長い間ツンドクになっていた李文烈の小説「若き日の肖像(젊은 날의 초상)」を2日間でイッキ読みしました。
もちろん日本語訳です。(柏書房「韓国の現代文学 2」所収)
李文烈については昨年9月6日の記事でも少しふれました。
最初に読んだ彼の小説が「皇帝のために」(講談社.1999)。こんなスケールの大きい作家が隣国にいるのか、と驚きました。(個人的に、この20年間に読んだ中で、中国の鄭義「神樹」、在日作家・金石範「火山島」、有島武郎「或る女」、夏目漱石「明暗」とともにベスト5に入る小説です。※順不同)
※昨年8月22日の記事で書いたように、2006年の時点で彼の作品は33ヵ国で訳されていて、韓国作家中では最多でしたが、そんな作家でも日本語に訳されている作品はわずか4作品だけで、それもほとんど品切れ中です。
その後「하늘길(天の道)」等も読んでみて、李文烈の作品は、寓意を含んだ物語にその特徴があると思いました。小説というよりも物語です。作家自身が自らの生活・経験をそのまま書いたような小説が韓国では多いようですが、李文烈は虚構の物語の中に、より普遍的な価値を追求するとともに、現実社会への風刺・批判を盛り込んでいるということです。
ところが、この「若き日の肖像」は李文烈自身の若い頃の生活・経験をほとんどそのまま綴っていると思われるような自叙伝的小説です。
それぞれ別個に発表された「河口」、「楽しからざりしわが若き日」、「その年の冬」の3部で構成されています。
第1部の「河口」とは洛東江の河口。目的のないままのらりくらりとした生活を続けていた「私」は、再出発をはかって、釜山の外れの江盡(カンジン)で砂を売る商売をしていた兄の下で仕事を手伝いながら高卒の検定試験のための勉強に取り組みます。
そこでの10ヵ月の間に知ることとなった人々との挿話、とくに「別荘」に暮らす金持ちの子女らしい若い兄妹との交遊が印象的。その兄妹も、他の主だった友人も、それぞれに<時代の影>とでもいったものを負っています。
その後「私」は検定試験に受かり、さらに、「当初の目標よりも大学(※学部のこと)のランクを下げ、学科を変えはしたが、それなりに世間体の悪くない大学」に無事合格します。
「大きく脱線した生の軌道はひとまずそれで正常に戻ったわけだ。釜山市内の新聞社で合格を確かめたあと、バスに乗ることも忘れて江盡までの二里を超える道のりを泣き笑いをしながら歩いたことが、今では苦笑いとともに思い出される。流謫(るたく)は終わった-少なくともそのとき、私はそう思っていた。」
・・・この最後の一文が暗示するように、「私」の生活上の苦労と精神的な苦悩は、大学合格後も続くのです。
第2部「楽しからざりしわが若き日」がその大学入学後の物語。
李文烈の年譜をみると、1968年大学入学。この小説では、大学名も書かれてなく、当時の政治・社会についても具体的な記述はありません。
しかし、1970年には朴正煕がセマウル運動を始めます。そんな状況下で「私」も多くの級友たちとともに集会に参加するようになりますが、自分と同じ「思弁的気質」の2人の友人たちとの交友が深まるにつれ政治的なサークルから離れてゆきます。
その後、彼の小説に興味をもつ裕福な家庭の女子学生との交際が始まりますが、つきあいが進むにつれ溝が深まり、破綻してしまいます。(「お日さまをとってきてくださる?」という彼女のいたずらっぽい要求に対する返答として、「私」は(本書で)20ページにも及ぶ大部の寓話を創ります。これだけでまとまった物語になっています。)
結局、授業を欠席し、金もないのに友人と酒場に頻繁に出入りする日々が続き、大学を中退してソウルを離れます。
第3部は、都会を去ってこれといったあてもなく、地方に向った「私」の物語です。まず行ったところが江原道の炭鉱。次に東海岸の漁村を経て、落ち着いた先は慶尚北道の山村の酒場兼宿屋。そこでパンイ(雑役夫)をしながらしばらく過ごしますが、内部からの声が聞こえてきて再び出立します。ある村では偶然再会した親戚のお姉さんと酒を酌み交わしたりもしますが、また深い雪の中を歩き始めます。
(※今年2月19日の記事で書いた、「ソウルの人が自由を求めて向かう先は東海岸=江陵(カンヌン)方面が定番なのかな、との仮説」は正しいかも・・・。)
このような葛藤と彷徨の末に「私」が辿りついた思いは・・・、ということで、「私」の新たな一歩が仄見えるところで小説は閉じられています。
原著の作者後記で、李文烈は次のように記しています。
「今後私が文学的にはこれよりもっと完璧な作品を書いたとしても、そしてまたどんな評者がどのように評したとしても、私が一番大きな愛着を感じるのはいつもこの本だろう。」
貧しさがどこにでもあった時代。また能力はありながらも家庭環境等の事情で進学できない者がふつうにいた時代。しかし、生きてゆくこと自体多くの困難があった中で、切実に人生や社会に真実なるものを追求する「私」の姿は、そうした時代を生きてきた多くの人たちの共感するところでしょう。
韓国サイトで書評をいくつか見たところでは、世代によって受けとめ方が違うかな、とも思いました。日本でもそうですが、数十年前と現代とでは、青春の苦悩といったものに質的な違いがあるような気がします。また、進歩的なネチズンとやり合っている保守派論客の代表ともいうべき昨今の李文烈のイメージが脳裏にちらつく人も相当数いるようです。
※翻訳で、引っかかった箇所が少しありました。
たとえば、フランス中世の詩人ヴィヨンを<ビヨン>と表記したり、<グレチヘン>とあるのは「ファウスト」に出てくる少女グレートヘンのことでしょう。
麻雀用語で<間八萬邊七桶>とされているのは<嵌八萬(カンパーワン)>、<辺七筒(ペンチーピン)>。
どちらも理解して訳しているとは思えません。こういう専門用語(?)は調べればすぐわかるのに・・・。
[李文烈の経歴(作家となる以前)]
1948年ソウル市鍾路区清雲洞で生まれる。3男2女中の3男。
50年朝鮮戦争当時、共産主義者だった父は独りで北朝鮮に行ってしまう。母に連れられ慶尚北道英陽郡に帰郷。
53年安東へ転居。1955年安東中央国民学校入学。
57年ソウルへ転居。ソウル鍾岩国民学校に転校。
59年密陽へ転居。密陽国民学校に転校。
61年密陽中学校に入学するが、6ヵ月で中退。
62年慶尚北道英陽郡に帰郷。64年安東高等学校に進学するが65年中退し釜山へ。しばらくの間彷徨。
68年大学入学検定に合格し、ソウル大学校師範学部に進学。
69年師範大文学会に加入、作家となることを決心する。
70年司法試験を受けるため師範学校国語教育科を中退。しかし連座制等の理由で意志は達せられなかった。司法試験に失敗した後、73年結婚と同時に軍に入隊。
【現在민음사(民音社)から発行されている「若き日の肖像」】
もちろん日本語訳です。(柏書房「韓国の現代文学 2」所収)
李文烈については昨年9月6日の記事でも少しふれました。
最初に読んだ彼の小説が「皇帝のために」(講談社.1999)。こんなスケールの大きい作家が隣国にいるのか、と驚きました。(個人的に、この20年間に読んだ中で、中国の鄭義「神樹」、在日作家・金石範「火山島」、有島武郎「或る女」、夏目漱石「明暗」とともにベスト5に入る小説です。※順不同)
※昨年8月22日の記事で書いたように、2006年の時点で彼の作品は33ヵ国で訳されていて、韓国作家中では最多でしたが、そんな作家でも日本語に訳されている作品はわずか4作品だけで、それもほとんど品切れ中です。
その後「하늘길(天の道)」等も読んでみて、李文烈の作品は、寓意を含んだ物語にその特徴があると思いました。小説というよりも物語です。作家自身が自らの生活・経験をそのまま書いたような小説が韓国では多いようですが、李文烈は虚構の物語の中に、より普遍的な価値を追求するとともに、現実社会への風刺・批判を盛り込んでいるということです。
ところが、この「若き日の肖像」は李文烈自身の若い頃の生活・経験をほとんどそのまま綴っていると思われるような自叙伝的小説です。
それぞれ別個に発表された「河口」、「楽しからざりしわが若き日」、「その年の冬」の3部で構成されています。
第1部の「河口」とは洛東江の河口。目的のないままのらりくらりとした生活を続けていた「私」は、再出発をはかって、釜山の外れの江盡(カンジン)で砂を売る商売をしていた兄の下で仕事を手伝いながら高卒の検定試験のための勉強に取り組みます。
そこでの10ヵ月の間に知ることとなった人々との挿話、とくに「別荘」に暮らす金持ちの子女らしい若い兄妹との交遊が印象的。その兄妹も、他の主だった友人も、それぞれに<時代の影>とでもいったものを負っています。
その後「私」は検定試験に受かり、さらに、「当初の目標よりも大学(※学部のこと)のランクを下げ、学科を変えはしたが、それなりに世間体の悪くない大学」に無事合格します。
「大きく脱線した生の軌道はひとまずそれで正常に戻ったわけだ。釜山市内の新聞社で合格を確かめたあと、バスに乗ることも忘れて江盡までの二里を超える道のりを泣き笑いをしながら歩いたことが、今では苦笑いとともに思い出される。流謫(るたく)は終わった-少なくともそのとき、私はそう思っていた。」
・・・この最後の一文が暗示するように、「私」の生活上の苦労と精神的な苦悩は、大学合格後も続くのです。
第2部「楽しからざりしわが若き日」がその大学入学後の物語。
李文烈の年譜をみると、1968年大学入学。この小説では、大学名も書かれてなく、当時の政治・社会についても具体的な記述はありません。
しかし、1970年には朴正煕がセマウル運動を始めます。そんな状況下で「私」も多くの級友たちとともに集会に参加するようになりますが、自分と同じ「思弁的気質」の2人の友人たちとの交友が深まるにつれ政治的なサークルから離れてゆきます。
その後、彼の小説に興味をもつ裕福な家庭の女子学生との交際が始まりますが、つきあいが進むにつれ溝が深まり、破綻してしまいます。(「お日さまをとってきてくださる?」という彼女のいたずらっぽい要求に対する返答として、「私」は(本書で)20ページにも及ぶ大部の寓話を創ります。これだけでまとまった物語になっています。)
結局、授業を欠席し、金もないのに友人と酒場に頻繁に出入りする日々が続き、大学を中退してソウルを離れます。
第3部は、都会を去ってこれといったあてもなく、地方に向った「私」の物語です。まず行ったところが江原道の炭鉱。次に東海岸の漁村を経て、落ち着いた先は慶尚北道の山村の酒場兼宿屋。そこでパンイ(雑役夫)をしながらしばらく過ごしますが、内部からの声が聞こえてきて再び出立します。ある村では偶然再会した親戚のお姉さんと酒を酌み交わしたりもしますが、また深い雪の中を歩き始めます。
(※今年2月19日の記事で書いた、「ソウルの人が自由を求めて向かう先は東海岸=江陵(カンヌン)方面が定番なのかな、との仮説」は正しいかも・・・。)
このような葛藤と彷徨の末に「私」が辿りついた思いは・・・、ということで、「私」の新たな一歩が仄見えるところで小説は閉じられています。
原著の作者後記で、李文烈は次のように記しています。
「今後私が文学的にはこれよりもっと完璧な作品を書いたとしても、そしてまたどんな評者がどのように評したとしても、私が一番大きな愛着を感じるのはいつもこの本だろう。」
貧しさがどこにでもあった時代。また能力はありながらも家庭環境等の事情で進学できない者がふつうにいた時代。しかし、生きてゆくこと自体多くの困難があった中で、切実に人生や社会に真実なるものを追求する「私」の姿は、そうした時代を生きてきた多くの人たちの共感するところでしょう。
韓国サイトで書評をいくつか見たところでは、世代によって受けとめ方が違うかな、とも思いました。日本でもそうですが、数十年前と現代とでは、青春の苦悩といったものに質的な違いがあるような気がします。また、進歩的なネチズンとやり合っている保守派論客の代表ともいうべき昨今の李文烈のイメージが脳裏にちらつく人も相当数いるようです。
※翻訳で、引っかかった箇所が少しありました。
たとえば、フランス中世の詩人ヴィヨンを<ビヨン>と表記したり、<グレチヘン>とあるのは「ファウスト」に出てくる少女グレートヘンのことでしょう。
麻雀用語で<間八萬邊七桶>とされているのは<嵌八萬(カンパーワン)>、<辺七筒(ペンチーピン)>。
どちらも理解して訳しているとは思えません。こういう専門用語(?)は調べればすぐわかるのに・・・。
[李文烈の経歴(作家となる以前)]
1948年ソウル市鍾路区清雲洞で生まれる。3男2女中の3男。
50年朝鮮戦争当時、共産主義者だった父は独りで北朝鮮に行ってしまう。母に連れられ慶尚北道英陽郡に帰郷。
53年安東へ転居。1955年安東中央国民学校入学。
57年ソウルへ転居。ソウル鍾岩国民学校に転校。
59年密陽へ転居。密陽国民学校に転校。
61年密陽中学校に入学するが、6ヵ月で中退。
62年慶尚北道英陽郡に帰郷。64年安東高等学校に進学するが65年中退し釜山へ。しばらくの間彷徨。
68年大学入学検定に合格し、ソウル大学校師範学部に進学。
69年師範大文学会に加入、作家となることを決心する。
70年司法試験を受けるため師範学校国語教育科を中退。しかし連座制等の理由で意志は達せられなかった。司法試験に失敗した後、73年結婚と同時に軍に入隊。
【現在민음사(民音社)から発行されている「若き日の肖像」】