ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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[韓国の児童書]「方言の味」は全羅道サトゥリ(方言)のベンキョーになる!

2015-02-12 23:54:03 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語

 1月29日の記事で書いたアラディン中古書店江南店で買った本の1つがリュ・ホソン(류호선)作:チョン・ジユン(정지윤)絵「方言の味(사투리의 맛)」です。
 買った理由は、中をパラパラ見ると①全羅道サトゥリ(사투리.方言)がいろいろ出てくるようである。②児童書なので字が大きく、約120ページなのですぐ読めそう。③挿絵から判断すると楽しそうな内容のようである。
 ・・・で実際読んだところすべて当たり。定価8500ウォンの本を中古価格3500ウォンで買いましたが、ホントにいい買い物でした。

 物語の骨格は、全羅道の島からソウルに引っ越した初等学校(小学校)3年の少年ク・チョルファンがソウルの学校で方言を理由にからかわれたりして悩みながらも、担任の先生の支えもあって結局は級友たちの間に方言に対する興味・関心を呼び起こし、校内放送でも番組を担当して人気を得るというもの。

 以下、ちょっとくわしく書くと・・・
 チョルファン少年の故郷は全羅南道麗水市の突山島(トルサンド)という島。韓国で7番目に大きい島で、突山大橋(1984年完成)で陸続きになっています。彼が通っていたのはそこの突山初等学校金鳳(クムボン)分校。調べてみたら実在の学校ですが2005年に突山初等学校に統合されて廃校になっています。突山初等学校の画像は→コチラで見られますが、その記事(韓国語)によると全校の生徒数が約100人。ということは各学年1クラスですね。その分校となると生徒たちは当然お互いをよく知っているということ。
 チョルファン少年はその学校で「アナウンサー」を自任しています。毎週朝会の時には朝礼台に上がり、週訓を読むほか、自分で取材して集めた町内ニュースを発表します。たとえば「(級友の)ヒョギの家で黒ヒツジの子が産まれました。記念としておばあさんがススブクミ(수수부꾸미)を作ってくれます。食べてお祝いしたい人は皆で行きましょう」といった内容。 
 ※ススブクミ・・・・とうもろこしの粉の生地にアズキあんを入れて焼いた軽食。(→画像。)
 ところが、おとうさんの仕事の関係でソウルに転校したチョルファン少年は生活環境や学校のようすが大きく変わってとまどいます。
 マンションのエレベーターに乗り合わせた大人たちは階の表示を見るだけで挨拶しても返事はないし、あったとしても「いなかから来たのか?」「全羅道か?」というものばかりで、突山島とは大違い。このあたりは日本でも同じか。
 そして肝心の学校生活。チョルファン少年は自分なりに言葉のことを意識していて、担任の先生(若い女性)に「ソウルに転校してきて大変じゃない?」と優しいソウル弁で尋ねられた時も、
 “아니여라! 암씨롱토 안 혀요.” (いえ、だいじょうぶです)
という全羅道方言をぐっと飲み込んで
 “아니요.괜찮습니다. ”
とソウル弁で答えます。
 先生は“정말? ”(「本当?」)と少し心配そうですが、彼はこの「チョンマル(정말)?」を女性が発音すると「チョンマルチョンマル、ソウルマルはいいなー」と思ったりします。
 ※全羅道方言では참말로(チャンマルロ)という。
 ところが1週間経つうちに彼が何か話すと級友たちが笑うようになってしまいます。「ウハハハ、ヤクザ(조폭.チョポク)のように話すなあ。ヤクザだ!」
 そして授業で先生がチョルファン少年に「夢は何なの?」と質問した時も、
 “나넌 아나운서가 되고 잡습니다.”(ぼくはアナウンサーになりたいです)
という全羅道方言を頭の中でソウル弁に置きかえ、はっきりと
 “저는 아나운서가 되고 싶어요. ”と言うとクラス中が笑いの渦。「ホントにヤクザみたいに話すなあ」。
 歯をくいしばって涙をこらえるチョルファン少年、「全羅道のヤクザが出てくる映画が多いせいだ、監督がいたら腕をひねり上げてやりたい」と思ったりします。
 ※全羅道関係でヤクザが登場する映画といえば、まず思い出すのが「木浦は港だ」「偉大なる系譜」というのもありますが、私ヌルボは見ていません。釜山を舞台にしたヤクザ映画はいろいろありそうですけどね。
 あだ名も<突山島アナウンサー>から1週間経たないうちに<全羅道ヤクザ>に変わってしまった彼。からかいに耐えられず「やめろ!」と発した言葉がまたソウル弁の「그만해!」ではなく「그만혀!」だったので、笑い声はさらに広がります。
 そこに「うるさいわよ。静かにして!」とヘヒャン。かわいくて級長で子役タレントで、皆から一目置かれている彼女のこの一声で一瞬にして静かになります。
 そのヘヒャンは放送部のアナウンサーでもあります。入部希望生徒が多いので、学年当初に選抜試験が行われます。それも3次まで! その年度の試験は終わっていますが、その後空きができたのでチョルファン少年も挑戦することに。ヘヒャンも発音トレーニングをしてくれるのですが、本番最初の試験で原稿を読み始めると、担当の先生「やめ! あんた故郷どこなの? なんでそんな発音なの?」。
 気が動転した彼は思わず선상님! 지가요・・・・」(先生、ぼくは・・・)の「先生」の発音もソウル弁の「ソンセンニム」ではなく「ソンサンニム」に。(ふーん、そうなるのか・・・。)
 ほかの生徒たちのクスクス笑い。担当の先生は「何ですって?」 「トイレに行きます」と言って放送室を出たチョルファン少年、とめどなく涙。すると後ろから「どうしたの!?」と声をかけたのは担任の先生。「オンオンオン、方言を使っちゃったよ」と今は声をあげて泣くチョルファン少年の言葉も「참말로 속이 징하개 상허요,엉엉엉」(ホントにすごく傷ついたよ、オンオンオン)以下は「熱心に練習したのに、試験の最初から先生が「あんた故郷どこなの?」なんて仰ってすぐ終わっちゃったよ~・・・」等々、すっかり方言丸出し。(訳すのに手間どるほどの濃ゆ~い全羅道語。)
 ところが、ここで驚いたのが担任の先生が彼にかけた言葉。なんと「으짜쓰까 잉」で始まるこれまた濃ゆ~い全羅道語だったのです。流暢なソウル弁を話しソウルの人だと思っていた先生も同じ全羅南道のお茶の産地として知られる宝城(ポソン)出身だったとは! その方言のままでチョルファン少年を慰める先生、「私も最初はどんなに大変だったかしれないのよ(나도 첨에는 을매나 힘들었는지 모른다야)」と打ち明ける先生が、最後に「だいじょうぶよね?(암씨롱토 안 헌 거 맞냐?)」と言うと「だいじょうぶ(암씨롱토 안 허다)」と答えるチョルファン少年。(ここらへん、うるうる来るな~。)
 ※先生の最初の言葉「으짜쓰까 잉」は、標準語では「어찌하면 좋을까요?(どうすればいいでしょうね?)」といった意味、のようです。


 ↑先生の言葉は全羅道方言のオンパレード!
 物語はこの後放送部アナウンサー試験に落ちたチョルファンも他の級友たちと同様クラスのアナウンサーとして先生からのお知らせを読み上げたりしているうちにソウル弁もよどみなく話せるようになります。
 チョルファン少年に続いて新しくクラスに入ったウミニもクラスアナウンサーをやりましたが、彼はイギリスから帰国児童で(don.トン)」(お金)(ddong)」(ウンコ)の区別ができず笑われたりしています。

 ↑チョルファン少年も笑ってますが、この区別はもちろん日本人も苦手な発音の代表例ですね。
 またクラスでは先生の働きかけもあって方言に対する関心も高まり、チョルファン少年は一転して人気者に。隣席の女の子に「おばあさんがパーマをかけてる時に「쪼까 거시기허지?」(ちょっとコシギかしら?)と言ってたんだけど、「거시기」ってどういう意味?」と訊かれたりもします。
 거시기・・・人、物等すべてに使える代名詞というばかりでなく、用言として用いられることもある。①言葉が思い出せない場合 ②口にするのがはばかられるような言葉の場合 ③言葉をアイマイにぼかす場合 に使う。早い話が日本語の「ナニがナニしてね」のナニに相当する・・・というわけですね。
 上記のパーマの例では「ちょっとよくないかしら?」くらいの意味になります。なお쪼까もよく使われる方言で조금(少し)と同じ。
 クラスではその後特別活動の時間で朝鮮半島各地(計八道)に中国黒竜江省の朝鮮族の方言も合わせてそれぞれの方言を調べ、班ごとに各方言による「シンデレラ」の劇を上演するに至ります。
 また入部試験に落ちたチョルファン少年もゲストとしてちょくちょく放送室に入り、金鳳分校にいた時に運動場に逃げ込んだブタを捕まえようと皆で追っかけ回した話等を方言を交えて話したりするようになります。
 そしてラストは「今までは方言の味アナウンサー・ク・チョルファンでした。さて! 私が方言のせいで泣いたりわめいたり(울고불고)した事実は重ねて秘密にしてくださいますように。ありがとうございます」とアナウンサーらしく締めくくってメデタシメデタシ。

 うーむ、こんなに長々と内容紹介しないで全羅道方言を中心に書くつもりだったのになー。
 今まで私ヌルボ、全羅道サトゥリといえば文の最後にやたらに「잉」がつくことと「그런데」「근디」のように「~데」「~디」と変化するくらいしか知らなかったのがこの本でいろいろ学習しちゃいましたからねー。
 しかしたくさん書きとめても大半は忘れそうだし、とりあえずは前掲の「암씨롱토 안 혀요」「거시기」と、それ以外では「아따」「오메(으메)」という2つの代表的な感嘆詞(意味は「あら」「おっ」等々)を頭に入れておくことにします。
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安素玲「甲申年の3人の友」で知る甲申事変のディテールと、主役となった青年たちの生き方

2014-03-07 23:53:56 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
          

 1月11日の記事(→コチラ)で紹介した時はまだ途中までしか読んでいなかった女性作家安素玲(アン・ソヨン)のジュニア向け歴史小説「갑신년의 세 친구(甲申年の3人の友)」を先日読み終えました。

 同じ作家の「本ばかり読むバカ(책만 보는 바보)」も良書でしたが、この本も偶然目にとまって衝動買いしたのが思えば非常にラッキーでした。
 とくに、1882年の壬午軍乱、1884年の甲申事変を中心に、その前後の朝鮮と日本に関わるさまざまなことが史実に忠実に書かれていて、一層興味深く読めました。

 韓国の作家が書いた日本がらみの歴史小説というと、「民族主義に凝り固まった反日小説だろう」と思う人が大勢いると思います。
 ところが、全然そうではありません。多くの歴史書・資料に拠り、正確な史実を土台に書かれています。それも細部に至るまで。
 しかも、勉強にはなってもおもしろくない歴史教科書的な記述ではなく、いかにもジュニア向けの本らしく、感動を呼び起こすとともに考えさせる内容になっています。

 私ヌルボ自身読み終えて心を動かされたのは、「3人の友」、すなわちこのクーデターの中心人物だった金玉均(キム・オッキュン)・洪英植(ホン・ヨンシク)・朴泳孝(パク・ヨンヒョ)の3人の中で、他の2人のように日本に亡命せず、その場に留まった洪英植が清国軍に殺される場面が冒頭に置かれている意味が最後の方でわかったこと。

 残れば殺されることがわかっていながら、なぜ洪英植はあえて残ることを決心したのか? 
 予想外の清国軍の攻勢に遭って、金玉均等は竹添進一郎公使に随って日本公使館に身を避けることに決めます。ところが、それまで黙っていた洪英植が「私は・・・殿下(高宗)に随う」と言うと、驚いた仲間たちは「それは無駄死にするに等しい」と説得します。
 そこで作者は、作中で彼に次のように語らせています。

 「おまえたちの話はもっともだ。後々のため皆ここを発たねばならない。だが誰か1人は残って、われわれが何のため決起したのか、何をしようとしていたのかを知らせなければならない。われわれの企ては成功しなかったが、われわれの志だけは後世まで伝えられのようにしなければならない。殿下をそのままにして行ってしまうとわれわれの真心を誰が信じてくれるだろうか? 私は最後まで殿下に随う」。

 作者安素玲は、この彼の「志」を自身受けとめ、それをまた若い読者たちに伝えたかったのだと思いました。

 この「志」とは、具体的にいえば、朝鮮を自主独立の近代国家とし、身分制度を否定して人々すべての権利や自由を保障する社会を創ること。

 そのようなことを甲申事変の10年前に朴珪寿(パク・キュス)の邸宅で語り合った彼らですが、作者はその「志」に共感を寄せるものの、彼らの起こした事変や、状況判断等については冷静に批判もしています。
 とくに民衆のためといいながら、北村(プクチョン)の邸宅で暮らす名門貴族の子弟である彼らはその民衆の実像(生活等)を知らなかったこと。壬午軍乱の時も干魃による大凶作云々に関心を向けなかったり、甲申事変に際しても、新政府の顔ぶれは公表したものの、自分たちがめざす政府の基本理念や方針等は積極的・具体的に伝えようとしませんでした。
 したがって、肝心の一般民衆は彼らを「日本と内通して国を売り渡そうとしている逆賊」と見てしまったのです。

 甲申事変が文字通りの「三日天下」で失敗に終わった直接的な要因として、①清国軍はベトナムでの対仏戦争のため朝鮮に本格的に乗り出してこないだろう、との希望的観測が先行してしまったこと。②日本の軍事的支援を過大視していたこと。これまた希望的観測です。③信頼できる武装組織を準備できないまま決起してしまったこと等です。これらの点も指摘されています。
 ※私ヌルボの感想としては、同じ頃の日本と比べて政府内の守旧派の勢力が非常に強かったこと、清国の支配力がまだまだ相当に強かったこと、世界の情勢に疎く、危機感が欠如していたこと、また非常に重要なポイントとして国の財政がどうしようもなく窮乏化していたこと等々、開化派にとってのマイナスの事柄ばかりたくさんあった・・・ありすぎた、という中で、結局焦ってことを起こしてしまった、という印象を受けました。

 この小説では甲申事変が潰えて洪英植が斃れた後の物語として、10年後の1894年3月、神戸港から上海に向かった金玉均が彼の地で殺されるまでのこと等が描かれます。(周囲の人たちから危険を指摘されながらも、八方ふさがりの状況にあった彼はわずかの希望に賭け、あえて行くしか道はなかった。)

 そして最後の部分で記されるのは、さらに37年後の1931年、71歳になった朴泳孝の姿。彼は大日本帝国の侯爵・貴族院議員にまでなっています。その彼の邸宅を人気作家李光洙が訪ねてきます。彼が甲申事変のことに話を向けると、朴泳孝は上機嫌で語るのです。
 「そう、明治が何だというんだ!? ことがうまくいってたら李朝も大したものになってたのに。政権を取るには国王を必ず確保してなければならないのに、金玉均がずるずると国王を取り逃がしてしまったのだ」。
 金玉均より10歳年下ながら、朴泳孝は朴珪寿の推挙で哲宗の娘の永恵翁主と結婚したため、わずか3ヵ月で永恵翁主が世を去った後も王の姻戚として人々から、また開化派の中でも丁重に扱われました。しかし日本に亡命後は金玉均ばかりが注目される・・・、そんなこともあってか彼の金玉均に対する思いは複雑なものがあったようです。
 彼は、甲申事変を準備し統括したのは洪英植で、現場での総指揮は自分が担当し、金玉均が担当したのは日本公使相手の通訳という取るに足りないものだったように語ったりしたそうです。
 ※現在、ソウルの南山韓屋村(→ソウルナビ)で移築された朴泳孝の旧家屋を見学することができます。
 若い頃、共に「志」を語り合い、10年後共に決起した「3人の友」の人生はこのように大きく異なるものになってしまいました。

       
      【南山韓屋村にある朴泳孝の旧家屋。7、8年前に行ったことがあります。】

 日本でいえば明治初期から昭和にかけて、朝鮮にとっての厳しい時代状況の中で、時代を見る目を持った若者にとってどんな生き方がありうるのか? そんなことを今の韓国の若者だけでなく、日本人のオジサンにも考えさせるような小説でした。

 この本の第1章。若い頃の「3人の友」が集まった朴珪寿の邸宅は今はありません。ただ、彼らにも親しまれたという白松の老木は今も健在です。
 樹齢600年と推定されるこの木は国の天然記念物第8号に指定されています。その地には今は憲法裁判所の建物がありますが、見学できるそうです。景福宮からも近い所なので、今度ソウルに行った時にぜひ行ってみようと思います。(参考→ソウルナビ。)

      
          【高さ15メートル。生え際から幹がV字型に分かれています。】

          
     【「朴珪寿先生家址」の碑。ちょうど140年前、「3人の友」たちが熱く語りあった場所です。】

 この小説には、「3人の友」の他にもさまざまな人物が登場します。
 また、読み進んでいる間、いろんなサイトを見て、当時を知るための資料等々いろんなことを知りました。
 それらについては、また続編で書くことにします。
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安素玲「甲申年の3人の友」は、洪英植・金玉均・朴泳孝それぞれの悲劇を描いたジュニア向き歴史小説

2014-01-11 23:49:49 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
       

 常に何か1冊は韓国本を読んでいるようにしよう、と心に決めているわけではありませんが、一昨年あたりから(もっと前かな?)事実上そうなっています。
 12月にイ・チャウォン「大東輿地図」を読み終えた後にとりかかったのが安素玲(アン・ソヨン)のジュニア向け歴史小説「갑신년의 세 친구(甲申年の3人の友)」 。

 実は最近注目の小説をいくつか仕入れてくるかなと職安通りの韓国書店に行ったところ、目当ての本はどれもナシ。少し落胆して、ボーッと書架の本を眺めていたらこの本が目に入ったのです。

 安素玲の本は、本ブログで下記の2冊を紹介したことがありました。

[A] 「本ばかり読むバカ(책만 보는 바보)」 (過去記事は→コチラと、→コチラ。)
[B] 「茶山(タサン)の父に(다산의 아버님께)」 (過去記事は→コチラ。)

[A]は18世紀末の実学者李徳懋(イ・ドンム)を中心に、洪大容(ホン・デヨン)朴趾源(パク・チウォン)等々、正祖の時代の実学者群像を描いた作品です。

[B]は、[A]の一時代後(20年以上後?)、保守派による弾圧事件の1801年辛酉教難によって全羅南道康津(カンジン)に流罪となっていた実学者の最高峰というべき丁若鏞(チョン・ヤギョン)を、成人した彼の次子・丁学游(チョン・ハギュ)が訪ねていく物語です。

 そして、今回の本。
[C] 「甲申年の3人の友(갑신년의 세 친구)」>
 「甲申年」とは1884年。具体的には「甲申事変」のことです。
 金玉均等の開化派(独立党)によるクーデターですが、閔妃の依頼を受けた清軍の介入により新政権は文字通り三日天下に終わったという事件。(→ウィキペディア。)
 この本の題名の「3人の友」とは、このクーデターの中心人物である金玉均(1851~94)・洪英植(1855~84)・朴泳孝(1861~1939)の3人のことです。

 1884年当時の年齢はそれぞれ33歳、29歳、23歳。しかし彼らの没年の大きな違いが彼らの生涯を物語っています。(流転の末上海で暗殺・事変の際斬殺・日本に取り込まれ貴族院議員に。)

 この小説の冒頭(1章の前)は、クーデターが失敗に終わって、日本に逃れる金玉均等と別れ、あえて朝鮮に残った洪英植が斬殺される、という場面。のっけから前の2作とは全然違う雰囲気です。
 そして1章は、10年過去に戻って1874年。彼ら3人が朴趾源の孫にあたる朴珪寿(パク・キュス)の邸宅で、広い知識を身につけ開明的な思想を学び、志を語り合ったりする場面。ここで若い彼らが抱いた夢のことを考えると、その後の史実をおおよそ知っている私ヌルボとしてはなんとも痛ましい・・・。

 ここに描かれている当時の朝鮮の政情は、日本より10~20年遅れている感じです。1870年代だけでなく、80年代も守旧的な攘夷論が非常に根強いのです。
 そんな中で、世界の情勢をある程度知り、自国に強い危機意識を持ち、開明的な思想を抱く者は、それだけで波乱万丈の生涯、いや「悲劇的な生涯」が約束されてしまうというものです。

 日本の江戸後期~明治維新期の場合は、先覚者たちの歴史を順に見ていくと、いくつかの悲劇はありながらも、大きな流れとしては近代国家の成立&文明開化でメデタシメデタシ。読者も作中人物とともに達成感も得られます。
 ところが朝鮮の場合はまるで逆。そして現代での評価も例の「親日」等の批判があったり、悲劇は今も続いているといっていいかも。時代状況が少し違っていたら、<朝鮮の木戸孝允>とか<朝鮮の福沢諭吉>になる目があったかもしれない、・・・かどうかは措くとして、優れた資質を持った人たちだったとはいえるでしょう。

 安素玲の著作全3作は、[A]が2005年、[B]が2008年、そして[C]が2011年と、3年間隔で時代順に刊行されてきました。
 主人公の置かれた状況は、朝鮮の命運そのままに厳しくなるばかりです。
 彼女が4作目を書くとしたら、1894年の甲午改革(→ウィキペディア)のあたりか、でなければ20世紀初頭の一進会(→ウィキペディア)とか・・・。
 
 前にも書きましたが、歴史の勉強になるとともに、今の(特に安素玲さんのような進歩陣営の立場からの)歴史評価のありようも読み取れそうで、先が楽しみです。(現在、全300ページ中60ページまで読み進んだところ。)
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絵本「おつきさまこんばんは」、「ひよこさん」の韓国版と、韓国の絵本状況など

2013-04-11 21:16:48 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 ずっと以前に韓国でトップのネット書店<YES24>の会員になって以来、頻繁にメールマガジンが送られてきます。その数は毎月2ケタにはなるのでは?

 内容は、図書情報だけでなく、新刊書プレゼント、映画情報(試写会・前売り券等)等のお知らせや、書籍以外のいろんな商品の通販のお知らせ。たとえば各種ギフト、化粧品、食料品、雑貨等々。自転車なんてのもあるなー。
 で、肝心の図書情報はというと、月3回くらい送られてくる「YES24다락편지(多楽手紙)」に毎回1つのネタが書かれています。
 その「多楽手紙」も、とくに私ヌルボの興味を引くような本の紹介はあまりなくて、ざっと目を通すくらいですが、4月7日(日)の「多楽手紙」は日本の翻訳絵本を取り上げていたので注目しました。

 見出しは「林明子18年ぶりの新作絵本(하야시 아키코 18년 만의 신작 그림책)」
 記事本文の訳は次のとおりです。

 30年近く続け愛される幼児の絵本があります。満1歳前後の子供がいる家なら誰もが1冊くらい持っている『おつきさまこんばんは』、みなさんご存知でしょう? 真っ暗な夜、屋根の上にあらわれた明るいお月様に挨拶し、過ぎていく雲に隠されたお月様を見て泣きそうな顔になり、再びあらわれたお月様に向かってうれしそうに挨拶する絵本。あまりにも単純な内容の絵本ですが、それで子供たちがより見やすくお月様のあとをついてにっこりと笑い、しかめっ面もして、長い間愛される本になりました。
 今回出された『ひよこさん』は林明子が18年ぶりに出した新作であり、2008年に亡くなった夫の文と林明子の絵が調和した作品です。夕暮れ時の黄色い赤ちゃんひよこ1羽が野原に走っていきます。日が暮れて薄暗くなるのに、どこに行くのでしょうか? いつの間にか空には星が浮かんで夜になりました。一人で眠りについた赤ちゃんひよこに誰かが近寄ってきます。母鶏ですね。母鶏は、赤ちゃんひよこをふところにぎゅっと抱いています。朝になってママのふところで目が覚めた赤ちゃんひよこは喜んで叫びます。「あ、お母さんだ。お母さん、おはよう。」  
 心配する母親とは違って、好奇心いっぱいで無邪気な赤ちゃんひよこは子供たちの姿そのままです。簡潔な文章と温かい絵の中に母と子の間の絶つことのできない無限の愛がいっぱい感じられる絵本です。


        
        【日本で今年2月発売の『ひよこさん』(左)の韓国語版(右)が、もう4月1日に発行。】

 日本の絵本の翻訳本が韓国内で多数発行されている状況については、2010年9月12日の記事で書きました。上野の国際子ども図書館で開かれていた特別展に行った時の記録です。
 その記事中で紹介した地域別の翻訳出版件数の順位は次のようになっています。
  (1)韓国 2177 (2)台湾 1206 (3)中国 537 (4)米国 501 (5)フランス 486 
 つまり日本の絵本の輸出先は韓国が圧倒的に1位ということです。(→コチラ参照。)
 そしてそこでも「韓国で抜群に読まれている絵本」として紹介されていたのが林明子「おつきさまこんばんは」でした。(→コチラ参照。)

 上掲の<YES24多楽手紙>の文にもあるとおり、月が上がって、雲に遮られて、また現れるという「あまりにも単純な内容」で、おとなであればたぶん1分(!)で読めるのではないでしょうか? しかし0~2歳児にとっては十分以上に印象的な絵本のようですね。あ、読んだことのない方は→コチラコチラの記事参照。いろんなブログ記事を見ると、子供たちの反応の強さは信じられないほどです。
 韓国語学習者の皆さん、韓国語版の方の文字部分は→コチラのブログ記事(日本語)を参照されたし。5分以上かかる人もいらっしゃるでしょうが、がんばってください。

          
  【『おつきさまこんばんは』の日本語版(左)と韓国語版(右)。韓国語版はなんで月が青く縁取られているのかな? 】

 この『おつきさま こんばんは』は、<教保文庫>の絵本の現在(今週)のベストセラー・ランクでも第8位に入っています。

 さて『ひよこさん』の方ですが、これは「こどものとも 0.1.2.」の2013年3月号として発行されたものです。つまりわずか2ヵ月前。
 横浜市立図書館にあったので読んでみました。
 こちらも文字部分は少ないので、おとなだとやはり2分以内で読めます。福音館書店のサイト内の紹介ページは→コチラ
 この本の折込み付録の説明によると、5年前に亡くなった征矢清(1935~2008)さんが夫人の林明子さんに書き残したお話とのことです。
 母性愛に満ちた絵本なので、おとなにとってはコチラの方が感動すると思います。(笑)
 韓国版のタイトルはで、単なる「병아리(ひよこ)」なのはなぜかな? 子供相手にていねいな言葉を用いると不自然なのかも。

 さて、なんとなくこの『병아리』について<YES21>の説明を見ていて、「エッ!?」と驚いたのが翻訳者のキム・ナムジュという女性。主な翻訳書を見てみてください。
 黒柳徹子『窓ぎわのトットちゃん』・佐野洋子『100万回生きたねこ』・村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(韓国題:一角獣の夢)』・吉本ばなな『キッチン』・東野圭吾『聖女の救済』・江國香織『冷静と情熱のあいだ Rosso』・小川洋子『博士の愛した数式』・安部公房『砂の女』等々、その他いろいろ。
 いったい何なんだ、このプデチゲのような(←意味不明)ごちゃまぜ状態は!?

 今、韓国での絵本の売れ行きランキング上位20位までについて、作家を国別で見ると、韓国6、日本3、その他11。(40位まで見ると、学習絵本が入ってくるので、もっと韓国が多くなります。)
 しかし、以前の記事でも書いたように、日本と韓国の間をみると、日本の絵本は大量に韓国で翻訳・出版されているのに、その逆はあいかわらず非常に少ないという状況は変わっていないようです。

 たまたま「韓国児童書出版の動向」と題された記事が見つかりました。韓国の児童書関係者によるものと思われる、くわしいレポートです。
 これによると、90年代以降の児童書文化の大きな流れのポイントは以下のとおりです。
・韓国では、長い間“児童文学は幼稚である”という社会の認識と闘ってきた。また作家の大部分は男性で占められていた。  
・そのような状況に変化の兆しが見え始めたのは1990年代からで、女性も作家として登場し始めた。
・“ママ”作家たちは、“教訓性”という児童文学の伝統を超え、子供たちの感受性に即した童話を発表した。そして韓国の児童文学は長い停滞期から脱却し、ルネサンスを迎えた。
・2000年代に入って、多くの児童文学賞がスタートし、作家教室、大学の文芸創作科出身の作家たちが多数登場した。彼らは権威的な政治環境やイデオロギーに束縛されない自由な世代の作家で、既存の作家とは異なる奇抜な想像力を発揮している。
・韓国は絵本文化が根付いてからわずか20年である。韓国の経済成長のスピードに似て、絵本産業もまた短期間のうちに飛躍的な発展を遂げた。

 他の分野同様、絵本文化もやはり90年代から新しい時代に入ったということですね。

 私ヌルボも韓国の絵本(原書&翻訳書)をこれまでそれなりに(30冊くらい?)読んできましたが、たしかに日本でももっと翻訳・出版が進むといいとおもいます。

 たとえば、チェ・スッキ(최숙희)という人気絵本作家。ベスト20中に5作品も入っています。

        
  【1年生の教科書にも載っているチェ・スッキ作「ケンチャナ(いいじゃん)」。一目で彼女の絵だとわかります。(英語版もある。)】

 上の画像の「괜찮아(ケンチャナ.いいじゃん)」の内容は→コチラで見ることができます。
 しかし、今のところ彼女の絵本で翻訳されているのは『檀君』だけ。(それもキム・セシル作で、絵だけ担当。)

 他にも、いい絵本がたくさんあります。韓国語が初級レベルでも、絵本だととっつきやすく読みやすくてオススメなんですけどねー。

 あ、韓国の絵本といえば、この分野で大竹聖美さんという方のお名前をこれまでしばしばお見かけしましたね。関係記事は→コチラコチラ

 うーむ、記事をまとめるどころか、広がってきてしまったゾ、ということでおわりにします。
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ハンセン病と韓国文学①

2013-03-20 21:07:49 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 韓国とハンセン病についての一連の記事で、「韓国のタルチュムとハンセン病者のこと」と題した記事を書いてから1ヵ月経ってしまいました。続きがなかなか書けなかったのは、「重い内容」の上、また自分自身どう考えたらいいのか、どう書いたらいいのかよくわからなかったからです。
 具体的には以下の内容からお察しください。

 ハンセン病について書かれた文学、ハンセン病患者によって書かれた文学は日本にも韓国にもいろいろあります。もちろん世界各国にもですが・・・。
 多磨全生園に隣接する国立ハンセン病資料館内の図書室には数多くの関係図書や各種資料が収蔵されていて、館外からのネット検索も可能です。月ごとの新聞・雑誌記事リストも見ることができます。

 私ヌルボ、昨年暮れに行った時に、短い時間だったので韓国関係の開架図書をざっと見ただけてたが、以前紹介した李清俊の小説「あなたたちの天国」(みすず書房.2010)も当然あり、書庫にはその原書もありました。
 初めて見た本としては「知るもんか!」(汐文社.2005)という児童書。4人の韓国作家の短編集です。その中に、イ・ヨンホ(이영호)作の「ポイナおじさん(보이나 아저씨)」という短編が収録されていました。ハンセン病のおじさんと家族に対する差別を目の当たりにした少年の心の機微を描いた作品です。

          

※この作品(韓国語)は、インターネットで読むことができます。→コチラ、またはコチラ
 →自動翻訳

 この作品の梗概は以下の通りです。
 ほとんど外出することなく部屋こもっている<ポイナおじさん>の家の前を通る時、子どもたちは声を張り上げるのです。「ポイナ?(見える?) アン ポイナ?(見えない?)」と、節までつけて。偶然庭に出ているおじさんの姿を見ようものなら、「ポーインダ!ポインダ!(見ーえた!見えた!)」と悲鳴を上げんばかりに逃げまくります。
そのおじさんが「本を書いているらしい」とか「日本で大学まで出た」という話を少年は信じなかった一方、「裏山の麦畑で赤子を食べ、血のりがべっとりついた口を大きく開けて、ワンワン泣いていた」というウワサは信じていました。友だちのひとりが「ポイナおじさんにつかまったら、食べられてしまうぞ。・・・子どもの肝を食べたら、らい病治るって言ってたぞ。ほんとうらしいぞ」と言ったことも少年は覚えています。  
 「ポイナ(보이나)」は日本語の「らい病者」を韓国語にした「ナイボ(나이보)」を逆に読んだ俗語です。
 少年は、たまたまポイナおじさんの2人の女の子たちと話をするようになります。また彼の父は以前からおじさんと知り合いで、少年が「ポイナおじさん」と言うと彼をきつく叱ります。やがてポイナおじさんが引越ししていくようすを少年は駅で目にします。汽車の車掌がおじさんを汽車の外に追い出すと、おじさんは客車の屋根にはい上がります。おばさんと2人の娘も屋根にあがります。少年を見たポイナおじさんは「元気でなー!」と手をふります。娘たちも。そして少年も「ポイナおじさーん!」と叫び、手をふりつづけます。


 ・・・今、この「보이나」とか「나이보」とかの言葉は、ネット検索をしたかぎりでは死語になっているようです。
 ただ少し気になったのは、先に少し引用した「裏山の麦畑で赤子を食べ・・・」という部分。

 今の日本では、差別の意図はなくても、差別を生むおそれがあったり、被差別者を傷つけるおそれのあるような表現は避けられるようになっています。

 たとえばハンセン病関係では有名な松本清張の「砂の器」
 映画化作品も名作との評価が高く、TVでも5回にわたりドラマ化されています。しかし原作も映画やドラマの再放映でも、今は「差別語」についての注がつけられたり、音声が一部消されたりしています。私ヌルボとしては、ちょっとナイーヴすぎるのでは、とも思うのですが・・・。(多数ある「差別語」関連のことわざがほとんど使われなくなっていたりするのも同様。)
 とはいうものの、荒井裕樹弁護士が『砂の器』について批判的に書いている記事はなかなか説得力があると思いつつ読みましたが・・・。

 一方、韓国では、以前の記事でも書きましたが、日本に比べると「差別語」や「差別的表現」のハードルがかなり低いように思われます。
 上述の「裏山の麦畑で赤子を食べ・・・」という強烈な内容の話は、今の日本ではとんなものでしょうか? 
 日本にも、昔から奥州安達ヶ原の鬼婆の伝説のように人間の内臓が薬とされたという物語(や事実!)が伝えられています。
 ウィキペディアの<カニバリズム>の項目を見ると、古今東西の多くのおぞましい事例が挙げられていますが、<朝鮮>に関しても次のような記述があります。

 朝鮮半島でも食人文化は見られ、「断指」「割股」という形で統一新羅時代から李氏朝鮮時代まで続いている。孝行という形以外で直接的に人肉を薬にすることについては比較的遅くに見られ、李氏朝鮮の中宗21年の数年前(1520年代)から広まっており、宣祖9年6月(1575年)には生きた人間を殺し生肝を取り出して売りさばいた罪で多数捕縛されたことが『朝鮮王朝実録』に記載されている。  
 また、韓国独立運動家の金九は自身のももの肉を切り、病気の父に食べさせている。この民俗医療の風習は、元々梅毒の治療のために行われたと推察できるが、後にこれらの病に留まらず不治の病全般に行われるようになり、植民地時代の昭和初期に至っても朝鮮・日本の新聞の記事の中にも長患いの夫に自分の子供を殺して生肝を食べさせる事件や、ハンセン病を治すために子供を山に連れて行って殺し、生肝を抜くという行為が散見される。ただしこの時代の朝鮮人社会でも、すでにこのような"薬"としての人肉食は前近代的で非科学的な奇習と考えられているようになっており、一般的ではなくなっていた。当時の植民地朝鮮で施行された日本法でも禁止されている。


 ・・・うーん、なんともコメントしづらい記事ではあります。
 ヘタしたら「嫌韓」のネタにされそうですが、洋の東西を問わないことのようなので誤解のないよう望みます。

 次の記事<ハンセン病と韓国文学② 高銀・韓何雲・徐廷柱・・・、韓国の著名詩人とハンセン病のこと>では、「この件」についてのこうした「歴史的背景」と関連して、著名な詩人・高銀の作品等を見てみます。

[韓国とハンセン病関連記事]

 → <ハンセン病の元患者、歌人・金夏日さんと、舌読と、ハングル点字のこと>

 → <2005年毎日新聞・萩尾信也記者が連載記事「人の証し」で金夏日さんの軌跡を記す>

 → <ハングル点字のしくみを見て思ったこと>

 → <韓国の「ピョンシンチュム(病身舞)」のこと等>

 → <韓国のタルチュム(仮面舞)とハンセン病者のこと>

 → <ハンセン病と韓国文学② 高銀・韓何雲・徐廷柱・・・、韓国の著名詩人とハンセン病のこと>
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[韓国本]安素玲「本ばかり読むバカ」を読む ②(朝鮮ならではの)「地転説」の衝撃

2012-06-28 16:57:37 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 6月24日の記事で、小説本ばかり読むバカの書き手として設定されている李懋(イ・トンム)等の実学者仲間の先生格にあたる洪大容(ホン・デヨン.1731~1783)について、「今ふうにいえば「理系」の人」と書きました。

 その彼が、李懋や柳得恭(ユ・ドゥッコン)等に対して宇宙論を語る場面がなかなか興味深く、また感動的だったので、本文の翻訳を交えつつ紹介します。

 まず洪大容は、地球が丸いこと、そして1日に1回ずつ回っていることを説きます。一同は「月食は地球の影だ」等の説明にうなずきながらも、疑問の声も当然起こります。
 「なぜ回っていて落ちないのですか?」という李懋の質問に、洪大容は答えます。
 「地球の中に大きな力があって、引っぱっている。地上の人だけでなく、空を飛ぶ鳥も、海水も同様だ。」
 ・・・以下、長文ですが、原文に近い形で訳しました。

 「そんな理や大きな地球が非常な速度で廻っているとは、われわれの心の中ではそれよりもっと大きな暴風が起こっていた。 

  <この世の中の中心は私>
 われわれをしばし見渡していた先生(洪大容)は、ふたたび温かい声で話しかけた。
 「おまえ、さっき地球が球のように丸ければわれわれが下側であるはずはないと言ったな?」
 「はい・・・。」
 「球には上、下がない。どこが中央かもいえない。中国の人たちの立場から見ればわれわれは東の外れの小さな国にすぎないが、われわれの立場で見ると中国も北側の大きな国土にすぎない。われわれは西洋人とよぶが、彼らの眼で見るとわれわれは東洋人だろう。すると自分だけが中心だと自慢することも、辺地だからとしょげることもないな。皆同じこの地球で生きていく人たちだろう。」
 その瞬間、われわれの胸には大きな波が揺らめいた。朴齊家の濃い眉は一段とうごめいた。天、地、地球のことはもともと実感がわかず、とまどいもしたが、われわれが住んでいるこの場所が中心となるのだという言葉は鮮やかに迫ってきた。われわれが住んでいるこの国が、そしてここで暮らしているわれわれ自身が大切な存在として新しく生まれるような、充たされた感じだった。」


 (・・・夜更けて帰宅した彼は、子どもが遊び道具にしていた糸玉を転がしつつ、どの国も中心となり得るのだ」という考えを反芻します。そして彼は、さらに考えを先に進めます。)

 「してみると、自分の境遇も同じではないか? 身分の制約がある現実の中で、自分のような庶子は片隅で生きるほかない。しかし一人の一生をみれば、誰が中心で誰が外れだと言えようか? 誰も自分の人生では自分が中心なのだ。 
 私は何度も糸玉を転がしてみた。地球が丸いという湛軒先生(洪大容)の言葉は、われわれが暮らしている土地の姿に対しての話だけではなかった。外れの小さな国に住むといって大きな国の目ばかり見ないで、花開く道のない身の上だといって臆することなく堂々と生きていこうということをおっしゃりたかったのだろう。糸玉をあちらこちら転がして、その晩私は眠りにつくことができなかった。ほかの友人たちも同じだっただろう。」


 洪大容は(「本ばかり読むバカ」に描かれているように玄琴(ヒョングム)の名手で、先の記事に書いたように数学等に優れた「理系の人」ですが、とくに注目すべきはやはり天文学で、渾天儀(天体観測器)を作りも籠水閣という私設の天体観測所に設置して観測したそうです。

 彼は毉山(いざん)問答という著作でその宇宙論や社会論を展開しています。(※原漢文。ハングルの翻訳本も出ています。→コチラ参照。)

 洪大容について、長く研究を続けてきた代表的研究者が小川晴久二松学舎大教授です。
 小川晴久先生といえば、90年代から北朝鮮の収容所等の人権問題に対してNO FENCE副代表や北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会名誉代表として精力的に活動してきた人として知られているかもしれません。
 しかし専門は東アジア思想史の学者です。1963年鄭鎮石・鄭聖哲・金昌元共著「朝鮮哲学史」(弘文堂)を読んで朝鮮実学に興味を持ったとのことで、1978年には韓国に洪大容研究のため留学した経歴があります。
 その小川先生が朝鮮の文化・歴史・学問を素材として1986年度のNHKハングル講座のテキストに連載した文をまとめた「朝鮮文化史の人びと」(花伝社)という本があります。その中に、7ページの小稿ですが、この「毉山問答」の魅力を記した「虚子と実翁」という章がありました。その内容を以下略述します。
 虚子と実翁は「毉山問答」の登場人物2人の名です。虚子は30年間学問に専念した学者ですが、その成果を語ろうにも朝鮮国内には語り合える者はなく、中国の北京を訪ねても大学者にめぐりあえず、帰途につきます。その途中、東北の名山の毉山で遁世の心が起き、山中をさまよう最中に出会った隠者が実翁でした。
儒者としてあらゆる学問を学んだ虚子にあっても抜きがたい人間中心主義、天円地方的天地観、中華意識といった固定観念を、実翁は、次のような観点から打ち砕きます。
・天より視れば人と物と均し・・・無限性と自然という立場からみるとき、人間とそれ以外の物の優劣の差はなくなる。
・宇宙に上下の勢いなし・・・宇宙は無限の空間であり、上と下との区別もなく、したがって上から下へ落ちるという勢い(方向性)もない。地球は周囲が9万里の球体で、一時(2時間)あたり12分の9万里の速度で回転している。
・空界無尽、星もまた無尽・・・満天の星も地球と同じ姿の星界である。星界から見れば地球もまた無数の星の1つである。

 大地が球体と把握されたとき、すでに中国が中心という中華意識は根拠を失うのですが、さらに地球中心、太陽中心の否定まで進めているのです。
 小川先生の説明には、「毉山の位置にも注目しなければなりません」とあります。今は中国の領内ですが、高句麗時代には中国と朝鮮の境だったそうです。そこに住む実翁(実は洪大容)は、「中国人でも朝鮮人でもない国際人化した朝鮮人だったとみるべきでしょう」というわけです。

※「毉山問答」の、主に宇宙論に関する内容については、「朝鮮新報」のサイト中の<人物で見る朝鮮科学史>で紹介されています。

 <李英愛研究>というブログの中に<鶏林日月抄 韓国と儒教>と題して、ヤフー百科事典(韓国語版)の実学の項目に基づいてその特性を紹介し考察している記事がありました。
 それによると、朝鮮後期の実学思想の特性としては、
 ①開放的思惟への転換 ②現実問題に対する関心 ③自主的基盤の覚醒
・・・の3点が挙げられる、とのことです。
 そして、「③自主的基盤の覚醒」に関しては以下のように述べられています。
  ・自主的基盤の覚醒は学問的主題の派生的な成果と言える。 
  ・実学思想の現実意識は、中華主義の理念的な虚構性を拒否し、滅びた明朝ではなく、現在の清朝の先進技術に関心を向けた。そして洪大容の「域外春秋論」に見られるように、国ごとに自己中心意識が可能であるという多元的世界観を提起した。
  ・中国中心の華夷論から脱して、朝鮮の客観的現実に対する関心が高まり、朝鮮社会の独自の自主性に覚醒し始め、朝鮮の歴史・地理・言語・風俗に関する研究が活発に起こった。


 大国中国に隣接し、その影響力があまりにも大きかった朝鮮だからこそ、中華主義の固定観念を打破する観念として洪大容の宇宙観は(とくに思考の柔軟な実学者たちにとって)衝撃的だったことが推察されます。

 上述の「本ばかり読むバカ」中のエピソードを読むと、自然科学の分野での新しい知見が、社会科学・人文科学にも大きな影響を及ぼすことがわかります。とくにこの洪大容の地転論は、近代的な思想を導く性格をもっていたことが理解されます。もちろん、その後の歴史の展開をみると、決してスムーズに近代につながっていったというわけではないようですが・・・。

 ・・・こうしてみてみると、「本ばかり読むバカ」で描いた洪大容が弟子たちに宇宙論を語り、弟子たちはそれを社会観とも関連づけて受けとめ、大きな衝撃と感動を受けたという場面は、セリフ等々は安素玲さんが想像で書いたとしても、基本的には史実に基づいた叙述と理解していいのだな、と思いました。(李懋の「身分制に対する疑問」については保留。)

☆先に書いたように「本ばかり読むバカ」は勉強にもなり、上記のような感動的なくだりもあって読んで「正解」ではありましたが、思い起こせばずいぶん前に、加藤文三「学問の花ひらいて」(新日本出版社)という江戸時代後期の蘭学者群像を描いた本を読んだことがありました。ソチラの方が内容もドラマチックで、感動の度合いも大きかったという印象が残っています。
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[韓国のジュニア向き歴史小説] 安素玲「本ばかり読むバカ」を読む ①正祖の時代の実学者群像

2012-06-24 23:42:06 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 ヤター! 久々に韓国書を読了。
 本ブログの今年2月19日の記事で紹介したタサンの父にの作者・安素玲(안소령.アン・ソリョン)が2005年に書いた、これもジュニア向きの本ばかり読むバカ(책만 보는 바보)」という小説です。

 読みやすい韓国語ですが、電車に乗った時等に少しずつ読み進んだので、結局約4ヵ月もかかってしまいました。

           
      【帯に「“1都市1冊読書”選定図書」とあり、その下に「2011年one book one 釜山」以下が並んでいます。】

 この書名は、朝鮮の正祖の時代(18世紀末)の実学者李徳懋(이덕무.イ・ドクム)が21歳の時に書いた短い自叙伝「看書痴伝」からとったものです。

 内容はというと、彼ら実学派の学者・文人たちの生活や学問、彼らの間の友情等を、李徳懋1人の視点から描いたものです。
 彼を含む実学者仲間を具体的にあげると次の通りです。(生年順)

洪大容(홍대용.ホン・デヨン)1731~1783
朴趾源(박지원.パク・チウォン)1737~1805
李懋(이덕무.イ・ドンム)1741~1793
白東脩(백동수.ペク・トンス)1743~1816
柳得恭(유득공.ユ・ドゥッコン)1748~1807
朴齊家(박제가.パク・チェガ)1750~1805
○李書九(이서구.イ・ソグ)1754~1825
※正祖(정조.チョンジョ)1752~1800

 この7人の中で、私ヌルボが知っていたのは、「熱河日記」(東洋文庫所収)の著者朴趾源と、2011年SBSのドラマ「武士ペク・トンス」の主人公白東脩の2人だけ。
 それがこの本のおかげで他の人々の業績等をいろいろ知ることができました。
 洪大容と朴趾源は、年長というだけではなく、学識からいっても先生格なのですが、洪大容という人は今ふうにいえば「理系」の人で、彼の宇宙観等々、小川晴久先生が著作で詳述しているのを読むと非常に興味深いものがあります。いずれ記事にします。

 また、この中で李懋・柳得恭・朴齊家の3人は、ドラマ「イサン」にちょっと登場しました。見た人たちは覚えているのでしょうね? (私ヌルボは見てないくせしてちゃっかり書いてます。)
 たとえば第58話。ナム尚宮とテスは、やむなくイサンに従い、日が沈むのを待ってから、共に雲従街(ウンジョンガ.現在の鍾路)へ向かった。そして酒場で3人の男(上記の3人)と酒を酌み交わしたが、気軽にジョークにも応じるイサンのことを彼らは気にいったようで、ぜひ白塔派に入るよう勧めて、名前を尋ねてきたりもする。酒場を出てから、ナム尚宮がイサンに言った。「白塔派を自称する実学者たちのようです」。(その後、彼らは正祖が新設した奎章閣(図書館)の検書官に登用される。)

 白塔派とは、この「本ばかり読むバカ」にも書かれているように、彼らの多くは園覚寺址十層石塔すなわちタプコル公園のあの国宝第2号の石塔がある近辺に住んでいて親しくしててたために付けられた名称で、彼らが書いて出した散文集も「白塔清縁集」と題されています。
 あ、「イサン」には上記3人の検書官だけでなく、白東脩も出てますね。

   
  【MBCドラマ「イサン」より。正祖(イサン)は、庶子でありながも能力のある(左から)李懋・朴齊家・柳得恭らを奎章閣の検書官に任命した。右は李懋。(ちょっと本のイメージと合わない・・・。)】

 作者の安素玲さんが、なぜ李懋が一人称で物語るという形式をとったのかというと、たぶんこのグループの中で一番地味な存在だったからではないかと思います。「文藝春秋」の「同級生交歓」で、多くの場合知名度とか世間的「地位」においてあまり目立たない人が書き手を担当するようなものです(?)。また、貧しい中、読書に没頭して日々を過ごし、時折同好の友人たちと語り合ったりするという生活が、作者自身と重なる点があったのかもしれません。
 その結果、TVドラマとは違って、物語の展開は実に淡々としています。約260ページの本文中180ページくらいまで延々と友人や2人の先生個々の詳しい紹介が続き、その後やっと清の都・北京に使節団の一員として行ったことが記され、奎章閣の検書官になるのは210ページ辺りですからねー。
 (※北京は燕京という別名があったことから、北京に行くことを燕行(연행)と言ったそうです。)
 登場人物も悪人はいないし、大事件とかもありません。(正祖の近辺にはあったでしょうが・・・。) しかし歴史の勉強にもなって、感動する場面もちゃんとあるから、つまらなくはないし、まさに健全そのもののジュニア小説で、中学校の国語の教科書に採択されているというのもうなずけます。
 また一応はジュニア向けとなっていても、大人が読んでも十分に大丈夫で、韓国サイトを見るとなかなかの好評を得ています。

 ・・・ということで、とても収穫の多かった本でした。
 が、気になった点もないではありません。「湛軒先生(洪大容)は1765年から翌年の4月まで、清に行く使臣の一行に随って・・・」のように1人称なのに当時はもちろん使われていない西暦表記が何か所もある等。
 また、現代の価値観がそのまま主人公たちに投影されているのではないかと思われる箇所もありました。
 その他、特にこれは、という事柄については、今後さらに個別に記事を立てることにします。
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流刑地・康津に丁若を訪ねる息子の物語=「タサンの父に」の作者は、獄中生活の長かった安在求の娘

2012-02-19 18:17:31 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 川崎市立川崎図書館は、JR川崎駅横、タワーリバーク4Fにあります。ビルの一室なので、とても狭く、蔵書数も横浜市立図書館とは比べるべくもないのですが、駅至近という便利さと、何よりも韓国書が相当数そろっているというメリットがあり、しばしば利用しています。
 横浜市立図書館にも韓国書はそれなりにあるとはいえ、ポピュラーな本や子ども向きの読みやすい本はむしろ川崎図書館の方が数がそろっています。

 さて、2週間ほど前にその川崎図書館に行った時に借りた韓国書が2冊。

 1冊目は、読みやすそうな子ども用の本でアン・ソヨン(안소영)著の茶山(タサン)の父に(다산의 아버님께)YES24では小学生3~4年向きとなっています。

          

 「茶山の父」とは、「牧民心書」等のドラマにも登場する丁若(정약용.チョン・ヤギョン)のことです。水原城の設計等で知られる先進的な実学者の最高峰というべき人物で、朝鮮史上の<立派な人>として高く評価されている歴史上の有名人です。
 「茶山」とは、彼の号です。彼は正祖死後、保守派による弾圧事件の1801年辛酉難で長鬐(チャンギ)(←現浦項市内)に流刑になり、さらに黄嗣永帛書事件という事件に連座して再び全羅南道康津(カンジン)に移され、そこで流配から解かれるまでの18年間学問に専念しました。その住まいが茶山という山の麓であったことから「茶山」と号したのです。

 この小説は、成人した彼の次子・丁学游(학유.ハギュ)が、生家(現南楊州市)から康津にいる父を訪ねて行く、という話で、息子の視点から描かれているという構成がこの作品の大きな眼目です。
 ・・・というのは、この小説の著者の安素玲(안소영.アン・ソヨン)という人自身の経歴が丁学游と重なっている部分に注目せざるをえないからです。

 安素玲さんの父親は、数学者の安在求(안재구.アン・ジェグ)前慶北大学教授。韓国ウィキ等によると、1933年生まれで1948年南の単独選挙に反対闘争に参加。1979年南朝鮮民族解放戦線準備委員会(南民戦)事件で死刑を宣告されたが、世界の数学者たちの抗議のおかげで無期懲役に減刑され、1987年には釈放されました。しかし1994年にはいわゆる救国前衛事件で息子アン・ヨンミン氏(←安素玲さんの兄)とともに拘束され、彼は6年、息子は3年服役しました。
 その後アン・ヨンミン氏は2001年月刊誌「民族21」を創刊し、左翼言論人として活躍しています。

※昨年(2011年)7~8月、北朝鮮の指示を受けたスパイ団が摘発されたといいう<旺載山(ワンジェサン)事件>が報道されました。(デイリーNKの関係記事→コチラコチラ。)
 この事件に関連して、安在求&アン・ヨンミン父子の自宅や事務所が捜索を受けたことも報じられています。(→コチラコチラ。)
 一方、この事件を権力による謀略とする見方も、<NPO法人 三千里鐵道><朝鮮問題深掘りすると?>に掲載されています。
 またこれも昨年8月、「産経新聞」の「韓国言論団体、朝鮮学校無償化へ工作 北の指示? 総連と接触」と題する記事にも「民族21」が登場しています。
 例によって、いわゆる「親北」ブログにしろ「産経新聞」にしろ、自分の見たいように世の中を見たがる傾向がある点に留意しつつ読む必要がありますが・・・。

 さて、ここで本筋に戻って・・・。

 「茶山の父に」の著者安素玲さんの父安在求氏も上述のように長く獄中にあり、子どもたちと直接接することはできませんでした。
 しかし、その間、ちょうど丁若が遠く離れた息子たちに手紙を送ったように、安在求父子もたくさんの手紙をやり取りしたそうで、獄中書簡をまとめた書簡集「私たちがともに歌う歌(우리가 함께 부르는 노래)」が刊行されています。

 つまり、このような作者自身の思いが作中の丁学游に投影されている、ということですね。本書の前書きでも、安素玲さん自身、具体的ではありませんが上記のようなことに触れています。

 以上がこの本の紹介なんですが、肝心の内容はまだ冒頭から5分の1程度読んだだけなので、まだ感想等は書けません。
 興味を持って読み進んでいたところ、川崎図書館で借りたもう1冊の本を読み始めたら最初から引き込まれて、そちらの方をまず読み終えてから、ということにして、そのうち読了した時点でまた記事にするかもしれません。(いつになることか・・・。)

 この記事では、そのもう1冊の本の紹介がメインで、この本のことは前書き的に書くつもりだったのが、つい安在求氏のことをいろいろ書いたために長くなってしまいました。
 もう1冊の本については次の記事にします。

★丁若の人気は現在の韓国で一般的なものだと思います。とくに1992年発行のファン・インギョン(황인경)の「小説 牧民心書(소설 목민심서)」と、それをドラマ化した「牧民心書~実学者チョン・ヤギョンの生涯」(2000年KBS)の影響力が大きかったのではないでしょうか。
 とくに、守旧派の権力の弾圧により流罪となった改革派の知識人という点は、<左翼人士>の共感を得る大きな要素だと思います。
 岩波書店とも密接な関係のある進歩陣営の代表的出版社・創批(チャンビ)から、「流配地から送った手紙(유배지에서 보낸 편지)」という書名で丁若が息子たちに送った書簡のハングル訳が刊行されているのも、そんな背景があるのかもしれません。

★南楊州市鳥安面(チョアンミョン)にある刊行ポイント<茶山遺跡地>の紹介は→コチラ
 近くには「風の丘を越えて」「シュリ」「共同警備区域JSA」の撮影地・南楊州総合撮影所もあります。
 ふーむ、これは一度行ってみてもいいかも・・・。
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黄晳暎の(おとなのための)童話「砂村の子どもたち」は、60年前の永登浦の子どもたちを描いた感動作!

2012-01-13 23:01:00 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
       

 先に結論を書いておきます。黄晳暎(황석영.ファン・ソギョン)の短編集「砂村の子どもたち(모랫말 아이들)」を読んだのは大正解! 読みやすく、かつおもしろい、というより感動的な本でした。「パリデギ」も読み応えがありましたが、この本でさらに私ヌルボの中で黄晳暎の評価がアップしました。

 12月に読んだ「ねこぐち村の子どもたち(괭이부리말 아이들)」に続いて手に取った韓国書がこの本です。

 さて、上記2つの本の共通点はいくつもあります。
①書名中の4文字が同じ。(日本語訳はそれ以上。) 
②どちらも児童書。
③どちらもMBCテレビの「本を読もう 選定図書(MBC느낌표 선정도서)」になっています。


 ・・・ということで、たぶんおもしろいだろう、と見当をつけて読み始めたところ、さらに・・・

④どちらも、特定の地域に暮らす子どもたちを描きながら、そこに反映されている現代韓国の歴史と社会の一端をうかがい知ることができる。 
⑤どちらも文章が読みやすい。構成も、「ねこぐち村の~」は短い章に分けて書かれている。「砂村の~」は短編集だが主人公は同じで、10編の作品すべてに通底するものがある。どちらも挿絵だけのページもあったりして、早く読み進むことができる。


 ・・・という点も共通していました。

 どちらも良い作品で、順位や評点をつけるのもいかがなものかと思われますが、「砂村の~」の方は문학동네社の<어른을 위한 동화(おとなのための童話>というシリーズ名が内容を規定しているのか、「おとな」のヌルボとしては良書っぽくない点と<文学的感興>といった観点から、「砂村の~」により深い感銘を受けました。

 あとがきによると、作者が若かった頃に、自分の子どもたちに自分の幼い頃の話を話してやろうと思い描いていたものだそうです。書きたいネタが多すぎて、中途で打っ棄ってしまっていたのを、出版社の勧めで出すことになった(2001年)が、もう少し長く書くとの約束を果たせず残念とあります。

 韓国版及び日本版のウィキによると、黄晳暎は1943年生まれ。「子どもの頃の思い出」というと、当然朝鮮戦争とその前後のことが関係してきます。また彼は「満州」の首都新京(長春)生まれで戦後は平壌に移りますが、1947年に一家はソウル市内の永登浦に移り住みます。

 最初の短編「꼼배 다리」や、「お化け狩り(도깨비 사냥)」をなんとなく読むと、いなかの村のような印象を受けますが、近年はロッテ百貨店に加えて大型ショッピングモールのTIMES SQUAREもできて、下町っぽい繁華街からオシャレな街に変わりつつある(?)永登浦一帯の60年ほど前なんですねー。
 「コムベの橋(꼼배 다리)」の冒頭は「遠く飛行場から始動をかけるプロペラの音で砂村の冬の朝は始まる」。日本統治時代の1939~42年に滑走路が作られ、朝鮮戦争中には航空基地だった金浦空港は10㎞ほど北西。乞食のチュングニが住まう小屋があったという土手の下の葦原というのは、永登浦と汝矣島の間、漢江沿いに走るオリンピック道路の下あたりなのでしょうか? この「コムベの橋」は、冬、川に張った氷の上を歩いていたが少年が、氷が割れて水中に落ち、仲間の少年たちはその乞食小屋に救助を求めるが・・・という話です。
※1月16日の追記 さんからのコメントにあるように、「飛行機のプロペラの音」は金浦ではなく、ずっと近くの汝矣島の飛行場から聞えてきたものですね。すぐご指摘していただいて助かりました。

 そんな60年前の永登浦あたりの景観描写も興味深いところですが、この短編集の読みどころは何といっても、まさに当時の「激動の時代」「苦難の時代」に、癒されることのない時代の烙印を押され、厳しい生を余儀なくされた人々が数多く登場すること。
 そんな彼らと、主人公の少年スナムとの間の短いの出会いと別れがとても印象的に描かれます。

 たとえば、45年8月ソ連が侵攻してきた時に、ロシア兵の暴行(?)によって生まれた色白・栗色の巻き毛・緑眼の、無口な女の子。冬、窓の外を眺めていた彼女が呟きます。「雪が降ってる・・・」。スナムは「たくさん降ってるね」。それだけ。母親にも棄てられた形で、キリスト教系の施設に入ることになる彼女が最後にくれたものは・・・。(「금단추」)

 あるいは、朝鮮戦争の中で顔にひどい火傷を負い、故郷の村に戻ってきた青年。食堂でたまたま居合わせたスナムの案内で目あての娘(少年の友だちの姉)の家に向かうが、彼女はもう双子の母になっている・・・。(「낯선 사람」)

 朝鮮戦争で孤児になった姉弟は、サーカス団に入れられています。弟は芸ができず、無料招待券目当てのスナムと一緒にビラ貼り。一方姉はアクロバットを演じる花形で、それゆえに彼女だけ別の所に売られて別れ別れになってしまう、と弟は力なく話します。無料券で姉の空中ブランコの妙技を観るスナム。私ヌルボもドキドキしながら読み進むと、思わぬ結末が・・・。(「남매」)

 「私の恋人」という作品に登場するのは、他の女の子とは違った大人っぽい雰囲気のヨンファ。空き地に建てられたテント小屋でやっている「蛇娘」という見世物に興味を持ったスナムがうろついていると偶然彼女と出会います。誘われるままに、駅前のダンスホール内の彼女の住まいに案内されます。ベッドの置かれた部屋の中には米兵好みのピンナップが何枚も。引き出しの中のチョコレートをもらったり珍しいヨーヨーで遊んだりしていると、部屋に入ってきたのは彼女の母親と、電柱のように大きな図体の黒人兵・・・。ヨンファが別れ際に言います。「あんた、見世物小屋には行かないことね。」「なんで?」「あれは全然嘘っぱちなのよ。・・・・」(「내 애인」)

 ここに紹介した彼らの「不幸」や「労苦」を直接的に書かず、少年スナムの目を通して垣間見る、そんな短い記述に「書かれない物語」の大きさが想像されます。ここらへんが「文学的興趣」と記した所以です。

 この際オマケにあと1つ、当時の世相を示すとともに、とくにストーリーテリングが巧みだなーと思った作品を最後に紹介します。

 どの作品もですが、とくにオチの効いた作品が「チニのお祖母さん」。ネズミを獲る話です。ネズミ駆除のために、学校ではネズミのシッポをたくさん集めて持ってきた子どもに賞品をやったりしていたそうです。
 子どもたちは中華食堂の地下室でネズミの大量捕獲を企てます。エサで何匹もおびき出しておいて、1人がネズミの穴を塞ぐ。この作戦は大成功を収めますが、食堂の子のチニと、100歳にもなろうかという彼の曾祖母が「生きてるネズミを1匹よこせ」と言うのでその通りにします。それが何日も続きます。「何で生きたネズミが要るんだろう?」とは子どもたちの当然の疑問。ヌルボもわからず。「ギョーザの中に入れてるんじゃないか?」との説も(笑)。その謎は最後の方で明かされます。うーむ、ネタバレは避けたいなー。ヒントは1つ前の記事に出てくる○○です。ラストはこれもドキドキします。しかし・・・。子どもの1人のセリフ、「とにかく、人も○○も年を取るとヘンになってくみたいだなー」。(「친이 할머니」)

 子どもたち5人が夜「お化け狩り」と称して火葬場に行く話も捨てがたいのですが・・・。まあ肝試しですね。彼らの関心は귀신が本当に見られるかどうか? 火葬場に行ったところが、そこに誰やら入ってくるのです・・・。(「도깨비 사냥」)

 あ、キリがなくなってきたな、オシマイにします。

※この本、他にどなたか読んでないかな、と検索したら、ヒットしたのが毎度おなじみの「晴読雨読ときどき韓国語」でした。
 やはり「ほんとうにすばらしい本」と記していらっしゃいます。
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韓国の児童文学「ねこぐち村のこどもたち」と仁川の<タルトンネ>

2011-12-26 20:56:52 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語

        

 ヤター! 12月8日に読み始めた金重美(キム・ジュンミ.김중미)作の児童書ケンイブリマルの子どもたち(괭이부리말 아이들)を22日に読了! 「目標は年内読了」と9日の記事で書きましたが、思いのほか早かったです。
 私ヌルボ、このところ韓国語の実力が目に見えて伸びた・・・のではなく、単に読みやすい文章と、1ページあたりの文字数の少なさによるものです。とはいえ、やっぱり半月で読破はうれしい! ・・・と感想文に着手してから、標記のタイトルで翻訳書(下画像)が出ていたことを知り、軽いショック。知っていたら読まなかったかも・・・。まあいいか。

       

 ケンイブリマルとは仁川市万石洞の別名で、同市に一番古くからあるタルトンネ(달동네)です。<月(タル)の街(トンネ)>とは、月に近い街、すなわち都市の高台にある貧民街をさす言葉です。

 ケンイブリマルという地名の由来は、本書の冒頭に記されています。
 この地は、もともと地面よりも干潟が多い海岸で、そこに木の茂った<고양이 섬(ネコ島)>という小さな島があったが、その後海岸が埋め立てられて痕跡もなくなり、長い年月の間に工場の煙突とバラック家屋だけが密集する工場地帯に変わりました。しかし<고양이(コヤンギ=ネコ)>から生まれた<ケンイブリマル>という言葉が残されたというわけです。
 고양이→괭이はいいとして、また말(マル)は마을(マウル=村)の変化だとして、부리(ブリ)は辞書に「くちばし」とあるものの今ひとつよくわからず。翻訳の吉川凪さんは訳者あとがきで「ほんとうは「ねこのくちばし村」ですが、長すぎるので「ねこぐち村」にしてあります」と書いているので、それでいいのでしょう。たぶん島の形がくちばし状だったからなのかも・・・。
 日々の生活に追われる土地の住人たちは、その地名の由来は知らないそうです。ただ好奇心の強い子どもたちが入り江や干潟を白く覆うウミネコ(고양이갈매기.コヤンイカルメギ)を見て、それからついたのだろう、と考えるくらいで・・・。

 この作品は、その街で暮らす子どもたちの物語です。小学校5年の双子の姉妹を中心に展開しますが、そのほかにも近所の兄弟等の子どもたちが登場します。彼らを取り巻く環境は非常に厳しく、家が貧しくて食べることさえ精一杯で学校での給食が頼りであったり、父親が酒浸りのため愛想をつかした母親が子を残したまま実家に帰ったり、「金を稼いで帰る」と言い残して父親が遠くに行ってしまったり・・・。酒酔い運転や、重労働での疲れによる事故も、家族をさらなる不幸に追いやってしまいます。家庭の愛に恵まれない子どもたちは、ボンドの吸引等の逃避に走ったり、恐喝や万引き等の犯罪に手を染めたり・・・。

 しかし、こんな環境の中でも、本書に登場する子どもたちは健気に希望をもって生きていきます。一度は道を踏み外しかけて拘置所まで入ってしまった少年も、彼らを支える青年や女性教師たちの助けもあって立ち直ります。

 この作品は、創美が主催する<子どもの良書>で大賞に選ばれて2000年に出版され、またMBCテレビの<本を読もう>キャンペーンでも取り上げられて、数百万部ものベストセラーにもなりました。同じように厳しい状況にある子どもたちを力づけ、希望を与える<良書>の典型というべき本だからなのでしょう。(←皮肉にあらず。)

 なんとなく、何十年か前、日本全体が貧しかった頃の児童文学や、ラジオドラマを連想させる話ですが、この物語の時代は「IMF危機以来、失業して1年あまりぶらぶらしていたトンスのお父さんは、ある日家を出ていった」とあるように、90年代末です。つまり、発行時のリアルタイムの話なんですね。
 また、再開発が始まったその当時の街のようすも描かれています。

 著者は1963年仁川生まれの女性で、87年からこのケンイブリマルに住み、子どもたちのための学習室を運営しているとのことで、この本に描かれたことの多くは、作家自身の体験に裏打ちされたことなのでしょう。

 以後10年ほど経った今、ケンイプリマルのようすは相当に変わったようです。2005年にタルトンネ博物館が開館しましたが、その場所はまさにかつてタルトンネがあった水道局山。
 私ヌルボも以前マッカーサー銅像がある自由公園や、旧日本銀行等がある一帯は歩いたことはあるのですが、その時はこの博物館ができていたかどうか・・・。映画「子猫をお願い」で仁川のタルトンネのことは知っていましたが・・・。

 ネット検索すると、このマイナーな(?)博物館にも足を運んで、くわしいブログ記事を書いている皆さんがいらっしゃるのですね。
 博物館内の写真をたくさん載せている<ASUKA物語>、日韓両国語で付近の観光ポイントとともに紹介している<スミン氏のマイナー韓流>、博物館付近に今も残るタルトンネや、「子猫をお願い」でペ・ドゥナが歩いた陸橋(!)等々付近の興味深い写真を載せてオタクぶりを発揮している<犬とたしなむミュージック>、月尾島の韓国移民史博物館と合わせて詳しく紹介している<大塚愛と死の美学>、どれもたいしたものです。

 今年草彅剛氏がソウルのタルトンネを舞台にした「月の街 山の街」という翻訳本を出して話題になりました。その原作のイ・チョルファン「練炭の道」のシリーズの刊行が始まったのは2000年。今ソウルでも「最後のタルトンネ」といわれている所がわずかに残るばかり。それも再開発でなくなる寸前のようです。

 しかし、低所得者層の比率が減っているわけでもないのに、タルトンネに住んでいた人たちはその後どこでどんな暮らしをしているのでしょうか?

★ケンイブリマルの歴史 ※本書より抄訳
 ケンイブリマルに人々が集まって住みはじめたのは、1883年仁川が開港した後からである。 開港後に押し寄せてきた外国人に生活の場を奪われた撤去民がこの地の干潟を埋めて住みはじめた。 しかし今のように多くの人々が集まりはじめたのは日帝時代からである。 日本の植民地政府は港に近い万石洞に工場をたくさん建てた。 小麦粉工場、衣料品工場、木材工場、そして太平洋戦争のために造った造船所や倉庫が立ち並んだ。 すると貧しい労働者が仕事を求めてぞくぞく集まった。 日本が戦争で負けて日本人たちが追い出されても、ケンイブリマルにはバラックの粗末な家でも住もうとする貧しい人々が押し寄せてきた。
 1950年朝鮮戦争が起きた。 戦争の末期の1・4後退の時、黄海道の人たち漁船に乗ってケンイブリマルに避難してきた。 戦争が終われば帰るつもりで海辺付近にテントを張って暮らしたが、戦争が終わっても故郷へ帰ることはできなかった。船で避難してきた人たちはしかたなく仁川の沖で魚を取って生活するようになり、何も持たずに逃げてきた人々は左官や大工になって波止場で働いた。 女たちは赤ん坊を負ぶって(今空港のある)永宗島や徳積島に行ってカキやアサリ等を頭に載せて売り歩いた。 カキやアサリが取れない時は永宗島の農民から買ったおこげを売り歩いた。お腹をすかせた貧しい人々には、おこげは煮込むと家族みんなの一食となるありがたい食べ物物だったという。
 そんなふうに貧しい暮らしを続けながら、ケンイブリマルの人たち穴ぐらやテントを壊して新しく家を建てはじめた。 カキのからを埋めて地固めをして、お金が入ればセメントや材木を買って、少しずつ家を建てた。 そうして立てた家は、40年過ぎた今でも崩れずに残って、貧しい人たちのくつろぎの場所になっている。
 朝鮮戦争のつらい記憶が薄れて避難民が故郷の思いを胸の中に埋める頃、今度は忠清道や全羅道から真夜中にふろしき包みを背負ったり小型トラックに荷物を積んだりして、離農民が押し寄せはじめた。
 戦後、貧しくなった国を救う道は輸出しかないと騒ぎ出していたその頃、貧しい農村の若者たちは輸出関連の荷役のため農業を捨てて都市に押し寄せた。国は労働者たちの賃金を安くすませるために米価を低く抑える政策をとったため、農民は暮らしが立たなくなり、借金に追われるようになった。それで農民は農村を離れるしかなかったのである。
 職を求めて都市に出てきた離農民は、金もなく技術もないためケンイブリマルのような貧民街に住みついた。バラックの家でも借りられる人はまた良かったが、そのお金さえない人たちはケンイブリマルの片隅にてのひらほどの空き地を見つけ、米軍基地から出たルーフィングという紙や板で家を建てた。 家を建てる土地がなければドブの上にも小屋を作り、線路のすぐそばにも家を建てた。そして少しでも部屋を広くするため、道は人がやっと通れる幅だけになった。それでケンイブリマルの路地はクモの巣のように細くて複雑になっている。
 このようにしてケンイブリマルはどこからか追われてきた人たちが集まる村になった。 やって来た理由はそれぞれ違っても、貧しく無力な人々という共通点のため、町内の人々はたがいに兄弟のようになかよく過ごした。 故郷を離れた人々は新しい土地で新しい人々と新しいくつろぎの場所を作っていった。
年月が経って、他の人より熱心に仕事をした人や運がよい人はお金をためてケンイブリマルから出ていった。残ったのは、依然として貧しい人たちだった。
  ケンイブリマルでも、道路工事とか住居環境の改善とやらで、線路そばのバラックも撤去された。ドブがフタで覆われた時、そばのバラックも消えた。 絶対にマンション(韓国語ではアパート)なんかできそうもなかったケンイブリマルの近くでもマンション工事が始まった。ケンイブリマルが金持ちになって変わったのではなく、もう都市全体が満杯になったために、人々が貧民窟だと言って敬遠していたケンイブリマルの近所くにまでマンションを建てないわけにはいかない状況になったのだ。ケンイブリマルは、大通りに続く街の入り口から変わりはじめた。バラックが取り壊され、棺桶のようなマンションが立ち並びはじめた。
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韓国の青春成長小説「さよなら、マジンガー」は労働小説でもある。

2011-12-09 22:53:26 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
       

 韓国の青少年小説안녕, 마징가(さよなら、マジンカー)をやっと読み終えました。ほとんど乗り物の中という、寸暇だけで読んだことと、1週間ばかり本が行方不明になっていた等々で、2ヵ月半もかかってしまいました。

 去る9月に、光州の忠壮書林で新刊書の平台にあったのを見て、おもしろいかも、とアタリをつけて購入した本です。
 表紙が学校を背景にマジンガーが走っているという図柄だし、裏表紙の李舜源(イ・スンウォン.作家)の推薦文に「愉快ではつらつとしていて、2、3ページめくるごとに1度ずつ抱腹絶倒させられる」と書いてあったり、同じく「ミシル」の作家キム・ビョラも「싱싱하다(生きがよい)」等々と評しているし・・・。

 主人公は大邱(テグ)にある工業高校(공고)3年のキム・ジョンミン。マジンガーというのは、担任の先生のあだ名(별명)です。名前がマ・ジョングで似ている上、マジンガーみたいに頭頂部が禿げている(!)ことに由来しています。

 ジョンミンは、期末テストも終わった夏休み前、学校生活に意義を見出せなくなって家出し、カラオケの従業員のアルバイトをしていたところ、マジンガーに連れ戻され、「工場に行って働いてみろ」と言われて、ほとんど強制的に大邱市内の金属加工工場に実習生として出されます。
 以前から高校と提携している工場のようで、同じ学校の生徒計12人がジョンミンとともに働くことになります。

 私ヌルボの予想と違ったのは、学校の場面が非常に少ないこと。またマジンガー先生も、最初の方では重要な役割を果たしますが、後半は卒業式の場面で少し登場する程度。血気盛んな高校生と型破りの先生との間の師弟愛というよくある図式には全然あてはまりません。現在映画化され大ヒット作となった「ワンドゥギ」のトンジュ先生と比べると、マジンガー先生の存在感はあまりパッとせず、タイトル負けしています。

 李舜源作家の「2、3ページめくるごとに1度ずつ抱腹絶倒」というほどではありませんが、笑える箇所はけっこうあります。
 工場に行った初日、ジョンミンは見るからに重そうな門扉を見て、動くかどうか力を籠めて押すと意外に軽く、勢い余って門扉を壊してしまいます。またある生徒は、説明を聞く場で「この工場が何を作っているかわかるか?」と問われて「金属を作っています」などとトンチンカンな答えを返したりします。新しく来た美人の栄養士が工員たちに巻き起こした風波や、彼女とジョンミンとのエピソードも笑ってしまいます。(母と祖母以外の唯一の女性登場人物。)

 小説の後半は、ほとんどが工場が舞台になって展開していきます。仕事のこと、そこでの人間関係、組合のこと等々。
 この工場は(現代(ヒョンデ.ヒュンダイ)と推定される)大手自動車会社の下請で、車体(ドア、フレーム等)を製造しています。具体的には、プレスや溶接、やすりがけ等が工員たちの仕事です。
 そんな仕事に携わる中で、ジョンミンはいろんなことを経験し、また考えます。安全装置をOFFにしていて大怪我をした労働者が会社に補償金を要求することに対して、「自分の不注意なのになぜ会社に補償を求めるのですか?」との疑問を口にして反発を買ったり、「会社のために働いているんだから当然じゃないか!」との非難に対して「俺は自分のために働いてます」と再反論したり・・・。またいつも熱心に働いている友人に対して「なんでそんなに働くんだ?」と訊ねると、「時間が速く過ぎるから・・・」と受け流すのでさらにしつこく訊きます。すると返ってきたのは「やりがい(보람)」という言葉。自分の作った部品を搭載した自動車がたくさん街を走って・・・、ということを想像すると、とおよそそういうことです。(この部分やや記憶が不正確かも。) 

 このように、工場での生活が細かく描かれるにともなって、作中のジョンミンも血気盛んな少年から考える青年へと成長していきます。その分、おもしろい要素は少なくなっていきます・・・。

 さらに、金属をプレスしたり切断したりするこの職場は危険に満ちています。どんなに安全対策に腐心しても、事故は起こります。ラスト近く、重大な事故が起こってしまい、ジョンミンは大きな衝撃を受けます。
 そしてラストは、「ワンドゥギ」のようなスッキリ爽やかな印象はなく、先に希望が仄見えるというものではありません。
 いくつかの韓国ブログで、この作品は「ワンドゥギ」と比較して論じられています。映画化を期待する声もあるようです。しかしヌルボの私見では、映画化するのなら次のような点で手直しが必要でしょう。
 ・マジンガー先生の出番を多くし、もっと活躍させる。
 ・後半部分の、工場の場面にももっと笑いの要素を増やす。

 ・・・だからといって、尻すぼみの小説、と批判しているわけではありません。学校とはがらっと変わった工場での生活を続ける中で、上記のようにジョンミンが成長していくようすが確実に読み取れるからです。まさに<青春成長小説>たるゆえんです。

 この物語は、雰囲気的に1970~80年代のことかな、となんとなく思いながら読み進んでいきました。しかし意外なことに90年代でした。当時は高価だった携帯電話も登場します。
 以後現在までの10数年の間に、機械化がさらに進んで、工場のようすもかなり変わったのではと思われます。今この作品は、当時の労働現場を活写した労働小説としての意義もあるのではないでしょうか?
 (しかし、こんな危険な工場に、当時の高校が生徒を送り込んでいたとはオドロキ! どれだけ一般的なことだったかはわかりませんが・・・。)

 この作品の著者イ・スンヒョン(이승현)は、作家としては異色の経歴を持っています。
 1977年大邱生まれ。2009年までは学校に通った時間と軍隊に行っていた時間のほかは工場での生活を続け、その間しばらく総合格闘技選手で活動したものの、4勝8敗のさえない戦績で選手生活を終えます。 2009年から1年半ほど出版関連の仕事をした後、現在は障害者活動補助者の仕事をしています。長編小説は、今年(2011年8月)発行の本書が初めてとのことです。

 この経歴から推定されるのは、「さよなら、マジンカー」のかなりの部分が著者自身の工場での体験に基づいているのでは、ということ。たぶんこの小説は、ジョンミンの成長を描いた作品というだけではなく、著者自身の成長の記録なのかもしれません。
 そして著者自身の、といえば何よりも大邱(慶尚道)の方言。登場人物の間に飛び交う会話が丸ごとこれで、作品全体にユーモアとリアリティをおのずと醸し出しています。
 たとえば・・・

「우짜든지 열심히 해야 된데이!」(何でも熱心にやらんとだめだぞ!)  「와 대답이 없노!」(なんで答えがないんだ!)
「알겠심다!」(わかりました!)
「요노므 새끼들! 느들하고 이젠 영영 안녕이 아니라카이! 또 만난다카이!」(おまえら! おまえらと、もうずっとサヨナラじゃないんだぞ! また会うんだぞ!)


 ざっとこんな感じです。標準語の「왜(なぜ)」「와」になるんですね。

 いろいろ書きましたが、一言で言って、すごい感動とまでは行かないまでも、楽しく読めて、韓国語(とくに方言)や工場労働についての知識も得ることができ、この本を選んで大正解! あえて点をつけると、10点満点で7.5~8.0くらいかな。

 さて、次に読む本はキム・ジュンミ(김중미)「ケンイブリマルの子どもたち(괭이부리말 아이들)」です。実はもう昨日から読み始めています。目標は年内読了。
※ケンイブリマルとは仁川市のタルトンネ(달동네.貧民街)の地名です。
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(たぶん)お母さんの共感を得た韓国アニメ★ 「庭を出ためんどり」

2011-09-04 23:56:24 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 7月27日公開された韓国劇場用アニメ庭を出ためんどり(마당을 나온 암탉)は、伝えられるところによると8月19日観客動員数150万人を突破して損益分岐点を越えたとのこと。その後も着実に数字を伸ばして、今日韓国アニメで初の観客数200万を超えました
 <DAUM映画>のネチズンの評点も、9.1と高いポイントを維持しています。

 この健闘の理由は奈辺にありや? と考えた私ヌルボ、基本に則って原作童話の翻訳本を図書館で借りてきて、読んでみました。

       
         【「庭を出ためんどり」の翻訳本と原書。絵は全然アニメ風ではありません。】

 読み始めて、なかなか物語に没入できなかったのは、主人公が若くはないめんどりということで、感情移入がしづらいというのが大きな理由。
 いや、若くはないどころか、卵も産めなくなって「廃鶏」とされてしまったほど。他の弱った鶏と一緒に手押し車につめこまれて穴に埋められてしまいます。
 ところが奇跡的に生きていて、<旅人(原文は나그네)>とよばれる若い雄のマガモの助けを得て、鶏やアヒルたちのいる庭を出るのです。しかし外の世界は鳥たちをエサとして狙うイタチがいて、常に危険にさらされている状態です。

 細部は略しますが、ある日イプサク(←めんどりの名)は親鳥のいない卵を見つけ、それを抱いて温めます。その間、<旅人>はイタチの餌食になってしまいます。何日か後にヒナが孵ります。頭が緑色のマガモの子で、育ての親となったイプサクはヒナをチョロンモリ(=緑頭)と名付けます。(映画ではチョロク。) 彼は成長して、空も飛べるようになります。
 その後、イプサクたちがいる貯水池にマガモの群れがやってきます。
(ここでまた相当に略しますが)結局チョロンモリはイプサクのもとを発って、群れとともに飛び立っていきます。
 残されたイプサクは、結局自然な形で(?)最期を迎えることになります。

     
         【飛び立つ息子チョロンモリ。しかし主人公は残された母のイプサクです。】

 ・・・ということで、一目瞭然、この物語に共感できる人は母親ですね。テーマは母性愛子離れといってもいいかも・・・。
 
 先の<DAUM映画>でネチズンの感想を見てみると、
「ホントに久しぶりに心が浄化される観たようでだ。子どもとしばし映画について話しました」(10.0) 
「子どもより親たちが観るべき映画」(9.0)
「本当に感動的な映画です。大人たちが観るとさらに良い映画...^^」(10.0)
「息子は静かにしていたが、私だけ泣きましたね....^^;」(10.0)


 こんな感じで、案の定子どもを映画館に連れて行った母親の方が感動してます。

 映画の方は、下のポスターのように図柄もずいぶん違ってファンタスティクな感じになっているし、笑いの要素もあるようです。

        
  【ヒヨコかと思うと、足指の間に水かきが・・・。イプサクもお母さんが感情移入できるように(?)魅力的。】

 また、IUが主題歌を歌っていたり、ムン・ソリチェ・ミンシク等が声の出演をしていたりと、他にも話題はいろいろ。ここらへんは下の動画をご覧ください。



 この映画公開に合わせて、新たにアニメ絵本も刊行されました。

       
            【アニメ絵本「庭を出ためんどり」より。いやー、美しいですねー。】

 子ども向きの夏休み映画と見せかけて、実はお母さんのための映画だったのかな? 肝心の子どもたちの感想はどうだったのかな?
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韓国の児童書「宿題株式会社」を読む

2010-09-10 12:33:29 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
       

 1ヵ月前に川崎市立図書館で借りた児童書キム・チャファン著「宿題株式会社(숙제주식회사)」を読了しました。
 1996年刊行で、今は絶版になっている本です。
 たまたま図書館で何か読みやすそうな本を、と物色し、韓国の夏休みはどんな感じかな?と思って選びました。

 読んでみると、現実の学校の話ではなく、少し理想化された架空の<日光子ども学校(햇빛아린이학교)>が舞台。その学校の守衛さん(実は元社長の学校設立者)が校長先生(実は元社長秘書)に提案して、学校の基本計画を子どもたちの意志に任せることにします。
 そしてさっそく提起されたのが「夏休みの期間をどうするか?」。子どもたちが話し合って決めた結論は「明日から3ヵ月間」。期間だけでなく、「20日間どこかに旅行する」等々その間の生活についても自分たちで決めます。

 「宿題株式会社」というと、古田足日の「宿題ひきうけ株式会社」を思い浮かべる人も多いかも・・・。1966年以来のロングセラーです。こちらは当時のいろんな社会問題が盛り込まれていますが、「宿題株式会社」は実社会の問題は出てきません。しかし、子どもたちがしっかりしている点は共通しています。物事をよく考えるし、自分の意見もしっかり述べるし。かったるそうな雰囲気はありません。(近頃の日本の子どもたちはどうなんだろう? ・・・と思ってアマゾンを見ると案の定「無気力な子たちとの戦いに疲れています」という先生のレビューがあったりして・・・。)

 「宿題株式会社」の主人公は6年生の子どもたち。夏休みに入って、宿題に苦労する(主に)下級生のために、各教科の担当者を決めて手伝ってあげるというもので、丸ごと代行するわけではありません。悩みごと相談担当の女の子もいます。

 ・・・理想的ですねー。子どもたちの自主性尊重が、という点だけでなく、子どもたちが信頼に応えて考え、話し合い、行動するということまで含めて。
たとえば6年生のいじめっ子が脅しをかけて自分の宿題を全部やらせようとします。家庭的に恵まれず愛に飢えている少年ですが、(いろいろあって)結局は友だちの仲間入り。
 最後は男子4人女子5人+先生2人で南海への旅行。暴風雨からテントを守りぬいたり、いろんな試練を経て精神的にも成長し、友情の絆が結ばれていく・・・。

 作者のキム・チャファンさんは2008年57歳で亡くなったそうです。あるサイトによると
自由な生活を愛した、麗水の代表的な作家であり教育者だったとのこと。
 韓国の子どもの多くは、ストレスが溜まるほど勉強に追われているとか・・・。この本はそんな現実に対して作者が「こうだったらいいな」という思いを作品化したものということでしょうか。

[韓国語の勉強]
샅바 =韓国相撲(씨름)で腰と右の太ももに締めるまわし。
용(을) 쓰다. =力を込める。(용は勇)
③あれ?と思ったのが、
작전을 쓰는 수밖에 없어.(作戦を用いるしかない。)
우리들의 힘으로 쓰는 수밖에 없어.(われわれの力で解決するしかない。)
 ・・・「쓸 수밖에」、「할 수밖에」のように未来連体形になるとは限らないんですねー。どういうふうに違うのか、今ひとつよくわかりません。
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ロングセラー青少年小説 イ・グミ「ユジンとユジン」を読む

2010-02-03 18:51:06 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
        

 12月に購入した青少年小説イ・グミ(이 금이)著「ユジンとユジン(유진과 유진)」を先週末読了しました。
 2004年発行以来版を重ねているロングセラーで、教保文庫の小説ベストテンの中にも入っていたので読んでみた、ということです。

 主人公は女子中学生ユジン。2年の新学期を迎えた日、新しいクラスに同姓同名のイ・ユジンがいました。
 よくある名前ですが、彼女は、その同姓同名のユジンが同じ幼稚園にいた、お姫様然としていた<小さなユジン>に間違いないと思って声をかけます。
 「あなた、若葉幼稚園に通ってたでしょ?」
 ところが<小さなユジン>のはずの彼女は、無表情のまま「知らない」と答えます。

 ・・・とこんなふうに、少しミステリアスな感じで物語は始まります。

 主人公の<大きなユジン>と、<小さなユジン>が章ごとに交互に一人称で語る形式でその後の話が展開していきます。
 最初の中間テストで学年トップになって注目された<小さなユジン>ですが、彼女には友人もなく、修学旅行先の済州島では同じ班の生徒たちからいじめられたりもします。
 <大きなユジン>は、自分が学年トップだと誤解した憧れの男子とつきあいはじめます。「学年トップは別のユジンです」と打ち明けられないまま・・・。
 また彼女には、親友のソラにも打ち明けていない秘密がありました。
 それは幼稚園の時、園長から受けていたのこと。他の園児たちも被害者で、その頃はマスコミ沙汰にもなりました。

 ・・・このように、この物語の主なテーマになっているのは性暴行の被害者をめぐる問題です。何の非もない被害者に対する<世間>の冷ややかな目、それに対する親のあり方等々。
 これ以上は詳述しませんが、過去の事実が徐々に明かされてゆくとともに、親子や友人間の対立や相互理解等がふたりのユジンの心理の変化とともにドラマチックに展開していって、最後まで読者を引きつける力をもった小説です。

 読み終えて思ったことは、この作品の魅力は「性暴行」という社会的な問題をテーマとしながらも、真実が明らかになる過程で、親子の間の理解と、友人間の友情を深めていく主人公たちの成長小説であるということです。

 先進諸国の青少年小説では、30年ほど前(?)から、たとえば親の離婚等による家庭の崩壊や、いじめ等の教育問題、多民族化等に伴う問題等々、社会に生じてきた新しい問題・病理を素材としてとりあげることが多くなってきました。
 このブログで先に紹介した「ワンドゥギ」や「ウィザード・ベーカリー」もそうです。

 社会がまだ豊かではなかった時代(日本では1960年代頃まで)は、貧しいながらも夢を持って健気にたくましく生きる少年少女の物語が主流だったようです。
 それに比べると、今は社会のここかしこが病んでいて、その中で大勢の大人たち、子どもたちも病んでいるという状況でしょう。

 この「ユジンとユジン」は、そのような中で生きる子どもたちの問題を、大所高所からでなく、個々の子どもの成育歴とその内面から描いた、良い小説だと思います。

付記①:幼児期の体験のトラウマが、実際にその後どのように影響するのか(または、しないのか)については、私ヌルボはずっと納得していないままですが・・・。

付記②:このブログで取り上げた孔枝泳「るつぼ」も障害児学校で実際にあった性暴行事件を基にした小説でした。また12月29日の記事「2009年韓国の10大ニュースをみる」でもふれたチョ・ドゥスン(조두순)事件は、7歳の女児を暴行し、一生にわたる無惨な身体的障害を負わせたにもかかわらず懲役12年という判決で、輿論が沸騰した事件でした。(事件の詳細はさまざまなサイトで紹介されています。)
 一方、いわゆる<嫌韓サイト>で、これらの事件等から「韓国人には性犯罪者が多い」と短絡的に自らの<思い込み(?)>と結びつけているものも多いようです。
この種の事件の場合、とくに実態がつかみにくいし、ましてやそれを民族性とかと結びつけるような言説は非常に危険であり、速断はしないことが良識というものでしょう。

付記③:ラスト近く、少女たちは家出のようなもの(?)を決行するのですが、その行先が12月25日の記事で紹介した韓国東海岸の日の出の名所・正東津。私ヌルボとしては、十分ナットクしました。


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韓国のYA小説「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」を読む(2)

2009-11-11 19:12:34 | 韓国の小学生~高校生向き小説・物語
 → 韓国のYA小説「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」を読む(1) の続きです。
       

 今年の第2回<創批青少年文学賞>受賞作のク・ビョンモ「ウィザード・ベーカリー」、つまり<魔法使いのパン屋さん>についてです。

 この本を読むのに、「ワンドゥギ」の倍くらいかかってしまいました。

 主人公の内面描写が多いということもあって、語彙や表現が私ヌルボのレベルにはやや難しかったいうのが第一の理由です。

 第二の理由は、<ケーキ>とか<クッキー>とか、そして<魔法>とかのファンタジックな要素も私ヌルボのようなオジサンとしてはちょっと入っていきにくかった、という点。

 第三の理由は、これが大きなポイントなんですが、はっきり言って<陰鬱な小説>だからです。こんなに嫌な人間がゾロゾロ登場する少年向き小説もめずらしいです。(笑)

 主人公は、「ワンドゥギ」同様男子高校生ですが、コチラは少し年下の15歳。彼は悩みを抱えた吃音症の少年です。いや、悩みを抱えているから吃音症になってしまっているというわけです。

 具体的には、家庭が安らぎの場になるどころか、その正反対なのです。父の再婚相手=継母との間が全然うまくいっていません。彼が幼い頃の実の母の思い出も懐かしいものではありません。清涼里駅で「ここで待ってて」と母の言うままに待っていましたが、結果的に置き去りにされてしまい、駅と病院で何日も過ごしてしまいます。母は病に倒れ、父も彼を探そうとしてくれなかったのです。父も心の通う、頼りになる存在ではないのです。
 母はその後自殺し、父は再婚しました。しかし継母との関係は悪化するばかりで、猜疑心と誤解が増すばかりになっています。

 家庭内で決定的な<事件>があり、家を出た少年が偶然かくまってもらったのが<魔法使いのパン屋さん>でした。そこの(なんと!)オーブンの中でしばらく日を送ることになったのですが、その間、魔法使いの店長の作る<魔法のパン>は、顧客との間のトラブルを引き起こしたりもします。
やがて店長からもらった<魔法のクッキー>を持って、少年が家に戻る日がやってきます・・・。

 最後の方は、この先の展開がどうなるのか、けっこうドキドキしました。
ラストですが、ちょっと意表をつかれました。少しネタバレになってしまいますが、作者は<Yの場合>と<Nの場合>の2つの結末がならべているのです。魔法のクッキー>が使われる<Yes>と、使われない<No>の場合。

 さらに少しネタバレなんですが、どちらの場合もハッピーエンドとは言いがたい終わり方です。
 少年を取り巻く家庭や社会はほとんど(全然?)変わっていません。
 ただ、「ワンドゥギ」同様、物語の冒頭の時点からラストまでの展開の中で、少年は確実に成長したんだな、ということを読者として確認し、納得できる。それにこの作品の意義があるということなんでしょうね。
 (先に<陰鬱>と書きましたが、それはこの作品の属性の一つであって、読みごたえのある良書であるという評価を損なうものではありません。)

 同じ現代の多様化した社会や家庭の中で生きる少年を描いた小説でも、「ワンドゥギ」と「ウィザード・ベーカリー」はいろんな点で対照的な作品です。
 前者は<外向き>の<明るい>小説。後者は<内向き>の<暗い>小説。
 「ワンドゥギ」は現実を描きながらも「非現実ではないか」との評もありましたが、「ウィザード・ベーカリー」は魔法や夢魔のような<超現実>を扱いながらも、むしろ現実に近いのかもしれません。(その分、暗くならざるをえない。) 「ワンドゥギ」同様、こんなに暗い「ウィザード・ベーカリー」が多くの読者の支持を集めているのも、同様の現実で悩みを抱えて生きている人がたくさんいるということなのでしょうか・・・。

※かつての少年文学は、戦前の名作「次郎物語」や「路傍の石」等のように、貧しい中でも希望を持ってけなげに生きる少年を描く、という作品が定番でした。韓国でも同じです。植民地時代や朝鮮戦争等の厳しい時代の子供たちを描いた李元寿(イ・ウォンス)等の小説は、今読んでも感動します。
 しかし20年くらい前(?)から、アメリカ、日本等々先進諸国では、社会の変化にともなう、子供たちにふりかかる<新しい形の不幸>をテーマにしたYA小説が増えてきました。
 韓国も1990年代以降の社会の変貌の中で、そんな現代的なYA小説がいよいよ目立つようになってきた、ということでしょうか。
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