展にみる-それぞれの近代美術>という企画展を見に行きました。(→関連過去記事。)

 以来にわかに朝鮮・韓国美術づいた私ヌルボ、昨年6月には朴寿根(パク・スグン)の生地・楊口(ヤング)の朴寿根美術館を訪れ、8月にはソウルの美術館巡りの旅をしてきました。
 ※6月の楊口等への旅行についてはコチラが関連過去記事、といえるかどうか? 続きでちゃんとした記事を書こうと思ったのですが、思っただけで今に至ってます。8月の旅行記録は→コチラの記事参照。

 そして今。4月4日(土)~5月8日(金)神奈川県立近代美術館葉山館で<ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く>展が開催されています。
 ※公式サイト→a href="http://www.moma.pref.kanagawa.jp/public/HallTop.do?hl=h">コチラ。また→コチラの報道用資料には、本展の第1~5章の内容、関連企画等が15点の画像付きで紹介されています。

 ・・・ということで、さっそく初日に行ってきました。
 横浜からだと少し遠くて、約1時間くらいかな? 前来たのが2010年夏の「浜田知明の世界展」だったからもう5年にもなります。昼前に着きましたが、最寄りのバス停どころか建物自体も憶えてない・・・

 展示室に入って最初に目にとまったのは和田三造「朝鮮総督府壁画画稿」。そして藤島武二「花籠」。どちらも、昨年府中市美術館で見た作品です。著名な日本人画家では、他に土田麦僊・山口蓬春・岡田三郎助等々。藤田嗣治が1912年新婚旅行で朝鮮総督府病院長だった父を訪ねて訪朝したのを機に描いたという「朝鮮風景」という作品もあります。(上記の報道用資料参照。)
 また、代表的な朝鮮人画家たちの作品も。高羲東(コ・フィドン)「程子冠をかぶる自画像」李仁星(イ・インソン)「窓辺」金重鉉「巫女図」等も府中市美術館で展示されていた作品です。それ以外に、先月ドキュメンタリー映画「ふたつの祖国、ひとつの愛 ~イ・ジュンソプの妻~」で観たばかりの李仲燮(イ・ジュンソプ)「旅だつ家族」や、彼と同様生前は不遇で死後高い評価を受けるようになった上述の朴寿根(パク・スグン)「赤ん坊をおぶった少女」、あるいは李快大(イ・クェデ)「自画像」といった作品も並んでいます。


【図録の表紙は李仲燮(イ・ジュンソプ)「旅だつ家族」。この分厚く内容豊富な図録が2,400円(税込)とはゼッタイお得! 】

 上記のように日朝の有名な画家や作品も多い中で、ヌルボがとくに注目したのは第2章<近代「朝鮮」の風景>~第3章<近代人の日常>に数多く展示されている日常の風景や人物を描いた作品です。たとえばヌルボと同じ徳島県人の加藤松林人の作品はその代表例です。
 事前学習もなく来ましたが、このあたりに差しかかって昨年の<東京・ソウル・台北・長春-官展にみる-それぞれの近代美術>とは明確に異なったこの展覧会のコンセプトといったものがわかりかけてきました。これらの日常の風景や人物を描いた作品には、作家自身の自然な感性、風土やそこで生活する人々へ親和感といったものが感じられます。そんな<地べたからの目線>で描かれた
それは「官展」といった上からの枠組みの中で制作された作品とは対照的です。
 そういえば、タイトルからして美術家のまなざし>と、美術家個人の視点が中心におかれていますね。
 ※このような美術作品を鑑賞する視点とは関係なく、1910~40年代当時の朝鮮の風俗、自然の風物や都市の景観等を見るだけでも興味深いものがあります。たとえば、南大門の横を牛車が通ったり(金山平三「南大門」(1917))、平壌の大同江で洗濯をしていたり(吉田博「大同門」(1937))、杉浦非水のリトグラフ「京城三越 新館落成」(1929)というのもあります。

 上述した本展の企画意図等については、直接携わった方たちの話をその後伺うことができました。
 初日に行ったのは、午後に1930年代に文化学院で学んだという98歳(!)の画家・金秉騏(キム・ビョンギ)さんの特別講演会があったからでした。翌5日には四谷三丁目の国際交流基金ビルで関連行事として「複層―日韓近代美術家たちのまなざしが開く新たな地平」と題したシンポジウムが午前10時~午後5時開かれ、これにも参加。
 両日ともオープニング・レセプション、交流会にも出席したりしていろいろな方と話をすることができました。連日の盛りだくさんのメニューの上、そもそもレセプションに顔を出すなんてのも初めてのことで緊張したりして、とにかくすごく疲れましたが、それ以上にとても興味深く勉強になる話を聞けた上、いろいろな方と知り合い、話をすることができたのは大収穫でした。その内容については続きに回します。
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建て替えが進む銀座・大倉本館と、昔の大倉組本館、大倉本邸のこと等

2015-03-25 17:47:58 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 3月に入ってから銀座に3回行きました。で、とくに意識していなくても目についたのは建て替え・新築のビルが多いこと。モザイク銀座阪急(銀座TSビル)の撤去・新ビルの建設工事は2012年から始まっていますが、近くのニュー・トーキョー本店も近く取り壊し工事に入るのでしょうか?
 21日、銀座4丁目交差点まで行くと日産銀座ギャラリー(サッポロ銀座ビル)は跡形もなし。少し南の松坂屋銀座店の跡地も、だだっ広い更地に大きなクレーンが何台も置かれていました。そして北に歩いてすぐ、ブルガリ、シャネル、ルイ・ヴィトン、カルティエといった最強のブランドショップが建ち並ぶ銀座2丁目交差点方面に向かうと・・・。
 右(東)手前がブルガリ銀座タワー店。その北隣の伊東屋銀座本店も建て替え工事中ですが・・・。交差点北西角を見ると・・・。

 あれれ。ここも工事中で、そこにあったはずのカルティエは50m先(西)に移転してます。
 じつはそのカルティエが入居していたビルは大倉本館というビルで、何をかくそう私ヌルボが2年前に写真を撮っていました。ほぼ同じ位置で今回も撮ったので比べてみましょう。
《2013年1月》

右(東)奥がブルガリのビル。

大倉本館を探して来たらカルティエだった。

このビル名の認知度はどれほど?

 《2015年3月》

大倉本館のビルがなくなったのでブルガリがよく見える。

今たくさんある工事現場の1つにすぎない。

来年8月末に新ビル完成か。


 ところで私ヌルボ、なんで2013年1月にこの大倉本館の写真を撮ったかというと、砂川幸雄「大倉喜八郎の豪快なる生涯」(草思社文庫)を読んだ直後で、銀座に彼の「栄華の名残り」があることを知ったから。つまり、このビルのことです。
 明治前期から、近代日本の発展とともに次々と事業を拡大し、莫大な財を成した実業家・大倉喜八郎(1837~1928)については、とても簡単には書けません。とりあえずウィキペディアは→コチラ

 取り壊された大倉本館ビルの表通り側の外壁下部には、下の写真のようにレリーフがありました。1882(明治15)年設立した日本初の電力会社・東京電燈が宣伝の一環として銀座大倉組商会事務所前で日本初のアーク灯を点火し、驚嘆した市民が毎夜見学に押しかけたそうですが、そのようすを描いた錦絵をレリーフにしたものです。(→関連記事。)
 新しいビルでも設置されるのでしょうか?
    
 彼は日韓間の近代史を見る時にも欠かすことのできない人物で、たとえば赤坂にある大倉集古館所蔵の朝鮮の文化遺物については返還問題が現今の課題にもなっています。

 上記の文庫本を読んで、私ヌルボが理解したのは莫大な財産の築き方です。それは時代の少し先を的確に読むこと。幕末~維新の激動期を前に銃砲の商売を始めたのが最初。私費で米欧を周り岩倉使節団一行と親しくなり、たとえばその後の国の軍事的拡張とともに軍隊の装備調達や兵員の移送に食糧の輸送、施設の建設等々をしっかり請け負ったりして、これは儲かるしかありません。
 話はそれますが、同様の時代を先読みする目を持って事業を拡大した韓国人を2人思い出しました。
        
 サムソンの創業者・李秉喆(イ・ビョンチョル)と、あの統一教会の文鮮明(ムン・ソンミョン)です。左の漫画本は昨年12月アラディン中古書店江南店で購入。右の文庫本は以前近所の神社境内でたぶん信者によって置かれていたものを持ち帰って読みました。
 とくに李秉喆は、自前の銀行をあえて持とうとしなかったところも大倉喜八郎とよく似ています。

 さて、往時の大倉喜八郎の金満ぶりを示すのが下の絵。

 1878(明治11)年溜池葵町(後に赤坂葵町)に建てられた大倉本邸です。現在のホテルオークラの場所。この絵は明治何年頃のものかな? その敷地内に1898年に建てられたのが大倉商業学校。その後身である東京経済大学の校章の葵はここの地名に由来しているそうです。また大倉集古館の開館は1917年です。

 <セメント王>浅野総一郎等とは違って、大倉喜八郎がどんな会社を経営して成功したかというイメージが思い浮かばないのは、1つ2つ手がけた事業の成功にあきたらず、すぐ次のことに乗り出したから。彼が設立に関与した企業・建築は200以上に及ぶといわれます。その核となったのが1873 (明治6)年設立の大倉組。下の写真は1915(大正4)年竣工の大倉組の社屋。現在の銀座2丁目に建てられたということは、大倉本館と同じ所?
  なかなかリッパな建築物で、今回取り壊した大倉本館ビルよりずっと風格が感じられます。関東大震災で内部が焼失したものの、その後もしばらく使われていたそうです。
 この建物が造られた2年後の1917(大正6)年、大倉組は土木建設部門を大倉土木組に、石炭採掘・鉄鋼販売を大倉鉱業に、残りの主力商事部門を大倉商事として再編されました。
 大倉土木組は現在の大成建設で、今回の建て替え工事にも携わっています。「大成」の社名は大倉喜八郎がみずから選定した戒名「大成院殿礼本超邁鶴翁大居士」からつけたものです。
 また大倉鉱業の後身が、現在大倉本館・別館の賃貸・管理を主要事業としている中央建物。全然違う業種なのになんで?と思いますが、終戦後大倉商事とする大倉財閥が財閥解体の対象企業となったため、1949(昭和24)年に旧大倉財閥の土地・建物を基に新たに発足させたのが中央建物株式会社なのだそうです。
 旧大倉財閥の中心だった総合商社・大倉商事は、その終戦直後の困難は乗り切りましたが、90年代のバブル崩壊でダメージを受けて1998年自己破産に追い込まれ、1873年の大倉組設立から125年の歴史にピリオドを打ちました。そして大倉商事の社長だった大倉喜八郎の曾孫・大倉喜彦氏が中央建物社長に就任して今に至っているということです。(大倉喜彦氏は現在ホテルオークラ取締役会長、大倉集古館館長等の肩書もあります。)
現在、中央建物が現在管理しているもう1つのビルが大倉本館のすぐ南西にある大倉別館です。
         
 この写真を見ると年期の入った雑居ビルといった感じですが・・・。
      
 なんだ、カルティエの移転先ではないの!(左) 2013年の写真(右)と比べると違いがわかりますね。

 上述のように、大倉喜八郎の「周辺のこと」だけでもこれだけ長くなってしまいました。
 本ブログの主旨である日本と朝鮮との関係に絞っても、さらにテーマを小分けにしなければならないほどネタがたくさんあります。
 それらについては(いつもの)また今度、ということにしておきます。

【注】神戸と札幌の大倉山
神戸市の大倉山は、大倉喜八郎が日清戦争後、安養寺山の約8千坪の土地を買い取って広大な別荘を建てた所で、その後彼自身により1910年神戸市に寄贈された。
札幌市の大倉山ジャンプ競技場の名は、秩父宮の口添えにより大倉財閥2代目総帥の大倉喜七郎(1882~1963)男爵が私財を投じて建設したもので、完成後札幌市に寄贈され、1932年の開場式で市長により大倉シャンツェと命名されたことに由来する。

【注の注】別の大倉さん
①大倉孫兵衛(1843~1921)は大倉孫兵衛洋紙店(現・新生紙パルプ商事)を設立した実業家。また息子の和親とともに大倉陶園を設立して日本の陶磁器産業に大きく貢献をした。
②横浜の大倉山記念館は実業家の大倉邦彦(1882-1971)により1932年創建された大倉精神文化研究所の本館。彼は上記の大倉洋紙店に入社し、2代目社長の大倉文二に見込まれて婿養子となり、その後社長となった人物。
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コンス(拱手)という韓国式のお辞儀が「日本に浸透しつつある」というウワサ! その真偽は?

2015-02-28 14:48:29 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
 2月12日の記事で韓国の児童書「方言の味(사투리의 맛)」を紹介しました。
 物語の本筋とは関係ないのですが、その本の挿絵で私ヌルボが気になったのがコレ。
【(少年の絵の右)恭しく、礼儀正しく (左)顔には微笑 (下)「おばあさん、こんにちは!」 私は大きな声で挨拶します。】

 物語では、この少年、とても良い子なのですが、このお辞儀の絵については奇異な印象を受けました。肘を張り出して手を胸の前に組む姿勢が不自然だし、「微笑」もわざとらしい感じで、何か媚びへつらっているように感じられるのです。
 おりしも、このようなお辞儀の仕方が近年ネット社会の一部で問題となっていることを教わりました。早い話が、数年前からこのように胸の前あたりで手を組むお辞儀がデパート・スーパー・ホテル等でよく見かけるようになったということ、またこの形はコンス(拱手.공수)という韓国の礼法であり、このコンスが接客サービス業等での礼法指導を通して日本社会に浸透しつつあるということです。

 たしかに検索してみるとずいぶんたくさんの記事がヒットします。こんなに話題になっているとはウカツなことに今まで気づきませんでした。
 なるほど、たとえば「ホテル」と「お辞儀」で画像検索してみるとアララ!という画像がわんさか出てくるではないですか!(→コチラ。)
 近所のスーパー。レジのおねーさんはどうかなと見ると、なるほど、「またお越しくださいマセ」とこのポーズを取っているではないですか! 今まで気づかなかったなー。(別の1店はやってなかったですが・・・。)

 で、いつ頃からこの話題が盛り上がっているのかを探ってみると、たとえば2009年9月に<Wow!Korea>のQ&A欄で「韓国人女性がお辞儀をするときに胸元を押さえている理由」についての質問がありました。(→コチラ。) これには「昔の韓服を着ていた時の名残で、胸元で結んだリボンを押さえるしぐさ」という回答がありました。ただ、この質問は「TVで見た韓国人女性」についてのもので、日本人とは関係ナシ。この時期はまだ問題になっていなかったようです。
 おそらく、この件についての初期のブログ記事は、2013年1月にアップされた<変なお辞儀・【いつの間にか蔓延】変なお辞儀の正体【朝鮮式(韓国式)立礼】>という→コチラの記事あたりではないかと思われます。
 専門学校のホテルコースでの立礼指導を、韓国の女子高卒業式での立礼の画像と並べて、「変なお辞儀の正体」は「朝鮮式立礼」であると看破(?)しています。
 これより先、2011年7月に「本来の日本人の作法、立居振舞を子供たちに習得させましょう」と題した記事を載せたのが→コチラですが、その2013年3月の追記で「朝鮮式立居礼法だそうです。清楚な日本式作法と比べて、なんて下品なんでしょう」と批判されていたのが下の動画です。

 たしかに、日本人ヌルボとしては違和感はありますね。腕の形、体の傾け方だけでなく、足を前後に開く形も・・・。

 そしてこの話題が一気に盛り上がった(?)のが2013年夏頃。その口火を切った(?)のが→コチラ<おかしなアノお辞儀は韓国式コンス>という記事。古今東西のお辞儀についても言及する等、とても詳しく記されています。
 たとえば、コンスの起源については次のように説明されています。

 もともとは、このお辞儀の仕方が李氏朝鮮の時代で行われていたわけではなくて、聞くところによれば、ロッテが韓国に百貨店を作った際に、お客様をお迎えするにあたって、日本における最高の立礼はどのようなものかと日本の某百貨店に問い合わせてきたことが発端のようです。
 この百貨店では、普通の両脇を締めた日本式のお辞儀を教えようとしたようなのですが、あちらさんは納得しない。
 普通ではなく、もっとも高貴なものを教えろというわけです。
 日本におけるお辞儀としては、旧華族が衣冠束帯姿でお辞儀をする際に、檜扇をおへその前で両手に持ち、お辞儀する形があります。
 で、それを教えたところ、その姿がやや変形されて広まったのがコンスといわれています。


 以後、数多く出てきたブログ記事では、上記の起源論に関連して小笠原流や皇室、さらには三越等のお辞儀も引き合いに出されました。
 その中で、→コチラのブログ記事(2013年9月)で「朝鮮式(韓国式)コンスのポイントは以下の2つ」であるとして①肘の左右への張り出し具合 と ②お辞儀をする際の手首の高さ をあげているのはなるほどと思いました。
 ここで공수というハングルを手がかりに韓国サイトを見てみると、たしかに多くの学校で礼儀指導としてこのコンスが教えられていることがわかります。初等学校(小学校)から高校に至るまでです。
    

    
【晋州の初等学校(上左)、天安の中学校(上右)、大田中央高校(下左)、全州の高校(下右)のコンス指導。】

 また韓国の記事を見ると、たとえば→コチラでは拱手法が陰陽説と関連付けられて説明されています。
     
 たとえば上の図のように手を組む時には、男性は右手で左手の親指を握り左手で右手を覆います。女性は男性の逆で、右手が上になるように組むとされています。(凶事の場合は逆。)
 これ以外にもいくつかの拱手法についての韓国記事を読むかぎりでは、それが李氏朝鮮時代からの礼法としてふつうに認識されているようです。

 一方、小笠原流の本によると、なるほど、両手を前で組むのは悪いお辞儀とされています。
    

 ネット内の論議が続く中、2014年5月の<「朝鮮お辞儀」と「三越風お辞儀」は別物>という記事(→コチラ)では、それまでの議論内容を次のような図で整理しています。(※私ヌルボは、これをそのまま受け入れているわけではない。)

 日本(皇室)
  ↓
 三越他 → 朝鮮へ
  ↓       ↓
 日本の    朝鮮式と混ざる
 接客業     ↓(肘を張る)
  (肘張らない)   ↓
  ↓       ↓
 今ココ ←← 侵略中(マナー教室を悪用?)


 また2014年7月に公表された動画<日本では変なお辞儀-朝鮮式(韓国)お辞儀コンス>(→コチラ)は、一見コンスのように見える皇族のお辞儀はコンスとは異なる等の内容のもので、毎日100をこえるアクセスがあるようです。

 ところで<ウィキペディア>のお辞儀(→コチラ)の項目にはどう説明されているのかを見ると・・・・
 近年、ビジネス界では男女のお辞儀の仕方に差異が見られ、例えば男性は腰を曲げたときに手は体の横にそのまま添わせ、女性は臍の下あたりで両手の指先を重ねるように、ビジネス・スクールやマナー教室で教えているが、本来の礼法ではない。
 ・・・とあり、さらに続けて「正しくない理由」が具体的に書かれているのですが、あれ?ちょっと前に見た時よりずいぶん詳しくなってるぞ?と思ったら、最終更新2015年2月17日。10日ばかり前につけ加えられたのか。これも上述のようなネット内論議をふまえたものでしょうね、おそらく。(※2021年9月20日の追記:最新(2021年8月25日)の更新まで何度か更新されたようで、上記のような「本来の礼法ではない」といった断定的な記述はなくなっています。)

 さて、例によってあれこれ長々と書いてきましたが、最後に私ヌルボの見解。
 まず、今の日本のお辞儀文化をみると、一般人の日常の礼儀としてのお辞儀と、接客サービス業を中心としたビジネス界のお辞儀とは分けて考える必要があるのでは?ということ。
 デパートの店員さんに支払いを済ませた後「ありがとうございました」と小笠原流の心のこもったていねいなお辞儀をされるとドギマギしてしまうし、個人的にいろいろ面倒をみてやった相手からコンスの形でお礼を言われても「オレを馬鹿にしてるのか!?」と思っちゃいそう(笑)だし・・・。で、今後もしかしたら体の前で手を組むお辞儀が接客用として定着していく可能性もあるかも・・・。しかし、相手に不自然な印象どころか不快感まで与えてしまっては当然アウトですが。
 ただ、近年ビジネススクールやマナー教室で教えられているという「コンス風のお辞儀」が実際に韓国の影響かどうかは確証に乏しいように思います。カタチを見るとたしかによく似てはいますが、ぜひ日韓間のビジネススクール等の結びつき(←そんなもんあるのか?)を示す資料とか、またなによりも当事者(マナー講師等)の証言がほしいところです。
 また、先に紹介したような日本と朝鮮(韓国)間の相互影響の歴史も、かなり詳しいもののまだ推測の域を脱していないのでは?・・・と何事にも慎重なヌルボは思うわけですが、いかがなものでしょうか?
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朝鮮人慰霊碑探訪、映画「テロ,ライブ」、韓国文化院の講演、横田さん夫妻の話等々、怒涛の日々(?)の備忘録

2014-09-08 23:54:28 | 韓国・朝鮮と日本の間のいろいろ
○8月31日(日)
 韓国旅行からの帰国翌日。疲れが抜けず、1日中グッタリ。

○9月 1日(月)
  「関東大震災・朝鮮人虐殺フィールドワーク~横浜の虐殺地と追悼の地を訪ねる~」(主催:歴史を学ぶ市民の会・神奈川)
 「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」がある久保山墓地と、「関東大震災韓国人慰霊碑」がある宝生寺は私ヌルボも以前何度か行ったことがありましたが、多くの朝鮮人が殺されたという中村橋は初めて。
 30数人が集まり、雨の中約2時間3ヵ所を講師の後藤周先生の説明を聞きながら回りました。


 久保山墓地では、7日に朝鮮総聯系の人たちによる追悼集会が開かれました。(「神奈川新聞」の記事→コチラ。) 宝生寺の方は9月1日民団が慰霊式を行いました。
 このフィールドワークについて、私ヌルボが事後報告記事を書こうと思いつつもモタモタしている間、3人の方が早々と記事を公開されました。→コチラ①と→コチラ②と→コチラ③です。
 ヌルボが今回の説明で初めて知ったのは、久保山墓地の「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」が建てられた経緯。(①と③に描かれています。)
 また、事後に知ったのがヌルボのホームグラウンドといっていい横浜市立図書館の地に1928~45年横浜市震災記念館というなかなか立派な記念館があったということ。(参考:→ウィキペディアと→はまれぽ。)
 そしてぜひ多くの人に知ってほしいことは、同行取材した記者が書いた「東京新聞」の記事(下画像)にも記されているように、関東大震災時の朝鮮人虐殺の記述がある中学生用の副教材「わかるヨコハマ」を市議会で自民党議員が批判ししたため、横浜市教委は2013年度版で「虐殺」の文言、軍・警察の関与、慰霊碑写真を削除・改訂し、2012年度版を2万7千人の中学生から回収して溶解処分したという事実です。

 これについても、先の①と同じブログで詳しく説明されています。(→コチラ。)
 その中で、工藤美代子「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」について少しふれられています。こういう本が書かれ、多くの人に受け入れられるというのは、「こうであってほしい」という願望に合わせて史実をつまみ食いもしくはデフォルメするという「韓国にありがちな」ファンタジーのような」歴史認識とほとんど同じようなものになってしまうのではないでしょうか? この本を歓迎している人は当時の新聞報道を相当に重視しているようです。しかしその報道自体をもっと正確に読み取る姿勢が(当時も、今についても)重要なことだと思います。当時の体験談をいくつも読むと、この本のいい加減な所はわかりそうなものですが・・・。
 (実際に虐殺された朝鮮人の人数についてはたしかに疑問な点はあると思いますが・・・。)

○9月 2日(火)
  白石加代子「百物語シリーズ」ファイナル公演 第九十八話 三島由紀夫「橋づくし」/第九十九話 泉鏡花「天守物語」(県立青少年センター)
 「百物語シリーズ」もついに最後か・・・。「橋」関係の小説はいろいろありそうですが、藤沢周平の感動作「橋ものがたり」と比べると、三島由紀夫「橋づくし」には時代情趣といったものが強く感じられ、「含み」の多い語り口で、謎めいた余情が後に残ります。「天守物語」はずっと前に芝居を観た・・・が、どういう人たちが演じていたのか全然思い出せず。

○9月 4日(木)
 「朝日新聞」が掲載をいったん見合わせた池上彰氏の連載「新聞ななめ読み」を掲載。
 やれやれ。モタモタしてますなー。
 ※若宮啓文元朝日新聞主筆が7月31日の「東亜日報」(日本語版→コチラ)で「私も「右翼の代弁者」と呼んで」というコラムを書いています。「帝国の慰安婦」を出版して元慰安婦たちから名誉棄損で訴えられた朴裕河世宗大教授を擁護する内容です。
 若宮氏は、朴裕河教授が2007年「和解のために」(平凡社)で大佛次郎論壇賞を受賞した時の選考委員だったとのこと。それが今両著とも韓国で批判の矢面に立っているのは朝日新聞社にとっては皮肉なことで、日本の世論に対してだけではなく、韓国に対するスタンスの取り方が実にむずかしいところかも。若宮氏が記事の末尾で「もちろん異論はあっていいし、議論は大いに結構だが、司法に訴えて自由な言論を封ずるのは韓国の民主主義にとってプラスであるまい」と述べているのは正論だと思います。が、続けて「日本での出版を待つ人も少なくない」と書いているにもかかわらず、朝日新聞出版から今年4月の発刊予定だったというこの「帝国の慰安婦」の翻訳本がまだ刊行されていないのはなぜ?(朝日新聞社の「配慮」? それともなんらかの「圧力」?)

○9月 5日(金)午後
 「テロ,ライブ」(ヒューマントラストシネマ渋谷)
 いやあ、この映画はおもしろかった! 最初から最後まで緊張が持続します。
 娯楽アクション物とはいえ、ここでも<乙>(持たざる者)の積年の怨念といったものが描かれます。とくにヌルボが注目したのはテロ実行犯の要求が「大統領の謝罪」であるということ。セウォル号沈没事故の場合も被害者側からそのような声があがっていましたね。
  

○同日 夜
 講演会「韓国の切手でひも解く韓国近現代史」( 韓国文化院 ハンマダンホール)
 講師は「北朝鮮事典―切手で読み解く朝鮮民主主義人民共和国」や「韓国現代史―切手でたどる60年」等の著作がある郵便学者・内藤陽介さんで、主に日本の敗戦前後の時期の朝鮮の状況を当時の葉書や封書の住所表示や消印・検閲印等を手がかりに読み解くといった内容。しかし、よくこれだけの資料を収集したものです。
 ※この時間帯に中日ドラゴンズの山本昌投手が最年長勝利達成! うれしい!以上に感動しました!!

○9月 6日(土)午後
  『安倍晋三総理よ!! 拉致被害者・特定失踪者を見捨てるな!!藤沢市民集会 』(主催:北朝鮮に拉致された日本人を救う神奈川の会、後援:藤沢市)
 横田さんご夫妻の話を直接聞くのは初めてでした。また、このような集会も。拉致被害者についての北朝鮮側の調査結果が待たれる中、100人以上が参集して会場は満席。報道関係者も多数来ていました。
 ※当日のNHKの記事は→コチラ、翌日の産経の記事は→コチラです。
  


【「右翼っぽい人」や「運動家っぽい人」も何人か来ているのかと思ったら、全然そんなことなし。】

 また五味洋治さん(東京新聞編集委員)・杉野正治さん(特定失踪者問題調査会常務理事)・陶久敏郎さん(救う会徳島代表)・宮塚寿美子さん(明知大学大学院博士課程・北朝鮮学専攻)によるシンポジウムも興味深いものでしたが、外交交渉のウラや北朝鮮がどう出てくるか等々についてはこうした皆さんにとっても「よくわからない」ということがわかりました。(つまり、具体的なことを書いているような雑誌記事等は根拠が疑わしいということ。)

○同日 夜
 韓国語サークルでベンキョーだっっ
 いつもの大船ではなく鎌倉。日本語の「勉強をします」はまだ勉強をしていないのに対して、韓国語の「배워요」は「勉強をしています」の意。このビミョーな違いがややこしく難しいところ。
 終わってから小町通りへ。ジツはこちらがメイン(?)の二次会。ソウルのモーテルで「カギを盗んで」「立ち入り禁止の屋上に上がった」かどで「犯罪者」と決めつけられた(!)T兄(ヒョン)から説明を聞きました。
 なんでも、客室最上階(4Fだったか?)のわれわれの部屋の前辺りで掃除をしていたおばさんに非常口について訊ねたところ、「上(屋上)に行け」とのことでカギとその置き場所(隠し場所=マットの下)を教えてくれた(!)とのこと。で、その言葉にしたがってそのカギを使って屋上に出たというわけ。
 なんだ、T兄にも1割程度の非はあるかなと思っていたが、まるっきり無実ではないの。1割分とはいえ信じなかったヌルボを許してください。

 あー、ホントにいろいろあった1週間でした。今回はこの1本の記事にまとめましたが、インプット(仕入れたネタの分量)に対してアウトプット(記事にまとめてアップする分量)が追いつかない状況はほとんど慢性的なものになっています。
 一応以下のような当面の記事予定はあるんですけどね。(前もこんな予定を掲げながらもほとんど書かないまま今に及んでいます。とほほ。)
 ①韓国大統領の「権威」と「名誉毀損」、そして「表現の自由」をめぐって 
   ・・・・「左」の洪成潭(ホン・ソンダム)、「右」の産経新聞の場合。日本も決して「自由」とは言えない。
 ②漫画「大韓民国原住民」にみる慶尚道方言(と、1950~80年頃の韓国の地方の生活)
 ③<韓国のびっくりオブジェのいろいろ《○○○○○系》
 ④2000年日本公開の「シュリ」は画期的な韓国映画だった!
 ⑤2004年中朝国境の旅(長白山を含む)の記録
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